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とある夫婦の日常
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ました。
目を開けると見慣れた天井があり、いつものようにリビングからは、妻の由紀が朝食を作っている音がする。
時計を見れば時間は六時五十九分。七時にセットした目覚ましが鳴る寸前に起きることができ、今日は良い一日になりそうだ。
「んー。そろそろ起きるか」
体を伸ばし、裕太は寝室の扉を開けた。
寝室を出た裕太は、リビングに行く前にトイレに寄る。裕太のいつものルーティーンだ。
「あ、無くなった」
裕太が用を足してトイレットペーパーを巻くと、裕太が巻いた分でちょうどトイレットペーパーが切れてしまった。
「まぁ今日くらい別にいいか」
いつもなら芯を捨てて、新しいトイレットペーパーを設置するところだが、裕太はトイレットペーパーを替えずにトイレを出た。
「ふんふん、ふふふーん」
裕太がリビングのドアの前に立つと、中から由紀の鼻歌が聴こえてきた。寝起きの悪い由紀が、朝からこんなにも上機嫌なのは珍しい。
「おはよう。何かいい事でもあった?」
「あ、裕太。おはよう!」
裕太がリビングに入ると、やはり由紀はいつもより高い声でキッチンから挨拶を返してきた。
「何作って……え? 朝からステーキ?」
裕太が朝食を作っている由紀に近づくと、その手元のフライパンで焼かれていたのは、大きな肉だった。
確かに今日くらいは豪華な物を食べたい気持ちは裕太にもわかるが、さすがに朝からステーキとはいかがなものだろうか。
「うん! 一昨日から仕込んでて、昨日の夕飯に出そうと思ったんだけど、昨日あんなことがあったでしょ?」
「ああ、そういうこと。確かに今日以外にもう食べるタイミング無いからね」
「でしょ? もうすぐ焼けるから、コーヒーでも飲んでて」
由紀の言葉を聞き、裕太はリビングのいつもの席に座り、目の前に用意されていたコーヒーを一口飲んだ。
「あれ? 豆変えた?」
「ごめんね。いつもの豆切らしちゃってて。インスタントで我慢して」
昔からとにかく物欲が無かった裕太にとって、唯一と言っていいほど執着を持ったのは、コーヒーだった。
その執着は、バリスタの資格を取るだけに飽き足らず、バリスタの世界大会に出場し、かなり良い結果を残すほどだ。
仕事も何となくで選んだ会社に就職した裕太には、コーヒーがたった一つの趣味だった。
だからいつもの裕太であれば、朝からインスタントコーヒーなど飲んだ日は、一日中不機嫌になる。ところが、今日だけは不思議と不快感は湧いてこない。
いつも由紀が飲んでいるコーヒーと同じものを飲んでいると思うと、不思議と悪い気はしなかった。
「いいよ。たまには夫婦で同じもの飲むのも悪くないし」
穏やかな気持ちで由紀に声をかけると、裕太はテレビを付けた。
「こんな日にもやってる番組あるんだね」
テレビを見ながらの朝食もまた、裕太の朝のルーティーンだ。
ダメもとで付けたテレビだったが、意外にも放送している局があった。
番組のタイトルは【人類最後の日を、あなたはどうやって過ごしますか】
裕太がテレビを付けた時には、アナウンサーが道行く若いサラリーマンにインタビューを行っていた。
『ついに今日が人類最後の日となりましたが、こんな日でも出勤ですか?』
『そうですね。別に家族仲も良くないし、彼女も友達もいないので、いつも通りに過ごそうって感じです』
『どうにかして生き残ろうとは思いませんでしたか?』
『隕石じゃあ仕方ないですよね。子供の時に、主人公達のおならで地球を動かして隕石を回避する物語を読みましたけど、まさか現実になるとは思いませんでしたよ』
インタビューの内容は、おそらく今世界中で一番注目されている話題、地球に接近している超巨大隕石だ。
昨日の昼に突然人類は、と言うよりも地球は滅亡を宣告された。
急に始まった緊急放送を、裕太も職場の同僚と共に見ていた。
