向こう岸の楽園

み馬

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第22回[生い立ち]

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 生まれたとき、祝福されたのかどうかさえ知らない飛英は、礼慈郎や鷹羽の存在をありがたく思っていた。貞操については、ストリップ劇場の芸者となったとき、どうなろうとかまわないと少なからず割り切っていたが、いざ、相手から求められると、尻込みしてしまう自分の感情が女々しく感じた。

 何喰わぬ顔で新聞紙へ視線を落とす鷹羽は、独身の成人男性で、職業は作家である。礼慈郎とは旧知の仲で、飛英の身請みうけに協力している人物だった。つい先程、鷹羽の口づけを受け入れた飛英は呼吸が苦しくなり、書斎へ引きこもった。

「な、なぜ急に、こんなに息があがって……、」

 まるで首を絞められた直後かのように、うまく呼吸ができず、頭が混乱した。気分が落ちつくまで布団へ躰を横たえていると、時刻は昼を過ぎた。鷹羽は、和室で書き物をしている。水をのみに台所へ向かうと、廊下の途中に新聞紙と灰皿が放置してあった。飛英は、それらを持って台所のテーブルへおくと、コップに水をいで咽喉のどをうるおした。いつの間にか、にぎり飯と味噌汁がつくっておいてある。ひと目で、鷹羽が飛英のために用意した昼食だとわかり、その場で食事をすませた。

 午后になり、裏庭で手押しポンプのついた井戸と、桶や洗濯板を見つけた飛英は、何か洗うものがないか書斎へ戻った。狩谷家は古い家屋かおくだが、内装の一部に手を入れてあり、造りつけの風呂釜がそなわっている。飛英は蛇口をひねって湯を溜めると、鷹羽に声をかけず、入浴した。使用したタオルや下着を持って裏庭へいき、洗濯板で汚れをおとし、竿にほした。

 夕刻になると、軍服姿の礼慈郎が羊羹を持参して顔をだし、飛英に包みを手渡した。少しおくれて出迎えた鷹羽は横からのぞきこみ、「さっそく切り分けよう」といって包みを引き受けると、礼慈郎に上がるよう云った。うしろ手に硝子戸をしめて帳場の段差へ腰掛けた礼慈郎は、靴紐をほどきながら、眉をひそめた。短く「なんだ?」とく。飛英は、軍人の横顔を穴のあくほど見つめていた。一瞬、何を問われたのか理由がわからず、「え?」と目を丸くすると、礼慈郎は鋭い視線を向けてきた。なんとなく気まずい飛英は、

「お勤め、ご苦労さまです。」

 と、うっかり口走った。目上の人に対して使うには不適切なことばにつき、礼慈郎だけでなく、口にした飛英も動揺して沈黙した。羊羹を切り分けて皿へ盛りつける鷹羽は、やけに静かな土間を気にして、ようすを見にきた。

「ふたりとも、なにやってんだ? はやく上がってこいよ。」

 真顔で見つめ合う飛英と礼慈郎は、鷹羽の介入で、ハッと我に返った。正座をしていた飛英は足が痺れ、立ちあがろうとした瞬間よろめいた。近くにいた鷹羽が咄嗟とっさに腕を摑み、転倒を防いだ。

「ありがとうございます。」
「気をつけろよ。土間から落ちたら怪我するぜ。」
「は、はい、すみません。」

 わずかひと晩で馴れ合った者同士のような会話をするふたりを見た礼慈郎は、予定を変更し、帰宅すると告げた。

「せっかくだし、羊羹くらい食べてけよ。」

「またの機会にする。邪魔したな。」

 鷹羽は引きとめたが、礼慈郎は紐靴を結び直すと、きびすをかえした。

「なんだよ、変なやつだな。」

「わたしのせいかもしれません。」

 飛英が失言を打ち明けると、鷹羽は笑い声をたてた。

「あいつの生い立ちと心の内は、べつものなんだ。そんなことで詫びる必要はないし、まったく気にしなくていい。」

 飛英は釈然としないまま、鷹羽と和室へ戻ると、老舗和菓子の羊羹を食べた。


✓つづく
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