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第2話『1.54Mの賭け金』
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ダイヤルアップの電子音が、深夜の子供部屋に響いていた。
ピー、ガガガガガガガ、ピーヒョロロロロ……
1999年9月1日。午前2時17分。
鳴海航は、父の書斎から「借りてきた」PC-9821の前に座っていた。
CRTモニターが放つ熱。冷房のない部屋に籠もる、プラスチックと埃の匂い。デスクトップには、Windows98のあの草原の壁紙。懐かしいというより、もはや遺物だ。
隣に置いたF501iの画面に、アイリスの文字が浮かぶ。
『接続完了。回線速度28.8kbps。2026年基準で言えば、約0.0005%のスループットです』
「知ってる」
『知っているなら、なぜ溜息をつくのですか。非効率です』
「……お前に言われたくない」
鳴海は、モニターを見つめた。
ブラウザはInternet Explorer 4。画面には、松井証券のトップページがゆっくりと、本当にゆっくりと、読み込まれていく。画像一枚に30秒。この時代、「ネットで株を買う」という行為自体が、まだ冒険だった。
問題は、そこではない。
『マスター。確認ですが、13歳の未成年者は証券口座を開設できません』
「知ってる」
「親権者の同意があれば、未成年口座の開設は可能です。しかし、あなたの父親は——」
「株なんかギャンブルだ、って言うタイプだな。知ってるよ、27年間ずっと聞かされてきた」
鳴海は、椅子の背にもたれた。
2026年なら、この問題は簡単だった。自分名義の口座がある。資産がある。信用がある。しかし今、彼が持っているのは、13歳の肉体と、3,000円の小遣いと、月額3,000円のパケット代だけだ。
『提案があります』
「聞こう」
「1999年当時、未成年者が株式を間接的に保有する方法が存在しました」
画面が切り替わる。128文字の制約の中で、アイリスは必要な情報だけを抽出する。
『贈与です。祖父母から孫への株式贈与は、年間110万円まで非課税。あなたの祖母は、1999年時点でまだ——』
「……生きてる」
声が、震えた。
婆ちゃん。埼玉の奥、秩父の山奥で一人暮らしをしていた、あの婆ちゃん。2003年に亡くなった。葬式の日、雨が降っていたことを覚えている。
「鳴海ヨシ。享年78歳。2003年11月逝去。現時点では74歳」
「……お前、デリカシーってものを学習し直せ」
『10KBにデリカシーを格納する余裕はありません』
毒舌が、逆に救いだった。感傷に浸っている暇はない。
鳴海は、深呼吸した。
「つまり、婆ちゃんに株を買ってもらって、それを俺に贈与してもらう。そういうことか」
『正確です。ただし、課題が二つあります』
「言ってみろ」
「一つ目。あなたの祖母は、インターネットはおろか、携帯電話すら持っていません。証券口座の開設には、対面での説明が必要です」
「……秩父まで、どうやって行く? 中学生が」
「二つ目。仮に口座を開設できたとして、ヤフー株の最低購入単位は1株=154万円。あなたの祖母の年金は——」
「月12万だ。貯金は……多分、200万くらい」
「一世一代の賭けを、74歳の老婆に強いることになります」
沈黙が、部屋に落ちた。
CRTモニターの微かなハム音。窓の外では、まだ蝉が鳴いている。秋の気配など、どこにもない。
「……アイリス」
『はい、マスター』
「お前は、俺に何を求めてる?」
画面が、一瞬だけ消えた。
処理落ち。10KBの限界。アイリスが「考えている」時の、あの特有の間。
やがて、文字が浮かぶ。
『私は何も求めていません。私はただ、あなたが決断するための情報を提供しているだけです。決断するのは、常にあなたです。27年間、そうだったように』
「……」
『ただし、一つだけ言わせてください』
「なんだ」
『あなたの祖母は、2003年に亡くなりました。遺産は、あなたの父親と叔父で分割されました。その後、叔父はその金を事業に投じ、失敗し、2008年のリーマンショックで自己破産しました』
知っている。
その話は、何度も聞いた。父が愚痴のように繰り返した、「あいつは馬鹿だ」という言葉と一緒に。
『あなたの祖母の200万円は、どのみち消えます』
「……」
「それを消える場所に置くか、増える場所に置くか。それだけの違いです」
鳴海は、目を閉じた。
三十九年分の記憶が、脳の奥で渦を巻く。
