焦がれた跡にキスをして

霜月このは

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焦がれた跡にキスをして

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 「ギリギリ産める」なんて発言をしてしまったのは、実際、保険みたいなものだった。海斗かいとは二十歳で、わたしはそれより十六も歳が上だったから。

 確かに、ギリギリ産める年齢差であることは間違いないわけだけど。それにしたってあんまりな挨拶だった。
 わたしが海斗に出会ったのは、新宿にあるコミュニケーションバーで、そこには年齢も趣味も思想も様々な人たちが出入りしていた。その日も馴染みの顔ぶれと飲んでいたところに、彼は現れた。もともとこの店の常連だった大学生の男の子の紹介だった。

「ハタチ、かぁ……」

 生まれた年を聞いて驚くのは、自分がババアになったことを認めるみたいでなんだか嫌だけど、ジェネレーションギャップは誤魔化せない。

 簡単に自己紹介をしたあと、件の発言を放ってしまったわたしは気まずくなってタバコを一本咥えるのだけど。

琴子ことこさん。タバコ、もらってもいいっすか」

 海斗は図々しくもそう言って、わたしのピースを一本持っていく。

「あ、これ強いほうのやつだ」

 クリームイエローのパッケージを見ながらそんなことを言って、彼はタバコに火を着けた。手で火の周りを覆って、口元を隠すようにする付け方。吸い方もどことなく慣れている感じがして、若いのに珍しい。

 さらさらの黒髪は前髪が目にかかるほど長くて、伸ばしっぱなしにしたそれを後ろで一つに束ねていた。
 その姿をどこかで見たような気がして、ああそうか、元彼に似ているんだと思い当たった。大学生のとき付き合って、奥手だったからか指一本触れ合うことなく別れた初めての彼氏。ちょうど今の海斗くらいの歳の頃だと思えば、なんとなく愛しく思えてくるもので。

 気づけばなんとなく、他の男の子よりも海斗のことを気に掛けるようになっていた。海斗はいつも金欠だったから、私の奢りで何度か二人でご飯に行ったりもした。

 もちろん、こんなに歳下の男の子に本気でときめくはずなんてないから、親子ほどの歳の差のあることを自虐して「ママ活みたい」なんて言って笑っていた。海斗のほうは「なんですかそれ、人聞きの悪い」なんて少し面白くなさそうにしていて。あるとき、何度目かのデートでビアガーデンに行ったときには、「またここ来ましょう。ちゃんと就職したら、次は俺が琴子さんに奢りますから」なんて言って。

「だから、早死にするとかやめてくださいよ」

 そう、真顔で諭そうとしてきた。

 自暴自棄になっていたわたしがいつぞや、四十くらいで死にたいな、なんてネガティブなことを言っていたのを覚えていたのだ。

 正直に言えば、少しだけドキッとした。もちろん、そんなこと、考えるべきじゃないと思う。すぐに思い浮かべてしまった妄想を打ち消す。これは、そういうんじゃない。
 頭を冷やすために、家に帰ってから、元彼の写真を探して見てみた。でもよく見たらちっとも海斗とは似ていなくて、それは私をますます混乱させるだけだった。


 海斗と話しているうちに出てきた”ママ活”という言葉がなんだか面白くなって、わたしはバーで出会う他の歳下の男の子たちとも代わる代わるデートをするようになっていた。別に何が目的だったわけでもない。ただみんなとよく話してみたくなっただけだ。みんなわたしが奢ると言えば喜んでご飯についてきてくれたし、自分は大学で何を学んでいるかとか、何の本が面白かったとか、どんな女の子が好きかとか、自分の話をたくさんして聞かせてくれた。

 だけど、海斗だけは違った。彼は一緒にいても自分の話をほとんどしない。いや、するのだけど、普段考えていることとか悩んでいることとか、そういうアウトプットはしてこないのだ。代わりに、わたしの話を聞きたがった。

 彼の問いかけは、不思議なこだわりを感じさせた。たとえば好きな食べ物やタバコの話を聞く時に、それの何がいいのかとか、どんなふうにそれを味わうのかとか、わたしが普段何を感じて何を考えているのか、そういう突っ込んだことを聞いてくる。初めは少し戸惑ったけれど、こちらに興味を持ってもらえているようで嬉しかった。

