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15. Hurt
しおりを挟む愛馬に触れていた手を離すと、エヴァは屋敷のほうへ視線を移した。
着替えてすぐに戻ってくると言って中へ入ったアナトールが、しばらくしても屋敷から出てこなかったからだ。
外からでも中の居間が覗ける大きな窓があって、エヴァの目はそこへ吸い付けられた。
すぐに、アナトールが中にいるのが分かった。
そして、彼のすぐ目の前に、ヴィヴィアンがぴたりと寄り添うように立っているのが視界に飛び込んできた。
エヴァの立つ場所からでは、二人の表情までは分からなかったが、なにか話し合っているように見えた。親しげにお互いを見つめ合い、相手の言葉にうなづいている。
珍しいことだった。
(でも……)
でも、考えてみれば、本当は自然なことなのだ。アナトールはヴィヴィアンを想って戦争中に手紙を書き続け、戦争が終わると大陸を横断してまで、この牧場へ帰ってきたのだから。
しかし、分かっていても、アナトールとヴィヴィアンが寄り添う姿を見たエヴァの心は、爪を立てられたように痛んだ。
喉の奥が痛んで、胸を圧迫されたような重さを感じて、急に足下がおぼつかなくなる。どうしてだろう? エヴァはぎゅっとスカートの裾を握って、視線を足下に落とした。
わたしは、なにを期待していたのだろう?
戦争中、アナトールは手紙の中の人だった。彼がいつも使う、象牙のような色をした擦り切れた紙に綴られた言葉だけが彼で、声も、体温も、すべてはエヴァの想像の中にしかなかった。
しかも手紙の中では、エヴァは『ヴィヴィアン』だったのだ。
でも、今は違う。
彼はここにいて汗を流し、牧場の柵を修理して、エヴァに微笑みかけ、時々は冗談も言う。近づけば朝飲んだコーヒーの香りが少しして、夕方になれば髭を剃ったあとがわずかに青白く浮かんでいるのが見える。
彼は、息をした人間で、血肉を持った一人の男性だった。
そして彼は、やはり、ヴィヴィアンを愛しているのだろうか……。あの最初の手紙も、それに続いた多くのやり取りも、彼は間違いなくヴィヴィアンに宛てたのだから。
エヴァにではなく。
そして、今のアナトールが血の通った人間であるのと同じように、ヴィヴィアンも、彼の目の前に立ち、息をしている一人の女性だった。鮮やかな黒髪の、誰もが目を奪われるような美貌を持った、彼の愛の言葉を受けるのに相応しい女性として。
それに比べて、自分は……?
エヴァは決して不器量ではなかった。ヴィヴィアンのように目を引く美女ではなくても、大抵の人はエヴァの可愛らしい魅力を認めた。ただ、ヴィヴィアンの隣に立つと、やはり平凡に映るだろう。
わたしは、なにを期待していたのだろう?
彼に抱きしめられて、一緒に仕事をしながら笑って、彼に見つめられて。
なにを期待していたの?
エヴァが真実を告げれば、アナトールは目を覚まし、ヴィヴィアンではなくエヴァのことを愛してくれる……とでも?
(馬鹿みたい……)
どうしようもない道化だ。愛どころか、真実を知ったらアナトールはエヴァを嫌悪するかもしれないのに。どれだけ悪意がなかったとしても、エヴァは嘘を吐いていたのだから。
呆然と屋敷を眺めているエヴァに、なにかを感じたらしい馬が顔をすり寄せてきた。エヴァは馬に向き直り、そのたてがみを撫でながら呟いた。
「わたし、馬鹿みたいね」
馬は同情したように鼻を鳴らして答えた。
このまま二人はどうなるのだろう──エヴァは馬の横顔に頬を寄せて、屋敷の方を見ないようにしながら、考えた。
そもそも、『二人』というのが誰と誰を差すのかさえ、よく分からなかったけれど。
牧場の一日はいつだって忙しく始まり、忙しく終わる。
あれからエヴァは出来るだけ仕事に没頭して、アナトールとヴィヴィアンのことを考えなくてすむように努力していた。
気が付くと太陽が西に傾きはじめ、一日が終わろうとしている。
そろそろ馬たちを厩舎に移して、夕食の準備を手伝わなくてはいけないし、お湯も用意しなくてはならない。
エヴァは土で汚れた手袋をはめたまま、額に流れる汗を拭った。
仕事に戻ったアナトールは黙々と柵の修理を続け、すでに作業も終わりに差し掛かっているところだった。彼は本当によく働いてくれていて、なぜか、エヴァはそれを少し申し訳なく思うくらいだった。
厩舎の掃除を終えたエヴァは、馬たちを一頭ずつ集め、一日の終わりの準備をしはじめた。この頃になると疲れのせいで、アナトールとヴィヴィアンのことを考える力もなく、ただ黙々と慣れた作業をするだけだった。
だから、最後の馬を柵の中に入れて振り返ったとき、エヴァはすぐ後ろに誰かが立っていたことなどまったく気が付かなかった。
「きゃっ!」
エヴァはまっすぐ正面から、なにかにぶつかった。
固いなにかに当たった……疲れのせいで、こんなところに柱が立っているのを忘れていたのだろうか? エヴァは顔を上げた。
すると、
「どうした?」
肩に布を掛けた、白い袖無しのシャツを着たアナトールが、エヴァを受け止めていた。
土で汚れた跡が目立つズボンに、少し乱れた髪。
もちろん、エヴァ自身も、彼に負けず劣らず土だらけの格好だったのだけど。
「ご、ごめんなさい……」
エヴァが謝ると、アナトールは首を振った。
「なにか手伝えることがあるかと思って来たんだ。ずいぶん疲れてるように見えたから……大丈夫か?」
「え、ええ、平気よ。一日の終わりはいつもこうなの。もうくたくたで」
しどろもどろに説明するエヴァをじっと見下ろしたあと、アナトールは黙って彼女の腰を支えていた手を離した。しかし、彼の目はなにか納得していないようで、まだじっとエヴァを見据えたままだ。
アナトールの瞳に見つめられると、エヴァはいつも、まるで心を丸裸にされたような気分になる。言いたくても言えないことが山ほどある今、それは本当に拷問のようだった。特に今、アナトールとヴィヴィアンのことを必死で考えないようにしている時に、こうして見つめられるのは苦しい。
エヴァはくるりとアナトールに背を向けた。
「大丈夫よ。わたしより、ヴィヴィアンの方が手伝いが必要かもしれないわ」
できるだけ平淡な口調で言おうとしたつもりなのに、エヴァの声はわずかに震えてしまっていた。それをアナトールに気付かれたくなくて、エヴァはそのまま振り返らずに厩舎から出ようとした。
「待ってくれ」
しかしアナトールは、エヴァを引き止めた。「俺はなにか、君に失礼なことでもした?」
エヴァはビクリとして厩舎の入り口で立ち止まったが、振り向く勇気はなかった。
「い、いいえ。どうしてそんなことを言うの?」
「君の様子がおかしいから」
──どうしてそんなことに気が付くの?