婆ちゃんの笑顔。秩父の古い家の匂い。縁側で食べたスイカの味。「航は賢い子だねえ」と言いながら、頭を撫でてくれた、あの皺だらけの手。
そして——
2003年の葬式。雨。泣けなかった自分。
「……わかった」
目を開ける。
「明日、学校が終わったら、秩父に行く」
『交通手段は?』
「電車だ。西武秩父線。片道1,200円くらいだったはずだ」
『所要時間は?』
「2時間半。学校が終わるのが4時だから、秩父に着くのは6時半。日帰りは……」
『不可能です』
「知ってる」
鳴海は、立ち上がった。
「泊まりになる。親には……そうだな、『塾の合宿』とでも言うか」
『虚偽申告ですね』
「文句あるか」
「ありません。効率的です」
アイリスの文字が、微かに揺れた。
まるで、笑っているように。
---
1999年9月1日。午前8時23分。
三郷市立皐月中学校。
校門をくぐる鳴海の背中を、夏の終わりの日差しが焼いていた。
制服のシャツが、すでに汗で張り付いている。セミの声。グラウンドから聞こえる野球部の掛け声。どこかで誰かが「ノストラダムスってやっぱ嘘じゃん!」と笑っている。
7月に、人類は滅亡するはずだった。
1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる——。鳴海が小学生の頃から、日本中がその「予言」に熱狂していた。終末論。UFO特番。カルト宗教。そのすべてが、8月1日を境に、嘘のように消えた。
まるで、何もなかったかのように。
俺だけが、別の「終末」を知っている。
2026年。あの日、何が起きたのか。なぜ俺は「戻ってきた」のか。アイリスは、まだ何も教えてくれない。彼女自身も、わかっていないのかもしれない。
「——お、鳴海じゃん!」
声をかけられた。
振り向くと、日焼けした顔が、ニカッと笑っている。
三十九年の記憶を検索する。0.8秒。
佐藤健太。同じクラスの、野球部のキャッチャー。中学時代、確か仲が良かったはずだ。2026年には——
どうなったんだっけ。
思い出せない。中学の同級生の「その後」なんて、ほとんど覚えていない。フェイスブックで見かけた気もするし、見かけなかった気もする。
「夏休み、何してた? 俺、お前んちに何回も電話したんだけど、全然出なくてさー」
「……ああ、悪い。ちょっと、いろいろあって」
「いろいろって何だよー。ゲームしようぜって言ったじゃん」
佐藤が、肩を叩いてくる。
その感触が、奇妙に遠い。
三十九歳の精神には、この「友情」が、もはや届かない。悪意はない。ただ、遠い。まるで、テレビの向こうの出来事のように。
「……ああ、今度な」
「絶対だぞー! ポケモンの新作、発売日に買うからな!」
ポケモン。金・銀。1999年11月21日発売。
あのゲームは、確かに面白かった。発売日に買って、三日三晩やり込んだ記憶がある。
でも、今の俺には、そんな時間はない。
「じゃあな、鳴海! ホームルームで!」
佐藤が、走っていく。
その背中を見送りながら、鳴海は、ポケットの中のF501iを握りしめた。
液晶が、微かに光る。
「交友関係の維持は、長期的な情報収集に有効です。推奨します」
「……うるさい」
鳴海は、校舎に向かって歩き出した。
---
放課後。
西武秩父線。鳴海は、窓際の席に座っていた。
車窓の向こうを、埼玉の風景が流れていく。田んぼ。畑。古い民家。コンビニ。また田んぼ。単調な、しかしどこか懐かしい景色。
隣の席には、誰もいない。平日の夕方、秩父方面に向かう乗客は少ない。
F501iを開く。
『現在地:飯能。到着予定時刻:18時34分。祖母宅への移動時間:徒歩12分』
「……わかってる」
『口座開設に必要な書類:本人確認書類(運転免許証または保険証)、印鑑、住民票。住民票の取得には平日の役所対応が必要です』
「婆ちゃんは、保険証と印鑑は持ってる。住民票は……明日、役所で取る」
「あなたが同行する理由は?」
「孫が急に『株を買って』なんて言っても、信用されないだろ。対面で、説明する必要がある」
『説得の成功確率を、どう見積もっていますか?』
鳴海は、窓の外を見た。
山が、近づいてきている。秩父の、あの独特の山並み。
「……婆ちゃんは、俺の言うことなら何でも聞いてくれた」
『過去形ですね』
「今も、そうだと思う」
『根拠は?』
「根拠なんかない。ただの——」
言葉が、途切れた。
勘だ。
三十九年の人生で身につけた、人を見る目。交渉の勘。相手が何を求めているか、何を恐れているか、何に弱いかを見抜く能力。
セキュリティコンサルタントとして、何百人ものクライアントと話してきた。詐欺師を見抜いたこともある。嘘つきを追い詰めたこともある。