 みんなと遊んでいると言いながら、明らかに海斗とだけは会う時間も場所も頻度も、他の子達よりも贔屓していた。本当はわかっていた。わたしは、海斗のことを誤魔化すためにこんな遊びをしているだけだって。

 あるとき、海斗はわたしの家の近くにある居酒屋に行きたいと言ってきた。海斗の家はわたしの家とは結構距離があって、終電も早い。わたしの近所で飲むとなれば、それは……。わたしが少し考えていると海斗は言った。

「まあ最悪、泊めてもらえばいいかなって」

 そう、いつものように遠慮なく。

 だけど、一瞬ときめきかけたわたしにジャブを打っていくことも忘れなかった。

「お互い恋愛対象にならないから、できることっすね」

 そう言って、無邪気な笑顔を見せて。

 幸か不幸か、本当にわたしたちがそういう関係になることはなかった。わたしの近所の居酒屋で、美味しい料理とお酒にすっかり呑まれてしまった海斗は、案の定ベロベロに酔い潰れて、終電を逃した。

「はいはい、帰るよ。……ちゃんと歩ける? こんな近距離でタクシーは呼べないからね」

 そう言って軽く肩を抱いて、自分の家に海斗を”お持ち帰り”するのは、なんだか悪いことをしているみたいで気が引ける。でも、多分そう思ってしまうこと自体がきっと悪いことなのかもしれない。だってそれじゃまるで、わたしのほうが彼に対して下心を持っているみたいだから。

 海斗はわたしの部屋に着くと、お水を一杯飲んですぐに横になった。遠慮なくベッドに寝るから、仕方なくわたしは二人掛けサイズの小さなソファに丸まって寝ることにした。

 いくらわたしのベッドがセミダブルサイズでも、恋人でもない相手とその至近距離で寝るのはまずかろう。わたしにもそれくらいの理性はあった。

 しかし部屋の照明を暗くすると海斗は、寝ぼけているのか、不意にわたしを呼んだ。まるでハグを求めるみたいに両手をヒラヒラさせて。

「なに、甘えてるの」

 わたしは仕方なく、海斗の寝ている横に行く。前の彼氏と別れてから、もう半年。ご無沙汰だといっても、男の横に寝転べば、なんとなくそういう行為は頭にちらつく。

 そして、ベッドに寝転んだ瞬間、だった。

「琴子さん」

 そう耳元で囁いて、海斗はわたしに腕を伸ばしてきた。ぎゅっと抱きすくめられて、お腹の底が、きゅっとなって。身体が熱くなるのがわかった。ああ、結局、そういうことになるのか、と、自分に対して呆れる気持ちになったところで、海斗は言った。

「俺、そういうこと、しませんから」

 わたしのことをギュッと抱きしめたままで、そんなことを言う。

「……だから、ちょっとだけ、こうさせてください」

 その言葉を聞いてわたしは理解した。自分のことが恥ずかしくなった。

「いいよ」

 自分の中に生まれそうになる情動を抑え込んで、わたしはそう返事した。もう夏が始まる頃だって言うのに、背中の温かさは心地よかった。

 海斗は幼い頃に母親を亡くしていた。物心ついたばかりの頃だから、かろうじて母の記憶はあったらしい。それがかえって辛かったと言っていた。ずっと父子家庭で、父親からはたっぷり愛情を受けて育ったが、最近その父親も亡くなってしまった。

 大学生の海斗は、学費を稼ぐために日夜アルバイトをしていた。かなりキツい生活だったろうに「それこそ、ママ活でもするしかない」なんて言って笑っていた。実際にそういう、女性を相手にするような仕事をしようと思ったこともあったらしい。

 わたしはそんな事情を知っていたからこそ、彼にご飯を奢り始めたんじゃなかったのか。だから"ママ活ごっこ"を始めたんじゃなかったか。でも、彼に必要なのはママ活じゃなくて、きっと"ママ"そのものだった。
 十六歳年上のわたしに、彼は母親を見ていたのだろう。そうであるならば、わたしのこの不埒な衝動は、存在していて良いものじゃない。

