Endless - エンドレス

泉野ジュール

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Endless

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Endless - 01

 思い出は二人に夢を見せた。うつつの夢を。

「ローディアの森からは、王宮よりもずっと綺麗に星が見えるのよ」
 乾いたわらの上に座って、足元に置いた小さなランタンの灯りに照らされた二人は、一心に夜空を見上げていた。
 実際のところ、そう思っていたのはローディアナだけで、ヴィクトールの視線は夜空よりローディアナの大きな瞳に釘付けになっていたのだが。

 家畜小屋の屋根は隙間だらけで、雨風をしのぐには心もとなかったが、夜の星を鑑賞するにはなかなかの環境を提供した。しかし、ヴィクトールは夜空よりもローディアナの瞳を通して星を見ていた。彼女の瞳に映る、きらめく光の洪水を。

「この処罰が終わったら、あなたも自由になれるかしら? そうしたらぜひローディアの森へ来てね。春は白い花が咲いて、秋には金色のススキが広がって、冬には雪が積もる……どの季節もとても素敵よ」
「夏には何がある?」
「夏は恋人たちがピクニックをするの」

 ローディアナはつんと小さな鼻をそびやかして、強がりながら答えた。
 この、まだ16歳になるかならないかという少女は、きっと少しでも自分を大人の女に見せたかったのだろう。可愛いローディアナ。君が初めて夏の森でピクニックをする相手は誰だろう?

 自分だったら死んでもいい。
 他の男だったら殺してやりたい気分だ。
 それでも、君が幸せに笑っているなら、耐えることはできそうだった。

「でも、森はとても広いから、馬に乗れなくちゃだめよ」
 と、ローディアナは注意深く言った。
「乗れるよ。子供の頃は、俺の為の子馬が何頭もいたくらいだ」
 ヴィクトールが答えると、ローディアナは嬉しそうに微笑んだ。もしかしたら、ただの冗談だと思ったのかもしれない。一体誰が今のヴィクトールをかつての王子だと思うだろう。
 誰も。誰も、だ。

「約束してくれる? いつか、ローディアの森に来てね」
「君が案内してくれるなら、必ず」

 このあと、ローディアナが何と答えたのか、ヴィクトールには思い出せなかった。
 答えは無かったのかもしれない。二人の未来を暗示するように。



Endless - 02

 終わらない悪夢の合間に、こんな幸せな情景がときどきちらつくように現れては、ヴィクトールの胸をかき乱した。



Endless - 03

 ローディアナは幸せな頃の夢を漂っていた。
 たった一晩だけだった二人の幸せ。
 ヴィクトールが彼女に向けて微笑んでくれた最初で最後の夜。ローディアの森を二人で駆ける約束……。
 思い出はあまりにも優しく、厳しい現実の前では幻のように儚かった。

 でも、今は夢を見させて。
 これで最後なら、あなたの夢を見ていたいの――。



Endless - 04

 そして10日が過ぎた。



Endless - 05

 朝になると太陽は静かに東の空を紫色に染めだし、ものの一刻もしないうちに大地を明るく照らし出した。
 どこか遠くで小鳥が軽やかに歌っている。
 外をなびく風は爽やかで、空気は澄んでいて、空には雲一つない。

 こんな朝に汲み上げた水はきっと最高の味がするだろう。どんな極上のぶどう酒より、どんな新鮮な果汁より、朝一番の水がローディアナのお気に入りだった。
「ん……」
 だから、目が覚めたばかりのローディアナは、まっさきに隣にある水桶の匂いに鼻をくすぐられた。
 朝の匂い、目覚めの香り……。
(え……)
 ローディアナは瞳を瞬いた。

「おお、陛下、ごらんください! ついに王妃が目を覚まされましたぞ! 奇跡ですな……嗚呼、神よ、感謝します」
 急に、耳慣れない声が聞こえてきて、ローディアナは目を細めた。
 枕元で、茶色い服を着たぼさぼさ頭な人の影が、大儀そうに胸の前で十字を切るのが見えた。あまり芝居がかった行為だったので、ほとんど現実味がなく、ローディアナは静かにその影を見つめていた。

