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第四章 旅路の始まり
東の噂
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クロッキアさんが王貨を見せた以降、シャティーさんを含め、色々な人達の態度が一気に軟化した。
主に宿屋内にいた人達限定だけれども、最初のような不遜な言動がまるで嘘のように感じるほどだ。
とはいえ、クロッキアさんの態度は一貫して冷静だった。
主にシャティーさんがお湯を持ってきたり、軽食を用意してくれたりするのだけど、更にはいきなりの「馬車か牛車を一台都合して欲しい」という要望にさえ頷いてくれた。
ここまでされると、僕なんかは感謝の気持ちも相俟って気を許してしまう。悪い人ではないのかな、とか。
「二人とも、一度下の酒場までついて来てくれないか。主人から、少し東側の情報を聞き入れておきたい」
という風に。
決して、自分の目から僕らが離れないように振る舞っていた。
シャティーさんが部屋に入ってくる時も絶対に視線を外さないし、何よりもその腰元には剣が提げられたままなのだ。
けど、これはきっと、僕が旅慣れていない証拠なのだと思う。
自分の身は自分で守る。
誰に言われるまでもなく、これが世間の鉄則なのだと改めて感じる瞬間だった。
そういうわけで、細々としたことを済ませた僕らは一旦部屋を後にし、一階の酒場で昼食をご馳走になっている。
野菜スープと香辛料で味付けされた肉をパンで挟んだものだけど、これだけで笑顔がこぼれるくらい美味しい。
「東の噂ねぇ。確かに、数日前だったか・・・・・・一人の商人が、ここで獣憑きの噂を口にしてたっけなぁ」
「できれば、詳しく聞きたい」
クロッキアさんの視線は、カウンター越しの主人に向けられている。
厄介事をひどく嫌いそうな顔つきのその人は、ため息交じりに話し始めた。
「大したことは知らない。ただ獣憑きっていやぁ、ここらじゃ一番耳触りの悪い名前だからな、記憶にはあるさ。なんでも、ヒノボリの領土を荒らし回ってる獣憑きがいるらしく、討伐に手を焼いているんだとか」
「あのヒノボリが? 東境の国々を代表する大国のはずだが」
「あぁ、同感だよ。別の噂だが、ヒノボリは異人も多く受け入れているらしい。それが本当なら、戦力だって十分だろう」
「だが、討伐に手を焼いている?」
「それを確かめるには、おたくがヒノボリに行くしかないさ。腐った狩人が与り知るところじゃあない。まぁ、ただ・・・・・・そうだ、えらく恐ろしい噂だって震えていたなぁ、あの商人」
思い出しながら喋っているのか、主人は天を仰ぎながら考えをまとめるように腕組みをする。
「・・・・・・そう、蜘蛛だ。なんでも、人を食う蜘蛛の獣憑きなんだとかで、ヒノボリの民は夜も眠れない日々を送っているとか・・・・・・はっ、随分と大仰な話だ」
自分でも馬鹿馬鹿しいと思ったのだろう。
主人は頭を振りながら、乾いた嗤いで己を否定する。
しかし、クロッキアさんの表情は僅かばかり、険しさを増しているような気がした。
「不吉な話だ。獣憑きは東を発祥とする、一種の呪いと聞く。ヒノボリは、古くからその怪異と戦ってきた。そのおかげで、世界のほとんどの人々は獣憑きと関わることなく、生きている。私や貴方も含めてな」
「まぁ、そうかもな。ただ、獣憑きのおとぎ話は知ってるぜ。もしその通りなら、あんな化け物・・・・・・狩人の手には負えないだろう。それこそ、軍隊か異人でも呼んでこなきゃ話にもならない」
