死者の恋

泉野ジュール

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第二章 君という名の星

亀裂 1

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 ──デラールフ18歳、ローサシア10歳──


 十八歳。若いながらも大人と呼ばれる年齢になったデラールフは、すでに独立していい頃になっていた。
 実家のすぐ横に建てた小屋は、すでにふた部屋と調理場を増築して、ひとりで住めるようになっている。ちょうどセンティーノ家とサリアン家の間に建っている形だったが、デラールフは実家よりも、隣家であるサリアン家に入ることの方が多かった。
 ローサシアがいたからだ。

 娘が生まれたときすでに高齢だったサリアン夫妻は、ほかの子供には恵まれなかった。

 だからローサシアはひとりっ子で、デラールフという兄貴分がつねにそばにいて、両親に愛され、若く美しく……花のような少女に育っていた。彼女を守り、導き、笑顔を与えるのがデラールフの生きがいだった。
 それは家族愛であり、兄が妹を思う気持ちであり、友情だった。
 今は……まだ。


 * * * *


 ある早朝、ベーコンと玉子が焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐり、デラールフは目を覚ました。
 何度か瞬きを繰り返し、大きく息を吸う。そして上半身を起こした。

 デラールフの寝室は質素で、飾りは一切ないがサイズだけは大きい寝台と、自分で作った衣装棚があるだけだ。そしてこの家に住んでいるのはデラールフひとり。
 自分で作らない限り、朝食の香りがしたりするはずはないのだ……本来なら。

 季節はすでに夏に入り、夜も寝苦しい陽気が続いている。デラールフは上半身裸で夜を明かしていて、髪は無造作に後頭部でひとまとめにしていた。
 床に落ちている白いシャツを拾って袖を通すと、デラールフは立ち上がった。

 ──あの水色の瞳の少女をどうやって説教しようかと、低くうなりながら。


 はたして、寝室を出たデラールフの視界に飛び込んできたのは、得意そうな満面の笑顔を浮かべたローサシアだった。

「おはよう、デラ! ね、見て、今日はベーコンと目玉焼きでいい?」

 調理場で、母親から失敬したのであろうエプロンを腰に巻き、黒髪を高めのポニーテールにしているローサシア。彼女の童顔は髪を上げるとさらに際立って、繊細な頰から顎にかけての線はまるで小鹿のように華奢で優美だった。
 十歳。
 まだ女ではない。
 しかしただの子供でもなかった。

 デラールフは頭を垂れて片手で顔を覆い、盛大なため息をついた。
「ローサシア。いったい何度、注意したらわかるんだ? 勝手に俺の家に入るなと言っただだろう」
 寝起きの声は乾いていて、それでなくても低いデラールフの声をさらに深みのあるものにした。

 ローサシアはシュンとしてしばらく口をつぐんだが、デラールフがそれ以上なにも叱責しないでいると、気を取り直して微笑んだ。

「ごめんなさい。でも、ちゃんと玄関はノックしたのよ」
「返事がないなら入るんじゃない」
「でも、誰かがデラのことを心配してあげなくちゃいけないじゃない。もしかしたら熱で動けなかったりするかもしれないでしょう?」
「そういう時はイーアンを呼べばいいんだよ」
「でも、お父さんじゃベーコンを焼いてくれないわ。ほら!」

 ──『でも』、『でも』、『でも』。
 ローサシアはすっかり彼女自身の意思を持つ、ひとりの人間になっていた。ちょっと生意気なくらいに弁の立つ、賢さや聡明さもある。もう幼かった頃の、ひたすらデラールフに甘えてばかりいた童女ではない。

「お前はもう十歳なんだよ。ひとりで男の家に入ったりするものじゃない」
 デラールフがぴしりと指摘する。

「大丈夫よ。『男の家』に入ったりはしないから。入るのはデラのおうちだけよ」
 ローサシアは答えた。

 つまり──彼女にとってデラールフは、男という範疇には入っていない、と。喜ぶべきか悲しむべきかわからず、デラールフは寝起きの頭を振って、今朝二度目のため息をついた。
 ここ数年で、もっと天井を高くしなかったことを後悔するほど背が伸びたデラールフは、のっそりと調理場に入った。

 そしてローサシアの背後から、彼女の肩越しにかまどをのぞいた。
 焦げつきはじめている目玉焼きと、乾燥しきったベーコンが、みじめったらしく鍋の底にこびりついている。デラールフは《能力》でフッと火を消した。

「デラ? どうして火を消しちゃうの?」
「その気の毒な豚肉と鶏の卵は、今以上に焼かれて苦しむ必要はない」
「でもデラールフは、ちょっと焦げてるくらいが好きなんでしょう?」

 こうして彼女の背後に立つと、その華奢さを実感する。ローサシアの背は、デラールフの胸のあたりにやっと届く程度だった。
 デラールフは艶やかな黒髪に触れたくなるのを我慢しながら……数ヶ月前、焦した食材を前にメソメソ泣く彼女ををなぐさめたくて言った嘘を、後悔した。

「今朝は……腹が減っていて、早く食べたいんだ。焦げなんてなくても我慢できるよ」

 多分、この嘘の上塗りのせいで、デラールフはしばらく毎朝灰の塊を食わされ続けることになるだろう。
 それでもよかった。
 そんなことは、本当にどうでもいいことだった。

 ふたりは向き合って居間の食卓につき、わずかに焦げたベーコンと目玉焼き、そしてローサシアがサリアン家から持参してきたパンを食べはじめた。ローサシアがスライスしたパンを、デラールフがさっと焼いてトーストにする。

「わざわざお前が料理しなくても、俺が一瞬でできるんだから」
 こんがりとできあがったトーストを手渡しながら、デラールフがつぶやいた。
「わかってないのね、デラ」
 まるで大人の女のような、ローサシアの口調。

 デラールフの《能力》によって一瞬で香ばしい黄金色になったトーストを受け取ると、ローサシアはじっと彼を見つめた。

「好きなひとのためになにかをしてあげたいっていう気持ちは、理屈じゃないんだから」

 ぴたりと動きを止めたデラールフは、まっすぐにローサシアを見つめ返した。
 ローサシア。
 彼女はまだ十歳だった。
 デラールフは十八歳。本来なら、独立して、実家を出てもおかしくない年齢に達している。特にデラールフのような次男以降の男児は、早くに家を出ることが多い。それでなくてもデラールフはできるだけ早くセンティーノ家の軛
くびき
から逃れたいと考えていた。

 でも、できないでいる。
 目の前にいるこの水色の少女が、その理由だ。

「そうだな」
 喉がカラカラに乾いていくのを止められなくて、デラールフは短く答えた。焦げた料理の香りが、苦くデラールフの鼻腔を刺激した。

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