水槽夏

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水槽夏

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 十四の夏は心地よくて、それはまるで水槽の中に座って時間を忘れて外界を見つめているようで、すべての色がなんだか淡く浮き上がっていた。
 絵里はその夏の、あの瞬間のことをなぜだか今でもたまに思い出す。
 絵里はその夏の日、中学二年生で、食堂横の階段に腰掛けて一人、蝉の鳴き声を聞いていた。
 夏休み。
 夏期講習には出なかった。
 風はずっと高くを走っていて、揺れる緑をばさばさと今日も歌わせていた。


 本当のことを言うと絵里も、店に入ってきた瞬間から、それが三上だと言うことに気づいていた。
 二人連れの片割れ。
 黒のスーツを着て、真白いシャツ。ネクタイはしていない。黒々とした髪は、絵里の記憶よりも少し長かった。
 もう一人は仕事関係の付き合いだろうか。
 三上よりも少し年配の男だった。
 二人はなんだか真面目そうな顔をして話をしていたが、時々、店の女の子を交えて、冗談を言って笑い合ったりもしていた。二人ともウイスキーのロックを飲んでいた。
 絵里はその様子をカウンター越しに横目で見ていた。
 実に十二年ぶり。
 三上は、絵里自身とは直接的には深い関係のない人間だ。それなのに絵里は、紛れもなくその男が三上だということがすぐに分かった。
 だから勤務が終わって店を出た時、向かいの路地に三上が煙草を吸って立っているのを見つけた時も、あまり驚かなかった。
「名前は?」
 三上は絵里を見ると、大きな靴底でまだ長い吸いかけの煙草を消してそう聞いた。連れの男は先に帰ったのか、もういなかった。
「……ルミです」
「違う。本名だよ」
「本名」
「お前、絵里だろ?」
「……うん」
 少し迷ったが、絵里は正直に答えた。
「やっぱり、そうだ」
 三上は少し笑った。
 推理小説の犯人を言い当てたみたいな得意げな、微笑。もう五十に手が届く頃のはずなのに、その表情はどこか少年的で、そんなところは十二年前のままだった。
「元気してたか?」
「別に」
 目は合わせなかった。
「驚いたよ。お前、こんなとこで働いてんのな」
 絵里はむすっとした顔で何も言わなかった。
「でも、こういう店で働くなら眼鏡くらい外せよ。相変わらず目が悪いんだな」
 絵里は眼鏡に触れて、
「コンタクトがつけられないのよ。目、触るのが怖くて」
「ふぅん」
 自分で言い出したくせに、三上は別にどちらでも良さそうな感じで口を曲げた。
「綾は元気か?」
「知らない。今どこにいるかも分かんないし」
「どこにいるか分からない?」
「私が高校を卒業するのと同時に家を出てったの」
「へぇ」
 三上はあまり驚かなかった。
 近くで見ると三上はやはり大きくて、口元に無精髭が生えている。決して裕福そうには見えないが、取り巻くオーラと言うか、不思議な色気がある男だった。
「で、それっきり?」
「うん」
「ふぅん」
 夜の生温い繁華街。
 二人の周りを火照った人々の微熱が行き過ぎる。
 夏だった。
「たまに変な手紙がくるけど」
「手紙?」
「手紙」
「メールとか電話じゃなくて、手紙?」
「うん」
「綾らしいな」
 三上は、今度は本当に可笑しそうに笑った。
「また来るよ」
 そう言って三上は、絵里の頭を軽く撫でて歩きだす。
 大きな背中は、すぐに雑踏の中に溶け出して消えた。街に含まれた男なのだ、三上は。
 ネオンライト。
 薄い闇。
 じきに最終列車。
 絵里はその背中の行く先を見送り、やがて反対の方向へ歩き出した。


綾からの手紙①

 絵里、まず私が思うことはね、営業職なんてものに、絶対なってはいけないよ、ということなの。
 なんせこのご時世じゃない? 何だろうと簡単に売れるはずがないし、売るためには技術が要る。それでやるからには当然利益を出さなければいけないのだから、その技術というものは謂わば、口八丁、詐欺師にも近い技術よね。
 絵里はそういうの向いてないよ。
 うん。私が保証する。
 保証っておかしいけどさ。
 昔の彼でね、営業職の男がいたの。
 彼、何だかんだ言って営業職に向いていたと私は今でも思ってるんだけど、なんとなく大きい仕事が取れて、取れ続けてて、上からも下からも評価されて、って状態だったらしいのね。
 それって営業職としては素晴らしい状況よね。
 でも彼はね、いつもどこかネガティヴで、自分の成功はただの勢いだと、運だと思ってて、いつまでも続かないものだって言うのよ。
 仕事を取り続けているから評価されているということは、それが崩れたらもう誰にも見向きもされなくなるということと表裏一体なわけで、駄目になったら墜落。それは燃料が切れた飛行機みたいに真っ逆さまに堕ちていく感じ、と。それ聞いた時、私、なるほど、まぁ確かにそれはあるわよね、って素直に思ったわ。厳しい世界よ。
 あとね、こんなことも言っていたんだけど、営業職って昼間外に出てて、帰ってきてからデスクワークをするからどうしても残業が多くなるじゃない?
 多くなるのよ。
 絵里は知らないかもしれないけど。って私も別に営業職の経験はないけどね。
 それで業務の効率化ということで、デスクワークを極力周りの事務員に振って効率良く仕事しろ、なんて上司から指示が出たから、彼はその通りにしたらしいの。
 そしたら彼、まぁやっぱりちょっと周りより仕事ができたんだろうね。手際がいいと言うか。上手いこと仕事を振って、いつの間にか他の人達よりも早い時間に帰れるようになったらしいのよ。
 でも、そしたら今度はね、周りから「あ、暇なんだこの人」みたいなことを言われるようになったらしくて、何だか居心地が悪くなってしまったんだって。彼、「じゃ俺はどないしたらええねん」って言ってたわ。あ、関西の人だったんだけどね。
 彼のやったことと言ってることは至極まともだと思うの。私は。でも一方で、効率化と怠惰。これは意外と視点の角度が違うだけで、もしかしたら同じことなのかもね。あとはキャラクターの問題かな。
 ちょっと話が逸れたわね。
 何にしても営業職というのはつまり、具体的な物質ではない何かを作り続ける仕事なのよね。
 ほら、例えば車の営業って言ったって実際に車を作るのは工場の現場の人じゃない? 本人が作るのは車そのものじゃなくて、構想とか思念とかそういう類のもの。
 それって何か、作家やミュージシャンにも近いところがあるよね。その彼にそう言ったら「そんなかっこいいものじゃない」って。まぁ、それもそうよね。
 彼はもう、もちろんとっくにお別れしてるけど、風の噂ではまだ営業職を続けてるみたいね。私はそれで良いと思うわ。
 でも、物質ではない何かを作り続ける人生。
 それってどういうものなんだろうね。
 果てしなさ過ぎて私、想像がつかないわ。


 多分、この彼というのは、三上のことではないのだろうな、と絵里は思った。
 そしてもちろん、自身も営業職になど就く気はさらさらなかった。


 三上は、絵里の母、綾の元恋人だ。
 もう十二年も前の話。
 当時、三上は三十七歳。綾は三十六歳。そして絵里は十歳だった。
 交際期間は決して長くはない。冬の山場から次の夏が終わるまでくらいの期間だろう。半年あるか、ないか、というところだ。
 でもそれは色濃く、混ぜ合わせた原色の絵の具のような日々だった。
 その頃、三上はほとんど綾の家に住んでいるような状態だった。
 絵里が今思い返しても当時の三上はふらふらとしていて、昼間から台所でビールを飲んでいたり、かと思えば皆が寝静まった深夜にこっそり帰ってきたり、ちゃんと働いていたのか、疑問である。
 絵里が一番覚えているのはベランダで煙草を吸う少し物憂げな横顔。
 煙。
「なんだよ」
 部屋の中から横顔を見る絵里に気付いて三上が言う。まだ春先で、肌寒さが残る季節だったにもかかわらず、三上は薄いシャツを一枚着ただけだった。
「何もないよ」
「煙草に興味があるのか?」
「別に」
「ほれ、吸ってもいいぞ」
 そう言って三上は吸いかけの煙草を絵里に差し出す。小学生の絵里に。
「要らないよ」
「は。そっか」
「臭いし。私、煙草、嫌い」
「みんな最初はそう言うんだよ」
 三上は少し笑って煙草の続きを吸った。
「私は大人になっても煙草なんて吸わない」
「いやー、絵里は吸うよ、煙草。きっと」
「なんでよ」
「だってお前、驚くほど綾にそっくりだから」
 綾は煙草が大好きだった。
「綾は綾、私は私、よ」
 それで三上は何も言わずにまた少し笑って煙草を灰皿に押し付けた。絵里は、まるで自分の未来を見透かされたような気持ちになり、ちょっとだけ嫌な顔をした。
 煙草になんて興味がなかった。
 ただ、三上の、大人な男が見せる寂しそうな横顔を見ていただけだったのだから。
 二十二歳の今の絵里。
 三上の言葉通りにはならず、今も煙草は吸わない。でも多分それは、三上の言葉があったから。
 そんな気がしないでもない。


