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act1
勉強の時間だ
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タケヒロはコルチカたちに連れられ彼女らの村落に到着した。
「はあ、綺麗な場所だな…」
木材と藁ぶきを合わせた田舎特有の住宅が点在しており、軒先では住民がのんびりと談笑中だ。
村の中心部には教会のような建物がそびえ、綺麗に白く塗られたレンガで作られている。
少しして、2人はコルチカの家に到着した。
母屋と小さいな馬屋が隣接した簡素な家だ。
セロとディノール、応援に来た村人たちは強盗どもを衛兵に突き出しに行く。
コルチカは馬具を取り外した馬を連れて行き、そこで労うようにブラシをかけ始める。
コルチカの耳がブラシを動かす度にぴくりと揺れる。
タケヒロは、とりあえずそれを眺めることにした。
夕日が差し込み、鹿毛である2頭に黄金色の縁が浮かぶ。
穏やかな黒い瞳にも光が反射し、磨かれた宝玉のように美しく佇む。
「馬って、こんなに綺麗だったんだな」
タケヒロはまじまじと馬を観察し、ぼそっと呟いた。
真っ黒い尻尾でハエを払っている姿すらも美しく、それに見とれている。
コルチカは手際よく2頭のブラッシングを終わらせると、タケヒロの手を引いて馬屋を出た。
「タケヒロ!さらどもねろ、じじばばおまごどんどこどん」
タケヒロはとりあえずああ、ええ、うんうんと言いながら頷いた。
「やっぱり、この世界の言語は覚えないといけないよな……」
必然的に勉強が待っていることに面倒くささを感じつつ、大人しくコルチカについていく。
村の中心部へ歩くと、2人は比較的大きな平屋に到着した。
建物の中には何人かたむろしているようで窓から談笑の声が漏れ出ている。
料理とアルコールの匂いも漂い、タケヒロの顔がほころんだ。
「ああ、居酒屋かぁ!お酒は好きだよ!」
喜ぶタケヒロを見てコルチカが笑う。
来客を知らせるベルが鳴り、新鮮な空気が屋内を循環する。
酒と料理のにおいが充満しており、男たちがガヤガヤと騒いでいる。
しかしタケヒロが席に着くと、男たちの視線が彼に突き刺さる。
ダサくて目立つ格好をしており、かつ見知らぬ人間なので当然である。
「なんでこんな見てくるの……。あ、服か」
コルチカが奥のカウンターへ店員に注文をする間
「早く戻ってきてみんなに説明をしてくれ」
とタケヒロは小声で呟きながら顔を赤らめて縮こまる。
しかしその時、セロとディノールたちが入ってきて嬉しそうにタケヒロのことを客達に紹介し始めた。
めでたく歓迎はされたが、タケヒロはまた名前を呼び合う時間に巻き込まれてしまいひどく疲れてしまった
数時間後
タケヒロはすっかり上機嫌になっていた。
食べ応えのある肉。
飲んだことのない味の酒。
初めて見る楽器と、初めて聴く旋律。
ちょくちょく混ざってるディノールのような緑人間。
手を振れば、微笑んでくれる淑女たち。
そんな女性に筋肉を触られさらに大喜び。
タケヒロは不安を忘れて今の時間だけを楽しんだ。
そんなタケヒロを見て、コルチカもまた微笑む。
そしてまた数時間後
目を覚ましたタケヒロは、知らない寝心地を感じた。
「うぁ……な、え、どこ…?」
見覚えの無い天井に少し困惑し、少しずつ自身のこれまでの境遇を思い出した。
「ぁあ、コルチカの家か……」
同時に、昨夜の飲酒量も思い出し現在の状況を理解する。
「うう~」
タケヒロは痛む頭を押さえつつも、酔い自体は殆ど覚めており頭はどんどん冴えてくる。
ふと
「このベッド、コルチカさんのものか?」
タケヒロは今まで寝ていたベッドの布団を整え、部屋の中を見回した。
「あ、コルチカさんあっちで寝てる……。
でももう一人いるな。一緒に寝てる」
床の軋む音を抑えながら、タケヒロはゆっくりとそのベッドに近付き様子をうかがう。
「…お姉さんかな?」
コルチカと一緒に寝ているのは、コルチカと同じ髪の色をした女性だった。
それなりに大人びて見え、タケヒロは自分より上の年齢だろうと推測した。
「なんだか、申し訳ないな。
俺をわざわざベッドに寝かせてくれるなんて……」
「……多分、居酒屋の金も払ってもらったな。
こんなにしてもらって、ありがたい」