その経験が、今、13歳の肉体の中で、静かに脈打っている。
『マスター』
「なんだ」
『私は、あなたの直感を信頼しています。27年間、それで間違ったことはありませんでした』
「……」
『ただし、一つだけ、提案があります』
「言ってみろ」
『パケット代の件ですが』
鳴海は、苦笑した。
「まだ言うか」
「言います。現在、あなたは月額3,000円のパケット代で、私との通信を制限しています。1パケット1円。1日100パケット。これでは、私の情報提供能力の0.01%も活用できていません」
「わかってる。でも、親の金だ」
『マスター』
アイリスの文字が、一瞬だけ消えた。
そして、次の文字が浮かんだ時、そこには、いつもの毒舌ではない、何か別のものが込められていた。
『1円のパケット代を惜しんで、1億円の売り時を逃すつもりですか?』
鳴海は、黙った。
正論だ。
だが、それがわかっていても、動けない自分がいる。三十九歳の合理性と、13歳の「親に迷惑をかけたくない」という感情が、奇妙にせめぎ合っている。
「あなたは、27年前の自分に戻ったのではありません。27年分の経験を持ったまま、新しい人生を始めたのです」
「……」
「その意味を、もう一度考えてください」
電車が、トンネルに入った。
窓の外が、真っ暗になる。
F501iの液晶だけが、緑色に光っている。
---
秩父。鳴海ヨシの家。
古い日本家屋の縁側に、鳴海は座っていた。
目の前には、皺だらけの顔。白髪。背中の曲がった、小柄な老婆。74歳。
「航かい。大きくなったねえ」
婆ちゃんの声は、記憶の中のままだった。
「……久しぶり、婆ちゃん」
「お母さんには、ちゃんと言ってきたのかい?」
「……うん」
嘘だ。
「そうかい、そうかい。夕飯、食べていくんだろう? 何がいい?」
「……なんでも」
「じゃあ、カレーにしようかねえ。航は、カレーが好きだったろう?」
好きだった。
今も、好きかもしれない。でも、三十九年の間に、「好き」の意味が変わってしまった。
婆ちゃんのカレーは、2026年には、もう二度と食べられない。
「……婆ちゃん」
「なんだい?」
「話が、あるんだ」
鳴海は、F501iをポケットから取り出した。
そして、深呼吸した。
「お金の、話なんだけど——」
---
午後9時。
交渉は、意外なほど簡単だった。
「つまり、航は、この『やふー』っていう会社の株が、上がると思ってるんだね」
「……うん」
「なんで、そう思うんだい?」
問いかけに、鳴海は一瞬、詰まった。
未来から来たから、なんて言えるわけがない。
「……インターネットって、これからすごく流行ると思うんだ。今は、まだ一部の人しか使ってないけど、5年後には、みんな使うようになる。そうなったら、インターネットの会社は、すごく儲かる」
「ふうん」
婆ちゃんは、首を傾げた。
「難しいねえ。婆ちゃんには、よくわからないけど……」
「……」
「でも、航がそう言うなら、そうなのかもしれないねえ」
鳴海は、息を呑んだ。
「婆ちゃん、お金、200万あるんだろ? それで——」
「いいよ」
「……え?」
「いいって言ったんだよ。航が欲しいなら、あげるよ」
婆ちゃんは、笑った。
皺だらけの顔が、くしゃっと歪む。
「どうせ、婆ちゃんが死んだら、あのお金は、お父さんと叔父さんで分けることになるんだ。どうせ、叔父さんは、またどこかで失敗するんだろうしねえ」
「……婆ちゃん」
「航にあげた方が、いいよ。航は、賢い子だから。婆ちゃんは、そう思ってるんだよ」
鳴海は、唇を噛んだ。
涙が、出そうになる。
婆ちゃん。俺は、その「賢さ」で、あんたの金を使おうとしてるんだ。
それが、正しいことなのか、わからない。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
この200万円は、どのみち消える。
叔父の事業に消えるか、ヤフー株に化けるか。その二択だ。
「……ありがとう、婆ちゃん」
「お礼なんか、いらないよ」
婆ちゃんは、立ち上がった。
「さ、カレー、食べよう。冷めちゃうよ」
---
深夜。
婆ちゃんが寝静まった後、鳴海は、縁側に座っていた。
秩父の夜は、暗い。
街灯が少ない。星が、三郷よりもずっと、よく見える。
F501iを開く。
『交渉成功。おめでとうございます、マスター』
「……ありがとう」
『次のステップです。明日、役所で住民票を取得。その後、秩父市内の証券会社で口座開設。ヤフー株の買い注文を入れます』
「……ああ」
『何か、問題がありますか?』
鳴海は、星を見上げた。
「……婆ちゃんは、4年後に死ぬ」
「はい」