 その半年は三上、綾、絵里、そして絵里の姉、梓の四人で暮らした。
 小さな、狭い公団住宅。
 梓は三上のことが大嫌いで、ほとんど口も聞かず、顔を合わせても、目を見ることすらしなかった。でも三上は別にそれを気にする様子もなく、歩み寄るわけでもなく、いたって自然だったので、家の中の人間関係は微妙なバランスではあるが何となく成り立っていた。
 梓は絵里より四つ歳上で、その頃にはもう中学生だった。難しい年頃であったのかもしれない。
 たまに四人で食卓を囲むこともあった。
 綾の手料理はどれも味が濃く、どろどろしていて、梓と絵里は女だからそんなに食べられないのだけど、三上はいつもそれをたくさん食べた。
 美味しい、とかそんなことは一言も言わないのだけど、この人は多分、綾の手料理がけっこう好きなんだろうなぁ、と絵里は思っていた。食卓は会話が弾むこともなく、たまに綾が冗談を言って自分で笑うくらいで、皆いつも淡々と食べていた。
「さ、召し上がれ」
 そう言って綾はべちゃべちゃで、いったい何人前あるのであろうかというくらいに大盛りの炒飯を食卓の真ん中に置いた。
「こんだけあれば十分でしょ。好きなだけ食べな」
 なんて言うが、味付けが濃すぎて米粒が茶色く染まった炒飯が放つその異様な気迫に押されて、梓も絵里もスプーンを持ったまま固まっている。
「何よ。遠慮しないで」
 綾は炒飯の横にさらにパックに入った唐揚げと春巻きを置いた。大方、仕事帰りにスーパーで買ってきたのであろう。どちらも値段の記載されたシールが三枚重なっている。こちらもこちらで油でぎとぎと。なんとも言えないえぐみ。梓と絵里は性格の似つかない姉妹だったが、食の好みは似ていた。幼心にそれを口に出すことはなかったけれども。
 なんて目に見えぬ駆け引きを繰り返していると三上が黙って茶色い炒飯を食べ出す。
 それで絵里たちも恐る恐るそれに続く。でも炒飯はやはり味が濃く。梓も絵里もけっきょく最初に自皿によそった分ですら食べきれなかった。
 三上はそんな二人をよそにもりもりと炒飯を食べ進める。
 あれも確か夏。
 扇風機の音と満足気な綾の顔。
 そんなワンシーンを今でも覚えている。
 もう十二年も前の話。


綾からの手紙②

 ところで、私は家を出て以来、ちょくちょくあんたに向けて手紙を書くけど、実は誰かに向けて手紙を書く習慣なんて今まで一度もなくて、これが初めてなのよね。
 で、書いてみて思ったけど、手紙を書くのってなかなか良いものよ。
 同じ内容でもメールで送るよりずっと言葉と真剣に向き合えて、勉強にもなるし。ほら、メールだとぱっぱっと打ち込んで、しゃしゃしゃっと送れるじゃない? でも手紙だとそうもいかなくて、分からない漢字をいちいち調べたり、調べたらその言葉の知らない別の意味を不意に知ってしまったりして、そういうの、楽しいよ。けっこう。
 そんなわけで私は今日も絵里に手紙を書いているんだけど、今日言いたいことはねぇ、文字とは、なんとも言えず不思議よね、と言うこと。
 これもまぁ、手紙を書くようになってから気づいたことなんだけどね。日々、私だって進歩してるのよ。ほほほ。
 文字ってね、それを並べて言葉になって、つまりはそれは情報になっていくわけなんだけど、その情報というのが非常にドライで、「文字の羅列」が示すものだけを冷徹に伝えているような気がするのね。
 例えばさ、
「三十歳会社員 昨晩零時過ぎに飲酒運転で人身事故」
 なんて見出しを新聞で読むとするじゃない?
 そしたら多分、大半の人は「なんでこんな御時世に飲酒運転なんてすんのよ」「常習犯なんじゃないの」「お酒飲んで運転して事故るなんて最低」とか、大抵はまぁこういう感想を抱くわよね。それはそれで別に間違ってないわ。
 でもそれはあくまで「文字の羅列」から伝わる情報に対する感想でしかないのよ。
 どういうことかと言うとね、
 実はこの会社員、うん、仮に田中としよう。名前がないと話しづらいから。田中。田中はすごく優しい穏やかな人で、可愛い奥さんと二人の子供のために安月給にもかかわらず毎日毎日遅くまで残業して働いていたの。
 正直、会社の財政も悪くて、いつどうなるかも分からない状況。先にのしかかる不安、でも家族を養っていかなければならない責任感、輝かしい若かった頃の思い出、そんなものを全部背負って今日も深夜に仕事を終える。
 そんな田中が外に出ると、ネイビーの空に星屑がぱぁーっと広がっていて、何とも言えず美しくて、疲れきった田中はそれを見て不覚にも涙してしまうの。
 田中は毎日車で通勤していて、あのー、工場勤務なのよ、田中は。工場勤務の人って車通勤が多いでしょ? 郊外にあるから。田中もそのクチよ。それでその日も車に乗って帰るんだけど、田中はあの美しい星空をもう少し見ていたくて、疲れていたけど近所の河原に寄って、車を停めて星を見ようと決めたの。その河原は街頭も無いから暗くて、星がよりいっそう綺麗に見えるんじゃないかなって思ったのよね。
 それで、それならせっかくだからビールでも買って、一杯飲みながら見ようと思ったの。けっきょくこの選択がマズかったのよね。
 あ、もちろん田中は本物のビールを飲むつもりではなかったのよ。田中は断じてそんな人間じゃない。よくあるノンアルコールのやつを買って、気分だけでも味わおうと思ったの。でも彼、疲れていたから、コンビニでノンアルコールと間違えて本物のビールを買ってしまったのね。缶の色とか、同じようなのがあるから気がつかなかったのよ。そしてそれを河原で飲んでしまった。
 田中は意外とお酒が強くて、缶ビール一杯じゃ全然酔わない。辺りは暗いから缶のラベルもよく見ておらず、最後まで酒を飲んだという感覚は無かった。
 帰り道、少し風が出てきた。
 すっかり遅くなってしまったことを気にしつつも、田中は安全運転で家路を急いだ。あくまで安全運転。ここら辺に田中の生真面目さがあるのよね。でもそんな田中も突然の事態には対応できなかった。
 家まであと少しのところだった。
 不意に暗い路地から人影が飛び出してきた。
 この男は鈴木という名で、一部上場企業で部長の役職に就いている。この日は得意先との接待で少し酒を飲み過ぎていた。鈴木だってもういい歳だから、自分の限界くらい把握している。でも今夜は重要得意先相手の接待ということもあり、限界を超えて無理をしてしまったのだ。
 田中の運転する車の前に飛び出した時、鈴木は半分眠ったような状態だった。
 衝突。
 急ブレーキの轟音も虚しく、鈴木の身体が宙に舞う。
 うずくまる鈴木。
 田中は慌てて運転席を飛び出した。
 鈴木の命に別状はなくて。それが不幸中の幸いだった。
 十分後、警官がやってきた。
 短い質疑の後の簡単な検査で、田中の息から微量の酒気が検出された。田中はまったく身に覚えがない。そりゃそうよね。本人はノンアルコールを飲んだと思ってるんだから。でも警官の検査は嘘をついておらず、残念ながらそれは真実だった。
 そしてあの記事に繋がる。

 ね、どう?
 最初の見出しと本当の田中ではだいぶ印象が違うでしょう?
 それって何だか、文字の冷徹さを感じない?
 だから本当はさ、
「不幸な会社員 涙の人身事故」
 なのよね。

「三十歳会社員 昨晩零時過ぎに飲酒運転で人身事故」
「不幸な会社員 涙の人身事故」

 ね、並べると分かりやすいでしょ?
 これ、同じ出来事のことを書いてるのよ。
 同じ言葉でも、これが会話なら表情やニュアンスで伝わるところもあるんだけどね。
 ま、これはちょっと極端な例だったけどさ。
 これに気づいてから私は、文字を書く時、すごく真剣に言葉を選ぶようになったわ。それだけ恐ろしいものだから。正しい言葉。伝えたい事実、想い。間違わないようにね。
 でも私、話戻るけどさ、手紙って好きよ。電話やメールよりも、ずっとずっと。
 ちゃんとあんたに伝わっているといいな、と思う今日この頃です。


