次代の聖女は終わりの世界で心を捧げる

堕落人間

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16.聖女の心 ※微エロ

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 ひとりきり。ベッドの上で、目が覚めた。
 起き上がると、肩紐が腕までするりと落ちる。
 着た覚えのない光沢のあるネグリジェ姿を見下ろすと、胸にいくつもの赤い跡が散らばっていることに気づいた。

 猊下はいつも跡を残したがるけど、ここまで多くを刻んだのは初めて抱かれた日以来かもしれない。
 指先でひとつひとつをなぞる。
 鎖骨、胸の柔らかい場所、そして心臓がある場所へと行き着いた。

 ――まるで氷の平原が広がるように、心が冷え切っている。

 理由はなんとなく理解していた。
 声が出せず喉をつぶされ魔法を使えず枷をはめられ
 自由を奪われ狭い狭い檻の中人形として扱われるモノのように扱われる

 状況が偶然にも重なってしまったせいか、初代聖女の心が表層上に出てしまったのだろう。
 冷ややかな心は、情事の後であっても何も感じてはくれない。
 無感情の心は、あの子やローウェンの身を案じたりもしない。
 ただあるのは、私から自由を奪い奴隷とする男へ向けられた、冷たい刃物のような感情だけだ。

「起きたか」

 ガチャリ、と音がして振り返る。その際に、テーブルの上に果物があることに気づいた。いつの間に置かれていたのだろう。大皿には、―――が一緒に添えられてある。
 次いで、無愛想な猊下と視線が合わさった。

「猊下」

 れた声が出た。ということは、今この部屋の周囲は私達2人だけ。
 猊下は朱い瞳をすっと細め、近づいてきた。

「お前に問いたいことがある」

 ベッドが軋む。猊下は私の頬を片手でなぞると、先ほどまでの熱とは違う熱を孕ませ、険しい顔をして問うた。

「この部屋で、誰と会っていた」
「……」

 答えない私の顎を上げ、無言で『言え』と告げてくる。
 怒りの色をする朱い瞳に、私の無感情な紫色の瞳が映っている。

「そこにある剣は騎士団のものだな……? 騎士としての誇りをわざわざ置いていくとは、俺に対する当てつけか?」

 剣……? 示されたものを理解できず、私は部屋を見渡す。ヘッドボードの壁際に、鞘に収められた剣が立てかけられていた。
 ローウェンのものだ。すぐに分かった。
 なんてことだろう。一応は聖女護衛騎士だっていうのに、を置いていくなんて。
 本当にバカなんだから、と目を伏せた。猊下の歯を食いしばった音が聞こえてくる。

「名を言え。殺してやる」
「……猊下」
「俺に許可を得ず、護衛騎士とやらをつけていたな。そいつか? 誘われるがまま足を開いたのか? 俺の時と同じように」
「猊下。なにか勘違いをなさっています。私は誓って――」
「心がないお前にとっては、俺も他の男も変わらないんだろう!?」

 猊下の慟哭を最後に、部屋が、しんと静まり返った。
 彼のこんな声を聞いたのは、いつぶりだろう。そんなことを考えた。ずっと――私がちゃんと笑えるようになってからずっと、こんな風に感情を曝け出してくれることはなかったから。
 そう。私に心はない。特に今は胸がどこまでも冷え切っている。ただあるのは、ひとつの感情だけ。
 猊下の慟哭を聞いても、私は何も――いいえ何かが――何も――割れたような気がする――何も感じない。

 猊下は、私が人形だと理解している。
 命令に従い、求められれば応じる聖女という名の愛玩人形だと。
 だから彼は私を縛り付けた。城の奥深くの部屋に、閉じ込めて。
 けれど猊下――私はちゃんと貴方以外には抱かれぬよう、身体を守ってきたのです。猊下が度重なる婚姻話を断り続けたように、私もちゃんと断り続けてきたのです。
 心無くとも、せめて貴方だけの人形で在りたかったから。

