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月の盗人
08
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心のどこかで、欲望が疼きながら叫んでいる──盗られるまえに、盗ってしまえばいい、と。
口付けひとつがこれほど神聖で、難しいとは思わなかった。
【太陽と月の終わらない恋の歌 月の盗人 8.】
ダヴィッドは己の理性を信じていたし、確かにそれによって、今日まで多くのものを手に入れてきたのだ。
待つべきところで待ち、引くべきところで引く。
当然のようでいて、じつは困難なこの所業に、ダヴィッドは実業家として卓越していた。
たとえばどんなに貪欲に事業を押しすすめたあとでも、ここまでだと感じたところで立ち止まって、静観する術をよく分かっている。
ダヴィッドのような成り上がり実業家の多くがこれを知らず、またそれだけの忍耐もなく、事業を拡大できるだけ拡大していったあげくに制御できなくなり、自滅することが多いのと対照的だ。
だから。
──だから? だから何だ。
そうした、ダヴィッドが三十一年の人生で培ってきた能力も理性も直感も、今夜ばかりはクズほどにも役に立たなかった。
どこまで走り、どこで止まればいいのか。
いつもははっきりと見えるその境界線が曖昧になり、己の足場がぐらぐらと揺れているような不安定さが、ついて離れなくなる。
今夜のダヴィッドは醜態のかたまりだったと、少なくとも彼自身は、そう感じていた。
ひどい発作を起こしたサイモンと、彼の必死の懇願に、ドロレス小児病院へマノンを連れてくる決心をしたまでは、いい。
問題はそこからだ。
あるいは、欲望とは伝染病のようなものなのか。発作の中で苦しみながら、自分はもう死んでしまうかもしれない、それならばマノンにもっと触れたかったと……そう喘ぐサイモンの願いに触発されたのか。
あるいは。
あるいはその情景に嫉妬したのだ。
もしあの時マノンが目を覚まさなかったら、ダヴィッドは多分に、あのまま……。
「サイデン様、ど、どうしましたか。突然の夜の旅で、お疲れですか?」
副院長のおどおどとした声に、ダヴィッドははっと我に返った。
初老の医師は、人の良さそうな顔をいくらか不安げに傾げて、ダヴィッドの表情をうかがっている。まるで恐ろしいものを見たあとのような顔だ。その「恐ろしいもの」が自分の面構えだったと気付くのに、大した時間は掛からなかった。
ダヴィッドは軽く頭をふり、短い咳払いをすると、いつもどおりの慇懃な微笑を顔に貼り付けた。
「そうかもしれません。なにぶん急だったので」
「ええ、そうでしょうとも。今に湯を沸かしますので……ああ、ぶどう酒の方がよろしいかな」
ダヴィッドが微笑むのを見ると、副院長は先刻のダヴィッドの憤怒の相を、そそくさと忘却の彼方にほうむったらしかった。いそいそと杯を用意し、飲み物をそそぐ。
杯は鈍い色をした銅製だった。
ダヴィッドはつい、妙な懐かしさに口の端を上げた。皮肉っぽい仕草でもあったのだろう、副院長はそれに気付いて肩をすくめてみせた。
「申し訳ない、サイデン様をおもてなしできるほどの物ではありませんね」
きらびやかな装飾のついた銀製の杯でないことを謝りながら、副院長はダヴィッドにぶどう酒を手渡した。杯のみならず、酒自体も甘ったるい安物の匂いがしたが、ダヴィッドはそれをありがたく頂戴する。
──変わったものだな、と。
そう、心のなかで一人呟きながら。
昔日のダヴィッドは、これよりもずっと劣質なぶどう酒と岩のように固くなったパンを得るために、血の滲むような努力をしていた。文字通り何だってした。素手ですくって飲む溝どぶ水の味を覚えているダヴィッドにとって、安物のぶどう酒が苦になるはずもない。
少なくともダヴィッドは生きているのだ。
これ以上の贅沢はないと、身をもって知っている。
存外に勢いよく杯を空けたダヴィッドを横目に、副院長はゆっくりとやりながら、張り詰めて疲れた神経を休めようとしているようだった。
「ゴダールが横領をしているのは……薄々気が付いていたんです」
手狭な診療室の窓際に背をもたれさせた副院長は、どこか諦めたような口調で言った。
「しかし私には悪を暴くような豪気はない。争いごとが苦手なんですよ。小児医でなければ獣医になるつもりだったくらいで」
対するダヴィッドは立ったまま無言だ。
紺色の外套をまとい、髪は後ろに撫で付けている。物分りよく副院長の言い分を聞くかたわら、心の奥ではすでに先のことを考えていた。