 だから、わたしはそれを永遠になかったことにすることにした。

 *

 それからほんの一週間後、わたしは顔見知りと一緒にラブホテルにいた。彼は竜太りゅうたといって、海斗と知り合ったバーで、スタッフをしていた人だった。もともとなんとなく気になる雰囲気のある人だとは思っていたけど。その夜は自分のシフト終わりのタイミングで、わたしの手をこっそり握って、耳元で囁いてきたのだ。

「このあと、二人で遊びませんか」

 なんて、ことを。

 もちろん、その言葉が意味することなんて、大人の女性であるわたしがわからないわけはなかったけど。海斗の件でほんの少しだけ寂しい気持ちになっていたわたしは、竜太の誘いに乗ることにしてしまったのだった。

 正直、わたしだってそのつもりだった。ワンナイトで終わるものだと思っていた。だけど。

「俺、ずっと琴子さんのこと気になってて」

 そんなことを言って、ホテル街を歩きながら手を握られて。たったそれだけの言葉でわたしは混乱して、揺らいだ。
 竜太はずっと同じくらいの歳だと思っていたけど、蓋を開けてみれば、五歳も歳下だったので驚いた。

「琴子」

 行為の時は、わたしをそう呼び捨てにして。今までほとんど話したことがなかったのに。歳下のくせに。だけどそういう気持ちが、かえってわたしを盛り上がらせた。

「大好き」「最高」「付き合っちゃおうか」「俺だけのものになって」

 囁かれる甘い言葉の数々に、わたしはのぼせ上がった。恥ずかしながら、三十六歳にもなって、そういう言葉をかけられるのは初めてだった。名前を呼び捨てにされることさえなかった。歴代彼氏はみんな「琴子さん」と、わたしをさん付けで呼んでいたから。

 竜太はわたしが今までしたことないような体位でわたしを責めてきた。きっと、そういう行為がよほど好きなのだろう。わたしに抱きつく力は暴力的なくらいに荒々しく、指先の動きは激しく雑で、わたしは快楽を得るどころか痛みを覚えるほどだった。行為のあとにはどこかから流血していることに気がついたくらいなのだけど。

 なのに不思議と、嫌じゃなかった。それどころか興奮してしまっていた。この歳になって、誰かからそんなに激しく求められるなんて思ってもみなかった。だからそれがどんなに彼の独りよがりの雑な行為であっても、つい受け入れてしまっていた。

「イラマできる?」

 そう言って彼は、わたしがNoを言うのも無視して、口の中にそれを突っ込んできた。彼のモノはとても大きくて、口いっぱいに詰め込まれたそれのせいで、息ができなくなった。そしてただでさえ息ができない状態から、それはわたしの喉の奥にまで押し込まれる。

 明らかに物を入れるべきではない場所に、異物が入れられている。苦しくてたまらず、吐き出そうとするけど、何度も押し戻される。頭を押さえつけられ、乱暴に動かされた。

 竜太は快楽に夢中になっていた。喉の粘膜が擦れて痛む。でもそれよりも、呼吸ができないことが苦しかった。
 若い頃、自殺未遂をしたときのことを思い出した。過量服薬をして救急搬送された先で受けた胃洗浄。鼻から管を入れられ、呼吸がしづらい状態で何度も何度も器具を出し入れされた。あれよりもさらに辛いことがあるなんて、信じられなかった。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、たまらずモノを吐き出そうとするごとに、唾液ではない液体が胃の中から溢れてくるのを感じた。幸いほとんど食べ物を摂っていなかったから、出てくるのは液体ばかりだったけれど。
 やっと解放されたと思ったら今度は膣へ挿入される。コンドームをつけてと言ったけど無駄だった。「こんなもん」と言って、わたしが差し出したそれを彼は放り投げて。ろくな前戯もされていないのに、わたしは濡れていた。

「琴子、最高」

 そう言いながら彼はわたしの子宮口を乱暴に突く。腰の骨が砕けそうなほどの衝撃と痛みに悲鳴のような声が漏れる。竜太はわたしの声を感じているのだと思ったのか、より激しく動かしてきて、わたしはさらなる苦痛に悶えた。

