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本編
Forgiving 8 - Truth
しおりを挟むI kneel before you and ask for forgive.
In the times of sorrow and grief, this love'd be stronger, and will survive.
社長室に取り残されたあかねは、しばらく無言で、うつろに机の上を眺めていた。
気が付くと机の上に広げてあった書類に、ぽつりぽつりと水滴が落ちる。次々と増えていく小さな水の跡に、あかねはやっと、自分が泣いているのだということに気が付いた。
「あ……っ」
慌てて両手を口元に当てても、嗚咽は簡単に指と指の間をすり抜ける。
失望した、と。
それがケネスが融資を切った理由だと、三島は言った。
何故、と理由を考えるより前に、罪悪感と恐怖に飲み込まれる。たった昨夜──まだ温もりさえ肌に残っているくらいに近い時間、二人はまだ一緒に過ごしていたのに。幸せだった。そしてケネスも、幸せそうに見えた。ただ時々見せる、あの寂しそうな笑顔だけが心に引っかかったけれど、それ以外は本当にただ全てが順調で、幸せで……
(わたしが……勘違いしてたの……?)
──何を。そして、どこから。
考えようとすると、それだけで息苦しくなる。あかねは弾かれたように椅子を立ち、上着を掴むと外へ飛び出した。
そのまま行く当てもなく走り出すと、あかねはいつの間にか、ケネスが滞在していたホテルの前へ辿り着いていた。しばらく建物の前で棒立ちになり、上がった息をなんとか整えると、ロビーに足を踏み入れた。受付には黒いスーツ姿の支配人が佇んでいる。今朝部屋を後にする際に顔を合わせたのと同じ人物だ。あかねは彼に近付いた。
あかねを見ると、その支配人は驚いた顔をした。
しかし流石にプロと言うべきか、すぐに表情を戻し、うやうやしく頭を下げた。
「リッター氏ならもうチェックアウトされましたが。ご存知かと」
「あ……」
何を期待していたのだろう。
あかねが落胆したのを見ると、支配人はどこか申し訳なさそうな顔をした。そして、
「すみません、お力になれず」
と静かに謝った。
「い、いえ! こっちこそ突然来てしまって……」
ごめんなさい、と謝り返そうとした瞬間──あかねの瞳にまた涙が溢れ出した。走ったせいか、悲しみが堰を切ったせいか、膝から力が抜けてあかねはそのままロビーに崩れ落ちるように座り込んだ。
謝る、時間くらい欲しかった。もし自分が何かケネスに悪いことをしたというのならば、こうして謝る時間くらい、くれてもよかったのに。
あかねはその場で泣いた。その後どうやって家へ戻ったのかは、ほとんど覚えていない。ただ会社には戻らなかったことだけは確かだ。
許して欲しい──そう祈り、願った。その罪が何なのかさえ、分からずに。
ケネスに対して、そして、三島をはじめとする社員達に対しても。
罪のない罰に苛まされながら、あかねは、それから数ヶ月をただ流されるままに過ごした。
融資が突然ドラスティックな形で切られたことは、やはり会社には大きな衝撃だった。ちょうど新規事業に手を出しかけていた所だった事もあって、会社は企業としての形を保っておけない状態にまで悪化した。結果として、一条グループは売却という土壇場を迎えた。
本来なら倒産、そして、責任者であるあかねは経営責任を取らなければならない立場だった事を考えれば、最後の最後で突然買取を申し出た企業があったことだけは、 不幸中の幸いだったのだろう。しかしあかねは、それをもただ傍観することしか出来なかった。
あの、ケネスと過ごした二ヶ月はなんだったんだろう。
そんな事ばかりを考えて、ただ流されるまま、やらなければいけない仕事だけを機械的にこなしていた。
夢だったのだろうか。
だったらどうしてこんなに胸が痛いの。
だったらどうして、こんなに貴方が恋しいの……?