 バイトが休みの夜、絵里が部屋でテレビを見ていたら和が帰ってきた。
 一緒に住んでいるにもかかわらず。ここのところはすれ違いの生活が続いていて、顔を合わせるのは久しぶりだった。
「おかえり」
「ただいま。久しぶりじゃん」
「ほんとに」
 和は被っていたサマーニットを取ってリビングに入ってきた。
 長い髪がぺしゃんこになっている。
 細い身体つき。背丈はおそらく三上と同じくらいなのだけど、痩せ型のシルエットのせいか、和の方が小柄に思える。
「ご飯は? 外で食べたの?」
「あぁ。うん」
「そう」
「バイト、今日は休み?」
「うん」
「そっか」
 和はそう言って絵里の前に座った。冷房を消していたらいつの間にか部屋が生温い。どんよりした重たい空気が湿気を含んで肌にまとわりつくのが嫌で、絵里はクーラーをつけた。
 沈黙。
 動き出したばかりのクーラーだけが張り切って風を送っていた。
 それで絵里は何となく空気を察した。
 和は多分、また自分にお金をせびる気なのだろう。
 いつもそうなのだ、そういう時にはいつもこんな空気になる。
 その感じが嫌で絵里は、
「りんごでも剥くね」
 と言って台所へ立った。というか逃げた。
「うん」
 背中に和の声と存在を感じながら冷蔵庫を開ける。二つ並んだりんごのうち一つを取り出し、果物ナイフを用意する。
 絵里はりんごの皮を一つなぎにしてゆっくり皮を剥いていく。
 それはまるで、ガタガタとした螺旋状の一本道の様だった。天から続く一本道。やがて儚く途切れて、シンクに落ちていく。
「絵里」
 はっと、気が付くと和はりんごを剥く絵里の隣まで来ていた。
「なに」
「少し助けてほしいんだ」
「お金?」
「そう」
 和はそう言って絵里の腰に腕をまわす。
「この前わたした分はどうしたの?」
「あれはあれでちゃんと返すよ。でもちょっと今苦しくてさ。もう少し何とかならない?」
「私だってそんなに楽じゃないのよ」
「分かってるよ。でも絵里しか頼める人がいないんだ」
「いつも遊んでるお友達は?」
「駄目だよ。あいつら、みんな俺と一緒で金ないから。頼むよ。もうすぐ仕事も始めるし、今回だけ。な?」
 絵里は手に持っていた果物ナイフをまな板に置いた。
「ほんとにこれで最後?」
「ほんとにほんと」
「嘘じゃない?」
「うん」
 絵里は台所を出て、ソファに置きっ放していた鞄から財布を取り出し、一万円札を二枚抜いた。
 昨日、バイト代として振り込まれ、生活費として下ろしたお金。
「ありがとう。絵里」
 和はそう言って受け取ったお札をすぐにポケットにねじ込む。
 そのまま絵里が何も言わないでいたら、驚くことに和は、さっき脱いだサマーニットをまた被り、リビングを出て行こうとする。
「ちょっと、またどっか出かけるの?」
「うん。友達待たせちゃってるから」
「久しぶりに会ったのに」
「ごめん。またすぐ帰ってくるよ」
「すぐって」
「大丈夫だよ」
「何が?」
「心配性だなぁ」
 そう言って和は絵里を抱き寄せ額にキスをする。
「俺が働き出すまでの間だよ。こんなん今だけだから。お金だって大丈夫。二人で働けばすぐに貯まるよ。な?」
 和の笑顔。
 世間的にはおそらく美男子の部類には入るのだろうなぁ。なんて絵里は冷静にそんなことを思う。
「うん」
 付き合い始めて三年。それで和が絵里に金を要求するようになって一年半。
 恋の熱の渦中にいるには、時間を共にし過ぎていた。そういう段階ではない。陽射しの下、自分達は現実を生きていかなければならない。
 そんなことくらい、絵里だって分かっている。
 和が出て行った後、絵里は再び台所に立ち、りんごを等分に切り分け、丁寧にガラス皿に盛り付けた。
 そこまでしたところで絵里は、りんごを切り分けたところで誰も食べる人がいないことに気づいた。
 和は出て行ってしまったし、自分は別にりんごなどこれっぽっちも食べたくない。溜息を吐くと急にガラス皿の中の切り分けられたりんご達のことを不憫に思えた。
「誰にも求められていない存在」
 なんて。
 そしてその言葉はそのまま自分に返ってきた。
 和が求めているのはお金であって自分ではない。
 絵里は気づいていた。
 昔の和はお金なんてせびらなかった。
 素直で、ただ優しい男だったのだ。
 そんなに昔の話ではない。
 二十歳を超えたあたりから目に見えて悪い付き合いが増えた。当時働いていた運送業の先輩の影響だった。
 誰にも求められていないりんご。絵里はゴミ箱を開けてそれを捨てようとした。
 でもできなかった。
 絵里はりんごにラップをかけて冷蔵庫にしまう。
 気が付いたら少し肌寒かった。絵里は再びクーラーの電源を落とす。
「ちょうどいい」ということは、何とも難しいことだ。部屋の隅に飾っていた花。クーラーの風が直撃して、花びらがきんきんに冷えていた。
 触れたら切れそうで、何だか切なかった。


 また来るよ、なんて言っていたのに、三上はなかなか絵里のいる店に現れなかった。
 別に絵里としても三上が来るのを心待ちにしていたわけではなかったのだけど、まったく意識していなかったのかと言われるとそれはそれで嘘になる。
 外は相変わらず蒸し暑くて、水割りのグラスは水滴が浮かんでいて冷たかった。そんな夜。夏。
 所詮はあの男の気まぐれか、なんて思っていたら、三上が店に現れた。
 木曜日の、もう二十三時を回る頃だった。
 本当に不意を突かれて、絵里は三上を見つけた時、思わず目を見開いてしまった。でも三上はそんな絵里には何も言わず、一瞥しただけで黙って奥の席についた。それで絵里は少しバツが悪くなって、わざとカウンターの、三上のいるのとは逆の方へ行った。
 でも、それでも気になり目が行ってしまう。
 三上は何かを飲んで、自分に付いた女の子と話していた。三上も女の子も時折笑い合って楽しそう。何を話しているのか、絵里までは聞こえなかった。
 すると隣にいた店のママが、
「素敵ねぇ。ああいう男、けっこうタイプだわ」
 何て言う。
 絵里は少し怪訝な顔をして、
「そうですか?」
「そうよ」
「私は、そんなにです」
「その割にはさっきからちらちら見てるのね」
 絵里はぼっと顔が赤くなった。
 それでママは笑って、
「分かりやすいわねぇ」
 なんて小突く。
 否定しようとする絵里の言葉を遮って、ママは絵里を三上の前まで無理矢理引っ張って行った。 それで本人は、
「では、ごゆっくり」
 なんてどこかに行く。
 最悪。
 カウンター越しに三上、女の子と絵里、という構図になる。
「ルミちゃん、こちら三上さん」
「はじめまして」
 絞り出すよう、引きつった声で言った。でも三上はそれを鼻で笑って、平然と、素面で、
「こちらこそ」
 何て言う。
「ルミ……ちゃんね」
 三上が少し笑う。
「……何か?」
「いや、眼鏡が、よく似合うね」
 それで絵里はやられた、と思ってむすっとした。でも女の子は絵里と三上の関係なんて知らないから、きゃあきゃあとはしゃいだような声で話し続ける。
 女の子は三上に少し好意を持っているように見えた。絵里はあまり話したことのない子だったのだが。というより、絵里は店の女の子達と仕事以外でほとんど話をしない。もちろん特別に親しくする相手もいなかった。
「パノラマ写真って撮るの難しいですよね」
「あぁ、携帯で?」
「そうです。さーって横にスライドするんですけど、撮り終えてみたら何だかぐんにゃりしてて」
「俺も経験ある」
 そう言って小さく笑う。
 どうせ嘘でしょ、と絵里は思う。
 三上は女の子慣れしていて、会話が上手だった。
 そんな感じで終ぞ当たり障りのない話をして、三上はじきに店を後にした。
「いい男だったわね」
 三上が帰った後、女の子は嬉しそうに言った。
 絵里は何も言わずに溜息をつく。
 勤務が終わり、絵里が外に出ると、この前と同じ位置に三上は立っていた。
「送るよ。車なんだ」
 そう言って三上は絵里の返事も聞かないまま歩き出す。
 仕方なく絵里もその背中を追った。
「お酒、飲んでなかった?」
「飲んでない。あれ、ジンジャーエール」
「……なんか似合わない」
「普段はあんなん飲まない。思っていた以上に甘かったな」
 そう言って三上は煙草に火をつける。
 三上は少し歩いた先のパーキングに車を停めていた。煙草をくわえたまま、乱雑にズボンのポケットから小銭を取り出して精算機に突っ込む。絵里は指を指された車の横に立ってそれを見ていた。
 車。おそらく三上の車。
 古く、煤けた車で、とてもお洒落とは言い難かった。指で車体をなぞると薄く埃が積もっていた。
「乗れよ」
 精算を終えた三上が車の鍵を開ける。
「うん」
 絵里は促されるままにその助手席に座った。昔の三上は車なんて持っていなかった、と思う。分からない。もしかしたら持っていたのかもしれないけど、少なくとも絵里は乗ったことがない、はずだ。多分。考えれば考えるほど記憶は曖昧になってしまうのだが。
 三上はジャケットを脱いで後部座席に投げた。
「てか家、どこなの?」
 絵里が住所を伝えると三上は短く、あぁ、と言って、車をゆっくり発進させた。
 繁華街を抜け、ゆっくりと国道に出る。
 深夜、車はまばらで、三上はあまりスピードを出さないまま車を進めた。意外と運転が上手で、あまり揺れなかった。
 三上が大きな欠伸をする。
「何? 眠いの?」
「うん? まぁ、ちょっと」
「別に待っててくれなくてもよかったのに」
「あぁ、うん」
 曖昧な返事。
 車の中は音楽もなく、会話が途切れるとほとんど無音だった。絵里はそれが少し気まずくて、窓の外を行き過ぎる車達のナンバープレートを、意味もなく見ていた。練馬、品川、なにわ、世田谷、また練馬。
「綾が出て行って、今はあの姉貴と二人で住んでんのか? 何て名前だっけ。忘れたけど」
「梓だよ。梓はもうとっくに家にいない。綾に愛想を尽かして、高校出たらすぐ家を出てった」
「そうか。うん。まぁ、仕方ないだろうな。あの姉ちゃんと綾じゃ性格が合わない。気持ちは分かるよ」
「うん」
 綾と梓は本当に仲が悪かった。
 梓が高校に上がってからは特に酷かった。ほとんど会話をしないのに、たまに会話をしたらすぐに喧嘩。梓は綾の奔放なところが大嫌いだったし、綾は綾で、梓の生真面目な性格が気に食わなかった。顔立ちだって、二人は全然似ていない。
 二人の喧嘩は、どっちもどっちなところもあったが、絵里としては綾の方が悪い部分が多いと思っていた。なんせ、思春期真っ只中の娘が二人もいるのに、平気で代わる代わる男を連れ込むし、場合によっては数日間泊めたりもするのだ(でも半年もいたのは三上くらいだった)今思い返しても家庭内の風紀は乱れていた。梓が怒るのも無理はない。
 梓は高校を出てすぐに就職して、今は関西に住んでいる。
 最近も、たまに絵里に電話をかけてくる。
 ひとしきりの近況報告のあと、梓は必ず綾のことを言う。
「絵里、悪いことは言わないからあんたもあんな女とは早く関係を断ちなさい」
 そんなことを言われても、絵里としては今は綾から手紙を一方的に受け取っているだけで、関係を断つも絶たないもないので何とも言えないのだが。
 綾からの手紙はいつも送り主の住所が書かれていなかった。封筒の裏にぽつんと小さく名前が書かれていているだけ。そんな手紙だった。だから返事も出せないし(出そうと思ったことなんて一度もないけど)関係は完全に一方通行だった。
「それで、綾もいないなら今は一人で住んでんのか?」
「一人ではないけど」
「男か」
 絵里は何も答えなかった。
「お前も一丁前になったな」
 三上が笑う。
「いくつになったんだ?」
「二十二」
「もうそんなになるのか」
「うん。三上、さんは?」
「俺は四十九。お互い歳取ったな」
「そうね」
 十の少女と三十七の男だったのだ。それが十二年も前のことなんて、絵里は信じられなかった。
「ちょっと寄り道」
 そう言って三上がハンドルを切る。
 絵里は何も言わずにそれに身を任せた。
 向かった先は橋の上で、誰もいなくて、その下を高速道路が通っていた。三上は車を端に寄せて停める。
「降りてみろよ」
 そう言って車を降りていくから、絵里も言われた通りそれに続いた。
 二人並んで橋の上から高速道路を見下ろす。
 風が気持ちいい。
 髪を晒して、抑える。
 三上は大きな掌で庇ってライターを擦った。
 夜なのに、高速道路をたくさんの車が通り過ぎて行く。
 ヘッドライトと微かなブレーキランプ。
 それがイルミネーションのように、ずっと向こうの方まで続いていた。
「どう?」
 煙草の煙を空中に吐いて三上がそう聞くから、
「大きな川みたい」
 と、絵里は正直な感想を言った。
「いい例え」
「よく来るの?」
「まぁ、たまに」
 三上は橋の手すりの上で腕を組み、その上に顎を乗せた。
「良いだろ? なんか」
「うん。良い」
「見ろよ、あっちの方」
 そう言ってずっと遠くの高速道路の先、地平線を指す。細まった道の向こう、零れ落ちるように小さな光が順々に消えていく。
「あの、ずっと向こう、光が消えた先にもここと同じように世界があるんだぜ」
「うん」
「それって何だか不思議だと思わないか?」
「分かんない。どうだろ」
「目に見えないくらい遠くにもちゃんと生活がある」
「うん」
 絵里も腕を組んで、三上と同じポーズをとる。
 覚えていたい景色だな、と絵里は思った。でも多分、そんなことはできないのであろう。降り積もる雪の白さをしっかりと覚えておけば良かった。夏になるといつもそう思う。それと同じで。
 しばらくそうして流れ行く光の川を見ていた。生活。あの向こうにも。もしかして三上は綾のことを言っているのではないか、と絵里は思った。何も言わなかったけど。
 三上は、家の近くまで絵里を送り、エンジンも切らずにそのまま走り去って行った。