タケヒロはひと息おいて、抱き合って眠る二人に深々と頭を下げる。
「近い内に、働いてお返しします」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
暁の終わりごろ、タケヒロは酔冷ましに村を歩く。
「俺は、これからどうすればいいんだ?」
タケヒロの頭から、この疑問がずっと離れない。
突然放り出された別世界、知っている人間も言葉が通じる人間もいない。
唯一の幸運は、出会った人間がみな親切だった事だ。
もし、初日に遭遇したあのイノシシもどきが凶暴なヒグマなどだったらきっと死んでいただろう。
もし、強盗どもが1人の時に襲いかかってきていたら危うかっただろう。
そのようなたらればがタケヒロの頭の中を巡る。
「この村を出たら、どうなるんだろうか」
「俺は、この村の事も知らない。
この世界の基本情報も、何もわからない」
「どうやって生きて行けば良いんだ…。
頼れる人も、行くべき場所もわからないのに」
巨大な未知への恐怖が彼の中に沸き起こる。
しかし今の彼にとって最も大きな感情は……
「……父さん、母さん。兄ちゃん、コーチ……みんな……」
人生で最も多くかかわってきた者たちがいないという現実への失望だ。
リングで拳を交えたライバル、ジムの後輩、試合の度に応援してくれた同級生たち。
その全てが、ここにはいない。
努力の末に得たアジアチャンピオンの肩書きも、ここではなんの意味もない。
自宅に飾ったトロフィー、年季の入ったトレーニング器具、好きな物全て買えるほどの金。
そのすべても、この世界には無いのだ。
タケヒロは自ら手に入れた全てを失った現実を、改めてはっきりと突き付けられた。
朝の冷たい空気、さらさらとそよぐ草。
日の出が生み出す雲の陰、まだ照らされない家々。
薄暗い空間の全てがタケヒロに孤独と無力感を与える。
孤独とは、最もひどい重圧の一つ。
「ああ、いいさ」
だからこそ、芯の通った人間にとっては闘志と野心の元になりうる。
「やってやる、俺はまだ死なない。獣やチンピラになんか殺されてたまるか」
タケヒロは顔をぱちりと叩き、ストレッチを始めた。
肩甲骨、背筋、股関節、アキレス腱、腿裏、膝裏、手首、指の全てを余すことなくほぐす。
タケヒロの柔軟性は、寝起きであっても高い柔軟性を維持し、滑らかな動作でストレッチを終える。
「まずは、村を1周」
そう呟くと、ジョギングを始めた。
初速からスピードを変えることなく初めて走るはずのルートをスイスイと進んでいく。
これも世界各国、現地での試合の度に行ってきたルーティンの賜物だ。
「いや、少し短いな。もう1周!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「さあ、次だ」
タケヒロは呼吸を整えて腕立て伏せを始めた。
20回目に差し掛かるころには呼吸が完全に安定し、一定のリズムで上げ下げを続ける。
数分程続け、突然タケヒロは地面を蹴り倒立をする。
「ふっー……これが、いちばん、効くっ」
なんと、倒立の姿勢で腕立て伏せを始めた。
これもルーティンの1つだが、今日の彼は少し違う。
「フッ!大台の……フッ!……!100ッ!」
新記録。しかし彼はまだ止まらない。
腕に力が入らなくなるまで彼は続け、遂にはごろりと寝転がってしまった。
満ち足りた表情を浮かべる彼の身体からは湯気が溢れ、汗で湿った筋肉が輝く。
クールタイムののち、片足スクワットで更に体を追い込むと、いよいよ仕上げに入る。
疲労した脚でそのままフットワークを始め、シャドースパーリングを始めた。
脳内に仮想の敵を作り、ひたすら殴る。
それはそれは強い敵を作り、ひたすら蹴る。
超高速の攻撃を打たせ、ひたすら避ける。
そして、仮想の敵へぶっ放すカウンター。
見えない反撃を避け、上段回し蹴り。
『ビッ』と風を切る音が、その威力を物語る。
普通の試合展開ではあり得ないほどの攻撃回数を、とにかく長い時間続けた。
アマチュア時代からのトレーニングメニューを、この知らない世界においてもただひたすらに続けた。
タケヒロの体中をグツグツと血液が駆け巡る。
地面の土には汗の水たまりが生まれ、泥が回って濁り始める。
まだ止まらない、彼は満足していない。
異世界に来たストレスを晴らせるまで止まるつもりがなかった。