「だからこその不吉だ。・・・・・・ヒノボリは国際上、あのセントメアと対立関係にある。列強勢と対等に渡り合える戦力を持ちながら、事態の収拾がつかないとなれば、余程の獣憑きということだ」
「本当に蜘蛛の獣憑きが夜な夜な人を食うってんなら、そりゃあ震え上がりもするわなぁ。俺には、ただの眉唾にしか聞こえないが、おたくは信じているんだな」
「あぁ・・・・・・眉唾であることを、心の底から願うばかりだがな」
噂が噂でしかないならば、それ以上のことはない。
けれど、クロッキアさんとしてはただの噂ではない、と考えているのだろう。
「クロッキアさんは、その獣憑き?――を、知っているんですか?」
口の中のものを胃へ送り出した後、僕はそんな質問を投げかけた。
「あぁ、知識としては、だが。実物を見たことは一度もない」
それに続くようにして、主人もまた、頷く。
「ほとんどの人間がそうだよ、坊主。むしろ、中央より西側じゃあ獣憑きなんて言葉自体、伝わってるのかどうかさえ怪しい」
「そ、そんなに?」
「おう。そもそもなぁ、獣憑きってのは極東方面で伝わる土着信仰を母体とした、伝承の類いだったんだ。それがいつしか、本物の化け物が現れた、なんて騒ぎになった。詳しい歴史は知らないが、ここは東から来る商人や旅人の中継地点だ。歓迎された試しはないが、今みたいな噂話ならそれなりの品揃えさ」
だからこそ、「どうせ魔獣か何かを勘違いしてるんだろうよ」と主人は呆れた風に言った。
僕が、魔獣?――と首を傾げていると、クロッキアさんが顔に浮かんだ疑問に答え始める。
「知性や理性を持たない魔族を、魔獣と呼んでいるんだ。魔族は、人間と比べて個体差が激しい。文明を築くような者達もいれば、同族さえ平気で襲う者達もいる。こうなると、獰猛な野生動物と同列だな」
「おいおい、動物と魔獣なんて怪物を一緒くたにしないでくれ。狩人は熊だって仕留めるが、目玉が人一人分くらいあるような相手は喉元にナイフを突き立てられたってごめんだぜ」
それを聞き、僕の頭の中にあった魔獣のイメージが徐々に凝り固まっていく。
目が人一人分って、どれだけの巨体だろう。
もはや、生物としての規模が違いすぎて気が遠くなる。
「で、でも、その魔獣と獣憑きって違うんですよね?」
「ああ、別物だ。獣憑きは、人間を素体とする魔人の一種だからな。生まれついての怪物ではない」
「え、魔人ってことは――」
開きかけた口を閉じる。
危なかった。思わず、クロッキアさんの名前が飛び出そうになった。
ごほん、とクロッキアさんは咳払いを一つすると、獣憑きの説明を再開する。
「諸説あるが、獣憑きは魂に魔を宿すとされる魔人だ。人狼や吸血鬼がその血脈に魔を宿すように、獣憑きは魂を媒体とする。その影響は外部ではなく内部に強い変化もたらし、やがては人でない存在になってしまう。人を忘れた魂はその器を否定し、人体もまた人ならぬ異形へと変貌する。過去、ヒノボリの国で聞いたことがある話では、獣憑きとは文字通り、獣の魂が人の魂に憑依することで生まれると言っていた。死後、生命の循環から外れた動物の魂が、新たな肉体を求めて彷徨うことがあるらしい」
「よく出来た冗談だ。そんなことが理由なら、狩人はとっくの昔に廃業さ。一体、俺達が生涯でどれくらい野性に生きる命を摘み取るか知っているか?」
「一理あるな。狩り自体、世界中で行われていることだ。おそらくは、古い土着信仰が一因となっているのではと考えられているが、事の解明には至っていない。信仰とは確固たるものだが、同時に驚くほどその輪郭はぼやけている。人々の意志や価値観によって肯定されるものである以上、手にとって中身を開いてみることは難しい」