「10日間、じつに10日間!」
 ぼさぼさ頭の影は、感極まったようすでさらに続けた。年配の男の声だった。「寝食も忘れ仕えさせていただいた甲斐があったというもの! 陛下、ごらんくださいませ! 麗しの王妃がこの老ジョエルを見つめておりますぞ」

 その興奮した声とは対照的に、彼の背後から聞こえてきた声は落ち着いていた。
「声を上げるな、ジョエル」
 いや、疲れ切っていた、といった方がいいだろうか。
 しかしローディアナにはすぐ分かった……この声はヴィクトールだ。

 ローディアナは興奮して、慌てて身体を起こそうとした。
 しかし試みは上手くいかなかった。少し上半身を持ち上げようとしただけで、いきなり身を引き千切られるような痛みが襲ってきて、ローディアナはまたベッドに倒れるように戻った。

 ちっ、ちっ、ちっ、という短い舌打ちを繰り返しながら、ジョエルという名だと思われる男が、ローディアナに優しくシーツを掛けなおして、戒める。

「いけません、王妃よ。あなたはひどい怪我を負っておいでだ。つい数日前まで私以外、国中の全ての医者がさじを投げていたのですぞ。大怪我の上に、肺炎を起こしかけておられたのですからな」

 ローディアナは再び瞳を瞬いた。
 そしてやっと、自分がふかふかのベッドに寝かされており、時刻は朝で、ジョエルという名の髪がぼさぼさな老医師に看病されていたのだということが分かってきた。
 10日……?

「無理にお身体を動かしてはいけません。ああ、あなたにもこの10日間の陛下をお見せしたかったですな」
 老ジョエルは慣れた手つきで冷えた布をローディアの額に当てながら言った。

「あなたに怪我を負わせた四人の兵士達! もちろん、兵士の名に値しないクズどもですが。奴らを探し当てたあとの陛下ときたら、狂ってしまわれたのかと思うほどで、誰にも止めることはできませんでした。もう少しで素手で奴らを皆殺しにするところでしたわ。素手で!」

 ローディアナは何を言われているのか分からなくて、ぱちぱちと瞳を瞬き続けた。それに、さっきから聞き覚えのない敬称で呼ばれている気がする。
 王妃……?
 これは何かの冗談なのか、それとも長かった夢の続きなのか……。

「まったくあり得ない状況でしたな。私の頭を見てください、陛下はこの老人に、髪にくしを通す暇さえ与えてくれなかったのですよ」
 老ジョエルは自身の髪型について弁明した。

 ローディアナはそれについて老人に深く同情したが、それでも、自分の周囲で何が起こっているのかまったく把握できないでいた。
 それに、ヴィクトールはどこ……? 今、声がしたのに。

「ああ、どうかお眠りください。今はゆっくり休息を取ることです。時があなたを癒すでしょう、王妃」
 老医師はローディアナの額に当てた布を落ちないようにあてがい直すと、立ち上がった。
 ローディアナはなんとか唾を飲み込み、ありがとうございます、と礼を言うことに成功した。蚊の鳴くような小さな声だったが、彼にはそれで十分だったようで、微笑みながらベッド際から去っていく。

 なぜかどっと疲れを感じて、ローディアナは目を閉じた。

 ああ……次に目を開いたら、この夢はきっと消えてしまっているはず。
 でも、あなたの声を聞けて嬉しかった。
 王妃だなんて、それは少し欲張りすぎたけれど、どうか許してね。これは夢だから……。

 そして再び両目を開いたとき、真っ白い朝日が視界に飛び込んできて、ローディアナは顔をしかめそうになった。
 ベッドの先には大きな東向きの窓があって、そこから強い光が差し込んでくる。
 逆光に遮られて、誰が窓際にいるのか全く見えなかった。