だが疲れのせいか徐々に動きが鈍り始め、拳はただ力任せに振り回すようになってきた。
長時間の雑なシャドーで流石に疲れすぎたのか、回し蹴りを放った瞬間に尻もちをついてしまった。
泥がはね、タケヒロは更に汚れる。
「アハハハ!」
突然の甲高い笑い声。
驚いてタケヒロが振り向くと、声の主がコルチカだとわかり安堵した。
「ああ、お、おはようございます」
「んふふ!」
コルチカは耳をピコピコ動かしてまだ笑う。
だが無理もない、彼女が見ているのは泥まみれで尻もちをついたギラつき短パンの巨漢なのだから。
「んん?」
コルチカが何かに反応を示すと、タケヒロに近寄ってクンクンと匂いを嗅いだ。
「ぐうッ!」
顔をしかめ耳を水平に倒したかと思うと、タケヒロの手をがしりと掴んでどこかへ向かい始める。
「そんなに臭いですか、俺」
タケヒロは匂いを嗅がれ顔を歪められた事に少しショックを受けてしまった。
たどり着いたのは、近くを流れる川。
コルチカは近くに置いてあった大きい桶から何かを取り出しタケヒロに渡した。
真っ白く少しいびつなコーンの様な形をしており、手に取ってみると硬くて非常に軽い。
何かの実を乾燥させたようなものだ……と、ここでタケヒロは気がついた。
「あこれヘチマだ!俺もヘチマたわし昔作ったな~!」
収穫したヘチマの皮を剥き、ぬめりが取れるまで洗浄したあとによく乾燥させると出来上がる一品。
体を洗う事にも使われ、美容にも良いとされる。
日本では江戸時代から存在する、生活の知恵である。
「つまりは川に入ってこいつで体を洗えと言われてるんだな?」
タケヒロの問いかけにコルチカは
「そ。そういうこと」と言ったようにその場を離れた。
「この世界じゃ、ヘチマって何て言うんだろうな」
ヘチマもどきで体を洗いながら、タケヒロは自身の体を見回した。
古い傷が所々にあり、右胸と左脚には見覚えのない新しいあざもある。
「多分酔ったときにぶつけちまったな」
まずは仕事探して、代金を返さないと。
言葉がわからなくても出来る仕事から探そう。
などと考えているタケヒロに、遠くからコルチカが呼びかけながら川へ戻る。
「おっと、粗末なモンを見られちゃう」
タケヒロが川に浸かり、なるべく縮こまっていると衣服や布切れを抱えたコルチカと目が合った。
水面下で裸を隠すタケヒロを見てコルチカは
「何をしているの?洗ったなら早く上がりなさい」
といった感じでタケヒロを川から引っ張り出した。
「はっ!ちょっ!俺、裸です!」
慌てて抵抗するタケヒロにコルチカは「?」といった表情を一瞬向けると、さらに引っ張り上げる。
引き揚げた後、手に持っていたやけにゴワゴワした布切れ……おそらくタオルでタケヒロの体を雑に拭き取ると、丁寧に畳んである衣服を手渡した。
「あ、ありがとうございます」
裸を見られた上に体を好き勝手に拭かれて少し不機嫌になったタケヒロだが、この世界でも違和感のない服を貰ったことに気が付き、機嫌を直した。
ベージュ色の麻シャツ、そして赤福の様に暗いズボン。
足元を包むのは通気性バツグンの編みサンダル。
着用後、タケヒロはコルチカの家に連れられて朝食を頂いた。
硬いパンに硬い干し肉。
そして匂いの強いヤギチーズ。
「うう……でも、こういう味も悪くないな…」
言葉の通じない二人は、同じ食卓を黙々と楽しんだ。
「コルチカさん」
食事を済ませ、真剣な面持ちで呼びかけるタケヒロ。
コルチカは
「どうしたの?」と優しく微笑む。
「俺に、この世界の言語を教えて下さい!」
そう言いタケヒロは本棚から無作為に1冊取り出して表紙をなぞったり、中のページを開いて文字をすくい取って頭にかける動作や、口をパクパクさせたりし始めた。
当然、コルチカはそれを怪訝な目で見つめる。
しかし突然ピンと来たようで、ニコニコウンウンと応えてコルチカは外に出ていった。
「伝わった……か?」
少し経つと、コルチカは女性を連れて入ってきた。
「あ、さっき一緒に寝てた女性だ」
彼女はコルチカの姉であり、この村で教職に就いてる人物だ。
コルチカの姉は真ん丸眼鏡をかけており、妹と違って頭に耳が無い。
その眼鏡とゆったりしたクリーム色のチュニックのおかげでおっとりとした印象だが、鋭い赤色の瞳でタケヒロをじっくり観察しており抜け目のない性格が伺える。
コルチカが姉に色々説明すると、姉は深く頷いて本棚へ向かう。