会社が買い取られた事で、三島をはじめとする大部分の社員たちはそちらに引き抜かれていった。失業の憂き目を見た社員たちには、売却で得た分を退職金として渡し 、あかね自身は残ることを選ばなかった。
家も高級なマンションから小さなアパートに移し、すぐに契約社員として小さな別企業で働き始めた。英語が喋れたお陰で、同年代の女子よりは多少良い給料を受け取ったが、一人暮らしのあかねにはやっと生活できるという程度だ。
イギリスへ行くことも、考えないではなかった。
しかし今のあかねの状況では、流石に食べる物に困ることはなかったけれど、イギリス行きの旅費を工面できるほどの余裕もなく──心の準備も、まだ出来ていない。全ての面で、あかねが今、ケネスに会いに行くことは難しかった。
そんな日々。
ケネスがあかねの元を去ってから数ヶ月が経ったある日、仕事帰りのあかねに、三島が訪ねて来た。
三島はあかねが覚えていたよりも、少し老け込んでてしまった気がした。
しかし、精悍な瞳と物腰だけはまだまだ健在で、それがあかねを安心させた。新しくあかねが働き出した会社のビルを出てすぐの歩道、二人は久しぶりの挨拶を済ますと、すぐ傍にあった喫茶店に腰を落ち着けた。
「少し痩せてしまったんじゃないかな。大丈夫かい? 慣れない仕事で大変だろう」
注文が済むと三島はそう切り出した。
「いえ……実は、こっちの方が性に合っているみたいです。わたし、社長なんて柄じゃなかったですから」
あかねが答えると、三島は低く短く笑って、そうかもしれない──と、頷きながら言った。
「君は正敏とは……君の御父上とは、違うからね」
何故だろう。ただの何気ないやり取りのはずなのに、三島の言葉尻には何か特別な意味があるような感じがした。
そのまま黙った三島を見て、あかねは三島の今の生活をたずねた。それによると三島は現在、一条グループを吸収した企業の中で、それなりに良いポジションを得ているようだった。長年働いてきた愛着のある会社とはもう違うから、昔ほどの情熱はないが、家族を養えるだけの仕事はさせてもらっているよ、と。そう落ち着いた声で言って、優しく微笑む。
「どちらにしても、ケネス君が来なかったら遅かれ早かれこうなっていたんだ。いや、もっと悪くなっていただろう」
三島の口からケネスの名前が出て、あかねは息を呑んだ。伏せがちだった背を伸ばす。
「三島さん、どうして……」
「新しい職場にも慣れきてね、少し時間が出来てきたんだ。いくらか疑問に残っていることがあったんで、調べてみたんだよ。ケネス君について――知りたいかい?」
「…………」
あかねが何も返せないでいると、三島はそれを肯定と受け取ったのか、それともどちらにしても話すつもりだったのか、ゆっくりと語り出した。
「正敏は──君の父上は、奔放な男だった。豪快で外交的で、いかにも人の上に立つタイプの男だ。私も彼の、その、そうだ、一種のカリスマに惹かれたんだ。だからまだ若い頃からずっと彼の元で必死に働き続けていた。懐の広い男だったし、人間としてはとても魅力的だった」
懐かしい思い出を脳裏に描きながら、それを愛おしむような口調で、三島はそう語った。
しかしあかねは疑問に首を傾げる。
「待って下さい、三島さん。どうして急に父の話に……」
「実は正敏はまだ君が生まれる前、ケネス君の母親に会っていたんだ。全てはそれが原因なんだ」
「何を……」
「とにかく聞いてくれるね」
三島はそう言って、目の前に置かれたコーヒーを一口すすると、話し始めた。
三島は探偵会社の助けを借りて、ケネスの詳しい過去を調べたらしい。
何故そんな事を始めたのか? それは、一条グループ最後の最後、倒産寸前に、とある新興企業が突然社を買い取りたいと申し出てきたことに疑問を感じたからだと、三島は言った。
買い叩き同然の値段ならまだしも、向こうはそれなりの額を提示してきたのだ。そのお陰で社員達もあかねも、路頭に迷うことはなかった。
しかし長年のビジネス経験から、三島は、そこに何か人為的な意図があるように思えたのだ。
その理由を考えたとき──思いついたのが、ケネスの存在だった、と。
「彼は企業の株を大量に買って、うちを買い取るようにと圧力を掛けたらしい。最近今の会社の役員達にも面識が出来たんでね、調べるのは難しくなかったよ」
「そんな……でも、どうして」
「罪悪感を感じたのかな。彼は、結局正敏にはなり切れなかったんだ。正敏と同じ事をするには優しすぎたのかもしれない。それとも……」
「?」
あかねの目の前には紅茶が置かれている。
しかし、あかねはそれに手を付ける気にはなれなかった。飴色の紅茶がゆっくり冷めていくのを、遠くに感じていた。普段は好きなはずの香りが、なぜかいやに鼻についた。
これから三島が何を言おうとしているのか、あかねには見当がつかなかった。自分たちは今、何か大事な話を聞いていると、分かったのはそれ位だ。
しかし三島は続ける。
「二十五年前だ。正敏はケネス君の母親に出逢って、恋に落ちた。少なくともケネス君の母親は、二人は恋に落ちたと信じた……」
ケネスの母親、キャサリーン・リッターは、ケネスの父親である夫を数年前に亡くしていた。
当時ケネスは四歳、シングルマザーとして、小さな貿易会社を経営しながら必死で生活していた──それがその頃の彼らだ。そんな時、あかねの父、一条正敏は彼女の会社との取引相手として、彗星のように彼らの目の前に現れた。
「最初は正敏もただの取引のつもりだったらしい。しかしケネス君を見れば分かるだろうが、彼女は中々の美形だったようだ。私は当時日本に残っていたので、実際に見たことはないが」
三島はそう説明した。
あかねの父は彼女に熱いアプローチをはじめ、取引の額も大幅に上げた。彼女の小さな会社にとっては、大きすぎるほどの規模に。
短い間だったが、キャサリーンも次第に彼に惹かれていく。
最終的に、彼らは婚約まで交わし、公私共に順調に進み始めた。しかしキャサリーンにとって誤算は、彼には恋や愛よりもずっと大切なものがある──そういう種類の男だと 、気が付かなかったことだ。
婚約を交わし二人が男女として深い仲になった頃、あかねの父、一条正敏のもとに一つの縁談が舞い込む。
あかねの母だ。
当時、バブルの波に乗りって富を蓄えた企業の、社長の娘。正敏にっては願ってもいない話だった。
最終的に正敏は、非情で残酷な形でキャサリーンを切り捨てた。
突然取引を中止し、彼女の元を大した理由も説明せず離れ、それきり彼女を寄せ付けなかったのだ。キャサリーンの小さな会社には致命的な出来事だった。そしてもちろん、彼女の心にも。
「もちろんその後、彼女の会社は倒産だ。なんとか生活保護で食い繋いだらしいが、生活は厳しかっただろう。ケネス君は頭が良かった。奨学金で大学まで卒業したが、 今のように伸し上がるにはかなりの努力をしたはずだ」
「…………」
あかねは、言葉を失って、頭が真っ白になっていくのを感じた。
同時にバラバラだったパズルが、音を立てながらはまっていくような感覚もした。成程、正に、ケネスがあかねにしたことは、あかねの父がケネスの母にしたことと酷似する。
(それで……? すべてはその為に……?)