 だから、
「ローディア」
 と、声が聞こえたとき、ローディアナはやはり夢の中にいるのだと思った。それもとびきり幸せな夢。そのくらい、優しい響きをもったヴィクトールの声だった。

 目が光に慣れてくると、窓際にヴィクトールが立っているのが分かって、ローディアナはつい微笑んでいた。
 ヴィクトールは逆に、悲しく表情を曇らせるように見えた。

「気分はどうだ……傷は痛むか」
 それが彼の口から紡がれた言葉で、いつもの彼からは想像できないほど、控えめな口調だった。
「いいえ、大丈夫です」
 ローディアナは答えて、少し咳き込んだ。

 苦々しげに眉をひそめたヴィクトールは、しかし、遠く窓際に立ったまま微動だにせずローディアナを見つめている。残念ながら、彼はとても遠くに感じた。

「ここに来てください、そばに……おねがい」
 ローディアナが甘くねだると、ヴィクトールの頬はぴくぴくと動いて動揺を示した。しかし彼はまるで用心深い野生動物のようで、それ以上の感情の起伏は表に出さず、静かに出方をうかがっているようだ。
 もう一度、ローディアナは願った。
「おねがい」
 そして、シーツから両手を出して彼の方に伸ばした。

 これにはさすがのヴィクトールもすぐ降参して、ローディアナの方へ大股で歩いてくると、ベッドサイドに膝をつき大きな身体を屈めた。
 彼の漆黒の瞳は疲れにくぼんでいて、うっすらと隈をつくっている。

「ローディア、お前を失うかと思った」
 ヴィクトールは言いながら、ローディアナの手を取った。

「お前の息が止まるのを聞いた……何度呼んでも、お前は答えない。あの恐怖が分かるか? あの地獄が分かるか? あんな沈黙は二度とごめんだ。あれは、」

 ぎゅっと強く手を握られ、ローディアナは甘い疼きと痛みを感じた。
 ――夢とは思えないほど確かな痛み。

「あれは俺がお前に与えた痛みの代価だ。それは分かっていた。分かっていたのに抱えきれなかった」

 ヴィクトールはかつてないほど傷付いているように見えた。
 彼の、額や頬に走っている消えない傷跡も痛々しく、手を握られていなかったらローディアナは彼の輪郭を撫でていただろう。

「そんな目で俺を見るな、ローディア」
 そう言いつつも、ヴィクトールの瞳は優しい曲線を描いていた。
 が、同時に崩れ落ちそうでもあった。
「お前を憎んでいると思い込むことで、俺は叶わない想いに決着を着けようとしていた。お前はあの男の婚約者で、俺は奴の奴隷だった……そしてローディア、お前はいつも奴の隣にいて、俺をあざ笑っていた! 耐えられなかったんだ! 分かるか!」

 ローディアナは弱々しくうなづいてみせた。
 しかし、ヴィクトールは納得できないというように、ますます語調を強めた。

「同じようにお前を傷つければ、それで終われる気がした。この地獄から抜け出せる気がしたんだ。それなのにお前の顔が、声が、夢の中でまで俺を追ってくる。他にどうすればよかった? 教えてくれ……」

 ヴィクトールの肩は小刻みに震えていた。
 答えを求められているのが分かったから、ローディアナは彼を見つめながら、何か、最も慰めになる言葉を捜してみる。この傷付いたひとを癒せるだけの言葉を。
 でも、せっかくの夢なのに、上手く言葉が見つからない……。それを自覚してはじめて、ローディアナは何かがおかしいことに気がついた。

 これは、夢ではないの……?