 静寂さを破るように、私は穏やかな声で猊下に言う。
 いつものように、上手に微笑んで。

「……喉が、乾いてしまいました。そこにある果物を一緒に召し上がりませんか?」
「……」

 立ち上がろうとした私を手で制して、猊下は一度ベッドから下り、テーブルの果物ナイフを大皿ごと持ってベッドに戻ってきた。
 大小様々な、銀色のよく手入れ瑞々しい果物されたナイフが私の前に置かれる。
 手を伸ばしたら、猊下の血豆が固くなった手に掴まれ動きを遮られた。

 代わりにピレットの房から実をひとつもぎ取ると、自分の口に含め、私に顔を寄せてくる。
 誘われるように私も顔を近づけながら目を閉じ、柔らかい唇の感触と共に酸味のある甘い汁を舌で味わった。
 こくり、と喉を嚥下しても、猊下は口を離そうとはしない。

 乱暴に、奪うように、口内で熱くて大きな舌が暴れまわる。

「ん……、ふ……」

 声を漏らしながら、指をシーツの上で滑らせた。目的のモノまであと少し。
 猊下の唇が離れ、獰猛な魔獣が獲物を前にするように上唇を舐めると、濃い肌色の手が胸を荒々しく掴み上げた。

「その男にも、同じ声を聞かせたのか? 柔らかなお前の胸を揉みしだき――」
「っ、あ……!」

 ネグリジェの上から乳首を指で擦られる。
 立ち上がったそれは薄い生地を押し上げ、卑猥な皺を作った。
 もう片方の手が足を撫で、裾の中へと差し入れられる。先ほどの名残で潤んだままの秘所は、それが当然だというように猊下の指を飲み込んだ。

「ここを暴かれ、蹂躙され、女の悦びに鳴いたか」
「げい、か……あっ、ん……」
「3日ごとでは足りぬのなら、これからは毎晩ここを埋めてやろう。他の男などいらなくなるほどに……!」

 膣内に入り込んだ指が蠢き、気持ちいい場所を指の腹で執拗に撫でられる。
 腰がびくりと跳ね、冷えた身体が熱を上げていく。猊下の仄暗い瞳が恍惚に歪んだのが見えた。
 腕を伸ばし、皿のふちに手がかかる。

「は……、あぁ……っ」
「部屋からもう出さぬ。公務も祈りの時間も無視しろ。美しいお前をひと目見れば、男はすぐに劣情を抱くからな。俺以外に声を聞かせるな。俺以外に視線を向けるな。お前の甘美な肌の味わいも、柔らかな感触も、俺だけが知っていればいい。二度と外に出られぬよう鎖に繋げ、食事もすべて俺が手ずから与えよう。ここを濡らしながら俺を待つ淫らな女となれ」
「――……それが、貴方の望む私の最期ですか?」

 ぴたりと、止まった。
 私を高めるための指の動きも、彼の乱れた呼気も、情欲を抱いた小暗い瞳も。
 その隙に私の指が果物ナイフの柄を強く握りしめる。大皿がひっくり返り、ベッドから落ちる鈍い音がした。肌色の濃い男が、赤い瞳が、ナイフを勢いよく振り上げる私を見ている。

 ――その瞬間、心には猛烈な『怒り』しかなかった。

 (許さない。私から自由を奪った。与えられるはずだったものを全部奪って、昏いところに閉じ込めて)
 (どうして。私が一体何をしたというの。ちゃんと言うとおりにしたのに。同じ人間のはずなのに。生きられる彼らと死にゆく私は、一体何がどう違うというの)

 必死に叫ぶ声が聞こえてくる。初代聖女の嘆きが、胸を突く。
 混ざり合う。紅茶に入れたミルクのように。抱きしめられたときの体温のように。

 自由になる方法をは知っている。
 隷属の証からの解放手段を私は知っている。
 主人を殺せばいいのだ。そうすれば私は自由になれる。見て、愚かな彼は無防備でいる。なら簡単、逞しい胸板にナイフを突き刺して、心臓を止めるの。そうしたら私は自由だわ。自由になったら何をしよう。そうだ、約束――約束を果たさないと。あの子と交わした、大切な約束。でもどうして、あんな約束をしたのだっけ。