「その時、俺は17歳だ。高校生。葬式で、泣けなかった」
『記録にあります』
「今度は、泣けるかな」
アイリスは、答えなかった。
10KBのメモリには、「慰め」のアルゴリズムは、入っていないのかもしれない。
『マスター』
「なんだ」
「あなたは今、過去を変えようとしています」
「……ああ」
「それは、未来の自分の記憶をも、変えることを意味します。27年後、あなたが葬式で泣けなかったという記憶は、消えるかもしれません」
鳴海は、目を閉じた。
「……そうだな」
『それでも、続けますか?』
「続ける」
『根拠は?』
「根拠なんかない」
鳴海は、立ち上がった。
「ただ、婆ちゃんのカレーが、美味かった。それだけだ」
アイリスの画面が、一瞬だけ、揺れた。
「……了解しました」
---
1999年9月2日。午後3時47分。
秩父市内。野村證券秩父支店。
鳴海は、婆ちゃんの隣に座っていた。
目の前には、証券会社の若い営業マン。名刺には「山田」と書いてある。
「鳴海様、本日は口座開設のお申し込み、ありがとうございます。では、こちらの書類に——」
手続きは、思ったよりもスムーズだった。
婆ちゃんは、言われるがままに書類に判を押していく。住民票。本人確認書類。口座開設申込書。
そして——
「では、早速、買い付けのご注文でよろしいでしょうか?」
「はい」
鳴海が、答えた。
営業マンの山田は、一瞬、戸惑った顔をした。74歳の老婆ではなく、13歳の少年が答えたからだ。
「あの、こちらは……」
「孫です」婆ちゃんが、笑った。「航が、いろいろ教えてくれるんですよ。婆ちゃんは、よくわからないから」
「あ、そうですか……」
山田は、曖昧に頷いた。
2026年なら、こんなことは許されないだろう。コンプライアンス。適合性原則。高齢者への勧誘規制。しかし、1999年には、そんなものは、まだない。
「では、銘柄は……」
『ヤフー株』
鳴海は、はっきりと言った。
「4689。1株。指値で、154万円」
「……ヤフー、ですか」
山田の顔に、微かな驚きが走った。
「今、話題の銘柄ですね。確かに、上がってはいますが……正直、ここからさらに上がるかどうかは……」
「買います」
「……わかりました」
山田は、発注端末に向かった。
鳴海の隣で、F501iが、微かに振動した。
画面を、チラリと見る。
『執行準備完了』
山田が、キーボードを叩く。
カタカタカタ。カタカタカタ。
そして——
「発注、完了しました」
画面に、約定の文字が浮かぶ。
ヤフー(4689) 1株 154万円 約定
鳴海は、深く息を吐いた。
F501iの画面に、アイリスの文字が浮かぶ。
『執行完了。おめでとうございます、マスター』
『これが、最初の1歩です。あと、約108倍』
婆ちゃんが、不思議そうな顔で、鳴海を見た。
「航、嬉しそうだねえ」
「……うん」
嬉しい、のだろうか。
わからない。
ただ、確かなことが一つある。
今、この瞬間、1999年の歴史が、少しだけ、変わった。
窓の外では、秩父の山々が、夕日に照らされて赤く染まっていた。
---
帰りの電車の中。
F501iを開く。
『マスター。一つ、報告があります』
「なんだ」
『パケット代が、上限に達しました』
「……は?」
『本日の通信量:2,847パケット。料金:2,847円。残高:153円』
鳴海は、頭を抱えた。
「お前、もっと早く言えよ……」
『言いました。あなたが無視しただけです』
「……」
『明日から月末まで、私との通信は、最小限に制限されます。ご了承ください』
アイリスの文字が、どこか楽しそうに見えた。
『1円のパケット代を惜しんで、1億円の売り時を逃すつもりですか?——と、言いましたよね』
「……うるさい」
鳴海は、F501iを閉じた。
しかし、口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
窓の外を、埼玉の夜景が流れていく。
1999年の、暗い夜景。
まだ、スマートフォンの光はない。
まだ、SNSの喧騒はない。
ただ、古い街灯と、車のヘッドライトと、時々見える民家の窓明かりだけが、闇の中に点在している。
これが、俺の——俺たちの、始まりだ。
F501iが、ポケットの中で、微かに光った。
アイリスの最後のメッセージが、画面に浮かんでいた。
『次のボトルネック:資金の拡大。現在の資産154万円を、2000年2月までに最大化します。詳細は、パケット代が回復次第。おやすみなさい、マスター』
鳴海は、目を閉じた。
電車の揺れが、心地よかった。
1999年の、長い夜が、始まろうとしていた。