1冊の少し薄い絵本を取り出し、タケヒロの前に広げた。
次に紙とクレヨンのような物を持ってきて、それも置く。
姉はタケヒロの肩に手を添え、椅子に座り直させる。
そしてジェスチャーで「書き写せ」と伝え、コルチカに色々何かを言うと仕事のためにそのまま出ていった。
姉を見送ったコルチカが「ふー」と一息つくと、タケヒロの隣に椅子を持ってきて座る。
お勉強の始まりだ。
絵本の文字と絵を交互になぞりながらコルチカが発音する。
タケヒロはそれを真似する。
次にタケヒロに絵本の絵を書かせ、その横にそれの名称を書かせる……。
絵本の内容はよくある昔話だ。
1人の英雄が悪を討ち、民から称賛される。
絵本の内容がまだ読めないものの、きっと童話や伝承を通じて世界の常識を学ばせようとしているんだな、とタケヒロは推測した。
タケヒロが1冊目を理解し終える頃にコルチカは既に何冊も絵本を積み置いており、どんどん読む様に催促をするのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夕方、帰宅した姉は読み疲れて眠っていた2人を一喝し叩き起こすと、タケヒロと何故かコルチカにも言語学を指導し始めた。
学習中の居眠りは厳禁である。
「はあ、綺麗な場所だな…」
木材と藁ぶきを合わせた田舎特有の住宅が点在しており、軒先では住民がのんびりと談笑中だ。
村の中心部には教会のような建物がそびえ、綺麗に白く塗られたレンガで作られている。
少しして、2人はコルチカの家に到着した。
母屋と小さいな馬屋が隣接した簡素な家だ。
セロとディノール、応援に来た村人たちは強盗どもを衛兵に突き出しに行く。
コルチカは馬具を取り外した馬を連れて行き、そこで労うようにブラシをかけ始める。
コルチカの耳がブラシを動かす度にぴくりと揺れる。
タケヒロは、とりあえずそれを眺めることにした。
夕日が差し込み、鹿毛である2頭に黄金色の縁が浮かぶ。
穏やかな黒い瞳にも光が反射し、磨かれた宝玉のように美しく佇む。
「馬って、こんなに綺麗だったんだな」
タケヒロはまじまじと馬を観察し、ぼそっと呟いた。
真っ黒い尻尾でハエを払っている姿すらも美しく、それに見とれている。
コルチカは手際よく2頭のブラッシングを終わらせると、タケヒロの手を引いて馬屋を出た。
「タケヒロ!さらどもねろ、じじばばおまごどんどこどん」
タケヒロはとりあえずああ、ええ、うんうんと言いながら頷いた。
「やっぱり、この世界の言語は覚えないといけないよな……」
必然的に勉強が待っていることに面倒くささを感じつつ、大人しくコルチカについていく。
村の中心部へ歩くと、2人は比較的大きな平屋に到着した。
建物の中には何人かたむろしているようで窓から談笑の声が漏れ出ている。
料理とアルコールの匂いも漂い、タケヒロの顔がほころんだ。
「ああ、居酒屋かぁ!お酒は好きだよ!」
喜ぶタケヒロを見てコルチカが笑う。
来客を知らせるベルが鳴り、新鮮な空気が屋内を循環する。
酒と料理のにおいが充満しており、男たちがガヤガヤと騒いでいる。
しかしタケヒロが席に着くと、男たちの視線が彼に突き刺さる。
ダサくて目立つ格好をしており、かつ見知らぬ人間なので当然である。
「なんでこんな見てくるの……。あ、服か」
コルチカが奥のカウンターへ店員に注文をする間
「早く戻ってきてみんなに説明をしてくれ」
とタケヒロは小声で呟きながら顔を赤らめて縮こまる。
しかしその時、セロとディノールたちが入ってきて嬉しそうにタケヒロのことを客達に紹介し始めた。
めでたく歓迎はされたが、タケヒロはまた名前を呼び合う時間に巻き込まれてしまいひどく疲れてしまった
数時間後
タケヒロはすっかり上機嫌になっていた。
食べ応えのある肉。
飲んだことのない味の酒。
初めて見る楽器と、初めて聴く旋律。
ちょくちょく混ざってるディノールのような緑人間。
手を振れば、微笑んでくれる淑女たち。
そんな女性に筋肉を触られさらに大喜び。
タケヒロは不安を忘れて今の時間だけを楽しんだ。
そんなタケヒロを見て、コルチカもまた微笑む。
そしてまた数時間後
目を覚ましたタケヒロは、知らない寝心地を感じた。
「うぁ……な、え、どこ…?」
見覚えの無い天井に少し困惑し、少しずつ自身のこれまでの境遇を思い出した。