綾からの手紙③

 すっかり暑くなって、どうしていますでしょうか? お母さんは変わらず働いていますよ。
 あ、今ちょっと疑ったでしょ?
 綾のやつ、ほんとに働いてるのかなって。働いてるわよ、私だって。そうしないと生きていけないじゃない。あのね、どう思ってたか知らないけど、私、一度もお金のことで男の人の世話になったことはないのよ。世話したことはあってもね。
 しかしまぁ、数奇な人生よね。私も、それにあなた達姉妹も。
 あなた達は私が巻き込んだ感があるけど。私の性格が変わっていたからでしょうね。原因は、多分。百パーセント。
 でもね、自分の性格がどうこうじゃないけど、オリジナリティを持つということは、生きていく上で非常に大事なことだと思うの。
 だってさ、誰でもできることを当たり前にできるだけだったら、別にそれは誰でもいいってことじゃない。タイミングの問題だけで。それって何だか大量生産されたロボットみたいな感じ。できることは同じで、報われるか否かはその書い手によるだけ、それで壊れたらまた新しいのを買う的な。
 恐ろしいことだけど、そんなロボットみたいな人ってけっこう多いと私は思うよ。てか油断したら人はみんな、どうしても楽な方に、楽な方に、流れていっちゃうから、しっかり考えないと誰しもそうなってしまうと思うの。まぁ、感覚だけで、本能的にそっちへ流れていかない人もいるんだけど。そういうのは、ある種の才能があるというか、程度はあれど天才なんだと思うよ。
 あんたさ、自分のオリジナリティって何だと思う?
 どう考える?
 つまり、その、自分が他人とは違うとこって何?
 ……考えてるでしょう。今。必死で。
 いいのよ、別に無くたって。あんたまだ若いんだから。私だって絵里くらいの年頃ではまだそんなものなかったわ。まぁ、そういうことを意識して生きてほしいな、ということよ。
 もっと具体的なことを言うと、何にせよまずは「疑う」ことが大事なのよ。
 日々の生活に「?」を付ける。これは非常に大事なこと。疑え、そして熟考しな。それがオリジナリティに繋がる。
 良いこと言うわよね、私。
 大丈夫よ、多少無茶したって。喧嘩したって。自分が疑問に思う、納得のいかないことはとことん詰めてみなさい。
 それで喧嘩になってめちゃくちゃ言い返してきたとしても、他人の人生を否定するなんて相当馬鹿な奴か、相当真剣な奴しかできないんだから。中途半端な奴の言葉なんて所詮、否定も肯定もないただの暇つぶしでしかないんだし、真剣な人の意見は、結果はどうであれあなたをきっと良くするから。
 まぁ、そういうことよ。
 求められる人間になったら、人生はだいぶ楽になるよ。肉体的にはしんどいかもしれないけど、精神的には豊かになると思う。
 オリジナリティ。
 寝る前に一分だけでもいいから、ちょっと考えてみ。


 すぐ帰ると言って家を出てからもう一週間が経つのに、和は一向に帰ってこなかった。
 あの日切り分けたりんごは冷蔵庫の中で日に日に駄目になっていっていた。
 絵里は冷蔵庫を開ける度に、それを捨てようかと考えたが、けっきょく捨てなかった。あと一日、あと一日と先延ばしにして。
「誰にも求められていない存在」
 冷蔵庫の中で生きながらえさせて。


 そんなある日の店からの帰り、絵里は偶然、繁華街で三上を見つける。
 雨が降っていた。
 三上は知らない女の人を連れていて、長かった髪をばっさりと切っていた。
 それを見た絵里は反射的にネオンの看板の後ろに隠れた。
 女の人は三上より十五は若そうで、髪の長い綺麗な人だった。親しげな様子で、一つの傘を二人で使って歩く。絵里には気づかず、横をすり抜けていった。
 行く先を目で追うと、少し先の店先で二人は別れるところだった。三上はいつの間にか煙草をくわえていて、屋根のあるところに入っている女の人に畳んだ傘をわたそうとしていた。しかし女の人はそれを笑顔で断り、三上の頬に軽く触れた。
 それで二人は小さく手を振り合って、女の人は店内に、三上は再び傘を差して繁華街を歩き出した。
 三上は傘を差すのが下手で、大きな傘なのに肩が雨に濡れている。
 さっきの女の人が三上の今の恋人なのだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。しかし何らかの特別な人なのだろう。絵里は勝手にそう思った。
 三上は、信号なんてまるで目に入らぬかのような素振りで赤を無視して横断歩道の向こう側に消えていった。