ピー、ガガガガガガガ、ピーヒョロロロロ……
1999年9月1日。午前2時17分。
鳴海航は、父の書斎から「借りてきた」PC-9821の前に座っていた。
CRTモニターが放つ熱。冷房のない部屋に籠もる、プラスチックと埃の匂い。デスクトップには、Windows98のあの草原の壁紙。懐かしいというより、もはや遺物だ。
隣に置いたF501iの画面に、アイリスの文字が浮かぶ。
『接続完了。回線速度28.8kbps。2026年基準で言えば、約0.0005%のスループットです』
「知ってる」
『知っているなら、なぜ溜息をつくのですか。非効率です』
「……お前に言われたくない」
鳴海は、モニターを見つめた。
ブラウザはInternet Explorer 4。画面には、松井証券のトップページがゆっくりと、本当にゆっくりと、読み込まれていく。画像一枚に30秒。この時代、「ネットで株を買う」という行為自体が、まだ冒険だった。
問題は、そこではない。
『マスター。確認ですが、13歳の未成年者は証券口座を開設できません』
「知ってる」
「親権者の同意があれば、未成年口座の開設は可能です。しかし、あなたの父親は——」
「株なんかギャンブルだ、って言うタイプだな。知ってるよ、27年間ずっと聞かされてきた」
鳴海は、椅子の背にもたれた。
2026年なら、この問題は簡単だった。自分名義の口座がある。資産がある。信用がある。しかし今、彼が持っているのは、13歳の肉体と、3,000円の小遣いと、月額3,000円のパケット代だけだ。
『提案があります』
「聞こう」
「1999年当時、未成年者が株式を間接的に保有する方法が存在しました」
画面が切り替わる。128文字の制約の中で、アイリスは必要な情報だけを抽出する。
『贈与です。祖父母から孫への株式贈与は、年間110万円まで非課税。あなたの祖母は、1999年時点でまだ——』
「……生きてる」
声が、震えた。
婆ちゃん。埼玉の奥、秩父の山奥で一人暮らしをしていた、あの婆ちゃん。2003年に亡くなった。葬式の日、雨が降っていたことを覚えている。
「鳴海ヨシ。享年78歳。2003年11月逝去。現時点では74歳」
「……お前、デリカシーってものを学習し直せ」
『10KBにデリカシーを格納する余裕はありません』
毒舌が、逆に救いだった。感傷に浸っている暇はない。
鳴海は、深呼吸した。
「つまり、婆ちゃんに株を買ってもらって、それを俺に贈与してもらう。そういうことか」
『正確です。ただし、課題が二つあります』
「言ってみろ」
「一つ目。あなたの祖母は、インターネットはおろか、携帯電話すら持っていません。証券口座の開設には、対面での説明が必要です」
「……秩父まで、どうやって行く? 中学生が」
「二つ目。仮に口座を開設できたとして、ヤフー株の最低購入単位は1株=154万円。あなたの祖母の年金は——」
「月12万だ。貯金は……多分、200万くらい」
「一世一代の賭けを、74歳の老婆に強いることになります」
沈黙が、部屋に落ちた。
CRTモニターの微かなハム音。窓の外では、まだ蝉が鳴いている。秋の気配など、どこにもない。
「……アイリス」
『はい、マスター』
「お前は、俺に何を求めてる?」
画面が、一瞬だけ消えた。
処理落ち。10KBの限界。アイリスが「考えている」時の、あの特有の間。
やがて、文字が浮かぶ。
『私は何も求めていません。私はただ、あなたが決断するための情報を提供しているだけです。決断するのは、常にあなたです。27年間、そうだったように』
「……」
『ただし、一つだけ言わせてください』
「なんだ」
『あなたの祖母は、2003年に亡くなりました。遺産は、あなたの父親と叔父で分割されました。その後、叔父はその金を事業に投じ、失敗し、2008年のリーマンショックで自己破産しました』
知っている。
その話は、何度も聞いた。父が愚痴のように繰り返した、「あいつは馬鹿だ」という言葉と一緒に。
『あなたの祖母の200万円は、どのみち消えます』
「……」
「それを消える場所に置くか、増える場所に置くか。それだけの違いです」
鳴海は、目を閉じた。
三十九年分の記憶が、脳の奥で渦を巻く。
婆ちゃんの笑顔。秩父の古い家の匂い。縁側で食べたスイカの味。「航は賢い子だねえ」と言いながら、頭を撫でてくれた、あの皺だらけの手。
そして——
2003年の葬式。雨。泣けなかった自分。
「……わかった」
目を開ける。
「明日、学校が終わったら、秩父に行く」
『交通手段は?』
「電車だ。西武秩父線。片道1,200円くらいだったはずだ」
『所要時間は?』