「結局、よく分からない呪いってことさ、坊主。人が怪物になっちまうのが獣憑きってやつだ」
それで十分だろう、と宿屋の主人は奥に引っ込んでいく。
まぁ、魔人の一種なんだ・・・・・・とは思ったけど、僕にとってはそれで十分かもしれない。
クロッキアさんでさえ、自分の知識には裏付けがない、とつけ加えてくるくらいだ。
ただそれでも。
「獣憑きは実在する。血脈に魔が宿るならば、魂も例外ではない」
そう、クロッキアさんは結論づけた。
おそらく、人狼という魔人であるからこその感覚なのだと思う。
正直、魂に魔が宿る、と言われても僕には相当の想像力が求められる内容だ。
しかし同時に、僕は人狼を目にしている。
やはり僕も、着地点としてはクロッキアさんに同意していた。
「クロッキアさん」
「ん、おかわりか?」
「あ、いえ・・・・・・そうではなくて。その、東に向かって危なくないでしょうか?」
「あぁ、今の話を聞けばそう思うだろうな。だが、ヒノボリの国にはどうしても立ち寄らねばならない」
「え、どうして・・・・・・」
「君に世界を見て欲しいからだ」
水の入ったグラスを置くと、クロッキアさんは僕を真っ直ぐ見つめる。
青いその瞳は、強い意志で僕を捉えていた。
「ユウスケ、今の君には難しいかもしれないが、世界は続いている。こうしている今も、命が生まれ、命が消えている。魔族という不変の敵がいるにしても、それだけでは戦い抜けない。私が誓いを立てたように、過酷に立ち向かうには支えが必要だ」
「・・・・・・支え?」
「そうだ。ただ魔族と戦うという漠然とした覚悟では、いずれ限界がくる。ユウスケ、君は『未来』などという抽象的なものの為に、どこまで命を懸けられる?」
その質問は、ある意味で究極的だった。
異人である僕には、魔族と戦い、この世界を救うという使命がある。
人類の未来を背負い、戦場に立たなければならないんだ。
けど・・・・・・世界って、なんだろう?
人類の未来って、誰の将来を言っているんだろう?
つまりは、そういうことだった。
「私は君とターナを守るためならば、修羅になる覚悟さえある。例え、それが過去の私を否定するものであったとしてもだ。支え、とはそういうことだ、ユウスケ。世界を救うならば、世界を知らなければならない。未来を切り拓くならば、未来を捉えなければならない。君の中で、君が目指す場所、成し遂げるべき目標が鮮明でなければ、あっという間に道を違えてしまうだろう」
クロッキアさんの言葉は、どうしてか胸を打つような響きを持っていた。
それは、戦場に立つ戦士として熟練しているからなのか。
それとも、既に一度、自らの手で理想を殺めたからなのか。
「君には、あの方と同じようにはなってほしくない。描いた夢の末が、あのような無残であってほしくはないのだ」
言葉を聞き、脳裏に白色の滅びが蘇る。
・・・・・・そうか。コーネリア姫は、愛する人を失った。
最愛のその人こそ、彼女の「支え」だったんだ。
それを失い、その心は大きく傾いたに違いない。
それでも精一杯抗ったのかもしれないけど、最後は崩れていくしかできなかった。
「はい。・・・・・・確かに、僕はまだ世界のこと、全然知りません。クロッキアさんの言葉を聞いて、改めて実感しました。ただ強くなればいいってわけじゃないんですね」