 中で出すことだけはギリギリやめてくれたけど、わたしの身体は悲鳴を上げていた。一刻も早く帰りたい。そうでなければ死んでしまうと思った。

 だけど、わたしが帰ろうと服を着ようとすると、竜太は引き止めてきた。

「もう帰っちゃうの?」

 そう言ってわたしの腕に手を伸ばす。

「ね、最後にもっかい、して?」

 竜太はわたしの顔を触って甘えるようにそんなことを言う。なぜだか、それを拒否することができなくて。わたしは再び、喉の奥を辱められることになった。辛くて苦しくてたまらないはずなのに、どうしてだか逃れることができなくて。

 やっと別れて一人になれた頃にはもう、日が高く昇っていた。


 それでもわたしは、そんなことをされたのに、どうしてだか竜太のことが忘れられなくなっていた。その後も何度か、竜太がシフトを入れている日にお店に行って、仕事上がりの竜太と一緒にラブホテルに行った。そしてそのたび、竜太は甘い言葉を囁き、わたしを惑わせた。

 だけどあるとき、送ったメッセージに既読がつかなくなった。だけど会う約束をしていたから、わたしはその日にまたお店に会いに行った。しかし、竜太の反応は冷たいものだった。彼はシフト終わりには別の予定を入れてあり、わたしとの約束も覚えていなかった。

 家に帰ると、竜太からメッセージが届いていた。それは、もう自分のいる日にはお店には来ないでほしいという内容だった。

 薄々わかっていた。わたしは「ヤリ捨て」されたのだ、と。後から人伝てに知らされたのは、竜太には本命の彼女がいるということだった。竜太はわたしのことなど、ちっとも好きではなかったのだ。あの「付き合おう」という言葉もその場限りの出まかせだった。そんなの当たり前だった。信じたわたしはあまりにも、愚かだった。

 いい歳してこんな体たらく、恥ずかしくて。わたしはそれから、竜太がいる日に限らず、あのバーそのものに寄りつかなくなっていった。まだセミの声がうるさく響く、八月の終わりのことだった。


 *


「琴子さん、最近どうしてますか」

 そんなメッセージが届いたのは、竜太との一件があってから二週間後のことだった。海斗からだった。わたしがバーに行かなくなったから、心配になってメッセージをくれたらしい。

「もしよかったら、またご飯行きませんか?」

 正直、あまり人に会いたい気分ではなかった。竜太のことでただでさえ傷ついているのに、海斗のことでも傷つくのは嫌だった。いや、というより、こんなボロボロのメンタルで会ったら、「ママ活」どころじゃなくなってしまう。きっと余裕がなくなってしまう。

 そう思って断ろうとしていたら、海斗は連続してメッセージを送ってきた。

「俺が、奢るんで」

 さすがにそれは固辞したけれど、そうまでして誘ってくれるのだからと、わたしは海斗と会うことにした。
 場所は海斗が指定してきた。わたしが前に好きだと言っていた近所のオイスターバーだ。なんだ、美味しいものが食べたかっただけか、と、ほっとしたようながっかりしたような気持ちになった。

 しかし、乾杯のワインが運ばれてくるやいなや、海斗は開口一番に言った。

「なにがあったんですか」

 真面目な顔でそう言われた途端、涙がこぼれそうになった。だけど必死で耐えた。

「ここで、無理に言わなくてもいいけど……」

 海斗はそう言ってくれるけど、こんなに心配してくれるのだからと、わたしは竜太との間にあったことを話した。軽く話すつもりだったのに、気づいたら止まらなくなっていた。

「ごめん、こんな話して……」

 せっかくのオイスターバーなのに、わたしは何をやっているんだろう。だけど、そうこうするうちに、剥きたての生牡蠣が運ばれてきて、わたしの話は一旦中断した。あまりに綺麗な盛り付けに、スマホで写真を撮ったりしているうちに、なんだかどうでもよくなった。