ルザーン市警は、困難な事件を前にすると病気の老人のように重腰だったが、こと簡単な逮捕に関しては急に機敏になる。離れの方に転がったゴダールに手錠を掛けにくるのも、もうすぐだろう。
ダヴィッドはゴダールを追放した後について、自動的にこの副院長を後釜に据えればいいと考えていたのだが……どうもこの副院長は、医師としては有能らしいが、病院という一つの集合体の長を頼むにはいかにも頼りない気がした。
そのことを最もよく分かっているのは本人らしく、
「これから私どもはどうするべきでしょうか。私に院長は務まりませんし……」
と、訴えてくる。
本来ダヴィッドは、ただの援助者の一人であり(他に援助者がいればの話だが)、責任もなければ決定権もないのだ。が、こうして頼られると放っておけなくなるのも、ダヴィッドだった。
──小児医。
院長の務まる器。
新しい役職に就くだけ手の空いている者。
ダヴィッドはそれにぴったりと該当する人間を一人だけ見知っていた。嫌なことに。
「もしかしたら……適任者を紹介できるかも知れません」ダヴィッドは言った。
副院長は待ってましたと言わんばかりに瞳を輝かせて応えた。
「本当ですか! いや、これは有難い。そうしていただければ私も、子供達も助かります」
「もしかしたら、ですよ。それに私は紹介するだけです。本人に断られれば強制はできませんからね」
「それで充分です。だいたい、サイデン様に頼まれて断る人間がいるもんですか!」
いるんだよ、とダヴィッドは内心呟いた。
当然、ダヴィッドの声なき声が副院長に届くことはなく、ダヴィッドが洩らした憂鬱な溜息も、聞かれることはなかったが……。
ダヴィッドの一部はすでに自分のした提案を後悔していたが、背に腹は変えられない。前言を覆すのも嫌いだった。
美しい──と表現するのには抵抗を感じるが、事実だ──銀髪の男が、勝ち誇った笑い声を洩らす幻聴を、ダヴィッドは確かに聞いた。
病気だからといって、子供が悪さをできなくなると思い込むのは、大人の放漫だ。
彼らは、ネズミさえも通らないような抜け道を見つけだす天才で、目を離せば途端にどこかへ行ってしまう。病室に二人きり残されたサイモンとマノンは、まさにそれだった。
薄明かりの中、こそこそと小声で交わされる二人の会話──。
「なんで……キスしちゃだめなんだよ。俺が、嫌いか?」
むっつりとした顔をしながらサイモンが呟く。
「嫌いじゃないからって、キスはしないの」
近付いてくるサイモンの顔を手で押し返しながら、マノンはきっぱり告げた。
「減るもんでもないし」
「減るどころじゃなくて、なくなっちゃうわ。初めてのキスは大事なものなの」
「む……どこで聞いたんだよ」
「ほ、本で読んだの」
「むむ……」
マノンはサイモンのキスを拒みながらも、ベッドサイドを離れようとはしなかった。この辺が子供の甘い世界だ。
サイモンは引き下がらなかった。
「じゃあ……どんな奴となら初めてのキスをするんだ?」
「大好きな人と」
マノンは即答した。
「俺のことは……好きじゃないのか」
「好きだけど、大好きというのとは違う気がするから……」
「わっかんねぇ」
「今度、その本を貸してあげるわ」
「いや、いらないよ……そうじゃなくて……俺がお前を大好きなだけじゃ、だめなのか? 俺、死んじゃうかもしれないんだぜ?」
「だめ。それにあなたは死んだりしないわ。副院長もダヴィッドもそう言ってるもの」
引き続いての否定に、サイモンはぐさりと矢が胸に突き刺さったような衝撃を感じながらも……矛先を変えた。
「じゃあ、マノン、その大好きな人っていうのが、もういるのか……?」
「…………」
「いるんだなっ」
サイモンは名探偵が犯人を当てたような声を上げた。ついさっきまで重病人だったとは思えないような感じだ。よほど重大な事実だったのだろう。
マノンは小さく肩をすくめて、頬を染めた。
その様子にサイモンはますます興奮する。
「誰なんだよ……教えろよ……」
「お、教えてどうするの?」
「やっつけて成敗してやる。そうすれば、女のみさおは……俺のものになるんだ」
「女のみさお?」
「よく分かんないけど、きっとキスみたいなもんだ。芝居小屋で、そんな海賊の劇を見たことがある」
マノンは瞳をぱちくりと瞬いた。
女のみさお……。
よく分からないが、何だか新しい世界を垣間見た気分で、マノンは少し感動した。
「サイモン……でも、残念だけど、やっつけるのは難しいと思うわ」
「な、なんでっ」
サイモンは泣きそうだった。