どうしてそれを気遣うの?
エヴァは振り向いてアナトールに駆け寄って彼の手を取ってそう問いたかった。かわりに、エヴァはその場に立ち尽くしたまま、外の夕日を見つめて細い声を出した。
「疲れてるだけよ。お気遣い、ありがとう」
そしてそのまま外へ出た。
アナトールは追ってこなかった。本当は心のどこかで、彼が追ってきてくれることを期待していたのだと気が付いたのは、アナトールが直した柵が見えたときだった。
綺麗に修理された柵。
一人でこの作業を終えるには相当な労力と根気が必要だったはずだ。それを、アナトールはたった数日でやってのけた。ヴィヴィアンのために。
その夜の夕食はいつもよりもずっと静かだった。
普段なら一番に会話を盛り上げようとするエヴァが、ほとんど口を利かなかったせいだ。かわりに、この夜はヴィヴィアンが喋り、アナトールがぽつりぽつりと返事をするという形になっていた。
そして、二人が会話をすればするほど、エヴァの心は沈んでいった。
いままでアナトールとヴィヴィアンが他人行儀だったのは、エヴァが一人で夢中になって騒いでいたせいで、こうしてエヴァが黙っていれば、二人はどんどん親しくなっていくのだ。
まるで夢から覚めたようだった。
気が重くて、エヴァはほとんど皿から顔を上げられずにいたから、アナトールがいつものように自分を見つめているのかどうかは分からない。
分からないし、分かってしまうのが怖かった。
もし彼が自分を、いままでのような真剣な瞳で見つめていたとしたら? エヴァきっと自分を見失ってしまう。
そして、もし彼が、ヴィヴィアンにあの真剣な瞳を向けていたとしたら?
エヴァの心は簡単に粉々になってしまうだろう。薄いガラスのように。それが怖かった。
当然、食欲もあまり湧かなかったエヴァは、パンにも手を付けず目の前にあるスープだけ食べ終えると、急いで席を立った。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
エヴァは独り言を呟くように、下を向きながらそう言った。
できるだけ見ないようにはしていても、ヴィヴィアンとアナトールが顔を見合わせるのが、嫌でも視界の端に入る。エヴァはふいっと顔を背け、そのまま駆け足で二階へ上がった。
自分が子供っぽいことをしている自覚はあった。
それでも、エヴァはさっさと自分の部屋へ逃げ込み、扉に鍵をかけ、そのまま扉に背を預けて床にうずくまってしまうことしかできなかった。
両手で顔を覆って、首を振る。
涙がいくつかこぼれてきて、嗚咽を抑えるのに息を呑まなければいけなかった。
(馬鹿! 馬鹿! 馬鹿……!)
なんていうことしてしまったのだろう。
なにをしているのだろう。
これから、どうすればいいのだろう。
頬に冷たい涙を感じたまま、エヴァは答えを求めて、そっと顔を上げた。すぐに、窓際のライティングデスクが視界に飛び込んでくる。エヴァは無意識に立ち上がり、よろよろと支えを求めるように、そのデスクの前に屈み込んだ。
──エヴァはいつもこうしていた。
辛いことがあったとき、挫けそうになったとき、四年間の大変だった戦争の最中で、エヴァを救ってくれたアナトールからの手紙。
片手で涙を拭いながら、エヴァはゆっくりとデスクの引き出しをあけ、革ひもで束ねられた手紙を外に出した。
思わず、エヴァはその束をぎゅっと胸に抱きしめた。
どうしてだろう、この胸に抱いているのは、ただの紙の集まりでしかないのに、どうしてこんなに重く感じるのだろう。自分に宛てられたわけでもない手紙、自分に語られたわけでもない言葉なのに、それでもアナトールからの便りはエヴァの生きる糧だった。
もし、これだけの幸せをアナトールがもたらしてくれたなら、彼を傷つけることはできない。
できない。どうしても。
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