「ぁあ、コルチカの家か……」
同時に、昨夜の飲酒量も思い出し現在の状況を理解する。
「うう~」
タケヒロは痛む頭を押さえつつも、酔い自体は殆ど覚めており頭はどんどん冴えてくる。
ふと
「このベッド、コルチカさんのものか?」
タケヒロは今まで寝ていたベッドの布団を整え、部屋の中を見回した。
「あ、コルチカさんあっちで寝てる……。
でももう一人いるな。一緒に寝てる」
床の軋む音を抑えながら、タケヒロはゆっくりとそのベッドに近付き様子をうかがう。
「…お姉さんかな?」
コルチカと一緒に寝ているのは、コルチカと同じ髪の色をした女性だった。
それなりに大人びて見え、タケヒロは自分より上の年齢だろうと推測した。
「なんだか、申し訳ないな。
俺をわざわざベッドに寝かせてくれるなんて……」
「……多分、居酒屋の金も払ってもらったな。
こんなにしてもらって、ありがたい」
タケヒロはひと息おいて、抱き合って眠る二人に深々と頭を下げる。
「近い内に、働いてお返しします」
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暁の終わりごろ、タケヒロは酔冷ましに村を歩く。
「俺は、これからどうすればいいんだ?」
タケヒロの頭から、この疑問がずっと離れない。
突然放り出された別世界、知っている人間も言葉が通じる人間もいない。
唯一の幸運は、出会った人間がみな親切だった事だ。
もし、初日に遭遇したあのイノシシもどきが凶暴なヒグマなどだったらきっと死んでいただろう。
もし、強盗どもが1人の時に襲いかかってきていたら危うかっただろう。
そのようなたらればがタケヒロの頭の中を巡る。
「この村を出たら、どうなるんだろうか」
「俺は、この村の事も知らない。
この世界の基本情報も、何もわからない」
「どうやって生きて行けば良いんだ…。
頼れる人も、行くべき場所もわからないのに」
巨大な未知への恐怖が彼の中に沸き起こる。
しかし今の彼にとって最も大きな感情は……
「……父さん、母さん。兄ちゃん、コーチ……みんな……」
人生で最も多くかかわってきた者たちがいないという現実への失望だ。
リングで拳を交えたライバル、ジムの後輩、試合の度に応援してくれた同級生たち。
その全てが、ここにはいない。
努力の末に得たアジアチャンピオンの肩書きも、ここではなんの意味もない。
自宅に飾ったトロフィー、年季の入ったトレーニング器具、好きな物全て買えるほどの金。
そのすべても、この世界には無いのだ。
タケヒロは自ら手に入れた全てを失った現実を、改めてはっきりと突き付けられた。
朝の冷たい空気、さらさらとそよぐ草。
日の出が生み出す雲の陰、まだ照らされない家々。
薄暗い空間の全てがタケヒロに孤独と無力感を与える。
孤独とは、最もひどい重圧の一つ。
「ああ、いいさ」
だからこそ、芯の通った人間にとっては闘志と野心の元になりうる。
「やってやる、俺はまだ死なない。獣やチンピラになんか殺されてたまるか」
タケヒロは顔をぱちりと叩き、ストレッチを始めた。
肩甲骨、背筋、股関節、アキレス腱、腿裏、膝裏、手首、指の全てを余すことなくほぐす。
タケヒロの柔軟性は、寝起きであっても高い柔軟性を維持し、滑らかな動作でストレッチを終える。
「まずは、村を1周」
そう呟くと、ジョギングを始めた。
初速からスピードを変えることなく初めて走るはずのルートをスイスイと進んでいく。
これも世界各国、現地での試合の度に行ってきたルーティンの賜物だ。
「いや、少し短いな。もう1周!」
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「さあ、次だ」
タケヒロは呼吸を整えて腕立て伏せを始めた。
20回目に差し掛かるころには呼吸が完全に安定し、一定のリズムで上げ下げを続ける。
数分程続け、突然タケヒロは地面を蹴り倒立をする。
「ふっー……これが、いちばん、効くっ」
なんと、倒立の姿勢で腕立て伏せを始めた。
これもルーティンの1つだが、今日の彼は少し違う。
「フッ!大台の……フッ!……!100ッ!」
新記録。しかし彼はまだ止まらない。
腕に力が入らなくなるまで彼は続け、遂にはごろりと寝転がってしまった。
満ち足りた表情を浮かべる彼の身体からは湯気が溢れ、汗で湿った筋肉が輝く。