 絵里が家に帰るとポストにまた綾からの手紙が届いていた。
 絵里はそれを読まずにそのまま鞄の中に入れた。


 公園を埋め尽くすような蝉の鳴き声とそれを包み込む八月の暑さで、頭がぼぉっとした。
 絵里は公園のベンチに腰掛けて足をぶらぶらさせていた。
 麦わら帽子は少し目深で、日差しを避ける。
「絵里ー! おいでー!」
 向こうの売店の方で綾が手をくるくる回して呼ぶ。三上はその隣で腕を組み、置いてある扇風機にあたっていた。
 絵里は大きく頷いて二人の方に走っていく。
 総合公園の午後。
 夏休みの週末。
「絵里、アイス食べる?」
「うん」
 綾にそう言われ、絵里は頷く。アイスクリームは大好きだった。
 ケースの中を覗くとどれも棒付きのアイスクリームで、バニラとチョコレートとメロンと苺の味があった。
 味を迷っていると頭上に影のように大きな三上がいて、同じようにケースの中を覗き込んでいたので絵里は、
「食べたいの?」
 と聞いてみたのだけど三上は、
「こんな甘ったるいもの子供しか食べないぜ」
 なんて言って鼻で笑うから絵里は少し嫌な顔をした。
 三上はそれを察したのかしていないのか、
「好きな味言ってみろ。買ってやるよ」
 なんて言う。
「じゃ、チョコレート」
「おう」
 そう言って三上は絵里の顔の横からぬっと腕を伸ばし、ケースの中からチョコレートアイスを一本取り出して絵里にわたした。
 火照った顔に解放された冷気がかかる。手に持ったチョコレートアイスからも同じように冷気を感じた。
 お金を払ってくれた三上に絵里は礼を言ったが、それに対する反応は特になかった。
 うだるような暑さの中、三人で並んでベンチに座った。
 絵里は三上と綾の間に座って冷たく、甘いチョコレートアイスを食べた。
 二人は絵里が真ん中にいるのに気にもせず煙草を吸い、真っ黒なパッケージの缶コーヒーを飲んでいた。
 綾は昔からよくブラックコーヒーを好んで飲んでいたが、それは絵里からしてみるとパッケージからしてもいかにも不味そうで、黒くて、自分は生涯、絶対にこんなものを飲みたくないと思えるような飲み物だった。
 でもこの時、先の三上の「こんな甘ったるいもの子供しか食べないぜ」という言葉を思い出し、大人になったらいつか、もしかすると自分も何事もなかったかのように、あんな不味そうなものを平気で飲むようになるのかなぁ、なんて考えた。
 けっきょく煙草と同様で、今でも絵里はブラックコーヒーが苦手なままなのだけど。
 二人は絵里を挟んだまま何も話さなかった。
 だから絵里も、何となく黙っていた。
 聞こえるのは蝉の鳴き声だけ。
 二人とも首筋に薄っすらと汗をかいていた。
 絵里がチョコレートアイスを食べ終わってもまだ三人はベンチに腰掛けていた。何をするでもなく、ただそこにいるだけで、二人はたまに煙草に火をつけては消し、吸い殻を空になった缶の中に押し込んでいた。
 絵里の中に、なぜかそんな夏の記憶が色濃く残っていた。
 絵里はその公園の蝉の鳴き声を、暑さを、ベンチに座って食べたチョコレートアイスの甘さを、煙草の匂いを、今でもとてもよく覚えている。
 それから一カ月もしないくらいに三上が家を出て行った。
 綾との間では、男女なので、もちろんいろいろあったうえで至った結論なのだろうけど、幼い絵里からしたらそれは、何も言わず、ただ姿を消した、という感じだった。
 総合公園の午後の記憶は、思い出せる限りの三上との最後の記憶。ちょうど今くらいの季節だった。夏の思い出。


 絵里が玄関を開けると紺の、同じ格好をした男が二人立っていた。
 夕方の十七時頃。この日は絵里は出勤日ではなかった。
 やってきた男達が警官だと理解するのに時間はかからなかった。手帳を出される前からそんなことは分かっていた。
「山口和という男をご存知ですね?」
 一人の警官が絵里に問う。
「はい」
「ここに住んでいたとお聞きしましたが、間違いありませんか?」
「そうですけど」
 警官は二人とも固い表情をしていた。
「あの、和に何かあったんですか?」
 絵里の正面に立つ警官が振り返り、もう一人の警官を見る。顔を見合わせ頷くと、意を決したように話し始めた。
「山口和は今朝未明、窃盗の容疑で現行犯逮捕されました」
「窃盗」
「そうです。数人の友人と工事現場に侵入してワイヤー等の備品を盗もうとしていたところを逮捕されたのです」
「はぁ」
 言葉が上手に絵里の中に入って来なかった。
 警官は更に続ける。
「署で取り調べを行なった際、逮捕者の中に言動に不自然な部分が見られる男がいました。それで念の為全員に薬物検査を行なったところ、数人から薬物反応が出ました」
「まさか……」
「山口和さんはその中の一人です」
 それを聞いて、絵里はさすがに驚いた。
 薬物。
 生活は確かに乱れていたが、あの和がそんなものに手を出すなんて。
「簡単な家宅捜査をさせていただきます」
 絵里は何も言えなかった。
「いいですね?」
「……はい」
 二人の警官は靴を脱いで部屋に上がる。素早く手袋を着けて短く何かを話したと思ったら、手分けして引き出しを開けたり、部屋の中を捜索し始めた。
 絵里は何となく居場所がなくて、リビングのテーブルについてそれを見ていた。
 和が窃盗。そして薬物。
 最後にここで会った夜、あの時にはもうすでに薬物に手を染めていたのだろうか。まったく気がつかなかった。いつも通りの和だった。
 もしかしたらもっと前、それが自然になるくらい前からそんなものに手を出していたのかもしれない。
 だとしたら顔を合わせる度に「大丈夫」と言ったあの和の言葉は、あれはもう和の言葉ではなく、薬物が和に言わせた偽りの言葉だったのか。
 本当の和は「大丈夫」ではないし、「大丈夫」だとも思っていなかった。
 そんな考えが絵里の中を巡る。
 二人は隅から隅まで部屋の中を調べあげる。
 食器棚を開け、皿を一枚一枚取り出す。洋服棚にかかったパーカーのポケットを裏返す。鞄の中身をカーペットの上に出し、その中身を一つ残らず調べる。
 それを見て絵里は、自分達の積み重ねてきたものが一つ一つ順番に崩れていくのを感じた。
 でもそれを止める術は一つもなかった。
「お金、わたしてたんですよね」
 一人の警官に急に声を掛けられて絵里は驚いた。
「はい」
「山口和はそのお金で薬物を買ったと供述しています」
「そうですか」
「捜査が終わったら少しお話を聞かせていただけますか?」
「分かりました」
 警官は頷いてまた捜査に戻っていった。何だかすごく怖い顔をしていた。
 二人はしばらく話した後、こちらの寝室も見せていただきたい、と言うので、絵里は構わない、と言った。
 二人が寝室に入っていくと絵里はリビングに一人きりになり、そこで初めて緊張で自分の喉がからからになっていることに気づいた。
 冷蔵庫を開け、ボトルに入った水を飲む。
 それで喉は一瞬だけ潤ったが、またすぐにからからになった。それは砂漠に水を撒いたような感覚で、今どれだけ水を飲んでも、喉のこの気持ち悪い感じは取れそうになかった。
 冷蔵庫の端、あの日のりんごがまだ置いてある。
 絵里は手を伸ばしてそれを取った。
 りんごはすでに悪くなっており、サランラップの内側、くたくたにヘタっていた。絵里はゴミ箱を開けて今度こそそれを捨てようとするも、やはり捨てることはできなかった。
 もう食べることもできない果実。
 二人の警官は何やら寝室をがさごそとやっている。
 絵里はラップをかけたりんごを持ったまま家を出た。
 走らず、ゆっくりと歩く。
 意識をしていたわけではないが、誰にも会わずに階段を降りる。警官も追って来ない。
 夕立。
 外はいつの間にか暗い雲がかかって、激しい雨が降り注いでいた。絵里は傘も持たず、構わず雨の中を歩き出す。
 しばらくそうして歩いていると、自然と涙が溢れてきた。
 絵里は大声をあげて、泣きながら歩く。雨は相変わらず強く、絵里の涙は夜露のように儚く流されていった。
 別にそれでも良かった。絵里は泣いた。
 こんなに泣くのはいつぶりだろう。もちろんそんなことを思い出せるはずもなく、雨は無慈悲に降り注いでいた。涙の記憶など、人は忘れていってしまうものなのだ。
 りんごを包んだサランラップの上に小さな水たまりができていた。


「人生とは絶望の連続だよ」
 誰かは覚えていないけど、高名な作家さんがテレビで言っていた。
 絵里はそれを聞いた時、率直に言うと嫌な気持ちになった。
 絶望の連続。
 だって自分はまだ二十二歳なのだ、死ぬまでにはまだまだ膨大な時間を生きる。それが「絶望の連続」だなんて、あまりにも救いが無いではないか。
 否定的な言葉って聞いていて楽しくない。もちろん時にはそれが必要な時もあることは分かるけど。
 でも絵里がその言葉を聞いて嫌な気持ちになるのは、心のどこかでそれが事実だと思っているからなのだ。絶望。希望ではなくて絶望。分かる気がする。
 梓には決して言えないが、時には絵里も綾みたいに自由に生きてみたいと思うことがある。
 始発列車を眺めて暮らすように。
 水際を低く飛ぶ鳥のように。
 そんなふうに生きてみたいと考えたりする。