記者会見の場に現れた総理大臣から告げられたのは、現在地球に超巨大隕石が近づいている事、そしてその隕石を回避する手段が存在しない事だった。あまりもの巨大さ故に、今の人類では対処法が存在しないらしい。
「やっぱり俺達みたいにいつも通り過ごすって人が多いのかな? 総理も昨日の放送が終わった直後に家族の所へ行ったらしいよ」
昨日の記者会見は歴史に残るひどいものだった。
記者が投げる罵詈雑言に、総理もそれ以上の罵詈雑言で返し、しまいにはありとあらゆる日本の闇を暴露し始めたのだ。昨日は放心状態でそんなこと気にしている場合ではなかったが、今思い出すと税金を横領していたり、世界を裏で支配する組織が実在したのはとんでもない事じゃないだろうか。
「そんなこともないんじゃない? うちのお姉ちゃんは一家心中するって昨日電話で喚いてたよ」
「ヒステリックだもんなぁ、義姉さん。今だから言うけど、俺あの人苦手だったんだよ」
「私も昔からお姉ちゃん嫌いだったなぁ。はい、出来たよ。たーんと召し上がれ!」
裕太がコーヒーをちょうど飲み干した時、ちょうど由紀がステーキを机に配膳してきた。
程よいスパイスの香りを纏った皿の上のステーキが、裕太の嗅覚を強く刺激する。
「わぁ。美味しそう。さすがはシェフ」
「もう、止めてよ。今はもう叶わない夢だよ」
由紀の小さい頃からの夢は、自分のレストランを開くことだった。きっかけは、幼馴染の裕太に手作りの料理を褒められたから。
「レストランを開く夢は叶わなかったけど、由紀はいつも俺にとっては最高のシェフだったよ」
幼い頃から由紀と一緒に育った裕太は、由紀の努力を全て知っている。母子家庭にもかかわらず、学校の勉強をしながら暇さえあれば料理のことを学び、学生時代からレストランを開くためにバイトを掛け持ちしていた。
そんな由紀の努力を見てきたのだから、裕太も全力で由紀の夢を応援した。
裕太自身も料理を学び、由紀の料理にはお世辞抜きに評論をしたし、由紀の夢に反対していた由紀の母の説得にも同席した。
結果二人の心からの土下座を受け、由紀の母は由紀の夢を認めたのだった。
そうしてあと少しで資金が溜まると思っていた矢先にこの騒動である。
「ありがと。ほら、冷めちゃう前に食べよ?」
「そうだな。いただきます」
「いただきます」
由紀が一瞬涙ぐんだことには触れず、裕太は手を合わせた後にフォークとナイフを手に取った。
思ったよりステーキは固く、切るのに少し手間取った。
そうして最初の一口を裕太は大口を開けて頬張る。
「美味しい?」
「うん! やっぱり由紀の料理は美味しいな! この味を他の人に楽しんでもらえなかったのが残念でしょうがないよ」
肉を嚙んだ瞬間に口内に肉汁が溢れ、見事に配合されたスパイスのうま味に裕太は感嘆を禁じ得ない。食べ慣れた由紀の料理だが、何度食べても飽きることは決して無い。
しかし、ステーキを口に入れた瞬間、裕太は若干の違和感を感じていた。
「ところでこれ何の肉? なんか不思議な食感するんだけど……」
裕太が感じた違和感。それは、ステーキの食感に思い当たりが無かったことだ。
牛肉とも豚肉とも少し違う。はたまた鶏肉とも違う。狸か熊だろうか。
そして飲み込んだ瞬間に感じた悪寒は何なのか。
「ああ、そのお肉? 百合ちゃんだよ」
「なにそれ。ブランド?」
「違うよ。浜田百合ちゃんだよ」
由紀の言葉の意味が、裕太にはわからなかった。
浜田百合という名前を聞いて裕太がまず思い当たるのは、高校の同級生で会社の同期の浜田百合だ。だが、高校からは料理の専門学校に通っていた由紀は、百合と会ったことが無いはずだ。
いや、そんなことよりも今しがた由紀は何と言った。
「は? え、だから、この肉が何の肉って……」
「だから、裕太の会社の同期で、高校の頃から裕太と付き合ってる浜田百合ちゃんだって」
聞き間違いでも勘違いでもない。確かに由紀は、このステーキの事を百合と言った。
「私、知ってたんだ。裕太が浮気してたの。言ってなかったけど、裕太と同じ高校に友達いてさ。その子が教えてくれたの」
状況に理解が追い付かない。否、脳が理解を拒んでいる。
由紀の言っていることが事実なら、今自分は人肉を食べたのだろうか。それよりも由紀はどうやって百合の肉を手に入れたのだろうか。