 知ろうとしたから。なにを?
 私がずっと欲しかったもの。なにを欲しかったの?
 私だけの心が欲しかった。彼が。猊下がそれを望んだから――……。

 なのに猊下を殺してしまったら、自由になったとしても意味ないじゃない。
(あの男は私から尊厳を奪った、許せない)
 違う。それは違う。私は一度だってそんなこと思ったことない。勝手に私の感情を使うのはやめて。
 殺したい。やめて自由になるために、もうやめて殺さなくては

 ジャラ、と鎖の音を聞いた気がした。とても聞き慣れた感覚に、驚く。

 ――それで全部、終わらせるの――
 心が擦り切れて、もう疲れちゃったから。もう、飽きちゃったから。自由になりたいの。

「……」

 ――なら、約束をするわ――
 きっと貴方を解放する。貴方だけの自由をあげる。だから、どうか。

 ジャラリ、とひとつ鎖の音。
 それが返事というように、私の重かった心がふっと軽くなった。

「……どうした。殺さないのか」

 掠れた声で、動きを止めた私に問う。
 今まさに害されようとしているのに、とても落ち着いた様子で猊下は私を見つめていた。

「俺を殺せば、お前を縛るものがひとつ無くなる。……憎いのだろう?」
「……」

 自嘲する猊下の言葉に、ふるり、と小さく、本当に小さく首を振った。
 ナイフが、力を失った両手からすり抜けて、ベッドに落ちる。
 俯かせた顔にプラチナブロンドの髪が一房かかったが、伸ばされた猊下の手がそれを優しく耳にかけた。

「お前、泣い――」
「っ、!」

 衝動的に、猊下へ両腕を伸ばし唇を重ねる。
 触れるだけの口付け。幾度も交わした情欲のものではなく、はじめて猊下がしてくれたような初々しいものを、はじめて私から返した。

「猊下、げいか……」

 うわ言のように呼びかけ、視線を合わせる。
 堪えきれない涙が大粒で溢れ、口は震えて、もう上手に微笑わらうことすらできない。
 きっと顔だってぐちゃぐちゃだ。折角、笑い方を教えてもらったのに。

 ああ、けれど。遠くなってしまったあの頃の私達。2人きりで笑顔を練習した懐かしい日々。

 それが、ようやく取り戻せそうな気がする。

 心はもう凪いだように落ち着いていて。
 ともすれば何もない無の空間のようで、それにまた泣いた。
 
「――貴方を、愛する心が欲しかった」

 涙に濡れた切なげな声に、猊下は目を見開いた。

 彼が望めば所有の印なんて、いくらでも刻まれよう。
 欲を発散するだけの虚しい営みも、全て応じよう。
 部屋に閉じ込められて、必要最低限の行動しか許されていなくても。
 寿命が尽きるまで、側に居続けよう。
 それが私という人形の在り方で、人形が人間を愛するやり方。そう思ってきた。

 でも違う――そうじゃない。そうじゃないのだ。
 次代の聖女とローウェンは、そうじゃなかった。

 隷属の証を刻まれたローウェンは、少女を想い、命令に抗おうとした。
 愛のある営みは、どこまでも幸せそうで。
 塔に軟禁されていても、次代の聖女は諦めることなんてせず。
 命を削ってまでも血に抗い、たったひとつの目的を叶えるために、単身私の元へと乗り込んできた。

 大切に想い合う彼らが。
 人形が心を得て、人間を愛するようになったあの少女が。羨ましくて羨ましくて――そんな風になりたかった。
 いつか私だけの心が芽生えると、期待もした。

 それなのに。
 初代聖女の心に侵食されるばかりで、私は私の心を未だ実感できない。
 私の持つ感情も言動も、全てが初代聖女がもたらしたもの。
 手放せば虚無に戻るだけ。それが怖くて、不安で――。

