向こう岸の楽園

み馬下諒

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第30回[新聞社にて]

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 思えば、ふしあわせな人生
 心の痛手は不治の病
 なんとしても忘れがたい
 最終の息。

 〈狩谷鷹羽『ほくろのある指』より〉


 飛英ひえい礼慈郎れいじろうが旅をするころ、作家の鷹羽たかはは新聞社で調べものをしていた。古い記事を保管する資料室で、地方の文献を選んで棚から抜き取ると、事件性のある内容に目を通していく。資料室の窓辺まどべには、大量の雑誌が積みあげてある。八百万神やおよろずのかみについて記述した書物が目につくのは、日本国民は神の居場所に明確な意識をもっておらず、神格化した存在を日常生活に取り入れるからである。

狩谷かりや先生じゃないですか、めずらしいですね。こんなところで調べものですか。」

 扉の隙間から顔をだした男は、丸眼鏡をかけた彦野虹助ひこのこうすけである。鷹羽にストリップ劇場の取材記事を書くよう進めた新聞社のひとりで、三十代前半にしては猫背で、色もかたちもぼやけたスーツを着ているため、野暮やぼったく見えた。

「彦野さんか、その節はどうも。」

 鷹羽は書物から顔をあげ、歩み寄ってきた彦野と立ち話におよんだ。

「ずいぶんと、古い記事をお読みになっていますね。もしや、次回作は日本の風土についてお書きになるのですか?」

「まさか、そんな予定はない。だいいち、おれの知ったかぶりは、寝言ねごとのようなものだ。」

「ご冗談を。狩谷先生の論考は、人間の理性能力を限界的に示しています。その領域は、自然科学の延長上にあるといえるでしょう。」

 彦野は、鷹羽の自説を支持していたが、当の本人は皮肉ひにくめいた笑みを浮かべ、そんなたいそうなもんじゃないと否定した。自分の理論が妥当な基準であるかどうかは問題ではない。ただし、実験において確立された真理こそ、疑うべきだと考える鷹羽の命題は、感性的なものに近い。そのナンセンス文学を認める読者は、意外にも多かった。

 ボーン、ボーンッと、柱時計が正午しょうごの鐘音を鳴らす。朝から資料室に閉じこもる鷹羽は、彦野を昼食に誘うと、新聞社の食堂へ向かった。

むか?」

 席につくなり、着物の袖口から煙草たばこを取りだし、彦野へ包みを差しだした。

「ぼくは喫煙者ではありませんよ。」 

「そうだったな。」
 
 鷹羽はくすッと笑い、彦野は灰皿を取りに腰をあげた。ふたりの関係は浅いが、彦野は、ほどよい距離を保つのがうまい。鷹羽は発火石ライターで火を点けると、戻ってきた彦野に質問した。

「織原という姓をもつ人間を、知っているか。」

「織原ですか? ……いいえ、聞いたことのない苗字ですね。資料室で調べていた件は、人探しでしたか。」

 彦野は定食の惣菜を口に運ぶと、ひとりではたいへんでしょうから、何か手伝いましょうかと訊く。彦野は、探している人物に関心をもたない。あくまで、鷹羽の助けになればといった程度の申し出につき、余計な説明をする必要はなかった。新聞社で働く人間の多くは、身内の話題を掘りさげようとして不必要な雑談におよぶが、彦野は深入りをしてこず、黙々と箸を動かしている。向かいの席で煙草をくゆらせる鷹羽は、ふと、礼慈郎の現状を気にかけた。今頃いまごろ、飛英の正体に面喰らい、血迷っているのではないか。見境みさかいをなくした軍人は、野獣と化す。飛英の細い手足など、簡単に折ってしまうだろう。

「あいつら、本気でりあってないだろうな。」

 ため息まじりにつぶやく声は、立ちのぼる烟と共に消えていった。


✓つづく
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