 地下鉄を降りたら雨はもう止んでいた。
 絵里は泣きはらした目で濡れた繁華街を見つめた。涙はもう出なかった。多分もう、全部出し切ってしまったのだろう。
 大人になって分かったのだが、涙を流すということは、これはとても気持ちが良いことで、溜め込んでいた悲しみを一気に放出できたような気持ちになる。もちろん少しの間ではあるが。
 絵里は気がついたらここに足が向いていた。
 店は勤務日ではないし、こんなひどい顔ではとても行けないのだけど、馴染みの場所など絵里には他には無かった。それにこんな時に話を聞いてくれる友達もいなかった。家族も。和がいない今、絵里は本当に一人きりだった。
 そんなことを考えるとまた涙が溢れそうで、絵里はそれをぐっと堪えて歩き出す。
 繁華街の中、びしょ濡れで、顔は涙でぐちゃぐちゃ、手にはなぜかりんごの入った皿を持った絵里はまわりの景色から明らかに浮いていた。すれ違う人々が不気味そうに振り返ったり、指をさして噂したりしていた。絵里もそれには気づいていた。たまらなく惨めだった。それでも歩いていく。
 今頃、店では今日も楽しく誰かと誰かがお酒を飲んでいるのだろう。笑い合って、ママが機転を利かせて、女の子が頬を赤らめて。繁華街の夜。ネオン。自分が働く街。
 夜の街で働き出したのは和が仕事を辞めたからだ。実質的に家に対する身入りが減るので、少しでも高給な仕事を、と思い働き出した。思えば無理をしていた。元々、お酒も、人と話をすることも好きではない。でも頑張った。しかし自分がそこで稼いだお金で和は薬物を買っていた。
 そう思うと、ここ数年の出来事が何もかも上手くいっていなかったことに気づく。冷静に思い返すと、事態は悪い方へ悪い方へ進んでいたのだ。その時々で少し考えれば気づけることだったかもしれない。それが悔しくてたまらず、また涙ぐむ。鼻をすする。
 道の先にいる三上と目が合ったのはその時だった。
「何してんの?」
 三上は絵里を見て不思議そうな顔をする。
「別に」
「仕事前? には見えないけど」
「明日は朝から友達とキャンプに行くから早抜けさせてもらったの」
「はぁ。そうか」
 そう言って三上は少し笑う。
 早抜けなんて、ばればれの嘘だった。こんな顔で店に出れるわけがないし、それにまだ十九時にもなっていない。
「付いて来いよ」
 そう言って三上はまた絵里の返事も聞かずに歩き出す。
「どこ行くの?」
「ま、気分転換にはなる」
 三上に付いて歩いていくと、たどり着いた先はまたこの前のパーキングで、三上の車は相変わらず煤けていた。
 絵里が助手席に座ると三上はエンジンをかけ、
「シートベルト」
 と小さく言った。
 絵里は言われた通りシートベルトを締める。
 古くさい排気音の後、車は弧を描くように回り込みパーキングを後にした。
「拭けよ、濡れてんの」
 そう言って三上はポケットからくしゃくしゃのハンカチをわたして言った。
「ありがとう」
「なんだよ、それ。その、手に持ってる皿は」
「りんご」
 三上は運転席から覗き込む。
「だいぶ痛んでるな」
「そうなの」
「捨てちまえよ」
 そう言って後部座席の足元に置かれた屑箱を指差す。
 それで絵里は自分でも驚くほど自然にそれを屑箱に捨てた。
「いつも車なの?」
「うん。酒飲んだら置いて帰ってる」
「そうなんだ」
 それで、沈黙。
 しばらくして、
「髪、切ったんだね」
「うん」
「ばっさり切ったね」
「あぁ、それは」
 三上が軽く自分の頭を撫でる。
「夏のせい」
 そう言って軽く笑う。
「ふぅん」
 外はいつの間にか真っ暗だった。ヘッドライトが行く先を照らす。夜を駆ける。


綾からの手紙④

 夏という季節は、私は大好きで、それは他の季節と比べてもダントツで、だから私は最近、とても気分が良くて、気持ちの良い毎日を送っています。外の暑さとか、冷たい食べ物を楽しんだりして。毎年、毎年今の時期はそんな感じです。知ってるかもだけど。
 しかし季節というのは決まって順番にやってくるからいいわよね。いつだって秋の次には冬が来るし、春の次には夏が来る、何がどうなったって、仕事を辞めたって、家を出たって、彼と別れたって、何だろうと一年に一回必ず夏は私の前に現れる。絶対的というか、好きよ、私、そういうの。
 でもね、そこで忘れてはいけないことが一つ。そうやって夏が来る度に私は、私達は毎年、着実に歳を取っているということ。
 淡々と日々を過ごしていると忘れがちだけど、これも変わらず、毎年夏が来ることと同じく絶対的なのよね。例え自分としては「あれれ、あれからもう十年も経ってるの?」なんて信じられなくても、ちゃんと十年経ってんの。これは紛れもなく。記憶は曖昧だろうと何かしらの記録はきっと正確で、時間の経過をちゃんと証明できるわ。それに肉体だってちゃんと衰えてるし。
 そうして一歩一歩死に近づいている。
 時間はどんどん流れていく。
 どんどん消費されていくボックスティッシュみたいよね。
 今日はどんどん昨日になって、油断しているとそれは先週になって、先月になって、去年になる。
 ね、それって何だか怖くない?
 今さ、一体何人の友達が高校生の頃の私のことを覚えていると思う? それはもちろん、私自身も含めてね。
 そしてそういう時間の積み重ねの先、死ぬ時、最期の一瞬、私は一体何を思い出すんだろね。最近そんなことを考えてたの。果てしないけど、実際私達は毎日そこを目指して歩いてる。
 最後の一瞬、何を思い出すかなんて分からない。
 意外と全然どうでもいいことを思い出すんじゃないかとも思うの。そうね、例えば「たくあん」のこととか。たくあんなんて全然好きでも何でも無いのに、たくあんのことを思い出して死んでくの。可能性がゼロとも言えないでしょ?
 だからそう考えると、最後の瞬間に「たくあん」のことを思い出すかもしれないなぁ、なんて考えると、人生なんてものはけっきょく刹那的な意味しかないのかもね。味わった幸せを上手にストックなんてできない。「大事なのは今」なんて言うとすごく俗的だけど、でもそうよね。分かる気もするわ。
 まぁ、でもね、こんな私にもあったんよ。これが幸せと呼ばず何と呼ぶって日々が。
 ずっと昔、あんたと梓と暮らしてた日々とか(梓がまだ可愛らしかった頃よ)そういうの、忘れないようにと、一応人並みに努力してみたりはするのよ。輪郭は年々ボヤけていってるけど、暖かみは忘れないように、とね。
 できれば「たくあん」じゃなくてそういう幸せなシーンを思い出して死にたいからね。
 あ、でももし私が「たくあん」を思い出して死んだとしたら、そこまで私の心にこびりつく、というかそんなぎりぎりの状態でも忘れずに浮かび上がってくる「たくあん」を素直にすごいなと天国で讃えまくるかもね(もしくは地獄でね)
 すごいよね、忘れられないって。
 どういうメカニズムなんだろね。
 てか、たくあん、たくあん、五月蝿いわよね。蝉みたいよね、今日の私。
 たくあん、たくあん。


 今回の綾の手紙は勢いがすごくて、自分の言いたいことだけをだだだだっと書いているだけで、それが本当に綾らしいなぁ、と絵里は思った。
 それで絵里は、たくあんは別に食べたくはならなかったけど、「忘れられない」というところで例の総合公園の午後を思い出した。
 三上と綾と絵里。蝉の鳴き声とチョコレートアイス。煙草。綾からの手紙をたたみ、ハンドルを握る三上の隣でそんなことを思い出していた。


