向こう岸の楽園

み馬下諒

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第24回[誤算]

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 その夜、雨脚は遠のくどころか翌日になっても降り続けた。夕刻、泥水どろみずのはねた軍靴を脱いで上がってきた礼慈郎は、書斎の障子戸をあけるなり、眉間にしわをよせた。文鎮や筆、原稿用紙といった抽斗ひきだしの中身が散乱している。飛英は、敷きっぱなしの布団のうえに裸身はだかで眠っていた。

「何があった?」

 士官学校の帰り道、5日ぶりに狩谷家へ立ち寄った礼慈郎は、革ベルトから軍刀をはずして柱に立て掛けると、壁にもたれて坐る鷹羽をふり向いた。

「さあな、おれにもよくわからん。はなぶさは、癇癪持かんしゃくもちなのか? ここ数日、暴れてばかりいる。」

 そういう鷹羽のこめかみには、絆創膏がはってある。礼慈郎が目を細めると、蔵書の角が当たったと告げた。投げつけたのは飛英だが、その名は口にしなかった。鷹羽はゆっくり立ちあがり、「茶をいれてくる」といって退室する。礼慈郎は片膝をつき、飛英のようすを確かめた。腕や手の甲に血がにじんでいたが、どれも軽い擦傷すりきずで、治療が必要なほど重症ではない。寝息も安定していた。無防備に露出させている性器へ目を留めると、飛英はうっすらと瞼をひらいた。

「そんな恰好かっこうで寝ていたら風邪をひくぞ。」

「れ、礼慈郎さん……?」

 精悍な顔が近い。驚いた飛英は、脱ぎ捨ててある浴衣を手探りすると、あわててそでを通した。

「いつから、おいでに……、」
「今さっきいたところだ。鷹羽なら、台所で茶をいれている。」
「そ、そうですか……。」

 飛英は帯を結ぶとき、指先がふるえてしまった。気温の低さが原因ではなく、軍人の来訪に動揺していた。もたつく動作を見た礼慈郎は、飛英を布団へ引き戻し、口唇くちびるを合わせた。

「礼慈郎さ……、」

「寝ていろ。具合が悪そうだ。」

 すぐに離れていく礼慈郎の躰を、飛英は見送ることしかできなかった。その後、ふたりの男は和室で話し合っていたが、飛英の耳には雨音ばかり聞こえた。

 礼慈郎と卓袱台をはさんで坐る鷹羽は、自分で喫う煙草を取りだしながら、ため息を吐いた。

「おまえは知っていたのか? あの子が二重人格だということを。」
「なんの話だ。」
「とぼけるなよ。織原飛英の正体にきまってる。」

 礼慈郎は湯呑みへ視線を落とし、闇市で鉢合わせたときの件を思いだした。飛英は、ストリップ劇場で額縁ショーを披露する青年とは思えないほど、地味で気弱な性格をしていた。

「云われてみれば、そうかも知れん。」 

「だとすれば、いつか手に負えなくなるぞ。そのときは、精神病棟へでも厄介払いする気か?」

 鷹羽は煙草に火を点けると、礼慈郎の顔を見据えた。既婚者でありながら芸者を身請した以上、無責任な返答はゆるされない。いつになく真顔で会話する鷹羽は、飛英の身の上を案じていた。といから溢れた雨水は、のきを滝のように流れた。礼慈郎は考えこむ表情を浮かべていたが、めずらしく微かに笑った。

「そう結論をあせることはない。きょう、おれがここへきた理由は、あいつを引き取るためだ。」

「利玄の屋敷へ連れていくのか?」

いな、都落ちだ。旅の仕度はととのえてある。」

 礼慈郎は軍服の胸ポケットから地方行きの切符を取りだすと、飛英に渡すよう鷹羽へ手渡した。受け持ちの授業を兼任者へ任せ、休暇を取得した礼慈郎は、ある場所へ足を運ぶ計画をたてた。飛英の過去を調べるためである。切符を見つめる鷹羽は、己の計算ちがいを認め、詫びるかわりに苦笑した。


✓つづく
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