「強くはあるべきだ。だが、武術の腕を磨くだけが強さではない。我々は元来、複雑な生き物だ。強さも弱さも、千差万別。同じ生き方をしたからと、同じ生き様を辿れるわけではない。同じ道を歩くことはできても、遺された足跡まで狂いなく同じにすることはできないように」
「・・・・・・・・・・・・」
自らの手を離れた夢を見るように、クロッキアさんは虚空に視線を泳がせる。
「私も、同じにはなれなかった。どこまでも同志達と往く。そう、思っていた」
けど、現実は違う。
クロッキアさんは誓いこそ果たしたけど、騎士を捨ててしまった。
「後悔、してますか?」
不躾な質問だったかもしれない。
ネグロフを離れたとはいえ、まだあの記憶は色褪せないほどに新しい。
けれど、クロッキアさんは喉を鳴らして水を飲むと、小さく笑った。
「どうだろうな。まだ、その答えは出ていない。だがユウスケ、私に迷いはない」
振り返る勇気はない。
だが、前を向く覚悟はある。
――迷いはない。そう言い切った彼の口調は、確かに力強かった。
「・・・・・・僕も、そう言えるよう頑張ります。今はまだ半人前にも届いていないけど・・・・・・いつか、必ず」
「よし、ならまずは一にも二にも食事だ。腹が減っては生きるにも困難だからな」
「はいっ」
食べるのも修行だ。
今の僕には、全部が大切な経験になる。
残り半分ほどのパンを、がつがつと胃袋に詰めていく。
「ふふ、ユウスケ様、あまり急いで食べますと喉に詰らせますよ」
「だいひょーふっ!」
リスみたいに頬を膨らませる僕を見て、ターナが新しい水をそっと用意してくれた。
まだ、僕が目指す先は霞みがかっていてよく見えない。
それは当然で。この僕が召喚された異世界のこと、そこに生きる人々のこと、そして直面している絶望の大きさも、何一つ知らない赤子同然だからだ。
ぼんやりと強くなりたい、異人として戦う使命がある、と考えていた稚拙なものが、少しだけその輪郭を浮かび上がらせたような気がした。
主に宿屋内にいた人達限定だけれども、最初のような不遜な言動がまるで嘘のように感じるほどだ。
とはいえ、クロッキアさんの態度は一貫して冷静だった。
主にシャティーさんがお湯を持ってきたり、軽食を用意してくれたりするのだけど、更にはいきなりの「馬車か牛車を一台都合して欲しい」という要望にさえ頷いてくれた。
ここまでされると、僕なんかは感謝の気持ちも相俟って気を許してしまう。悪い人ではないのかな、とか。
「二人とも、一度下の酒場までついて来てくれないか。主人から、少し東側の情報を聞き入れておきたい」
という風に。
決して、自分の目から僕らが離れないように振る舞っていた。
シャティーさんが部屋に入ってくる時も絶対に視線を外さないし、何よりもその腰元には剣が提げられたままなのだ。
けど、これはきっと、僕が旅慣れていない証拠なのだと思う。
自分の身は自分で守る。
誰に言われるまでもなく、これが世間の鉄則なのだと改めて感じる瞬間だった。
そういうわけで、細々としたことを済ませた僕らは一旦部屋を後にし、一階の酒場で昼食をご馳走になっている。
野菜スープと香辛料で味付けされた肉をパンで挟んだものだけど、これだけで笑顔がこぼれるくらい美味しい。
「東の噂ねぇ。確かに、数日前だったか・・・・・・一人の商人が、ここで獣憑きの噂を口にしてたっけなぁ」
「できれば、詳しく聞きたい」
クロッキアさんの視線は、カウンター越しの主人に向けられている。
厄介事をひどく嫌いそうな顔つきのその人は、ため息交じりに話し始めた。
「大したことは知らない。ただ獣憑きっていやぁ、ここらじゃ一番耳触りの悪い名前だからな、記憶にはあるさ。なんでも、ヒノボリの領土を荒らし回ってる獣憑きがいるらしく、討伐に手を焼いているんだとか」
