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ヴェスパー・マティーニ
しおりを挟む座っている男を見た時その場で気付かなかったことに、結菜は舌打ちしそうになる。
しかし、雑誌で一瞬見ただけの顔を、この暗がりの中で判断しろとは酷な話。
「夜中にボンドガールに会えるとは」
皮肉を込めた悠真の物言いに、結菜は感心した。
妙にそれが、目の前の男に似合っていたためだ。
毎日言葉を交わしているのに、まともに会話をしたことがなかった二人。
にも関わらず結菜は、彼は普段からこう言う感じなんだろうと納得した。
「酒も飲めない子供に言われたくない皮肉ね」
声を発すれば、自分が誰だか判ってしまうのではと一瞬思ったが、思うより先に、自分の口からも皮肉なセリフが飛び出していた。
だが、悠真は怒るふうでもなく、軽く鼻であしらう。
「生憎、日本の法律だと19歳では酒が飲めない」
「でしょうね」
「…俺のこと知っているんだな」
「ええ。五十嵐悠真くんでしょう?有名人は身元がすぐにバレて大変ね」
数日前まで悠真の存在など知らなかった、とは微塵も表に出さず、結菜はふふっと笑う。
それを見た悠真は眉を顰めた。
そして結菜の顔をじっと見つめる。
「お前どっかで…。いや……」
言いかけた悠真に、結菜は首を傾げる。
「何?」
「お前、よくここに来るのか?」
そう言った悠真に対し、結菜は軽くため息を吐いた。
「お前じゃないわ。あたしには、鈴木結菜って立派な名前があるの」
「…で?結菜はよくここに来るのか?」
いきなり呼び捨てかよと思いながらも、結菜は素直に頷く。
「ここ、VIP席だろ?貸し切ったつもりだったんだが、まさか他に人が来るとは思わなかった」
「他に人がって…そう言えば貴方、学生よね?こんな時間にこんなところで何をやっているの?」
言いながら、結菜は思わず彼が飲んでいる物に視線を落とした。
いくらVIP客だからといって、未成年に酒を出しているなど知られたら、ホテル側としては大変なことになる。
「ただのコーヒーだ。アルコールは一滴も入っていない」
結菜の視線が言わんとしたことを読み取り、悠真は答えた。
「そう。19歳の五十嵐くんにはとってもお似合いの飲み物ね」
ついつい嫌味っぽく返してしまうのは、悠真の纏う雰囲気のせいだ。
ビジネス上の立場なら尊大。
プライベートなら不遜。
どちらにしろ不満を感じるのは致し方ない。
そんなやり取りの中、ラウルがマティーニを運んで来た。
「おいしそう~」
目の前に置かれたそれを見て、結菜の目が輝く。
結菜はラウルが作るヴェスパー・マティーニが好きだった。
カクテルグラスに添えられているレモンは、太めのマドラーに巻き付くように細い螺旋状になっており、見目も楽しませてくれるからだ。
結菜相手だからといって手抜きしない、真面目なラウルの一面が見れる芸術作品。
「五十嵐様は、いかがなさいますか?」
空になったカップの中身を見てラウルが尋ねた。
「いや、俺はもういい」
「かしこまりました」
ラウルは一礼すると、出て行った。
再び二人きりになると、悠真は寛いだ様子でソファの端にヒジを付き、結菜の様子を眺め始めた。
しばらく見ていると、自然と口の端が持ち上がった。
「美味そうに飲むんだな」
思わずそう言う。
「だって本当に美味しいんだもの」
嬉しそうに答える結菜。
「この美味しさが体験できないなんて…人生損しているわね」
グラスの中、マドラーに巻かれたレモンの端を結菜は口に含んだ。
噛んだレモンの皮から染みたジンとウォッカが滴り落ち、彼女の唇から溢れる。
意識せずにそれを舌で舐め上げると、悠真はその唇に釘付けとなった。
「確かに、そんな美味そうな物を目の前にして手を出さないのは、人生損しているな」
そう耳元で囁かれた。
え?耳元で…?
と結菜が思った次の瞬間には、彼女の口は悠真の唇で塞がれていた。
ふいをつかれ、構えていなかった彼女の口内に悠真は舌を滑り込ませる。
まるで結菜が飲んだマティーニを奪い、飲み干すかのように貪ると、彼女の喉奥から甘い声が零れた。
それを聞くと、悠真は満足げに彼女の下唇を舐め上げ、唇を放した。
「美味いな」
言って、悠真が今度は自分自身の唇を舐め上げた。
その仕草を、熱の籠もった瞳でぼーっと眺めていた結菜は、はっと我に返った。
今…。
今、この男!
結菜は「なにするの!」と叫びそうになった言葉をぐっと飲み込み、何とか動揺を見せまいと息を吸い込む。
「それは…お粗末様でした」
擦れそうになる声で、どうにかそう答える。
そんな結菜の様子を見て、悠真は意外そうな顔をすると、再びじっと彼女を見つめる。
「な…に?」
「明日またここに来るか?」
「え?」
「明日のこの時間、またここに来い」
聞き返して返って来た言葉は明らかに命令だった。
「何で、あたしが…」
結菜が呆然と答えると、悠真はまた皮肉っぽく笑った。
「俺は未成年で酒が飲めない。だが…、どうやら酒の味を知るには他にも方法があるみたいだからな。だから俺にも…」
そこで言葉を切ると、再びキスが出来そうなほど結菜に顔を近づけた。
「人生を損させないように、明日もレクチャーしてくれ」
そう言い残すと、悠真はテーブル上の本を拾い上げ、ボックス席から出て行った。
――――悠真の姿が見えなくなると、力が抜けたように結菜の体がソファに沈んだ。
熱くなった頬を両手で押さえる。
…あんっの、『俺様』!
絶対にあたしの反応見て楽しんでいた!
しかも、不意をつかれたとは言え……!!
頬の熱は、アルコールからきているものだけではないと、結菜にも十分すぎるほど判っていた。
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