「琴子さん、これ」

 海斗がわたしに渡してきたのは、ペッパーソースの小瓶。牡蠣に合わせるために生まれてきたのかってくらい、よく合うものだから。

「わかってるじゃん」

 そう言って、つい、笑ってしまう。

「辛いものって、ストレスに効くらしいから」

 海斗もそんなことを言って笑った。

 わたしたちは、その後も焼き牡蠣に蒸し牡蠣に牡蠣フライに、好き放題オイスターバーを楽しんで、それで気づいたらもう、随分遅い時間になっていた。

 オイスターバーはわたしの家の近所、ということは、海斗にとっては遠方。また終電を逃さないようにそろそろ帰宅を促そうかと思っていると、海斗のほうから言ってきた。

「あの……。今日、琴子さん家に泊まってもいいですか。また」

 嫌だとは、言えなかった。

 そのまま、二人ともほろ酔いの頭でわたしの家に向かった。電車に乗るとき、ホームとの間に少し段差があるのに気づいた海斗は、自然にわたしの手を取ってきて。

「なんか、ホストみたい」
「”ママ活”ですからね。ママには優しくしないと」

 そんなことを言って笑い合った。

 家に行く道すがら、海斗は言った。

「俺、あいつ……竜太のこと、殴っていいかな」

 殴っちゃダメだよ、と答えつつも、なんだか嬉しかった。

 念のためにした感染症の検査では問題なかったけど、わたしの下半身はまだ痛んでいたし、喉にも違和感が残っていた。海斗はわたしの身体を心配してくれて、あんまり無理しないでね、と真面目な顔で言った。

 途中のコンビニでまた追加のお酒を買って、わたしの自宅へ着いた。この間みたいに酔いつぶれてはいなかったから、汗もかいたし、先にシャワーを浴びてから飲み直そうということになった。

「先に飲んじゃだめだからね!」

 海斗はそんなふうに言って、わたしの後でシャワーに行った。浴室の扉がぱたんと閉まる音を聞きながらふと、そういえばいつから海斗はわたしにタメ語まじりで話すようになったんだろうと思った。

 まだ出会ってから一年も経っていない。年の差は十六歳。それでもこんなに親しみを持って話してくれるのだから不思議なものだ。

 海斗が戻ってくるのを見計って、冷やしておいたグラスを出してテーブルに並べた。

「お風呂ありがとう」

 出てくるなり海斗は丁寧にそう言って、二人掛けソファーにもたれたわたしの横に、ちょこんと並んで座った。小柄な身体。おそらく五十キロあるかないかだろう。悔しいことに、多分わたしとほとんど変わらない。

 お風呂上がりの髪の毛はまだ濡れて、ぴたっとおでこに張り付いている。ドライヤーを使うか聞いたけど、自然乾燥でいいと言って、そのままにして。海斗はさっそくグラスに手を伸ばす。

「どれにする?」
「ん、甘いやつがいい」

 さっきまで白ワインやビールを飲んでいたから、今度は甘い酎ハイが恋しくなったらしい。わたしからしたら、何もこんな安酒を買わなくても、と思うようなセレクションがなんとも大学生らしかった。

 わたしは発泡酒を、海斗は桃味の酎ハイをそれぞれグラスに注いで、改めて乾杯をした。

「お疲れ様」
「お疲れ様です」

 別に今日は休みだったけど。

「『お疲れ様』って、なにも疲れてないけど、変だよね」
「社会に出たら、そんなもんなの」

 そんなことを言って。

「琴子さん」

 だいぶ酔いがまわってきたのか、海斗はフラフラしながら立ち上がって、窓を開けた。

「……月が、綺麗ですよ」
「あ、ほんとだ」

 綺麗な満月だった。さっき外を歩いていたときには、おしゃべりに夢中で気づかなかった。隣に並んで窓の外の月を見る。なんとなく風流だな、と思った。九月の満月、中秋の名月か、なんて思いながら空を眺めて、ふと横を見たら海斗と目が合った。

「何、見てんすか」
「ふふ、なんでもないよ」

 座っているときはあまり意識しなかったけれど、立って至近距離に並ぶと、二十センチほどの身長差に少しだけドキッとする。そういえば歴代元彼たちはみんな背が低かった。無意識にそんな比較をしてしまっている自分の思考をどこかへ押しやろうとするけれど、ほろ酔いになったわたしの心は、ほんの少しだけ甘えたがって。