あかねは瞳に熱いものが上がってくるのを感じた。
しかし今泣く訳にはいかない。話はまだ終わっていない──。
「彼女はそのあと重度のアルコール中毒に陥ったそうだ。ケネス君に暴力を振るう事も多かったらしい。しかも風の便りで君が生まれたことを知ってからは特に、彼女はもう自暴自棄になってしまった。結局ケネス君がまだ十二歳の頃に亡くなっている」
三島はそこまで語って、深い溜息を吐いた。
「復讐と言ってしまうと楽だ。しかし、彼には彼の葛藤があったのではないかと思う。君に同じ仕打ちをすることで、過去から開放されるような気がしたのかもしれない」
それを聞いて、あかねは目を伏せた。
だとしたら何だというのだろう。この事実を知ったところで、ケネスがあかねを利用し、捨てたことは変わらない。
残酷な別れと、受け入れ切れない寂しさを残して。
しかしその寂しさの後ろ、どこかもっと心の奥では、幸せだったころの二人の記憶がある。優しい音楽のように胸に響き、いつまでも止まない、それ。
だからこそ苦しいのだ。だからこそ寂しい。
ケネスは今満足しているだろうか。あかねが、キャサリーンと同じ思いをしていることで。
「そう、だったんですか……」
あかねは目を伏せたまま、力なく言った。
「どうしてって、ずっと考えていたんです。私はどんな事を彼にしてしまったんだろうって……理由無くあんな事をする人ではなかったから」
「断定するんだね」
「二ヶ月も傍にいましたから……たとえお芝居の彼でも。隠せないものって、多いでしょう?」
「そうかな」
いつの間にか三島のカップは空になっていた。
あかねがお代わりを頼もうかと訊くと、三島は断って、首を横に振った。
「わたしはね、あかねちゃん、彼は本当に君に惹かれていたんじゃないかと思うよ。だから裏から手を回して、結局最後には君が路頭に迷わないようにしたんだ」
その台詞は、心地良かった。
そう考えてしまうと楽だ。楽で、少し心が軽くなる。しかし現実的ではない。あかねは伏せていた視線を上げて、微笑んだ。
「もういいんです。少なくとも今は……わたし、少し疲れてて」
「今はね。だけど、これを聞いたらどうかな」
「え?」
三島は立ち上がった。袖を捲って時計を確認する。
「同じホテル、おまけに、無理をとおして同じ部屋まで取ったらしい。仕事の関係で明日の夕方までしか居られないそうだ」
「え、え、み、三島さん、何を言って」
「君は電話番号も住所も、携帯番号まで変わってしまっただろう。わたしはそのままなんでね、わたしの所に掛けてきたよ」
ガタン! と、あかねは跳ねるように椅子から立ち上がった。両手をテーブルの上に置いたままの格好で。三島は、今度は、少し楽しげに微笑んだ。
「行っておいで。君達は幸せになる権利がある。もう罪は清算されたんだ」
三島の言葉に。あかねは泣き笑い、という感じの顔をした。
もう、何を考えていいのかさえはっきりしない。唯一確かなことと言えば、それは、今は彼に会いたくてたまらないということだけだ。
「ありがとうございます、三島さん」
それだけ言うと、あかねは店を飛び出した。
三島はそんな彼女の後姿を見送って、勘定を済ますと、自分も外へ出た。
良く晴れた日だった。若い二人の初めの日とするには、最高の天気だろうと──そんなことを思って、三島は空に向かって微笑んだ。
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