様々な思いが頭をよぎって、冷や汗が止まらない裕太に、由紀はあくまで普段の調子で語りかける。そのいつもの笑顔が逆に恐ろしかった。
「裕太の浮気を知ってから、私にはもう一つ夢が出来たの」
「へ、へえー。どんな夢?」
少しでも最悪の事実から意識を逸らせればと、由紀の夢を聞いた裕太に、由紀はあくまで笑顔で答える。
「百合ちゃんを美味しく料理して、裕太に食べさせてあげる事」
もはや妄言で済まされるレベルではない。由紀の発言が真実であろうが虚言であろうが、関係はない。
倫理観の欠如した発言を繰り返す由紀に怒りをあらわにしようと、顔を上げた裕太の視界に由紀の髪に付いているヘアピンが入ってきた。
由紀は普段はヘアピンをしていない。
本当は最初にリビングに入った時に気づいていた。そのヘアピンは、裕太が百合に誕生日プレゼントで送ったオーダーメイド品だ。
他にもキッチンに何やら大きな生ゴミのゴミ袋が置いてあったこと。
一昨日と昨日、百合が会社を無断欠勤していたこと。
一昨日裕太が仕事から帰ってくると、由紀が家中を掃除していたこと。料理以外の家事は裕太の担当なのに。
気づいていたけど、気づかないふりをしていた。
(違うか。気づきたくなかったんだ)
全ての点が繋がり、由紀の発言が事実だと確信しても、裕太の心は何も感じてはいなかった。
「そっか……」
強いて言うならば、裕太が感じていたのは安堵だ。
だって、由紀はこの肉を一昨日仕込んだと言った。地球の滅亡が発表された昨日ではなく、一昨日だ。
もし明日があれば、由紀との夫婦生活を続ければならなかった。
今日が人類最後の日であったことに、裕太は心から安堵していた。
「良かったな。夢が叶って」
由紀の夢が叶ったことを心から祝福し、裕太は再びステーキを口に運ぶ。
「うん、やっぱり由紀の料理は美味しいな」
「良かった。いっぱい食べてね」
もう肉眼でも見えるようになった隕石を、由紀の背後の窓から見ながら、裕太は最後の晩餐を思う存分味わった。
「なぁ、由紀」
「何?」
「愛してる」
「うん、私もだよ」
結局最後まで、その部屋からごちそうさまが聞こえることは無かった。
目を開けると見慣れた天井があり、いつものようにリビングからは、妻の由紀が朝食を作っている音がする。
時計を見れば時間は六時五十九分。七時にセットした目覚ましが鳴る寸前に起きることができ、今日は良い一日になりそうだ。
「んー。そろそろ起きるか」
体を伸ばし、裕太は寝室の扉を開けた。
寝室を出た裕太は、リビングに行く前にトイレに寄る。裕太のいつものルーティーンだ。
「あ、無くなった」
裕太が用を足してトイレットペーパーを巻くと、裕太が巻いた分でちょうどトイレットペーパーが切れてしまった。
「まぁ今日くらい別にいいか」
いつもなら芯を捨てて、新しいトイレットペーパーを設置するところだが、裕太はトイレットペーパーを替えずにトイレを出た。
「ふんふん、ふふふーん」
裕太がリビングのドアの前に立つと、中から由紀の鼻歌が聴こえてきた。寝起きの悪い由紀が、朝からこんなにも上機嫌なのは珍しい。
「おはよう。何かいい事でもあった?」
「あ、裕太。おはよう!」
裕太がリビングに入ると、やはり由紀はいつもより高い声でキッチンから挨拶を返してきた。
「何作って……え? 朝からステーキ?」
裕太が朝食を作っている由紀に近づくと、その手元のフライパンで焼かれていたのは、大きな肉だった。
確かに今日くらいは豪華な物を食べたい気持ちは裕太にもわかるが、さすがに朝からステーキとはいかがなものだろうか。
「うん! 一昨日から仕込んでて、昨日の夕飯に出そうと思ったんだけど、昨日あんなことがあったでしょ?」
「ああ、そういうこと。確かに今日以外にもう食べるタイミング無いからね」
「でしょ? もうすぐ焼けるから、コーヒーでも飲んでて」
由紀の言葉を聞き、裕太はリビングのいつもの席に座り、目の前に用意されていたコーヒーを一口飲んだ。
「あれ? 豆変えた?」
「ごめんね。いつもの豆切らしちゃってて。インスタントで我慢して」
昔からとにかく物欲が無かった裕太にとって、唯一と言っていいほど執着を持ったのは、コーヒーだった。