「海斗は、彼女とかいないの?」

 なぜか、そんなことを聞いてしまう。

「いたら、こんなことしてませんよ」
「そりゃそうか。……でも、そういう感じの友達もいないの?」
「いないです。……なんだよ、"そういう感じ"って」

 ちょっと怒ったように海斗は言う。

「俺、そんなチャラく見えるかな? セフレとかいそうな感じに……」
「うん、見える」
「ええー」

 ちょっとショックを受けたような顔をした海斗は、再び空に目を向けて真面目なトーンで話し始めた。

「”ママ活”って、さ」
「うん」
「俺、調べたんだけど……」

 少し言いづらそうに、海斗は言う。

「その、そういうことも……したほうがいいのかなって」

 真面目な顔でそう言うもんだから、わたしは思わず噴き出してしまった。

「ひとが真面目に話してるのに」
「ごめんごめん。海斗、そんなこと気にしてたの?」
「だって。琴子さん、ママ活とか言いながら、全然自分のしてほしいこと言わないし。俺、ただ奢ってもらってばっかだし」

 ちょっと拗ねたようにそんなことを言う。

「海斗は、息子みたいなものでしょう? だから、ただ奢られてていいの。一緒にごはん食べて、お話してくれるだけで、おばちゃんは嬉しいものなんだよ」

 わたしはそう答えるのだけど。

「おばちゃんって……」

 すごく嫌そうな顔をする。

「俺、琴子さんのこと、そんなふうに思ったことないよ」
 海斗はまっすぐに、今度はわたしの目を見つめて言う。

「……気づいて、くれないんだ」
「え、何が?」
「ううん、なんでもない」

 意味ありげにそう言って、海斗はすぐに目を逸らした。そしてわたしから離れて、ベッドに勝手に寝転んでしまう。仕方ないからわたしも追いかけていって、隣に座った。

「どうしたの」
「琴子さんが俺になんにも期待してないってわかって、がっくりきてる」
「なんだ、そんなこと……」

 寝転がってくしゃくしゃになった頭をぽんぽんと撫でてやる。

「じゃあしばらくこうやって撫でさせてよ」

 子犬を可愛がるみたいにそうしていると、わざわざ移動してきて、座っているわたしの胸元に頭を寄せた。

「このほうが、やりやすいでしょ?」

 そんなことを言うのだけど。

 それじゃあ、と、髪を撫でようとわたしが手を伸ばすと、次の瞬間、海斗は私の手を捕まえて、ぐっと自分のほうに引っぱった。

 途端に体勢が崩れる。わたしは海斗に腕を掴まれて身動きが取れなくなり、海斗の胸に顔を埋める形になった。その力は思っていたより強くて、驚きながらも、ああ、男の子なんだなあ、と思う。

 わたしがされるがままになっていると、そのまま抱きすくめられた。

「琴子さんは、てっきり、男を可愛がりたいタイプなんだと思ってた」

 海斗はぽつり、と、その体勢のまま話し始める。

「え、っと……そうだと思うけど……?」

 歴代の彼氏に想いを馳せながらそう答える。どちらかと言えば頼りなくて、でも可愛げのある彼らを、わたしはそれなりに愛していたと思う。

「嘘つき。……じゃあなんで、竜太なんかのところに行ったんだよ」

 怒っているというよりは、泣きそうな声でそう言う。
 だから、さすがにもう、言い訳できないと思った。

「……求められて、嬉しかったから」

 恥を偲んで、言う。なんでこんなことを言わされないといけないのか、まるでわからないけど。

「求めてくるなら、誰でもいいのかよ」
「そんなこと……っ」
「こっち、見て」

 そう言われて見上げた先には海斗の顔があって、しっかりと合わせた目には、ほんの少しだけ涙が浮かんでいた。

「俺だって、琴子が欲しい」

 そう言うや否や、唇を重ねてきた。

「そ……っか」

 わたしはひたすら驚いていた。まさか海斗がわたしに対してそんな気持ちを抱いていたとは思わなかった。
 嬉しいとか嫌だとか、思う前に押し倒されて。だけどその瞬間、なぜか涙が出てきてしまう。

