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第一章
異しかるもの
しおりを挟む「あさひ、ほら。挨拶なんていいから、もっと近くで見てちょうだい。すてきな生地でしょう。父様が南堂で購ってくださったの。千のために、購ってくださったのよ」
夢のなかの老婦人は、うれしそうに口をすぼめ、皺のある指で生地を畳の上にひろげると、正面に坐った結之丞へ感想を求めた。上質な絹糸で織られた生地の表面には光沢があり、触れなくてもなめらかな質感が見て取れる。結之丞は少し考えてから、「すてきですね」と、こたえた。すると、おせんの表情は明るくなり、うんうんと、なんどもうなずいた。離れた位置で見まもるおみつも、ホッと息をつく。
それからしばらくの間、老婦人は楽しげな時間を過ごしていたが、蕎麦処へ戻る時刻が近づき、おみつが結之丞の肩を、つんと指で軽く押すと、おせんの顔色が変わった。
「なによ、どうしたの。あなたったら、また千を裏切るつもり。いいえ、こんどは許しません。さあ、行きたければ行きなさい。ただし、千も一緒よ。もう二度と、あんな思いはしたくないの。わかるでしょう」
突如、取り乱す老婦人は、結之丞の胴体にしがみついた。驚いた結之丞は「わあっ」と叫び、とっさに老婦人の腕から逃れようとしたが、余計に強く引き寄せられた。
「だめよ、許しません。千を残していくなんて、約束がちがうわ。ひとりきりにするなんて、ひどいじゃない。どうして、そんなひどいことをなさるの。あさひったら、どこまで千に恥をかかせる気なの」
おせんは泣きそうな顔で結之丞をあさひと呼び、あろうことか両手で首を絞めてきた。
「なんてこと、いま助けるからね、結坊っちゃん」
あわてて美津子が老婦人を引きはがそうとするが、おせんはもてるかぎりの力で結之丞に襲いかかっていた。
「およし、おせんさん。こんな真似、しちゃだめだよ」
美津子の呼びかけに老婦人が応じるようすはなく、鬼のような形相で結之丞を押し倒すと、馬乗りになって衿をつかんだ。
「さあ、白状しなさい、とおる。あの日、どうして裏切ったの。あなたが約束を守らなかったから、千は、ひどい目に遭ったのよ」
また名前が変わっている。老婦人は途惑う結之丞を見おろし、「一緒に連れていって」と訴えた。いったいなんのことかわからない結之丞は、沈黙を保つしかない。いつのまにか美津子の姿が見あたらないが、その理由はすぐに判明した。
「結坊っちゃん、無事かい」
蕎麦処で待機する番頭を呼びにいって引き返してきた美津子は、「新右衛門さん、頼むよ」といって、老婦人に馬乗りにされて身動きできない結之丞を指さした。
「どういう状況だ」
半ば呆れ顔になる番頭だが、大工の筋力を発揮して結之丞を老婦人から引き剥がすと、「邪魔したな」といって外にでた。すぐさま美津子が戸板を閉めて、「ふー、ふー」と呼吸を荒らげるおせんを抱き寄せ、「よしよし」と、なだめる。
「おせんさん、悪夢なら、そろそろ醒めてもいいころだろうに……。さっきの子はね、おせんさんを助けにきたんだよ。ほら、しっかり顔をあげて、あたしを見てごらん。だれか、わかるかい」
「……み、……みつこ、お嬢さま」
「あはは、まだそんなふうに呼んでもらえるとは、うれしいねぇ」
老婦人は、おみつの腕に支えられて涙をこぼした。遠い記憶に悩まされ、いつまでも嘆いてばかりは、いられない。おせんはまだ、生きていく人間なのだから。
〘つづく〙
※今回のタイトルは、誤用ではなく意図的です。前のお話と同じ「けしかるもの」とお読みください。
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