クールタイムののち、片足スクワットで更に体を追い込むと、いよいよ仕上げに入る。
疲労した脚でそのままフットワークを始め、シャドースパーリングを始めた。
脳内に仮想の敵を作り、ひたすら殴る。
それはそれは強い敵を作り、ひたすら蹴る。
超高速の攻撃を打たせ、ひたすら避ける。
そして、仮想の敵へぶっ放すカウンター。
見えない反撃を避け、上段回し蹴り。
『ビッ』と風を切る音が、その威力を物語る。
普通の試合展開ではあり得ないほどの攻撃回数を、とにかく長い時間続けた。
アマチュア時代からのトレーニングメニューを、この知らない世界においてもただひたすらに続けた。
タケヒロの体中をグツグツと血液が駆け巡る。
地面の土には汗の水たまりが生まれ、泥が回って濁り始める。
まだ止まらない、彼は満足していない。
異世界に来たストレスを晴らせるまで止まるつもりがなかった。
だが疲れのせいか徐々に動きが鈍り始め、拳はただ力任せに振り回すようになってきた。
長時間の雑なシャドーで流石に疲れすぎたのか、回し蹴りを放った瞬間に尻もちをついてしまった。
泥がはね、タケヒロは更に汚れる。
「アハハハ!」
突然の甲高い笑い声。
驚いてタケヒロが振り向くと、声の主がコルチカだとわかり安堵した。
「ああ、お、おはようございます」
「んふふ!」
コルチカは耳をピコピコ動かしてまだ笑う。
だが無理もない、彼女が見ているのは泥まみれで尻もちをついたギラつき短パンの巨漢なのだから。
「んん?」
コルチカが何かに反応を示すと、タケヒロに近寄ってクンクンと匂いを嗅いだ。
「ぐうッ!」
顔をしかめ耳を水平に倒したかと思うと、タケヒロの手をがしりと掴んでどこかへ向かい始める。
「そんなに臭いですか、俺」
タケヒロは匂いを嗅がれ顔を歪められた事に少しショックを受けてしまった。
たどり着いたのは、近くを流れる川。
コルチカは近くに置いてあった大きい桶から何かを取り出しタケヒロに渡した。
真っ白く少しいびつなコーンの様な形をしており、手に取ってみると硬くて非常に軽い。
何かの実を乾燥させたようなものだ……と、ここでタケヒロは気がついた。
「あこれヘチマだ!俺もヘチマたわし昔作ったな~!」
収穫したヘチマの皮を剥き、ぬめりが取れるまで洗浄したあとによく乾燥させると出来上がる一品。
体を洗う事にも使われ、美容にも良いとされる。
日本では江戸時代から存在する、生活の知恵である。
「つまりは川に入ってこいつで体を洗えと言われてるんだな?」
タケヒロの問いかけにコルチカは
「そ。そういうこと」と言ったようにその場を離れた。
「この世界じゃ、ヘチマって何て言うんだろうな」
ヘチマもどきで体を洗いながら、タケヒロは自身の体を見回した。
古い傷が所々にあり、右胸と左脚には見覚えのない新しいあざもある。
「多分酔ったときにぶつけちまったな」
まずは仕事探して、代金を返さないと。
言葉がわからなくても出来る仕事から探そう。
などと考えているタケヒロに、遠くからコルチカが呼びかけながら川へ戻る。
「おっと、粗末なモンを見られちゃう」
タケヒロが川に浸かり、なるべく縮こまっていると衣服や布切れを抱えたコルチカと目が合った。
水面下で裸を隠すタケヒロを見てコルチカは
「何をしているの?洗ったなら早く上がりなさい」
といった感じでタケヒロを川から引っ張り出した。
「はっ!ちょっ!俺、裸です!」
慌てて抵抗するタケヒロにコルチカは「?」といった表情を一瞬向けると、さらに引っ張り上げる。
引き揚げた後、手に持っていたやけにゴワゴワした布切れ……おそらくタオルでタケヒロの体を雑に拭き取ると、丁寧に畳んである衣服を手渡した。
「あ、ありがとうございます」
裸を見られた上に体を好き勝手に拭かれて少し不機嫌になったタケヒロだが、この世界でも違和感のない服を貰ったことに気が付き、機嫌を直した。
ベージュ色の麻シャツ、そして赤福の様に暗いズボン。
足元を包むのは通気性バツグンの編みサンダル。
着用後、タケヒロはコルチカの家に連れられて朝食を頂いた。
硬いパンに硬い干し肉。
そして匂いの強いヤギチーズ。
「うう……でも、こういう味も悪くないな…」
言葉の通じない二人は、同じ食卓を黙々と楽しんだ。
「コルチカさん」
食事を済ませ、真剣な面持ちで呼びかけるタケヒロ。