 車が停まったのはどこなのかは分からないが山奥の旅館の駐車場だった。
「着いたぞ」
「ここ、どこ?」
 しかし三上は何も返事をせず車を降りる。三上はいつもこうだ。何も言わずに先に先に行ってしまう。
 絵里も車を降りて三上の背中を追う。外に出ると夏らしい夜で、虫の鳴き声の向こうに微かに川の音が聞こえた。
 三上が受付に行くと、そこに立っていた女将らしき女の人は、あら、あら、三上さん、と笑顔を見せた。どうも顔馴染みのようだった。
「いける? 一部屋」
 三上がそう尋ねると女将はもちろんです、と笑顔で答え、受付用の記入用紙を三上の前に差し出した。三上はそれに慣れた手付きで名前を記入する。
 女将に案内されたのは小綺麗な和室で、部屋の真ん中にはテーブル、その上にはポットと茶菓子。奥の部屋にはリクライニングチェアーが二つ置いてあった。
 畳の匂い。
 やがて女将は出て行き、二人になる。
 絵里は三上をじっと見た。
「安心しな。何もしないよ」
「ここ、どこ?」
「俺の隠れ家」
「そんなこと言って、よく女の子を連れ込んでるの?」
「お前、俺にどんなイメージを抱いてんだよ」
 三上はそう言って少し笑う。
「どんなって」
 回答を聞く前に三上は畳の上に座り込み、硝子の灰皿を手繰り寄せて煙草に火をつけた。
「とりあえず風呂入ってこいよ。風邪引くぞ」
「うん」
「一階に大浴場がある」
「分かった」
 絵里は三上からタオルと浴衣を受け取り部屋を出た。
 静かな廊下を歩いて大浴場を目指す。
 建物は古かったが、風情があり、何となく好印象を持てる旅館だった。
 看板の案内に従って大浴場へ向かう途中、受付の前を通った。女将はさっきと同じようにそこに立っており、笑顔で絵里に軽く会釈をした。絵里もそれに返す。
 大浴場も昔ながらの感じで、服を脱いでプラスチックの籠に入れ、ガラガラと曇りガラスのスライドドアを開けると、湯気がもわっと溢れて、冷えた身体に温度を与えた。絵里はその時、初めて自分の身体が冷え切っていたことに気づいた。
 湯船に浸かって目を閉じると、絵里はやっと少し冷静になれた。
 和が捕まった。窃盗と、あと薬物。信じられないことだけど、確かに警官が家まできた。家宅捜査をした。
 そう言えばあの警官達、後で話を聞きたいと言っていた。それを無視して家を出てきてしまったのだが、そうすると二人はもしかすると自分のことも疑って探しているかもしれない。話を聞きたいと言われていたのに黙って家を抜け出したのだから。怪しい。共犯と思われても仕方がない。
 絵里は湯船で顔を洗って一度そんな考えを断ち切る。
 眼鏡を外しているから遠くの視界が霞んでいた。
 大浴場には誰もいなくて、温泉なのか、湯が流れる音だけが空間を支配していた。
 三上は、絵里が泣いていたことに気づいていたはずだ。でも何も言わなかった。
 口を、水面に浸けてぶくぶくする。でも何も状況は変わらず、もちろん気も晴れず、だんだん逆上せてきたので仕方がないので絵里は湯から上がった。
 シャワーの前には燻んだ色のボトルに入ったシャンプーとボディソープ、リンスが置いてあった。
 こういうところに置いてあるシャンプー類は安っぽくて、すぐに髪ががしがしになってしまうので、絵里は普段、大衆浴場なんかに行く時は自前のものを持っていくのだが、もちろん今日は持ち合わせていない。
 諦めて置いてあるシャンプー類を使って洗う。何とも言えず無香料で、絵里は、すっきりしたのかしてないのか分からなかったが、とりあえずシャワーを止めて伸びをした。
 それで大浴場には露天風呂もあり、絵里が外に出てみると空には雲一つなく、半分弱欠けた月と、向こうの方からやってくる、どうも飛行機らしい点滅光が見えた。
 湯船に浸かると、川の音がずっと近くまで来ていて、露天風呂の囲いの隙間から外を見ると、すぐ眼下を幅三メートル程度の小さな川が流れていた。
 しばらくそうしていたが、やがてまた逆上せてきたので絵里は露天風呂を出て脱衣所に戻る。部屋から持ってきた浴衣に袖を通し、濡れた髪をドライヤーで乾かしていると、急にこの後部屋に戻り三上と顔を合わせることが億劫になる。
 冷静になって考えると、どんな顔をすれば良いのだろう。顔が赤くなる。
 少しの間、髪をとかしたり、無駄に体重を測ったりして時間を潰していたが、いつまでもこんなことをしていても意味がないので、絵里は意を決して部屋に戻った。
 三上は、絵里が部屋を出た時と同じ位置に座って、テレビの野球中継を見ていた。硝子の灰皿には吸い殻が四本。折れ曲がっていた。
「長かったな」
「そんなこと、女の子に言うもんじゃないよ」
「女の子ときたか」
 三上が笑う。
「何か食べるか?」
「ううん。いらない」
 絵里は即座に答えた。
「本当に?」
「うん」
「俺は食うぞ」
「いいよ」
 三上は立ち上がり、テレビの横の固定電話で、うん、いつもの頼む、とだけ言って電話を切った。
 絵里はテーブルの、三上とは違う辺に腰掛けた。
 三上はそれ以降は何も話さないので、野球中継の音だけが部屋には流れていて、打球が飛んだりするたびに瞬間的にワッと盛り上がりをみせ、それが終わると実況がまたボソボソと何か話しているような、そんな感じだった。
 実況の話を聞いていると、どうもそろそろシーズンも終わりが近いようで、今日の試合の結果如何で優勝争いが大きく左右されるとのことで、大事な試合のようだった。
 もちろん絵里はプロ野球になんて興味が無かったので、それを聞いても特に何も感じなかった。そうなんだ、くらいの感じだった。三上にしても興味があるのか無いのか、表情から読みきれなくて、退屈だから見ているだけなのか、もしくは意外にも試合の結果を気にして待ち望んでいたのか、どちらとも取れた。
 しばらくすると女将が十巻の寿司と瓶ビールを一本、お盆に乗せて持ってきた。これがおそらく「いつもの」なのだろう。
 三上は、ありがとう、と言って女将からそれを受け取った。
「食うぞ」
 三上は瓶ビールの栓を抜きながら絵里を見る。
「どうぞ」
 絵里が言うと三上は少しバツが悪そうにグラスにビールを注ぎ、醤油の中にわさびを溶いた。
 絵里はちらっとその仕草を見ると、煌びやかな寿司が目に入る。
 美味しそうだった。
 その視線に三上が気づき、
「いるか?」
「大丈夫よ」
 そう言った瞬間、絵里のお腹が、漫画のようにぐぅぅと鳴った。
 実に潔く、嘘偽りの無い音だった。
 絵里は真っ赤になって下を向き、
「一つだけ」
 と絞り出すように言った。
 三上は溜息をついて寿司の乗った皿を絵里と自分の間に置いた。
「面白いだろ?」
「何が?」
「どんな時でも腹は減る」
「それが何よ」
「何があっても身体は生きることを望んでる」
 絵里はそれについては何も言わなかった。
 三上が再び電話で頼んでくれた取り皿に寿司を取り分けて、十巻は、けっきょく半分半分食べた。美味しかった。
 それで三上は瓶ビールを飲み終わると、
「風呂行ってくる」
 と言って立ち上がった。
「適当に寛いどけよ」
 絵里は頷く。
 三上が行ってしまった部屋で絵里は、寛いでおけと言われても特別やることもなく、すぐに手持ち無沙汰になった。野球中継もいつの間にか終わっていた。
 テーブルの上の茶菓子の袋を一つ破って、食べてみる。でも、これはあまり美味しくなく、お茶を飲んで口の中をリセットした。
 それで、窓を開けてみる。
 山の夜は澄んでいて、夏なのに風が気持ちよく、空気が冷えていて涼しかった。
 さっき露天風呂から見えた川は部屋からは見えず、でもやはりその流れる音だけは微かに聞こえた。
 絵里は一人、部屋から外に出て行く。
 今はもう無人になっている受付の横を抜け、露天風呂から見た川を目指し、自分の方向感覚だけを頼りに夜道を歩いた。
 迷うかな、と思ったが、川沿いの道は遊歩道になっていて、絵里は早々にそれを見つけることができたので意外にあっさり川まで出ることができた。
 露天風呂から見た感じではかなり小さな川に感じたのだけれど、近づいてみるとそれなりに大きく、立派な川だった。
 絵里は暗がりに足を取られないように、川の流れと同じ方向にゆっくり歩く。
 川沿いは街灯もなく暗がりで、慣れてきた目の映す薄闇の景色だけを頼りにした。微かな月明かりに照らされた川は、黒く、強く、美しかった。
 古い歌ではないが、これはまるで人の人生のようで、三上が言う「何があっても身体は生きることを望んでる」と同じで、川は特別な雑念も無く、ただ流れる、先に進むことだけを考えているようだった。
 しばらく行くと細道から、拓けた田園に出た。蛙の鳴き声が凄かった。絵里はその分岐点に忘れ去られたように置かれた赤いベンチに腰掛ける。
 すっと目を閉じると、流れ込むように夏が絵里の中に入ってきた。
 しばらくすると、浴衣姿の三上がやってきた。
「やっと見つけた」
「うん」
「うん、じゃねぇよ。心配したんだぞ」
 そう言って三上は煙草に火をつける。
「ごめんね」
「酷なこと言ったか、俺。さっき部屋で」
「そんなことは無いよ」
 三上は三上で気にしていたのだ。
「蛙の鳴き声が凄い」
「うん」
「蝉みたい」
「鳴いてる蛙は雄だよ。雌を呼んでる」
「そうなんだ」
「うん」
 それでその晩は二人して旅館まで戻り、並べた布団で眠った。
 絵里は眠りに就く前、また少し泣いた。
 でもひとしきり泣くと、何もなかったかのように眠りは訪れた。