マノンは真っ赤になったサイモンの頬を優しく撫でながら、柔らかく微笑んで、言った。
「だって私の大好きな人は、黒の怪盗だもの」
口付けひとつがこれほど神聖で、難しいとは思わなかった。
【太陽と月の終わらない恋の歌 月の盗人 8.】
ダヴィッドは己の理性を信じていたし、確かにそれによって、今日まで多くのものを手に入れてきたのだ。
待つべきところで待ち、引くべきところで引く。
当然のようでいて、じつは困難なこの所業に、ダヴィッドは実業家として卓越していた。
たとえばどんなに貪欲に事業を押しすすめたあとでも、ここまでだと感じたところで立ち止まって、静観する術をよく分かっている。
ダヴィッドのような成り上がり実業家の多くがこれを知らず、またそれだけの忍耐もなく、事業を拡大できるだけ拡大していったあげくに制御できなくなり、自滅することが多いのと対照的だ。
だから。
──だから? だから何だ。
そうした、ダヴィッドが三十一年の人生で培ってきた能力も理性も直感も、今夜ばかりはクズほどにも役に立たなかった。
どこまで走り、どこで止まればいいのか。
いつもははっきりと見えるその境界線が曖昧になり、己の足場がぐらぐらと揺れているような不安定さが、ついて離れなくなる。
今夜のダヴィッドは醜態のかたまりだったと、少なくとも彼自身は、そう感じていた。
ひどい発作を起こしたサイモンと、彼の必死の懇願に、ドロレス小児病院へマノンを連れてくる決心をしたまでは、いい。
問題はそこからだ。
あるいは、欲望とは伝染病のようなものなのか。発作の中で苦しみながら、自分はもう死んでしまうかもしれない、それならばマノンにもっと触れたかったと……そう喘ぐサイモンの願いに触発されたのか。
あるいは。
あるいはその情景に嫉妬したのだ。
もしあの時マノンが目を覚まさなかったら、ダヴィッドは多分に、あのまま……。
「サイデン様、ど、どうしましたか。突然の夜の旅で、お疲れですか?」
副院長のおどおどとした声に、ダヴィッドははっと我に返った。
初老の医師は、人の良さそうな顔をいくらか不安げに傾げて、ダヴィッドの表情をうかがっている。まるで恐ろしいものを見たあとのような顔だ。その「恐ろしいもの」が自分の面構えだったと気付くのに、大した時間は掛からなかった。
ダヴィッドは軽く頭をふり、短い咳払いをすると、いつもどおりの慇懃な微笑を顔に貼り付けた。
「そうかもしれません。なにぶん急だったので」
「ええ、そうでしょうとも。今に湯を沸かしますので……ああ、ぶどう酒の方がよろしいかな」
ダヴィッドが微笑むのを見ると、副院長は先刻のダヴィッドの憤怒の相を、そそくさと忘却の彼方にほうむったらしかった。いそいそと杯を用意し、飲み物をそそぐ。
杯は鈍い色をした銅製だった。
ダヴィッドはつい、妙な懐かしさに口の端を上げた。皮肉っぽい仕草でもあったのだろう、副院長はそれに気付いて肩をすくめてみせた。
「申し訳ない、サイデン様をおもてなしできるほどの物ではありませんね」
きらびやかな装飾のついた銀製の杯でないことを謝りながら、副院長はダヴィッドにぶどう酒を手渡した。杯のみならず、酒自体も甘ったるい安物の匂いがしたが、ダヴィッドはそれをありがたく頂戴する。
──変わったものだな、と。
そう、心のなかで一人呟きながら。
昔日のダヴィッドは、これよりもずっと劣質なぶどう酒と岩のように固くなったパンを得るために、血の滲むような努力をしていた。文字通り何だってした。素手ですくって飲む溝どぶ水の味を覚えているダヴィッドにとって、安物のぶどう酒が苦になるはずもない。
少なくともダヴィッドは生きているのだ。
これ以上の贅沢はないと、身をもって知っている。
存外に勢いよく杯を空けたダヴィッドを横目に、副院長はゆっくりとやりながら、張り詰めて疲れた神経を休めようとしているようだった。
「ゴダールが横領をしているのは……薄々気が付いていたんです」
手狭な診療室の窓際に背をもたれさせた副院長は、どこか諦めたような口調で言った。
「しかし私には悪を暴くような豪気はない。争いごとが苦手なんですよ。小児医でなければ獣医になるつもりだったくらいで」
対するダヴィッドは立ったまま無言だ。
紺色の外套をまとい、髪は後ろに撫で付けている。物分りよく副院長の言い分を聞くかたわら、心の奥ではすでに先のことを考えていた。
ルザーン市警は、困難な事件を前にすると病気の老人のように重腰だったが、こと簡単な逮捕に関しては急に機敏になる。離れの方に転がったゴダールに手錠を掛けにくるのも、もうすぐだろう。