その執着は、バリスタの資格を取るだけに飽き足らず、バリスタの世界大会に出場し、かなり良い結果を残すほどだ。
仕事も何となくで選んだ会社に就職した裕太には、コーヒーがたった一つの趣味だった。
だからいつもの裕太であれば、朝からインスタントコーヒーなど飲んだ日は、一日中不機嫌になる。ところが、今日だけは不思議と不快感は湧いてこない。
いつも由紀が飲んでいるコーヒーと同じものを飲んでいると思うと、不思議と悪い気はしなかった。
「いいよ。たまには夫婦で同じもの飲むのも悪くないし」
穏やかな気持ちで由紀に声をかけると、裕太はテレビを付けた。
「こんな日にもやってる番組あるんだね」
テレビを見ながらの朝食もまた、裕太の朝のルーティーンだ。
ダメもとで付けたテレビだったが、意外にも放送している局があった。
番組のタイトルは【人類最後の日を、あなたはどうやって過ごしますか】
裕太がテレビを付けた時には、アナウンサーが道行く若いサラリーマンにインタビューを行っていた。
『ついに今日が人類最後の日となりましたが、こんな日でも出勤ですか?』
『そうですね。別に家族仲も良くないし、彼女も友達もいないので、いつも通りに過ごそうって感じです』
『どうにかして生き残ろうとは思いませんでしたか?』
『隕石じゃあ仕方ないですよね。子供の時に、主人公達のおならで地球を動かして隕石を回避する物語を読みましたけど、まさか現実になるとは思いませんでしたよ』
インタビューの内容は、おそらく今世界中で一番注目されている話題、地球に接近している超巨大隕石だ。
昨日の昼に突然人類は、と言うよりも地球は滅亡を宣告された。
急に始まった緊急放送を、裕太も職場の同僚と共に見ていた。
記者会見の場に現れた総理大臣から告げられたのは、現在地球に超巨大隕石が近づいている事、そしてその隕石を回避する手段が存在しない事だった。あまりもの巨大さ故に、今の人類では対処法が存在しないらしい。
「やっぱり俺達みたいにいつも通り過ごすって人が多いのかな? 総理も昨日の放送が終わった直後に家族の所へ行ったらしいよ」
昨日の記者会見は歴史に残るひどいものだった。
記者が投げる罵詈雑言に、総理もそれ以上の罵詈雑言で返し、しまいにはありとあらゆる日本の闇を暴露し始めたのだ。昨日は放心状態でそんなこと気にしている場合ではなかったが、今思い出すと税金を横領していたり、世界を裏で支配する組織が実在したのはとんでもない事じゃないだろうか。
「そんなこともないんじゃない? うちのお姉ちゃんは一家心中するって昨日電話で喚いてたよ」
「ヒステリックだもんなぁ、義姉さん。今だから言うけど、俺あの人苦手だったんだよ」
「私も昔からお姉ちゃん嫌いだったなぁ。はい、出来たよ。たーんと召し上がれ!」
裕太がコーヒーをちょうど飲み干した時、ちょうど由紀がステーキを机に配膳してきた。
程よいスパイスの香りを纏った皿の上のステーキが、裕太の嗅覚を強く刺激する。
「わぁ。美味しそう。さすがはシェフ」
「もう、止めてよ。今はもう叶わない夢だよ」
由紀の小さい頃からの夢は、自分のレストランを開くことだった。きっかけは、幼馴染の裕太に手作りの料理を褒められたから。
「レストランを開く夢は叶わなかったけど、由紀はいつも俺にとっては最高のシェフだったよ」
幼い頃から由紀と一緒に育った裕太は、由紀の努力を全て知っている。母子家庭にもかかわらず、学校の勉強をしながら暇さえあれば料理のことを学び、学生時代からレストランを開くためにバイトを掛け持ちしていた。
そんな由紀の努力を見てきたのだから、裕太も全力で由紀の夢を応援した。
裕太自身も料理を学び、由紀の料理にはお世辞抜きに評論をしたし、由紀の夢に反対していた由紀の母の説得にも同席した。
結果二人の心からの土下座を受け、由紀の母は由紀の夢を認めたのだった。
そうしてあと少しで資金が溜まると思っていた矢先にこの騒動である。
「ありがと。ほら、冷めちゃう前に食べよ?」
「そうだな。いただきます」
「いただきます」
由紀が一瞬涙ぐんだことには触れず、裕太は手を合わせた後にフォークとナイフを手に取った。