コルチカは
「どうしたの?」と優しく微笑む。
「俺に、この世界の言語を教えて下さい!」
そう言いタケヒロは本棚から無作為に1冊取り出して表紙をなぞったり、中のページを開いて文字をすくい取って頭にかける動作や、口をパクパクさせたりし始めた。
当然、コルチカはそれを怪訝な目で見つめる。
しかし突然ピンと来たようで、ニコニコウンウンと応えてコルチカは外に出ていった。
「伝わった……か?」
少し経つと、コルチカは女性を連れて入ってきた。
「あ、さっき一緒に寝てた女性だ」
彼女はコルチカの姉であり、この村で教職に就いてる人物だ。
コルチカの姉は真ん丸眼鏡をかけており、妹と違って頭に耳が無い。
その眼鏡とゆったりしたクリーム色のチュニックのおかげでおっとりとした印象だが、鋭い赤色の瞳でタケヒロをじっくり観察しており抜け目のない性格が伺える。
コルチカが姉に色々説明すると、姉は深く頷いて本棚へ向かう。
1冊の少し薄い絵本を取り出し、タケヒロの前に広げた。
次に紙とクレヨンのような物を持ってきて、それも置く。
姉はタケヒロの肩に手を添え、椅子に座り直させる。
そしてジェスチャーで「書き写せ」と伝え、コルチカに色々何かを言うと仕事のためにそのまま出ていった。
姉を見送ったコルチカが「ふー」と一息つくと、タケヒロの隣に椅子を持ってきて座る。
お勉強の始まりだ。
絵本の文字と絵を交互になぞりながらコルチカが発音する。
タケヒロはそれを真似する。
次にタケヒロに絵本の絵を書かせ、その横にそれの名称を書かせる……。
絵本の内容はよくある昔話だ。
1人の英雄が悪を討ち、民から称賛される。
絵本の内容がまだ読めないものの、きっと童話や伝承を通じて世界の常識を学ばせようとしているんだな、とタケヒロは推測した。
タケヒロが1冊目を理解し終える頃にコルチカは既に何冊も絵本を積み置いており、どんどん読む様に催促をするのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夕方、帰宅した姉は読み疲れて眠っていた2人を一喝し叩き起こすと、タケヒロと何故かコルチカにも言語学を指導し始めた。
学習中の居眠りは厳禁である。
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※ここまでのあらすじは序章の内容に当たります。
※乙女ゲームのバッドエンド後の話になりますので、ゲーム内容については殆ど作中に出てきません。
「悪役令嬢の追憶」及び「悪役令嬢の徘徊」を若干の手直しをして統合しています。
「追憶」「徘徊」「慟哭」はそれぞれ雰囲気が異なります。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
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つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
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ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
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・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
【完結】あなたに知られたくなかった
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[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?
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私の生活を邪魔をするなら潰すわよ?
1月5日 誤字脱字修正 54話
★━戦闘シーンや猟奇的発言あり
流血シーンあり。
魔法・魔物あり。
ざぁま薄め。
恋愛要素あり。
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