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Chapter Twenty Three
しおりを挟む気がつくといつのまにか、吹き荒れる吹雪に行く手を阻まれていた。
ローナンは今日、何度目かもしれぬ呪いの言葉をうなりながら、苛立ちに顔を歪めて馬車の座席から腰を上げた。
「扉を、あ、開けるのですか?」
向かい合わせに座っていた神父が、今にも泣き出さんばかりの声で聞いてくる。ローナンは思わず目をぐるりと回して、肩越しに小柄な神父を振り返った。
神父の身体はカタカタと小刻みに震えていた。寒さと、これから馬車の中に吹き付けてくるであろう冷気におびえ、これでもかと肩を縮ませている。このぶんでは失禁してしまうのではないかと思えるほどのおびえようだった。
扉についた真鍮の取っ手に手をかけながら、ローナンはできるだけ分別のある言い方を心がけて、神父に忠告した。
「小便はしない方がいいよ、凍るかもしれないからね。股の間ががちがちになって、あまり気分のいいものじゃない。それから、そう……僕は扉を開けるよ。御者を手伝ってくる」
神父は反論したげに口をぱくぱくと動かしたが、きちんと声にはならなかった。
それを無視して、ローナンは扉を開いた。
とたんに、雪のつぶてが、ごうとうなりをあげて正面から吹き付けてくる。馬車はなんとかゆっくり前進していたが、徒歩とほぼ変わらない速度だった。ローナンは深く息を吸うと飛び降り、雪の上に舞い降りた。
ざくざくと白い新雪を踏みしめながら御者台まで追いつき、綿を入れた皮の手袋で覆われた手で、木の手すりを掴むと腕力を込めて御者の横に飛び乗る。
さいわい、御者は車内にいる神父に比べると、なかなか骨のある男のようだった。
「旦那、これは覚悟を決めなくちゃいけませんぜ。気合を入れれば進めるが、春のピクニックというわけにはいきませんよ」
「わかってる。だから手伝いに来たんだ」
御者は、目と鼻以外はすべて防寒着で覆われた顔をローナンに向けた。氷のような青い瞳だったが、それさえも辺りを埋め尽くす白雪の前には暖かい色に映る。
「客がみんな、旦那のように男気のある連中だったらよかったなぁ」
「それはどうも」
二頭立ての借り馬車は、ローナン、御者、そして神父を乗せてさらに北を目指した。
この季節に、正式な結婚式を執り行える神父を探し出すのは、ローナンが考えていたよりもずっと難しい役目になった。
領地内で最大の街・ウッドヴィルに駐屯していた唯一の神父が、所用があるとかで中央に出掛けてしまって、もう何日も経つ……とのことだった。もしかしたら寒さに根をあげて、南部の都会で冬を越す心算なのかもしれない。金銭に余裕さえあれば、そういう連中は実に多かった。
空模様は時が経つにつれ厳しいものになり、次の町へ向かうローナンの足並みをどんどん鈍らせていった。
二日目、ローナンはやっと領地の外れの小さな集落で神父を一人発見した。それが今、馬車に乗っている例の小男だ。
しかしすぐ問題が起こった……屋敷から連れてきた御者が熱を出して倒れた上に、馬車の車輪がひび割れ、まともに進めなくなったのだ。ローナンは渋る神父と熱を出した御者を連れて、車輪の外れそうな馬車をだましだまし操りながら、ウッドヴィルまで雪の中を戻ることになった。
そこの宿屋に御者と壊れかけた馬車を残し、あり金をはたいてこの天候でも馬を出してくれるという借り馬車と新しい御者をなんとか雇った。この騒動だけで丸一日。そしてバレット家の屋敷に戻るまでにあともう半日……。
ローナンの焦りは刻々と高まり、ゆっくりとしか進めないこの雪模様に何度も悪態をついて、どうにか気を落ち着かせようと努力していた。
しかし、ローナンも北部の男だ。神の御意志である天候にいくら文句を言っても、得るものはなにもないと、よくわかっている。
白銀にかすむ世界に目を細めながら、ローナンはネルのことを想った。
ネル。
雪化粧に一面を覆われた白い荒野に、凍えながら、それでも凛として、たった一人で咲き誇るバラのような女性。
光も色も失った真っ暗な世界で、それでも希望を失わず、前を見て歩く勇気のある女性だ。ローナンは彼女を愛し、尊敬していた。彼女の夫として生きる権利を得るためなら、どんな努力でもする覚悟だった。
バレット家の屋敷に灯る明かりを遠目に見ることができる場所までたどり着いたとき、ローナンは思わず盛大な安堵のため息を漏らした。すでに四日近く留守にしていたことになる。
最後の力をふりしぼり、馬を叱咤しながら先に進むと、住み慣れた屋敷が視界にどんどん大きくなってくる。
とりあえず、屋敷の周辺に見慣れない馬車の姿はなかった。もしかしたらロチェスター卿の使いは、まだ到着していないのかもしれない。
手綱を引くローナンの手にさらに力がこもった。
日は暮れかけ、身体はくたくたで、いまだに前進できるのが奇跡のようだった。敷地の門をくぐりぬけ屋敷に近づくと、ローナンはたまらなくなって馬車から飛び降りて玄関へ駆け上った。
「ネル!」
両手で玄関の扉を押し開き、ローナンは咆哮に似た声を上げた。
「ネル! どこにいるんだい?」
屋敷の中からは夢にまで見た暖かな暖炉のぬくもりと、甘い料理の香りが漂ってくる。普段ならここでほっこりと顔を和らげ、久しぶりの我が家の空気を思う存分吸い込むところだ。しかし今は、とにかくネルの無事な姿を見ることが先だった。