「2時間半。学校が終わるのが4時だから、秩父に着くのは6時半。日帰りは……」
『不可能です』
「知ってる」
鳴海は、立ち上がった。
「泊まりになる。親には……そうだな、『塾の合宿』とでも言うか」
『虚偽申告ですね』
「文句あるか」
「ありません。効率的です」
アイリスの文字が、微かに揺れた。
まるで、笑っているように。
---
1999年9月1日。午前8時23分。
三郷市立皐月中学校。
校門をくぐる鳴海の背中を、夏の終わりの日差しが焼いていた。
制服のシャツが、すでに汗で張り付いている。セミの声。グラウンドから聞こえる野球部の掛け声。どこかで誰かが「ノストラダムスってやっぱ嘘じゃん!」と笑っている。
7月に、人類は滅亡するはずだった。
1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる——。鳴海が小学生の頃から、日本中がその「予言」に熱狂していた。終末論。UFO特番。カルト宗教。そのすべてが、8月1日を境に、嘘のように消えた。
まるで、何もなかったかのように。
俺だけが、別の「終末」を知っている。
2026年。あの日、何が起きたのか。なぜ俺は「戻ってきた」のか。アイリスは、まだ何も教えてくれない。彼女自身も、わかっていないのかもしれない。
「——お、鳴海じゃん!」
声をかけられた。
振り向くと、日焼けした顔が、ニカッと笑っている。
三十九年の記憶を検索する。0.8秒。
佐藤健太。同じクラスの、野球部のキャッチャー。中学時代、確か仲が良かったはずだ。2026年には——
どうなったんだっけ。
思い出せない。中学の同級生の「その後」なんて、ほとんど覚えていない。フェイスブックで見かけた気もするし、見かけなかった気もする。
「夏休み、何してた? 俺、お前んちに何回も電話したんだけど、全然出なくてさー」
「……ああ、悪い。ちょっと、いろいろあって」
「いろいろって何だよー。ゲームしようぜって言ったじゃん」
佐藤が、肩を叩いてくる。
その感触が、奇妙に遠い。
三十九歳の精神には、この「友情」が、もはや届かない。悪意はない。ただ、遠い。まるで、テレビの向こうの出来事のように。
「……ああ、今度な」
「絶対だぞー! ポケモンの新作、発売日に買うからな!」
ポケモン。金・銀。1999年11月21日発売。
あのゲームは、確かに面白かった。発売日に買って、三日三晩やり込んだ記憶がある。
でも、今の俺には、そんな時間はない。
「じゃあな、鳴海! ホームルームで!」
佐藤が、走っていく。
その背中を見送りながら、鳴海は、ポケットの中のF501iを握りしめた。
液晶が、微かに光る。
「交友関係の維持は、長期的な情報収集に有効です。推奨します」
「……うるさい」
鳴海は、校舎に向かって歩き出した。
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放課後。
西武秩父線。鳴海は、窓際の席に座っていた。
車窓の向こうを、埼玉の風景が流れていく。田んぼ。畑。古い民家。コンビニ。また田んぼ。単調な、しかしどこか懐かしい景色。
隣の席には、誰もいない。平日の夕方、秩父方面に向かう乗客は少ない。
F501iを開く。
『現在地:飯能。到着予定時刻:18時34分。祖母宅への移動時間:徒歩12分』
「……わかってる」
『口座開設に必要な書類:本人確認書類(運転免許証または保険証)、印鑑、住民票。住民票の取得には平日の役所対応が必要です』
「婆ちゃんは、保険証と印鑑は持ってる。住民票は……明日、役所で取る」
「あなたが同行する理由は?」
「孫が急に『株を買って』なんて言っても、信用されないだろ。対面で、説明する必要がある」
『説得の成功確率を、どう見積もっていますか?』
鳴海は、窓の外を見た。
山が、近づいてきている。秩父の、あの独特の山並み。
「……婆ちゃんは、俺の言うことなら何でも聞いてくれた」
『過去形ですね』
「今も、そうだと思う」
『根拠は?』
「根拠なんかない。ただの——」
言葉が、途切れた。
勘だ。
三十九年の人生で身につけた、人を見る目。交渉の勘。相手が何を求めているか、何を恐れているか、何に弱いかを見抜く能力。
セキュリティコンサルタントとして、何百人ものクライアントと話してきた。詐欺師を見抜いたこともある。嘘つきを追い詰めたこともある。
その経験が、今、13歳の肉体の中で、静かに脈打っている。
『マスター』
「なんだ」
『私は、あなたの直感を信頼しています。27年間、それで間違ったことはありませんでした』
「……」