 でも、もう、それもおしまい。
 約束を果たしに行かなくちゃ。
 手元に何も残らなかったとしても、それでも、この人を害そうとした時点で決別しなくてはいけない。
 だってそれだけは、どうしたって許せないことだもの。
 心を失っても、絶対に絶対に許せないことだもの。

「猊下、お願いです。命令を取り下げてください」
「……ならぬ」

 猊下の手が伸び、優しく抱きしめられる。
 まるで壊れ物を扱うように、ひどく弱々しい力で。

「お前を自由にすることが、俺にはできない」
「猊下……」
「やっと……ようやっとお前の心に触れられたと思ったのに――すぐに手放せなどと言うのか。酷い女だ」

 眉を寄せて悲痛な表情をする猊下の背へ、宥めるように腕を回す。
 いつも堂々としているのに、子猫のように丸まった彼になぜだか泣きそうになった。
 彼は少しだけ抱きしめる腕に力を入れると、小さな声で呟く。

「……そんなに、その男の方がいいのか」
「いいえ、私には猊下だけ」

 くすりと笑いながら、彼の頭を撫でる。
 ああ、よくローウェンがあの子の頭を撫でていたけれど、そうしたい気持ちがなんとなく分かった気がする。

「私はもうあと少しで終わってしまうけれど、貴方はこれから先を生きていける」
「……っ」
「なら、あの子のように私だって何かを遺せるのなら遺したい。心無き人形にも、それぐらいの意思はあるのです」
「なにを――なにをしようとしている……?」
「奇跡を起こそうかと」

 そのために、どうか自由を。
 貴方と、貴方の国が永劫栄えるのならば。安寧の時が訪れるのであれば。
 私は喜んで礎となりましょう。

「猊下――貴方を、信じています」

 耳元で囁き、身体を離す。
 身を翻し、ベッドから下りて剣を取り、バルコニーの窓を開いて吹き荒れる風を受けながら、私は唖然とする猊下へ振り返った。

「たとえ私に何も残らなかったとしても、貴方を愛したい心を望んだこと――どうか忘れないで」
「待て。何をするつもりだ……!」

 壮大なお城の高い高い場所。
 人形を閉じ込めるための広く狭い一室。
 私は彼へつたない笑顔を向けながら後ずさり、手すりを越え――檻から飛び降りた。

「阿呆……ッ!」

 猊下はすぐに手すりから顔を覗かせた。
 腕を伸ばしても届かない距離まで落ちゆく私へ、それでも必死に叫びながら手を伸ばしている。

 彼を信じている。私は目を閉じ、あの頃へ想いを馳せた。

 先代教皇も、その前の教皇も、かつて聖女に対し興味を持たなかったらしい。
 祭祀のいち大道具。そんな認識でいたのだろう。
 それなのに代替わりをしたばかりの教皇は、私に会いに来た。祈りの巡回として街に下りていた私を、わざわざ追いかけて。聖女に『挨拶に来い』と言うために教皇自らが市街地の教会に訪れたのは、前代未聞の大珍事で街も教会も大混乱に陥っていた。
 そんなパニックの中、『お初にお目にかかります。聖女です、猊下』なんて間抜けな自己紹介をした私に、彼は朱い目を丸くした後、同じように赤くした顔で言った。
『折角美しい容姿を持っているのに、能面なのは勿体ない。笑え』
 そんなことを言い放つ彼の方がよっぽど能面なのに、と思ってしまったのは今も内緒の話。
 命令を受けて、私は口角を上げた。
 ひどい笑い方だったろう。愛想笑いにしてもひどい。それを見た猊下が、思わず吹き出して破顔してしまうほどに。
『はは! お前は……くっ、笑い方を知らぬのか!』
『はい。あまり笑うことはありませんでしたから』
『ならいい。俺が教えてやる、来い』
 そう言って楽しげに笑う彼が、とても眩しかった。呆然と見上げた私もつられて笑ったことなんて、背中を向けていた彼は知らないだろう。
 猊下と2人で馬に乗って、追手を振り切って。街から少しだけ離れたところにある湖を、はじめて見た。
 2人だけの世界。揺らぐ水面を眺めながら、少し上手に笑えた私が彼を見上げて。花々が美しく咲く中――猊下と初めてキスをした。
『お前の心が欲しい』
 あの日から私は、心を望んだ。
 はじまりはなんてことない、そんな日常の一端。