「陛下……」
「そんな風に俺を呼ぶな。俺は奴隷だった」
「ヴィクトール」
「そうだ、それが俺の名だ」

 ヴィクトールはまるで、他にどうしようもないんだとでも言いた気に、ローディアナの手に指を絡ませて、忙しくこすり合わせていた。

 ヴィクトールは、どうローディアナが答えるのかと考えると恐ろしくて、できるならこのまま彼女を連れて世界の果てに逃げたいくらいだった。

 小さなローディアナ。
 一体彼女に、王に逆らうだけの力があった筈はない。分かっていたのに、一目で恋に落ちた少女に嘲笑されるのは、全ての判断力を狂わせるだけの苦しみだった。たとえそれが『ふり』だと、心の何処かで理解していても。

 膨らみ続けたのは、憎しみではなかった……。愛しさが募っていただけで、それを憎悪とすり替えることで、ヴィクトールは自分の誇りを守っていたのだ。

「許してくれ」
 と、ヴィクトールは呟いていた。
「どうか、許してくれ。俺のした全てを。俺の弱さを……俺がお前に与えた痛みを」

 まだ夜が深い間は、暗闇と静けさに守られて夢を見ていられた。
 寂れた家畜小屋が二人の世界のすべてで、そこには過去も未来もなく、お互いの鼓動だけを聞いていればそれでよかった。
 夜が明けると闇はとりのぞかれ、世界は再び息を吹き返しだす。
 そこにはあるのは別れと、誤解と、苦しみと、憎しみでしか乗り越えられない恋だった。太陽が昇ると月が見えなくなるように、眩しすぎる現実に二人の想いは消え入っていた……。

 でも、今は。

 握られていた両手のうち、片方だけをそっと離したローディアナは、その手でヴィクトールの頬にゆっくりと触れた。
 彼の頬は冷たく、緊張によって固くなっていたが、ローディアナの小さな手を受けると少しずつ温かみを取り戻していくようだった。
「もし、あなたが私を許してくれるのなら」
 大きな声は出せなかったから、ローディアナは弱々しく呟いた。
「私があなたに与えた苦しみを。あなたを守れなかった弱さを……許してくれるなら」
 長い間、二人は静かに見つめ合った。その瞳にはもう、誤解も苦しみもない。

 あるのはただ、失った時間への後悔だけだ。
 ――それも新たな希望の前では、小さなものでしかなかった。

 ローディアナの瞳が涙で濡れてくると、ヴィクトールは少し慌てたような、しかしとても優しい声で、しー、しーっ、と言って彼女をなだめた。

「最初に出会った夜から決めていた……知っていたんだ、もし俺が王になるなら、王妃はお前だと」
「それで……お医者さまは私を王妃と呼ぶの?」

 ローディアナが聞くと、ヴィクトールはどこか少年っぽい微笑を見せた。悪戯を見つかったあと、すっかり開き直ってしまった少年のような笑顔だ。
「今では王宮中がお前をそう呼んでいる。もし国中でなければ。――お前を救うための医者を集めたとき、なぜ奴隷にそこまでするんだと言う連中がいたので、これは俺の王妃だと怒鳴り返してやったんだ」
 今度はローディアナが微笑む番だった。
 私が断るとは思わなかったの? そんな少し意地悪な質問は口に出さないまま、ローディアは彼の瞳を見つめ続けた。

 太陽は昇り続けた。
 彼らにとってはじめての幸せな朝は、そのまま、いつまでも輝いていた。



Endless - 06

 それから半年近くがすぎたある夏の昼下がり――。
 ローディアと呼ばれる森を駆ける二頭の馬があった。

 逞しい黒の雄馬には、それに似合った頑強な体躯の黒髪の青年が乗っている。
 この一頭と一人はぴったりともう一つの影に寄り添っていた。こちらは栗色の小柄な雌馬で、乗っているのは華奢な金髪の女性だ。
 彼女の髪は風とともに揺れ、水色の空に溶けそうなほど輝いている。

 男は馬の歩調を緩めると優しく彼女を見下ろして、何度も何度も彼女の名前を呼んでいた――ローディア、ローディア。

 Endlessly, as if eternal.



【了】

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