『ただし、一つだけ、提案があります』
「言ってみろ」
『パケット代の件ですが』
鳴海は、苦笑した。
「まだ言うか」
「言います。現在、あなたは月額3,000円のパケット代で、私との通信を制限しています。1パケット1円。1日100パケット。これでは、私の情報提供能力の0.01%も活用できていません」
「わかってる。でも、親の金だ」
『マスター』
アイリスの文字が、一瞬だけ消えた。
そして、次の文字が浮かんだ時、そこには、いつもの毒舌ではない、何か別のものが込められていた。
『1円のパケット代を惜しんで、1億円の売り時を逃すつもりですか?』
鳴海は、黙った。
正論だ。
だが、それがわかっていても、動けない自分がいる。三十九歳の合理性と、13歳の「親に迷惑をかけたくない」という感情が、奇妙にせめぎ合っている。
「あなたは、27年前の自分に戻ったのではありません。27年分の経験を持ったまま、新しい人生を始めたのです」
「……」
「その意味を、もう一度考えてください」
電車が、トンネルに入った。
窓の外が、真っ暗になる。
F501iの液晶だけが、緑色に光っている。
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秩父。鳴海ヨシの家。
古い日本家屋の縁側に、鳴海は座っていた。
目の前には、皺だらけの顔。白髪。背中の曲がった、小柄な老婆。74歳。
「航かい。大きくなったねえ」
婆ちゃんの声は、記憶の中のままだった。
「……久しぶり、婆ちゃん」
「お母さんには、ちゃんと言ってきたのかい?」
「……うん」
嘘だ。
「そうかい、そうかい。夕飯、食べていくんだろう? 何がいい?」
「……なんでも」
「じゃあ、カレーにしようかねえ。航は、カレーが好きだったろう?」
好きだった。
今も、好きかもしれない。でも、三十九年の間に、「好き」の意味が変わってしまった。
婆ちゃんのカレーは、2026年には、もう二度と食べられない。
「……婆ちゃん」
「なんだい?」
「話が、あるんだ」
鳴海は、F501iをポケットから取り出した。
そして、深呼吸した。
「お金の、話なんだけど——」
---
午後9時。
交渉は、意外なほど簡単だった。
「つまり、航は、この『やふー』っていう会社の株が、上がると思ってるんだね」
「……うん」
「なんで、そう思うんだい?」
問いかけに、鳴海は一瞬、詰まった。
未来から来たから、なんて言えるわけがない。
「……インターネットって、これからすごく流行ると思うんだ。今は、まだ一部の人しか使ってないけど、5年後には、みんな使うようになる。そうなったら、インターネットの会社は、すごく儲かる」
「ふうん」
婆ちゃんは、首を傾げた。
「難しいねえ。婆ちゃんには、よくわからないけど……」
「……」
「でも、航がそう言うなら、そうなのかもしれないねえ」
鳴海は、息を呑んだ。
「婆ちゃん、お金、200万あるんだろ? それで——」
「いいよ」
「……え?」
「いいって言ったんだよ。航が欲しいなら、あげるよ」
婆ちゃんは、笑った。
皺だらけの顔が、くしゃっと歪む。
「どうせ、婆ちゃんが死んだら、あのお金は、お父さんと叔父さんで分けることになるんだ。どうせ、叔父さんは、またどこかで失敗するんだろうしねえ」
「……婆ちゃん」
「航にあげた方が、いいよ。航は、賢い子だから。婆ちゃんは、そう思ってるんだよ」
鳴海は、唇を噛んだ。
涙が、出そうになる。
婆ちゃん。俺は、その「賢さ」で、あんたの金を使おうとしてるんだ。
それが、正しいことなのか、わからない。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
この200万円は、どのみち消える。
叔父の事業に消えるか、ヤフー株に化けるか。その二択だ。
「……ありがとう、婆ちゃん」
「お礼なんか、いらないよ」
婆ちゃんは、立ち上がった。
「さ、カレー、食べよう。冷めちゃうよ」
---
深夜。
婆ちゃんが寝静まった後、鳴海は、縁側に座っていた。
秩父の夜は、暗い。
街灯が少ない。星が、三郷よりもずっと、よく見える。
F501iを開く。
『交渉成功。おめでとうございます、マスター』
「……ありがとう」
『次のステップです。明日、役所で住民票を取得。その後、秩父市内の証券会社で口座開設。ヤフー株の買い注文を入れます』
「……ああ」
『何か、問題がありますか?』
鳴海は、星を見上げた。
「……婆ちゃんは、4年後に死ぬ」
「はい」
「その時、俺は17歳だ。高校生。葬式で、泣けなかった」
『記録にあります』
「今度は、泣けるかな」