「……っ、ごめん。嫌だったよね」

 海斗はパッと身体を離す。

「もう、しないから。……本当にごめんなさい。俺、最低だ」

 そう言って起き上がろうとする。

「俺、あっちで寝るよ……ごめん」

 そう言われて海斗が離れた途端、わたしは何とも言えない不安感と寂しさに襲われた。

「待って。……行かないで」

 思わず、そう言ってしまっていた。

「でも、俺……」
「嫌じゃ……ないから。こっち、来て」

 わたしがそう言うと、海斗は戻ってきてベッドの上のわたしの隣に座った。

「本当に……いいの?」
「海斗のほうこそ……。これ、ママ活のサービスじゃない、の……?」
「ちょ、なにそれ……っ」

 海斗は笑う。

「俺は真剣なのに……琴子さんは、もう……」

 そう言って笑うから、わたしたちの間の空気は一気に和らいだ。
 だけど、ひとしきり笑ったあとで、海斗はまた真面目な顔をして話し始めた。

「俺、ずっと、琴子さんのこと、好きでした……だからママ活とかじゃなくて、ちゃんと対等な立場になりたくて。でも今の俺じゃ、こんな学生の身分じゃ、琴子さんを幸せにできないから、ずっと悩んでて」

 震える声で、そう言う。
 だから、その言葉は本気なのだと、さすがのわたしでもわかった。

「うん、うん」

 わたしも海斗の目をまっすぐに見つめて、聞いていた。

 嬉しいような、泣きたいような感情。突然のことに、頭の中をまだうまく整理できなくて。
 だけど、多分今すべきことは、決まっている。

「海斗。……おいで」

 そう言って腕を広げる。
 海斗は一瞬目を丸くして、だけどすぐにわたしに抱きついてきた。

「琴子……さん」

 耳元で名前を呼ばれる。くすぐったくて、身をよじってしまう。

「キスしても、いい?」

 さっき、もうしたのに。わざわざそう聞いてくるのは、初々しくて可愛らしい。だけどわたしの胸のほうもドクドクとうるさくて、まるで初めて人を好きになった時みたいだった。

 返事の代わりに頰にキスしたら、堪らないというように間髪入れずに唇を奪われた。

 唇の表面をぺろ、と舌でなぞると、それをきっかけにわたしの唇はこじ開けられ、中で舌と舌を絡ませてくる。
 途端にわたしの身体は火照り、お腹の底まで熱を帯びる。しかし、同時に傷ついた下腹部、子宮のあたりがちくり、と痛む。不意の痛みでわたしが思わずピクっと動いたのを、海斗は見逃さなかった。

「大丈夫……? 嫌だった?」
「ううん。多分、気持ちいいから、こうなってる」

 言いながら無意識に自分のお腹に触れると、海斗はハッとした顔で、「今日はここまでにしとこう」と言った。

「え、やめちゃうの……?」
「だって琴子さん、まだ身体、痛むでしょ。俺、これ以上したら、止められなくなりそうだから……」

 そう言って切なそうな顔をする。

 密着した身体の下半分、彼のそこはすでに固く、苦しそうだった。
 それに気づいてしまえば愛しくてたまらなくなって、わたしは海斗をさらに強く抱きしめた。

「じゃあ、わたしがしてあげる」
「え、だって、そんな……」
「いいから。……ママの言うことが聞けないの?」

 笑ってそう言うと、彼は顔を赤らめて。

「……それ、禁止。ママじゃないし」

 不満そうにそう言う。

「琴子」

 海斗はまっすぐに目を見つめて、わたしの名前を呼ぶ。背中がぞくり、とする。

「治るまで、おあずけ」

 そう言うと、ごろんとベットに横たわった。

「でも、ここにいて?」

 上目遣いにそう言われたら、もう従うしかなくて。わたしも隣に寝転ぶ。

 海斗はわたしをギュッと抱きしめて、言った。

「俺、今、すごく幸せ」

 だから、今日のところは、それでいいような気がした。

「わたしも」

 二人とも、言葉とは裏腹に熱い身体を持て余していたけど、それでも一晩中、そのままでいた。

 それは何より熱く、蕩けてしまいそうな夜で。

 酷い火傷のあとは、優しいくちづけと共に癒えていった。
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