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Chapter Five
しおりを挟むいまだに騒がしい一階をあとにしたローナンとネルは、手を繋ぎながら廊下へ、そして二階に昇る階段へと進んだ。
もうすぐ階段が来ると分かって、ネルの身体が緊張に固くなった。盲目のネルにとって、段差はいつも恐怖の対象でしかない。たとえ誰かが付いていてくれたとしても、目の見える付き添い人にはこの不安が分からないことが多かった。
しかし、
「大丈夫だよ、ネル。固くならないで」
ローナンはネルに顔を近づけると、そっとささやいた。「僕は決して手を離したりしない。階段に着いたら、きちんと教えてあげる」
同時に、繋がれていた手がぎゅっと力強さを増して、ネルの気持ちは高ぶった。
もしかしたらこのひとは、他人の心が読めるのではないかしら?
ネルは小さくうなづき、大人しくローナンの誘導に身を任せることにした。
どうしてだろう、ローナンには、こうやってまたたく間に人を懐柔してしまう才能があるらしかった。そういえば人だけでなく、気難しそうな雌ヤギまで虜にしていた。
実際、ネルがジョージ以外の人間にここまで頼りきりになるのは本当に久しぶりのことだった。
「あと二歩で上りの階段が来るよ」
と、ローナンは指摘した。ありがたいことだった。
「昔はむき出しの石段だったんだけどね、義姉が妊娠したときに兄がカーペットを敷くことにしたんだ。大事な妻が滑って転んだりしないように。だから上りやすいと思うよ、ほら」
ネルの足が階段に触れた。
確かに、滑り止めのカ—ペットの感触がある。それも、なかなかの高級品なのではないだろうかと思える厚さだった。ざっくりとしていて、確かにこれなら足を滑らすことはないだろう。仮に滑ったとしても、これほど厚いカーペットの上ならかすり傷一つ負えそうになかった。
「十六段ある。一緒に数えながら上ろう」
二人はまるで数字を覚え始めたばかりの子供のように、一段一段声を出して数えながら二階まで上った。
ローナンの言うとおりちょうど十六で階段は終わった。
ローナンのような男性に手を引かれ、まるで騎士にかしずかれる姫のように大切にされるのは、身体の芯が蕩けてしまいそうなほどの至福の体験だった。
もちろん、目が見えていた頃のネルは、それなりに男性に好意を寄せられていたし、舞踏会で洗練されたリードを受けることもあった。
でも、ローナンの優しさは、そのどれとも違う。
エチケット本に書いてあるうわべだけの行為ではない……。もっと、心の底から湧いてくるような、自然な思いやりを感じる優しさだった。しかも、ローナンはそれを相手に悟らせないようにするのが上手かった。
まるで彼自身が、ネルを構うのを楽しんでいるような。
まるで、ネルのために階段の数を数えるのが、彼の大きな喜びであるかのように、ローナンは振る舞った。
大抵の男性は、盲目のネルを助けることに戸惑いを見せ、たとえ正義感から親切にしてくれても、ひどく義務的な態度ばかりをするものだった。
それがローナンときたら……まるで、ネルに絨毯の色を教え、廊下の幅を説明するのが紳士の心ゆかし楽しみであるかのように、明るく声を弾ませている。
そんな彼の親切に溺れるのは簡単だった。
繋がれた手から伝わる体温を感じながら、このまま夢の中にいられたらと、ネルは思わずにはいられなかった。
(だめよ)
ローナンが、ジョージが預けられている客室について説明してくれている間、ネルはどうにかして自分を律しようと唇を噛んでいた。
それも、ギィッと扉が開く音とともに、忘れ去られたけれど。
「いってぇなぁ、お医者さんよ! もっと優しくしてくれねぇと、俺の足が折れちまう!」
ジョージの叫びが廊下にまで響いてきた。
懐かしい従者の勢いある怒声に、ネルはぱっと顔を輝かせた。ジョージは無事だったのだ、足がどうのという台詞は気になるが、元気に声を上げている。
いてててて、と毒づくジョージに、医師と思われる声が深いため息を吐きながら答えた。
「残念ですが、すでに折れているようですよ、ジョージ殿。すぐに当て木を致しますから、そう暴れないで下さい」
「なんだってぇ!? 折れ……折れてんのかぁ……!」
ジョージは今にも泣き出しそうな悲壮な声を漏らした。「参った、どうすりゃいいんだよ……。俺はネリーお嬢さんをクレイモアの屋敷まで連れてかなきゃならねぇんだ。お嬢さんはもう、他に身寄りがねぇんだよ……くそぅ」