「っ――命令を……いや、隷属の証を解除する!」

 声が聞こえて、私はゆるりと目を開く。
 朱い閃光がソラの下で輝き。
 太ももにあった彼に繋がる証が薄れ、何の跡も残さずに消え去る。

 瞬間、蘇る感覚に私は身を反転させて、迫る地上へ顔を向けた。
 魔力を編む。
 手を翳し、発動の文句を唱えた。

「”神よ 許し給え”――」

 黒い光が私を包み、地面へ接触する寸前にその場から転移する。
 辿り着いたのは、かつて武力を示すために――そして今は、神の住まう世界の入り口であるソラへ近づけるように。時代とともに高さを増していった、この宗教国にて最も高い尖塔だ。
 尖った屋根を支える柱のひとつに手をかけ、強風を身体で受け止めながら真正面を見つめる。

 そこには、国と対峙するように向かい合う魔神の亡骸がある。
 見晴らしの良い尖塔ならば、障害物はない。邪魔者もこない。ここはうってつけの場所だ。

 あとは役者を揃えるだけ。
 そう思った時、異様な魔力量を感じ肌があわだった。城下を見渡せば、次代聖女を検査するための施設が目に留まる。

「――なに、この量……もしかして魔力暴走を起こしているの……!?」

 それは駄目だ。それだけは駄目だ。
 折角ここまで来たのに。
 焦る気持ちのまま、施設を透視し状況を把握してすぐ。考える時間などないと判断し、私は彼らをここへ招いた。
 
***

 跡形も無く消え去った彼女の姿を確認し、手すりにもたれかかる。
 零すため息は安堵のものだ。次いで胸に訪れたのは喪失感にも似た感情。

 シド司教より彼女の寿命を聞いてから、ずっと仄暗いものに侵されていた。聖女は最大30歳までの寿命と言っておきながら、あまりに早すぎる限界に怒りすら覚えた。
 1日たりとて――否、1分1秒すら離れる時間が惜しい。
 だが残った時間は彼女のものだ。
 成したいことがあるのであれば、引き止め縛り付けるのは愚かなことだった。

「……大事なものほど仕舞い込む悪癖を、正さねばならぬな」

 心地よい風を受け、届かないと知りながら彼女を想い告げる。

「自ら自由を望む人形などおらぬ。それをするのは、人間のすることだ」

 どす黒いおりから解放される。心が晴れたように、ただただ喜びが湧き上がる。声を上げて泣き出したくなるほどに。
 見惚れるような微笑みを浮かべるようになり、誰に教わるでもなく柔和な話し方をし始め、知りもしなかった癖に香りの強い紅茶を嗜み、まっさらであった瞳は人間への侮蔑や憎悪を宿らせるようになった。
 無垢な心に滲み、広がるような初代聖女の心を否定することしか、自分はできなかった。
 もう消えてしまったのだと落胆し絶望していた。愛憎に支配されていたと言ってもいい。
 だが――。

「お前の心を……ようやく見つけられた」

 胸に到来するは久方ぶりに得られた、穏やかな愛情だ。

 思い出す。遠い記憶に色が戻ってくる。
 あの日、俺の背中で零すように笑った彼女に、つたない笑い方をする女に、心奪われたのだ。
 檻の中に入れた鳥に惚れたわけではない。
 人間として生まれ直そうとする彼女に、俺が囚われたのだ。

 ――彼女が自分の元へ無事に戻ってくるのを、ただ祈る。

 もしも戻ってきてくれたのなら。
 お前に、ずっと贈りたかった名があるんだ――。

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