 翌朝、絵里が目覚めるともう十時を回っており、隣の布団に三上はおらず、もぬけの殻だった。
 どこに行ったのだろう、と部屋の中を探してみるもおらず、外に出て、なおも探してみると、三上は浴衣のまま受付前のサロンでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
「おはよう」
「うん。おはよう」
 それで絵里も三上の向かいに腰掛ける。
「コーヒー飲む?」
「うん」
 三上が絵里の分もコーヒーを注文し、程なくして女将がそれを運んでくる。
「よく眠れた?」
「意外と」
「なら良かった」
「何時から起きてたの?」
「ん、七時くらいかな。もう一回風呂行ってた」
「そう」
 三上が大きく欠伸をする。
 絵里はコーヒーを無意識でブラックのままで飲んでいた。
 大きな窓の外には緑が左右に揺れていた。
 そのあと小さな食堂に二人で朝食を食べに行った。
 絵里はなぜだかひどくお腹が空いていて、三上が驚くくらい朝食を食べた。鮭の塩焼きに出し巻き卵、ほうれん草のおひたしに切り干し大根。ご飯は納豆と海苔で二杯食べた。
 三上は目を丸くして、
「昔からそんなに食べたっけ?」
「いつも食べてたわけじゃないけど、食べる時は食べたよ」
「へぇ。そうか」
 三上は不思議そうな顔をして煙草に火をつけた。
 多分、三上の中では、綾の味の濃い手料理の前で戸惑っていた頃のイメージが強いのだろう。
 朝食を食べ終わったあと、二人で昨夜歩いた川沿いの遊歩道を散歩した。
 今日も日差しが強くて、遊歩道には木々の間から溢れた光がゆらゆらと、まるで屋外プールの水面のように揺れていた。前を行く三上の背中を追って歩く。
「綺麗な川ね」
「だろ」
「三上さん、今日仕事は?」
「休んだよ」
 そう言って煙草に火をつける。
「良かったの?」
「まぁ、良かないけど。いいよ、別に」
「どっちよ」
「どっちだよな」
 三上は笑った。
「何の仕事してるの?」
「営業職」
 絵里は驚いた。
「昔から?」
「いや、去年かな。俺、仕事はけっこう転々としてる」
「そっか」
 それで絵里は、前にもらった綾からの手紙に出てきた営業職の彼は、やはり三上のことではなかったんだな、と思った。
「意外と楽しいぞ」
「え?」
「いや、営業職」
「あ、そうなの」
「うん。割と自由も効くし」
「そうなんだ」
「お前もあんな店辞めてなんか違うことしてみろよ。はっきり言って似合ってないぞ」
 嫌味っぽく三上が言う。
 それで絵里は何だか赤くなってしまって、
「うるさいなぁ」
 と怒ってみるも、三上は小さく笑うだけで、気にした様子もなかった。
「無理してることくらい自分でも分かってるよ」
 三上は石の上を踏んで川を反対側へ渡っていく。足元は旅館の室内用のスリッパなのに軽やかだった。絵里も恐る恐るそれに続く。
「無理してることくらい自分でも分かってるよ」
 無視をされたので絵里はもう一度言ってみる。
「何?」
「お店のこと」
「あぁ」
 三上が先に反対側に着く、振り返ってまだ川の真ん中過ぎにいる絵里に手を差し出す。絵里がその手に捕まると、ぐっと反対側に引っ張られた。
 三上は道の先を指差す。方向的には今歩いてきた方向で、これは多分、折り返すぞ、という意味だろう。
 蝉時雨。
「辞めちまえよ」
 しばらく歩いていると三上は、独り言のように言った。
「辞めちまいますか」
「二十二だろ?」
「そう」
「生まれ変わるには良い年齢だ」
「ここが私の最先端だよ」
「先が見えないから進もうと思う」
「あぁ」
 絵里は少し考えて、
「思い返せばそうだったかもしれない」


 部屋に戻ると三上はビールを飲み、テレビをつけて横になった。入念にチャンネルを選んでいたわりには五分くらいするともう眠っていた。
 絵里は鞄から旅館に来る途中に車で読んだ綾からの手紙をもう一度読んだ。
 やっぱり勢いが凄くて、読み終えると笑えてきた。
 それで少し考えたあと、絵里はフロントに電話をかける。
「あの、便箋はありますか?」
「ございますよ。すぐにお持ちします」
 女将はそれから本当にすぐに便箋を部屋に持ってきてくれた。
 絵里は礼を言ってそれを受け取る。
 三上は相変わらず眠ったままだった。大きな身体なのに寝息は小さく、静かだった。
 絵里はクーラーの温度を少し上げて、お茶を淹れて飲んだ。正午の少し前。空腹感はない。
 リモコンでそっとテレビを消す。


綾への手紙

 手紙を書くなんて本当に久しぶりで、いつぶりだろう。多分、小学生以来じゃないかな。年賀状か何かだと思うけど。
 そして綾に手紙を書くのはこれが初めて。それは間違いないよ。まぁ、ちゃんと届くかは分からないけどね。書いてる今現在も、これを綾にわたす手段をまだ思いついてないんだから。
 でもいいよね。届かなくたって手紙は手紙なんだからさ。

 まず、とりあえずいつも手紙をありがとう。
 不思議よね、綾の手紙って。
 いつもほったらかしのくせにたまに口うるさい、綾そのものみたいよ。
 だから綾が家を出てからもう三年半くらい経つけど、そこまでの時間は感じていないわ。噛み砕いて言うと、そこまで寂しくはないの。

 綾の手紙もそうだけど、最近いろいろあって(いろいろっていうのは良くないことだと、多分分かるとは思うけど)人生観、というのかな、そういうものについて、真面目に考えたの。
 自分で使っておいてアレだけど、真面目っていうのは決して良い言葉じゃないよね。真面目なんだけどねって、なんかけっきょくそれって否定的じゃない?
 でもまぁ、ちょっと真面目に考えました。
 それで最初に思ったのが、葬儀場。
 って、いきなりそんなこと言われても分からないか。
 近所でさ、ずっと放置されてたコンビニ跡地、あるじゃない?
 あそこ、最近、やっと買い手が見つかったみたいなんだけど、どうもあの場所に葬儀場を建てるつもりみたいなのよ。
 まぁ、私は別に葬儀場でもなんでもいいんだけどね、もっと近くに住んでる人達は葬儀場建設断固反対! なんて旗をばんばん立てて反対してるのよ。買い手や市と、けっこう揉めてるみたいでね。
 で、私、それ見て悪いんだけど、なんだか不思議だなぁ、って思ってしまったの。だって葬儀場建設に反対するっていうことはさ、心のどっかで霊とか、そういう類のものを信じてるってことじゃない?
 亡くなった人の魂が、霊的な存在になって葬儀場を抜け出して近隣をうろつく。ドアベルを鳴らす。飼い犬を虐める。網戸の向こうから手を振ってる。極端に言うと、そういうことが嫌で、気味が悪いから反対するんじゃないかなぁと思うのよね。
 それが凄く不思議なの。
 私よりずっと頭の良い、良識のある大人達がそんなことを信じてるだなんて。
 だからね、今まであまり信じてなかったけど、これはもしかして、霊的な存在というものは確かにあるんじゃないかな、と思ったのよ。
 それで霊的な存在を認めるということはつまり、死んだその先も人生が続く、という理論にも繋がると思うの。そう考えるとある種の寂しさは少なくなるのだろうけど、裏を返せばそれはつまり逃げ場がないということにもなる。
 ずっと先まで道は続いてる。
 そういう理論も確かに分かる気がする。

 十四の夏は心地よくて、それはまるで水槽の中に座って時間を忘れて外界を見つめているようで、すべての色がなんだか淡く浮き上がっていた。夏の、スイートスポットのような、そんな瞬間。
 私はそんな中、中学の食堂横の階段に腰掛けて、蝉の鳴く声を聞いていたの。あれは夏休みだった。
 あの時、私はなぜか、幼いながらも今自分が自分自身の最先端にいることを実感していて、柄にもなく過去を俯瞰してみたりしていたけど、今となるとそれはすごくちっぽけで。
 でも、それは今も同じ。何も変わらない。二十二歳の私は、二十二歳の私で、それ以上でもそれ以下でもないのよね。
 それくらい、ずっと先まで道は続いてる。
 仕事を辞めても、恋を辞めても、私は終わらない。だから、無下にはできないよね。
 なんだかそんなことを考えてる。
 その道の途中で、綾にもまた会えればと思うよ。私はそう思ってる。それを楽しみにしてる。


 書き終わって読み返すと、自分の文章は綾の文章とそっくりで、絵里は笑ってしまった。
 それで綾と同じように便箋に「絵里」と名前だけ書いた。書き終えた手紙は鞄にしまった。
 まだ眠る三上を跨ぎ、絵里はリクライニングチェアーに座って静かに目を閉じる。


 そんなふうにしてその日はずっとうつらうつらしていた。
 三上も絵里も寝たり起きたりお風呂に入ったりと自由にした。夕方、もう一度散歩に出て、その足でチェックアウトをする。
 車に乗り込んだ時にはもう、遠く、西の空が暮れかけていた。
 落日。
 帰り道、国道沿いのラーメン屋に寄った。
 三上の注文したセットの炒飯は色濃く、茶色で、
「昔、綾がこんな色の炒飯を作ってたの覚えてる?」
 と、絵里が聞いてみるも三上は、
「いや、覚えてない」
 なんて無愛想だった。
 絵里はラーメンを半分しか食べられなかった。
 すっかり暗くなった頃、見慣れた街まで戻ってきた。この前、寄り道をして高速道路を見下ろした橋を通り抜け、三上は前と同じ場所で絵里を降ろした。
 運転が長かったからか、三上は少し疲れているようだった。
「気分転換になった?」
 三上は車のウインドウを開け、側に立つ絵里に言う。エンジンはかけたままだった。
「うん」
「良かった」
「三上さん。ありがとう」
 絵里がそう言うと三上は少し笑ってギアをドライブに変えた。
「これ」
 絵里は鞄から昼間に書いた手紙を取り出して三上に渡した。
「何これ?」
「綾への手紙なの。住所が分からないから送れなくて」
「手紙」
「そう。三上さん、どこかで綾に会ったらわたしといてよ」
「俺が? 綾に?」
「うん。どこかで会うかもしれないでしょ」
「そりゃ、可能性はゼロじゃないけど」
 三上は少し困ったような顔をする。
「お願い」
「分かったよ」
 投函。
 三上はボンネットに手紙を置き、軽く手を挙げて車を出した。絵里は三上の車が角を曲がるまでずっと手を振り続けた。何となくだが、もう二度と三上に会うことは無いような気がした。
 三上が去った後、夜の街は静かだった。
 家まではもう少し、あと二つ角を曲がるだけ。
 今夜は涼しい。
 それは、昨夜の山の夜が身体に染み込んでいるからだろうか。
 見渡すと街灯の灯りも、交通標識も、色が浮いていた。絵里は水槽の中からそれを見つめて、二十分程度ぶらぶらと歩いてから家に帰った。
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