ジョージの茶色の瞳が涙に潤んでいる姿が想像できて、ネルは思わず、自分まで泣きそうになるのを堪えなければならなかった。
役立たずなネルを、いまだに気遣ってくれる忠実な従者への感謝に。
自分はもう、ロチェスター以外に頼れる人間がいないのだということを再確認した空しさに。
無意識に、ネルは握っていたローナンの手を離そうとした。
しかし
「ネル」
と、ローナンの尖った声が聞こえた。「一緒にいよう、離れないで」
そしていっそう強く手を握られた。
ネルは弾かれたように顔を上げて、ローナンの声がする場所を探した。ローナンの唇はずいぶん、不適切ないくらい近くにあるように思える……。
ネルは動揺した。
そして続いて、ローナンの手が、ネルの手の甲をあんまり優しくさするから、
『一緒にいよう』
それがまるで、本来あるべき『一緒に部屋へ入ろう』という意味ではなくて、ロチェスターの所へなど行かずここに残ってくれという申し出なのではないかと、勘違いしてしまいたくなるほどだった。
「うっひょう! 痛ぇじゃねえか、がががが!」
勢いのいいジョージの叫びに、ネルは我に返った。貧民街育ちのこの従者は、何十年経っても昔の口調が治らない。
ネルやネルの両親はそれを一種の愛嬌として受け入れていたが、ローナンとバレット家の人々がそれにどう反応するかは分からず、ネルは少し不安になった。
盲目の娘と、貧民街上がりの従者の二人組。
普通に考えれば、あまり有り難い客ではないだろう。ジョージはすでに文句ばかり言っているし。
「ごめんなさい、ジョージは騒がしくて……」
ネルはローナンに向かって呟いた。
ローナンは優しく呟き返す。「いいんだよ、このくらい、我が家では騒がしいうちにも入らないさ」
「でも……」
その時だった。
部屋の奥、ジョージと医師のすぐ近くと思える辺りから、深く威厳のある、ゆったりとした男性の声が響いた。
「わたしがお前なら、叫ぶのは止めて酒を飲むことにするな。温めたブランデーはどうだ?」
ネルは一瞬で、これがローナンの血縁者の声であることを感じ取った。
似ている……が、似ているのは声音だけで、口調もしゃべり方も、言葉の選び方もまるで違う。
きっとノースウッド伯爵だ、ローナンの兄。
「そこにいる二人も、さっさと入ってきたらどうだ。扉が開けっ放しだと、いつまで経っても部屋が暖まらない」
それが、ネルとローナンを指しているのだと気が付いて、ネルは緊張にぴんと背筋を伸ばした。
ローナンが穏やかに答える。
「危険がないかどうか確認してただけだよ、兄さん。こちらの美人はミス・ネル・マクファーレン。あんまり怖がらせないであげてくれよ」
「努力はしよう。さあ、入ってくれ」
部屋の中に足を踏み入れると、そこはもう十分に暖かい気がした。
ネルは周囲の音から、ここにいるのはネル、ローナン、ジョージ、医者と呼ばれた男、ノースウッド伯爵らしき人物、そして……。
「くー、くぅー」
小さな赤ん坊の楽しげな声がどこかから聞こえてきた。
まだ言葉にならない音を喉で遊ぶように転がして、なにやら歓喜の声を上げているように聞こえる。女児の声だ。
「あっ、あっ、あぁーーう」
今度の声はネルにも意味が分かった。きっとローナンを呼んでいるんだ……と。
なぜか、ネルは暖かく朗らかな気持ちに包まれた。
この人は本当に沢山の「お嬢さん」から愛されているのだろう。そしてそれを楽しんでいる。
「僕の可愛いお姫さまは、もう大丈夫かい? 風邪はいいのかな?」
ローナンの声は、またいっそうと甘くなった。上手くネルの手を引きながら部屋の中に進み、赤ん坊の声に近づく。
ネルの心臓はうずき、ローナンに手を引かれていることに誇りさえ感じた。
「熱はもう下がった……」
と、ノースウッド伯爵らしき人物がローナンに答えたとき、ネルは頭を鉄鎚で打たれたような衝撃を覚えた。
低い、いかにも伯爵然とした威厳のある声が、ローナンのそれにも負けず劣らずの柔らかな響きに豹変したからだ。しかも、声の位置からして、赤ん坊を抱いているのは乳母でも夫人でもなく、ノースウッド伯爵本人らしかった。
「まったく人騒がせな娘だ。わたしはもう少しで、国中から医者を呼び寄せるところだったよ」
赤ん坊はまたクークーと鳴くような声を出して、父親に答えていた。
ああ、なんていうこと。
ネルは抜けられない迷路に迷い込んでしまったのかもしれない。幸せという名の、捕われるべきでない迷路に。
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