そして彼女を抱きしめること。
そして彼女を二階の部屋へ連れ去って、しゃにむに愛し合うこと。
そして彼女に愛をささやき、何度も口づけをして……。
すべてはその後だ。
ああ、結婚するのも忘れてはいけない。
「ネル? どこにいるんだい? 僕だ。帰ってきたよ!」
寒々しい道中、ローナンはずっと、帰ってきた彼を満点の笑顔と喜びの涙で出迎えてくれるネルを夢想していた。ネルはきっとローナンが遅れて来たことをほんのすこし、冗談めかしてたしなめ、ローナンは真面目くさった顔でそれについて謝り、二人一緒に微笑みながらお互いを許し合う。
そうなるはずだ。
そうなるはずなのだ。
しかし、いつまで待っても玄関には誰も降りてこなかった。
ネルだけではない。普段はご機嫌で客を迎えるオリヴィアも、しかめっ面のエドモンドも、なんだかんだと騒がしいマギーも出てこない。不審に感じて、ローナンは眉を寄せて顔をしかめた。
頭や肩にまで積もった雪を厚い手袋がはめられたままの手で払い落とし、迎えに来る者が誰もいないまま、屋敷の中に入っていく。明かりこそ灯っていたものの、サロンはまったくの無人だった。
ローナンは唯一、人気を感じる二階にそのまま昇っていった。
階段を登りきり廊下に曲がると、そこでやっと、扉から顔を出したネルの従者・ジョージの姿を見つけた。
「ああ、ローナンの旦那……」
小柄ながらも、いつも生気にあふれていた老従者が、すっかり肩を落としてよろよろと近づいてくる。
鼓動が高鳴り、不安にめまいと吐き気がしそうになった。ローナンは大股でジョージに駆け寄ると、彼の肩をぐっと掴んだ。
「どうしたんだい? ネルはどこだ? 彼女になにが起きたんだ!?」
よほど恐ろしい形相をしていたのか、ジョージは驚愕の表情でローナンを見つめ返してきた。普段のローナンが、こんなふうに取り乱すことはありえない。しかしローナンは自分を制御できなかった。
なかなか答えを言わない従者の肩をがくがくと乱暴にゆすり、ローナンは叫んだ。
「ネルはどこだ! 僕のネルは!」
「ネリーお嬢さんは……ロチェスター坊ちゃんと一緒に行ってしまわれました」
深い皺が刻まれた顔を悲痛にゆがめたジョージは、絞り出すような小さな声でやっと語り始めた。
「一昨日の夜のことでした……。伯爵夫人が突然、痙攣して真っ青になり、倒れなさったんです。ひどい動悸で、息も絶え絶えで……皆がもう、だめかと思ったほどでした」
「な……」
ローナンは言葉を失った。
──オリヴィアが倒れた? 『息も絶え絶えで』、『だめかと思った』ほどのひどい有様で?
「ありえない……。なぜ、急にそんな……」
「ノースウッド伯爵の混乱ぶりは、それはもう恐ろしいものでした。彼をなだめるために屋敷中の男が、そして伯爵夫人を看るために屋敷中の女が必要になりました。多分、その隙に、ロチェスター坊ちゃんはネリーお嬢さんに近づいたんです……。それまではずっと、顔を合わせないように、ちゃんと二人を引き離していたんです」
泣き出しそうな顔で、声を震わせながらとつとつと説明するジョージは、いつもよりひと回り縮んでしまったように見えた。いつもは律儀に糊をはっていた赤い従者の制服が、すっかり皺だらけになって、肩からぶら下がっているだけのような様相だ。
ロチェスター卿はなんと、ローナンの留守中にここへやってきていたのだ。
しかも自ら。
そしてオリヴィアが突然倒れ、ネルは彼と共に去ってしまった、と……。
「オリヴィアが倒れた理由は、なんなんだい?」
自分でも、ありえないほど声がかすれているのが分かった。ジョージはまたがくりと肩を落とし、敗北を認めるような弱々しさで首を振った。
「わかりません。直前までまったく元気にしていられましたし。ただ……」
「ただ」
「ええ、ただ、ネリーお嬢さんは去る前に、マギーに粉薬を渡してそれを伯爵夫人に飲ませて欲しいと頼んだらしいのです。詳しいことは説明してくれませんでしたけどね。わたし達は藁にもすがる思いでしたから、言われた通りにしました。それ以来、伯爵夫人はだいぶ回復しています」
「…………」
「夫人ご本人はもう大丈夫だと仰ってるんですが……肝心のノースウッド伯爵が夫人のそばを一歩たりとも離れたがりませんし、彼女が無理するのも当然厳しく禁止されておりますから、もう、我々には……」
ジョージは肩をすぼめたまま後ろを振り向き、さっき出てきたばかりの扉を顎で指した。
兄と義理姉の寝室だ。
ローナンは深く息を吸い、ふつふつと沸き上り爆発しそうになる怒りをなんとか一時的に鎮め、強く拳を握って兄夫婦の寝室の扉の前に立った。
ノックをする必要はない。
ローナンは無言で扉を開き、中に入っていった。
これからローナンのすることに、兄は心より賛同してくれるだろう。バレット家の男達を甘く見る者は必ず報いを受けるのだ。
そしてなによりも、バレット家の男が愛している女性を傷つける者など、生きたまま地獄の火に焼かれる。
こんな悪魔が己の中に住んでいたとは知らなかった。
しかし、ローナンの怒りを餌にした悪魔は、煌々と目を輝かせ、まだ見ぬクレイモア伯爵ロチェスター・マクファーレン卿の血を求めて、不穏にざわめいていた。
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