ダヴィッドはゴダールを追放した後について、自動的にこの副院長を後釜に据えればいいと考えていたのだが……どうもこの副院長は、医師としては有能らしいが、病院という一つの集合体の長を頼むにはいかにも頼りない気がした。
そのことを最もよく分かっているのは本人らしく、
「これから私どもはどうするべきでしょうか。私に院長は務まりませんし……」
と、訴えてくる。
本来ダヴィッドは、ただの援助者の一人であり(他に援助者がいればの話だが)、責任もなければ決定権もないのだ。が、こうして頼られると放っておけなくなるのも、ダヴィッドだった。
──小児医。
院長の務まる器。
新しい役職に就くだけ手の空いている者。
ダヴィッドはそれにぴったりと該当する人間を一人だけ見知っていた。嫌なことに。
「もしかしたら……適任者を紹介できるかも知れません」ダヴィッドは言った。
副院長は待ってましたと言わんばかりに瞳を輝かせて応えた。
「本当ですか! いや、これは有難い。そうしていただければ私も、子供達も助かります」
「もしかしたら、ですよ。それに私は紹介するだけです。本人に断られれば強制はできませんからね」
「それで充分です。だいたい、サイデン様に頼まれて断る人間がいるもんですか!」
いるんだよ、とダヴィッドは内心呟いた。
当然、ダヴィッドの声なき声が副院長に届くことはなく、ダヴィッドが洩らした憂鬱な溜息も、聞かれることはなかったが……。
ダヴィッドの一部はすでに自分のした提案を後悔していたが、背に腹は変えられない。前言を覆すのも嫌いだった。
美しい──と表現するのには抵抗を感じるが、事実だ──銀髪の男が、勝ち誇った笑い声を洩らす幻聴を、ダヴィッドは確かに聞いた。
病気だからといって、子供が悪さをできなくなると思い込むのは、大人の放漫だ。
彼らは、ネズミさえも通らないような抜け道を見つけだす天才で、目を離せば途端にどこかへ行ってしまう。病室に二人きり残されたサイモンとマノンは、まさにそれだった。
薄明かりの中、こそこそと小声で交わされる二人の会話──。
「なんで……キスしちゃだめなんだよ。俺が、嫌いか?」
むっつりとした顔をしながらサイモンが呟く。
「嫌いじゃないからって、キスはしないの」
近付いてくるサイモンの顔を手で押し返しながら、マノンはきっぱり告げた。
「減るもんでもないし」
「減るどころじゃなくて、なくなっちゃうわ。初めてのキスは大事なものなの」
「む……どこで聞いたんだよ」
「ほ、本で読んだの」
「むむ……」
マノンはサイモンのキスを拒みながらも、ベッドサイドを離れようとはしなかった。この辺が子供の甘い世界だ。
サイモンは引き下がらなかった。
「じゃあ……どんな奴となら初めてのキスをするんだ?」
「大好きな人と」
マノンは即答した。
「俺のことは……好きじゃないのか」
「好きだけど、大好きというのとは違う気がするから……」
「わっかんねぇ」
「今度、その本を貸してあげるわ」
「いや、いらないよ……そうじゃなくて……俺がお前を大好きなだけじゃ、だめなのか? 俺、死んじゃうかもしれないんだぜ?」
「だめ。それにあなたは死んだりしないわ。副院長もダヴィッドもそう言ってるもの」
引き続いての否定に、サイモンはぐさりと矢が胸に突き刺さったような衝撃を感じながらも……矛先を変えた。
「じゃあ、マノン、その大好きな人っていうのが、もういるのか……?」
「…………」
「いるんだなっ」
サイモンは名探偵が犯人を当てたような声を上げた。ついさっきまで重病人だったとは思えないような感じだ。よほど重大な事実だったのだろう。
マノンは小さく肩をすくめて、頬を染めた。
その様子にサイモンはますます興奮する。
「誰なんだよ……教えろよ……」
「お、教えてどうするの?」
「やっつけて成敗してやる。そうすれば、女のみさおは……俺のものになるんだ」
「女のみさお?」
「よく分かんないけど、きっとキスみたいなもんだ。芝居小屋で、そんな海賊の劇を見たことがある」
マノンは瞳をぱちくりと瞬いた。
女のみさお……。
よく分からないが、何だか新しい世界を垣間見た気分で、マノンは少し感動した。
「サイモン……でも、残念だけど、やっつけるのは難しいと思うわ」
「な、なんでっ」
サイモンは泣きそうだった。
マノンは真っ赤になったサイモンの頬を優しく撫でながら、柔らかく微笑んで、言った。
「だって私の大好きな人は、黒の怪盗だもの」
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