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一章 二人の旅のプロローグ
惨めな一生 1
しおりを挟む悪魔と契約を結んだ人物がいる。
伝説的な歌手、偉大な功績を残した王様、果ては物語や戯曲によって描かれる有名な錬金術師に至るまで。古今東西、その手の噂は人々の間で広く囁かれてきた。
実際に悪魔が目の前に現れてくれたわけでもないのに、世間でそんな噂は決してなくなろうとしないし、熱心にその存在を信じる者も少なくない。
そしてそんな根も葉もない噂話を真に受けたことが、誰しも一度くらいはあるだろう。
まだ疑うことを知らない、とても小さなころに。
橋本真央は純朴な少年だった。
マジメで、努力家で、誰に対しても優しい。子どもの理想の姿と言ってもいいかもしれない。
そんな健全な少年だった彼は、当然唯一の家族である母親のことを深く愛していた。
父親の記憶はなく、母はまだ幼かった自分を、苦労しながら育ててくれた。
母はいつも疲れたような顔をしていた。顔色は悪く、目の下には隈が色濃く残っていた。
疲れている時は多少怖いこともあるけど、たまに見せてくれる笑顔が、真央は大好きだった。
何故そんなに苦労していたのか。理由は単純である。
母には借金があったのだ。父親と何があったのかを真央は知らなかったが、母はいつもその借金に苦しめられていた。
家を空けることも多く、真央は小さな家の中にひとり残されて、母が帰ってくるのを遅くまで待っていた。
それは、真央が九歳の誕生日を迎えた日のこと。
学校からの帰り道で、真央はひとつの噂を耳にした。
『悪魔と契約して、どんな願いでも叶えてもらう方法がある』
その噂を真央に教えた人物の話によれば、とある方法で悪魔を呼び出して願いごとをすると、それがどんな無理難題であれ、悪魔はその願いを叶えてくれるのだという。そして代償に、呼び出した者の魂を奪い、どこか遠い世界に連れて行かれるのだそうだ。
真央はその人物から、悪魔の呼び出し方を事細かに教えてもらった。
まだ疑うことを知らない、小さなころ。
誰にだってあるだろう。
自分が騙されるなんて夢にも思わず、世の中の人はすべて善人だと、本気で信じていられたころが。
熱心に話を聞く真央を見下ろしながら、悪魔は優しい顔で笑った。
「確認するぞ……橋本真央。お前の願いは、母親が借金から解放されること。それでいいんだな?」
「うん! それでいい!」
いつも通り、とは言えない家の中。
真央は黒い服を着た悪魔と向かい合っていた。
部屋の中は散らばっている。ひとりで悪魔を召喚する準備をするのは、小学三年生にとって簡単なことではなかった。
「お前が死んだ後、お前の魂は私がもらう。それでいいな?」
「……魂って、そのあとどうなるの?」
「私が持ち出した魂は、この世界とは別の世界で生まれ変わる。お前が転生するのは、人間たちが剣や魔法で魔物と戦う、とても楽しい世界だ」
「へえ……ゲームみたいな世界なのかな。友達がやってるのを見たことあるよ」
「ハハハッ、そうだな……そんなイメージだ。それで、いいのか?」
「うん! それならいいよ!」
真央は満足そうに頷いて悪魔を見た。
その真っ赤な瞳と、小さく角と羽が生えている以外、悪魔の姿はほとんど人間と変わらない。
初めは怯えていたものの、悪魔が思っていたよりも人間に近く、そしてとても親切で優しかったこともあって、真央の警戒心はすっかり取り払われていた。
「よし、分かった……ああ、それともう一つ。この願いを叶えるために、お前の寿命を少しもらうぞ。構わないか?」
「寿命……?」
「ああ……命のことだな。お前の中にある残りの命を少しだけ分けてもらうんだ」
「命を……取られちゃうの?」
真央は怯えた目で悪魔を見つめた。
悪魔は優しく微笑んで、言い聞かせるように言い放つ。
「怖いか……? なに、ほんの少しだけだ。それに、お前のお母さんを助けてあげられるのは、お前しかいないんだろう?」
「……お母さんを……」
「お母さんは毎日苦しんでいるんだろう? 助けてあげたいと思わないか?」
悪魔は貼り付けた微笑みの内に、耳まで裂けたような醜悪な笑みを浮かべて、真央にそう語り掛けた。
そんな悪魔の囁きを聞いて、真央の瞳には強い決意の色が浮かんでしまう。
「……うん。僕はお母さんを助けたい。悪魔さん、僕の寿命をあげるから、お母さんを助けてあげて」
「……分かった。お前の母親は必ず助けよう。こちらに手を差し出せ」
悪魔の目が一瞬鈍く輝いたのを、まだ幼い真央は見逃してしまった。
言われた通り右手を差し出すと、その手のひらを、悪魔が指先で軽く突いた。
「つっ……」
小さな針が刺さったような痛みを感じて、真央は思わず手を引っ込めた。
手のひらを見てみても血は出ておらず、すぐに痛みの感覚もなくなってしまう。
代わりに、強い眠気のようなものが襲ってきた。
「ふふふ……これで契約は完了だ。母親を助ける代償として、お前の魂は私がもらう」
嬉しそうな悪魔の声を聞きながら、真央の意識はだんだんと遠のいていく。
瞼が開けていられないほど重くなり、無理やり視界が閉じられていくような感じがした。
「ああ……一応伝えておこうか。お前に残された人生は、あと十年だ。精々悔いのない様に生きるといい。まあ、伝えたところで全て忘れてしまうのだがな」
十年? たった十年?
残された時間のあまりの短さに、真央は悲鳴をあげたくなる。
しかし体は言うことを聞かず、ついにゆっくりと後ろに傾いた。
「しかし、あんなクズ親のために悪魔と契約するとは……人の子というのは憐れなものだな」
もう、何を言われているのかも分からない。
塞がる視界のなか、倒れても倒れても地面に背中がぶつかることはない。
永遠に続くのかと不安になる浮遊感の中で、ついに真央は、眠りにつくように静かに気を失った。
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