思ったよりステーキは固く、切るのに少し手間取った。
そうして最初の一口を裕太は大口を開けて頬張る。
「美味しい?」
「うん! やっぱり由紀の料理は美味しいな! この味を他の人に楽しんでもらえなかったのが残念でしょうがないよ」
肉を嚙んだ瞬間に口内に肉汁が溢れ、見事に配合されたスパイスのうま味に裕太は感嘆を禁じ得ない。食べ慣れた由紀の料理だが、何度食べても飽きることは決して無い。
しかし、ステーキを口に入れた瞬間、裕太は若干の違和感を感じていた。
「ところでこれ何の肉? なんか不思議な食感するんだけど……」
裕太が感じた違和感。それは、ステーキの食感に思い当たりが無かったことだ。
牛肉とも豚肉とも少し違う。はたまた鶏肉とも違う。狸か熊だろうか。
そして飲み込んだ瞬間に感じた悪寒は何なのか。
「ああ、そのお肉? 百合ちゃんだよ」
「なにそれ。ブランド?」
「違うよ。浜田百合ちゃんだよ」
由紀の言葉の意味が、裕太にはわからなかった。
浜田百合という名前を聞いて裕太がまず思い当たるのは、高校の同級生で会社の同期の浜田百合だ。だが、高校からは料理の専門学校に通っていた由紀は、百合と会ったことが無いはずだ。
いや、そんなことよりも今しがた由紀は何と言った。
「は? え、だから、この肉が何の肉って……」
「だから、裕太の会社の同期で、高校の頃から裕太と付き合ってる浜田百合ちゃんだって」
聞き間違いでも勘違いでもない。確かに由紀は、このステーキの事を百合と言った。
「私、知ってたんだ。裕太が浮気してたの。言ってなかったけど、裕太と同じ高校に友達いてさ。その子が教えてくれたの」
状況に理解が追い付かない。否、脳が理解を拒んでいる。
由紀の言っていることが事実なら、今自分は人肉を食べたのだろうか。それよりも由紀はどうやって百合の肉を手に入れたのだろうか。
様々な思いが頭をよぎって、冷や汗が止まらない裕太に、由紀はあくまで普段の調子で語りかける。そのいつもの笑顔が逆に恐ろしかった。
「裕太の浮気を知ってから、私にはもう一つ夢が出来たの」
「へ、へえー。どんな夢?」
少しでも最悪の事実から意識を逸らせればと、由紀の夢を聞いた裕太に、由紀はあくまで笑顔で答える。
「百合ちゃんを美味しく料理して、裕太に食べさせてあげる事」
もはや妄言で済まされるレベルではない。由紀の発言が真実であろうが虚言であろうが、関係はない。
倫理観の欠如した発言を繰り返す由紀に怒りをあらわにしようと、顔を上げた裕太の視界に由紀の髪に付いているヘアピンが入ってきた。
由紀は普段はヘアピンをしていない。
本当は最初にリビングに入った時に気づいていた。そのヘアピンは、裕太が百合に誕生日プレゼントで送ったオーダーメイド品だ。
他にもキッチンに何やら大きな生ゴミのゴミ袋が置いてあったこと。
一昨日と昨日、百合が会社を無断欠勤していたこと。
一昨日裕太が仕事から帰ってくると、由紀が家中を掃除していたこと。料理以外の家事は裕太の担当なのに。
気づいていたけど、気づかないふりをしていた。
(違うか。気づきたくなかったんだ)
全ての点が繋がり、由紀の発言が事実だと確信しても、裕太の心は何も感じてはいなかった。
「そっか……」
強いて言うならば、裕太が感じていたのは安堵だ。
だって、由紀はこの肉を一昨日仕込んだと言った。地球の滅亡が発表された昨日ではなく、一昨日だ。
もし明日があれば、由紀との夫婦生活を続ければならなかった。
今日が人類最後の日であったことに、裕太は心から安堵していた。
「良かったな。夢が叶って」
由紀の夢が叶ったことを心から祝福し、裕太は再びステーキを口に運ぶ。
「うん、やっぱり由紀の料理は美味しいな」
「良かった。いっぱい食べてね」
もう肉眼でも見えるようになった隕石を、由紀の背後の窓から見ながら、裕太は最後の晩餐を思う存分味わった。
「なぁ、由紀」
「何?」
「愛してる」
「うん、私もだよ」
結局最後まで、その部屋からごちそうさまが聞こえることは無かった。
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