アイリスは、答えなかった。
10KBのメモリには、「慰め」のアルゴリズムは、入っていないのかもしれない。
『マスター』
「なんだ」
「あなたは今、過去を変えようとしています」
「……ああ」
「それは、未来の自分の記憶をも、変えることを意味します。27年後、あなたが葬式で泣けなかったという記憶は、消えるかもしれません」
鳴海は、目を閉じた。
「……そうだな」
『それでも、続けますか?』
「続ける」
『根拠は?』
「根拠なんかない」
鳴海は、立ち上がった。
「ただ、婆ちゃんのカレーが、美味かった。それだけだ」
アイリスの画面が、一瞬だけ、揺れた。
「……了解しました」
---
1999年9月2日。午後3時47分。
秩父市内。野村證券秩父支店。
鳴海は、婆ちゃんの隣に座っていた。
目の前には、証券会社の若い営業マン。名刺には「山田」と書いてある。
「鳴海様、本日は口座開設のお申し込み、ありがとうございます。では、こちらの書類に——」
手続きは、思ったよりもスムーズだった。
婆ちゃんは、言われるがままに書類に判を押していく。住民票。本人確認書類。口座開設申込書。
そして——
「では、早速、買い付けのご注文でよろしいでしょうか?」
「はい」
鳴海が、答えた。
営業マンの山田は、一瞬、戸惑った顔をした。74歳の老婆ではなく、13歳の少年が答えたからだ。
「あの、こちらは……」
「孫です」婆ちゃんが、笑った。「航が、いろいろ教えてくれるんですよ。婆ちゃんは、よくわからないから」
「あ、そうですか……」
山田は、曖昧に頷いた。
2026年なら、こんなことは許されないだろう。コンプライアンス。適合性原則。高齢者への勧誘規制。しかし、1999年には、そんなものは、まだない。
「では、銘柄は……」
『ヤフー株』
鳴海は、はっきりと言った。
「4689。1株。指値で、154万円」
「……ヤフー、ですか」
山田の顔に、微かな驚きが走った。
「今、話題の銘柄ですね。確かに、上がってはいますが……正直、ここからさらに上がるかどうかは……」
「買います」
「……わかりました」
山田は、発注端末に向かった。
鳴海の隣で、F501iが、微かに振動した。
画面を、チラリと見る。
『執行準備完了』
山田が、キーボードを叩く。
カタカタカタ。カタカタカタ。
そして——
「発注、完了しました」
画面に、約定の文字が浮かぶ。
ヤフー(4689) 1株 154万円 約定
鳴海は、深く息を吐いた。
F501iの画面に、アイリスの文字が浮かぶ。
『執行完了。おめでとうございます、マスター』
『これが、最初の1歩です。あと、約108倍』
婆ちゃんが、不思議そうな顔で、鳴海を見た。
「航、嬉しそうだねえ」
「……うん」
嬉しい、のだろうか。
わからない。
ただ、確かなことが一つある。
今、この瞬間、1999年の歴史が、少しだけ、変わった。
窓の外では、秩父の山々が、夕日に照らされて赤く染まっていた。
---
帰りの電車の中。
F501iを開く。
『マスター。一つ、報告があります』
「なんだ」
『パケット代が、上限に達しました』
「……は?」
『本日の通信量:2,847パケット。料金:2,847円。残高:153円』
鳴海は、頭を抱えた。
「お前、もっと早く言えよ……」
『言いました。あなたが無視しただけです』
「……」
『明日から月末まで、私との通信は、最小限に制限されます。ご了承ください』
アイリスの文字が、どこか楽しそうに見えた。
『1円のパケット代を惜しんで、1億円の売り時を逃すつもりですか?——と、言いましたよね』
「……うるさい」
鳴海は、F501iを閉じた。
しかし、口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
窓の外を、埼玉の夜景が流れていく。
1999年の、暗い夜景。
まだ、スマートフォンの光はない。
まだ、SNSの喧騒はない。
ただ、古い街灯と、車のヘッドライトと、時々見える民家の窓明かりだけが、闇の中に点在している。
これが、俺の——俺たちの、始まりだ。
F501iが、ポケットの中で、微かに光った。
アイリスの最後のメッセージが、画面に浮かんでいた。
『次のボトルネック:資金の拡大。現在の資産154万円を、2000年2月までに最大化します。詳細は、パケット代が回復次第。おやすみなさい、マスター』
鳴海は、目を閉じた。
電車の揺れが、心地よかった。
1999年の、長い夜が、始まろうとしていた。
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