「あのヒノボリが? 東境の国々を代表する大国のはずだが」
「あぁ、同感だよ。別の噂だが、ヒノボリは異人も多く受け入れているらしい。それが本当なら、戦力だって十分だろう」
「だが、討伐に手を焼いている?」
「それを確かめるには、おたくがヒノボリに行くしかないさ。腐った狩人が与り知るところじゃあない。まぁ、ただ・・・・・・そうだ、えらく恐ろしい噂だって震えていたなぁ、あの商人」
思い出しながら喋っているのか、主人は天を仰ぎながら考えをまとめるように腕組みをする。
「・・・・・・そう、蜘蛛だ。なんでも、人を食う蜘蛛の獣憑きなんだとかで、ヒノボリの民は夜も眠れない日々を送っているとか・・・・・・はっ、随分と大仰な話だ」
自分でも馬鹿馬鹿しいと思ったのだろう。
主人は頭を振りながら、乾いた嗤いで己を否定する。
しかし、クロッキアさんの表情は僅かばかり、険しさを増しているような気がした。
「不吉な話だ。獣憑きは東を発祥とする、一種の呪いと聞く。ヒノボリは、古くからその怪異と戦ってきた。そのおかげで、世界のほとんどの人々は獣憑きと関わることなく、生きている。私や貴方も含めてな」
「まぁ、そうかもな。ただ、獣憑きのおとぎ話は知ってるぜ。もしその通りなら、あんな化け物・・・・・・狩人の手には負えないだろう。それこそ、軍隊か異人でも呼んでこなきゃ話にもならない」
「だからこその不吉だ。・・・・・・ヒノボリは国際上、あのセントメアと対立関係にある。列強勢と対等に渡り合える戦力を持ちながら、事態の収拾がつかないとなれば、余程の獣憑きということだ」
「本当に蜘蛛の獣憑きが夜な夜な人を食うってんなら、そりゃあ震え上がりもするわなぁ。俺には、ただの眉唾にしか聞こえないが、おたくは信じているんだな」
「あぁ・・・・・・眉唾であることを、心の底から願うばかりだがな」
噂が噂でしかないならば、それ以上のことはない。
けれど、クロッキアさんとしてはただの噂ではない、と考えているのだろう。
「クロッキアさんは、その獣憑き?――を、知っているんですか?」
口の中のものを胃へ送り出した後、僕はそんな質問を投げかけた。
「あぁ、知識としては、だが。実物を見たことは一度もない」
それに続くようにして、主人もまた、頷く。
「ほとんどの人間がそうだよ、坊主。むしろ、中央より西側じゃあ獣憑きなんて言葉自体、伝わってるのかどうかさえ怪しい」
「そ、そんなに?」
「おう。そもそもなぁ、獣憑きってのは極東方面で伝わる土着信仰を母体とした、伝承の類いだったんだ。それがいつしか、本物の化け物が現れた、なんて騒ぎになった。詳しい歴史は知らないが、ここは東から来る商人や旅人の中継地点だ。歓迎された試しはないが、今みたいな噂話ならそれなりの品揃えさ」
だからこそ、「どうせ魔獣か何かを勘違いしてるんだろうよ」と主人は呆れた風に言った。
僕が、魔獣?――と首を傾げていると、クロッキアさんが顔に浮かんだ疑問に答え始める。
「知性や理性を持たない魔族を、魔獣と呼んでいるんだ。魔族は、人間と比べて個体差が激しい。文明を築くような者達もいれば、同族さえ平気で襲う者達もいる。こうなると、獰猛な野生動物と同列だな」
「おいおい、動物と魔獣なんて怪物を一緒くたにしないでくれ。狩人は熊だって仕留めるが、目玉が人一人分くらいあるような相手は喉元にナイフを突き立てられたってごめんだぜ」
それを聞き、僕の頭の中にあった魔獣のイメージが徐々に凝り固まっていく。
目が人一人分って、どれだけの巨体だろう。
もはや、生物としての規模が違いすぎて気が遠くなる。
「で、でも、その魔獣と獣憑きって違うんですよね?」
「ああ、別物だ。獣憑きは、人間を素体とする魔人の一種だからな。生まれついての怪物ではない」
「え、魔人ってことは――」
開きかけた口を閉じる。
危なかった。思わず、クロッキアさんの名前が飛び出そうになった。
ごほん、とクロッキアさんは咳払いを一つすると、獣憑きの説明を再開する。
「諸説あるが、獣憑きは魂に魔を宿すとされる魔人だ。人狼や吸血鬼がその血脈に魔を宿すように、獣憑きは魂を媒体とする。その影響は外部ではなく内部に強い変化もたらし、やがては人でない存在になってしまう。人を忘れた魂はその器を否定し、人体もまた人ならぬ異形へと変貌する。過去、ヒノボリの国で聞いたことがある話では、獣憑きとは文字通り、獣の魂が人の魂に憑依することで生まれると言っていた。死後、生命の循環から外れた動物の魂が、新たな肉体を求めて彷徨うことがあるらしい」
「よく出来た冗談だ。そんなことが理由なら、狩人はとっくの昔に廃業さ。一体、俺達が生涯でどれくらい野性に生きる命を摘み取るか知っているか?」
「一理あるな。狩り自体、世界中で行われていることだ。おそらくは、古い土着信仰が一因となっているのではと考えられているが、事の解明には至っていない。信仰とは確固たるものだが、同時に驚くほどその輪郭はぼやけている。人々の意志や価値観によって肯定されるものである以上、手にとって中身を開いてみることは難しい」
「結局、よく分からない呪いってことさ、坊主。人が怪物になっちまうのが獣憑きってやつだ」
それで十分だろう、と宿屋の主人は奥に引っ込んでいく。
まぁ、魔人の一種なんだ・・・・・・とは思ったけど、僕にとってはそれで十分かもしれない。
クロッキアさんでさえ、自分の知識には裏付けがない、とつけ加えてくるくらいだ。
ただそれでも。
「獣憑きは実在する。血脈に魔が宿るならば、魂も例外ではない」
そう、クロッキアさんは結論づけた。
おそらく、人狼という魔人であるからこその感覚なのだと思う。
正直、魂に魔が宿る、と言われても僕には相当の想像力が求められる内容だ。
しかし同時に、僕は人狼を目にしている。
やはり僕も、着地点としてはクロッキアさんに同意していた。
「クロッキアさん」
「ん、おかわりか?」
「あ、いえ・・・・・・そうではなくて。その、東に向かって危なくないでしょうか?」
「あぁ、今の話を聞けばそう思うだろうな。だが、ヒノボリの国にはどうしても立ち寄らねばならない」
「え、どうして・・・・・・」
「君に世界を見て欲しいからだ」
水の入ったグラスを置くと、クロッキアさんは僕を真っ直ぐ見つめる。
青いその瞳は、強い意志で僕を捉えていた。
「ユウスケ、今の君には難しいかもしれないが、世界は続いている。こうしている今も、命が生まれ、命が消えている。魔族という不変の敵がいるにしても、それだけでは戦い抜けない。私が誓いを立てたように、過酷に立ち向かうには支えが必要だ」
「・・・・・・支え?」
「そうだ。ただ魔族と戦うという漠然とした覚悟では、いずれ限界がくる。ユウスケ、君は『未来』などという抽象的なものの為に、どこまで命を懸けられる?」
その質問は、ある意味で究極的だった。
異人である僕には、魔族と戦い、この世界を救うという使命がある。
人類の未来を背負い、戦場に立たなければならないんだ。
けど・・・・・・世界って、なんだろう?
人類の未来って、誰の将来を言っているんだろう?
つまりは、そういうことだった。
「私は君とターナを守るためならば、修羅になる覚悟さえある。例え、それが過去の私を否定するものであったとしてもだ。支え、とはそういうことだ、ユウスケ。世界を救うならば、世界を知らなければならない。未来を切り拓くならば、未来を捉えなければならない。君の中で、君が目指す場所、成し遂げるべき目標が鮮明でなければ、あっという間に道を違えてしまうだろう」
クロッキアさんの言葉は、どうしてか胸を打つような響きを持っていた。
それは、戦場に立つ戦士として熟練しているからなのか。
それとも、既に一度、自らの手で理想を殺めたからなのか。
「君には、あの方と同じようにはなってほしくない。描いた夢の末が、あのような無残であってほしくはないのだ」
言葉を聞き、脳裏に白色の滅びが蘇る。
・・・・・・そうか。コーネリア姫は、愛する人を失った。
最愛のその人こそ、彼女の「支え」だったんだ。
それを失い、その心は大きく傾いたに違いない。
それでも精一杯抗ったのかもしれないけど、最後は崩れていくしかできなかった。
「はい。・・・・・・確かに、僕はまだ世界のこと、全然知りません。クロッキアさんの言葉を聞いて、改めて実感しました。ただ強くなればいいってわけじゃないんですね」
「強くはあるべきだ。だが、武術の腕を磨くだけが強さではない。我々は元来、複雑な生き物だ。強さも弱さも、千差万別。同じ生き方をしたからと、同じ生き様を辿れるわけではない。同じ道を歩くことはできても、遺された足跡まで狂いなく同じにすることはできないように」
「・・・・・・・・・・・・」
自らの手を離れた夢を見るように、クロッキアさんは虚空に視線を泳がせる。
「私も、同じにはなれなかった。どこまでも同志達と往く。そう、思っていた」
けど、現実は違う。
クロッキアさんは誓いこそ果たしたけど、騎士を捨ててしまった。
「後悔、してますか?」
不躾な質問だったかもしれない。
ネグロフを離れたとはいえ、まだあの記憶は色褪せないほどに新しい。
けれど、クロッキアさんは喉を鳴らして水を飲むと、小さく笑った。
「どうだろうな。まだ、その答えは出ていない。だがユウスケ、私に迷いはない」
振り返る勇気はない。
だが、前を向く覚悟はある。
――迷いはない。そう言い切った彼の口調は、確かに力強かった。
「・・・・・・僕も、そう言えるよう頑張ります。今はまだ半人前にも届いていないけど・・・・・・いつか、必ず」
「よし、ならまずは一にも二にも食事だ。腹が減っては生きるにも困難だからな」
「はいっ」
食べるのも修行だ。
今の僕には、全部が大切な経験になる。
残り半分ほどのパンを、がつがつと胃袋に詰めていく。
「ふふ、ユウスケ様、あまり急いで食べますと喉に詰らせますよ」
「だいひょーふっ!」
リスみたいに頬を膨らませる僕を見て、ターナが新しい水をそっと用意してくれた。
まだ、僕が目指す先は霞みがかっていてよく見えない。
それは当然で。この僕が召喚された異世界のこと、そこに生きる人々のこと、そして直面している絶望の大きさも、何一つ知らない赤子同然だからだ。
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タイトル: 『45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる』
著者: よっしぃ
イラスト: 市丸きすけ 先生
出版社: アルファポリス
ご購入はこちらから:
Amazon: https://www.amazon.co.jp/dp/4434364235/
楽天ブックス: https://books.rakuten.co.jp/rb/18361791/
【作者より、感謝を込めて】
この日を迎えられたのは、長年にわたり、Webで私の拙い物語を応援し続けてくださった、読者の皆様のおかげです。
そして、この物語を見つけ出し、最高の形で世に送り出してくださる、担当編集者様、イラストレーターの市丸きすけ先生、全ての関係者の皆様に、心からの感謝を。
本当に、ありがとうございます。
【これまでの主な実績】
アルファポリス ファンタジー部門 1位獲得
小説家になろう 異世界転移/転移ジャンル(日間) 5位獲得
アルファポリス 第16回ファンタジー小説大賞 奨励賞受賞
第6回カクヨムWeb小説コンテスト 中間選考通過
復活の大カクヨムチャレンジカップ 9位入賞
ファミ通文庫大賞 一次選考通過
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