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第9話 まさか愛する人のために
9-(7) この人を僕に返して
「ありがとうございます。教皇さ……」
「おい陽介、ちょっと来てみろよ」
癒しの魔法のお礼を言っている僕の手を、レオが突然強く引っ張った。
そのまま、ぐんぐんと部屋の黒っぽい壁に近づいていく。
ここは、魔法陣の彫られた石の床以外は壁も天井も黒っぽくて、全然飾り気のない部屋だ。
「壁がどうかしたんですか?」
「あれだよ、あれ」
レオが壁を指差すのでその方向をじっと見る。
黒い壁だと思っていたのは、実はただの壁ではなかった。
「あれ? お魚? なんか、白っぽいお魚がいる!」
それは透明な素材で出来ていて、その向こうに暗い海の底が広がっていたのだ。
僕はそのガラスみたいな壁に、両手でべたっとはりついた。
「わぁ、すごい! ここは全面ガラスで出来ているの? 水族館みたい」
「なー? めちゃくちゃ面白いだろ?」
レオがなぜかどや顔をする。
雪みたいにプランクトンが降る中を、半透明のエビみたいなものがのっそりと歩いている。
お魚もエビも僕が知っているものとはちょっと違っていて、かなり大きくてグロテスクな形なんだけれど、地球の深海もまだまだ未知の世界だから、同じ生き物がいるのかどうかはよく分からない。
「この教会の壁や天井は全部妖精の羽で出来ているんだ。妖精の羽は強い悪意を受けると破れてしまう。もしここで壁が破れたら大量の海の水が流れ込んでくるだろ。だから、教会内での争いごとは絶対禁止になっているんだ」
「よ、妖精の羽?」
僕は透明な壁からパッと手を離した。
面白いどころじゃなかった。
この教会を作るために何人の妖精から羽をむしったんだろうと思って、ぞっとしてしまったのだ。
「レアンドル、それでは説明が足りませんよ」
教皇様がくすっと笑う。
「『妖精の羽』と言うのは、そういう名前で呼ばれる植物のことです。本物の妖精にはめったに会うことはできませんし、その羽をむしり取るなんて、そんな恐ろしいことはしませんよ」
「あ、良かった。僕はてっきり……」
教皇様が爪の先で透明な壁を軽く叩くと、キンキンと澄んだ音が響いた。
「この植物はこのように透き通っていて、何もしなければ硬くて頑丈なのですが、悪意や殺意に敏感に反応する性質があるのです。ですから休戦協定のような重要な会議はこの中央教会でやることになっているのですよ」
「すごい……。冷静に話し合うのにはぴったりの場所なんですね」
「ええ」
美人な教皇様が優し気にうなずく。
「ヨースケ、もう一度妖精の羽を触ってみてくれるかしら?」
「え、は、はい」
僕は言われるままに透明な壁に手を当てた。
僕の乏しい知識では正確な数字は分からないけど、深海の水圧ってものすごいはずだ。何十トンとか何百トンもの重さがかかっているようなものじゃなかったかな?
でも、妖精の羽という植物で出来た壁はすごく薄かった。それに、この材質はガラスより透明度が高いのかもしれない。まるで遮るものがないかのように、向こう側がきれいに見通せて、エビもどきのヒゲの先までくっきりと見える。
教皇様がフッと息を吐いた。
「あなたは本当に素直で優しい子なのね。妖精の羽がまったく曇らない……」
「え……」
教皇様は微笑み、静かに僕の手を握ってきた。
女の人の柔らかい手の感触。
「ねえ、ヨースケ。それからレアンドルも。このまま何も聞かずにかの国へ引き返しなさい。生きていく上で、知らない方が良いこともあるのですよ」
レオが近付いてきて、教皇様から僕の手を引き剥がした。
「そういう回りくどい言い方は好きじゃねぇな」
「ヨースケを本当の意味で手に入れられるとしても?」
「なんだって……?」
レオが怖い顔をする。
それってどういう意味だろう?
僕はもうとっくにレオのものなのに。
きちんと契約してもらって、レオの専属奴隷になったのにな。
「わざわざそんなことを言うってことは、俺が何を聞きに来たか、婆さんは知っているんだな」
「ええ、大魔導士エドゥアール・シルヴェストルを捜しているのでしょう」
その名前を聞いたとたんに、体の力が抜けてきて僕はレオに寄り掛かった。
レオがひょいと僕を抱き上げる。
「あいつの名前を聞くとすぐ眠っちまうんだ。こんな様子の陽介を放ってはおけない。あいつの居所を知っているなら教えてくれ」
教皇様はすぐに答えず、そばに近づいてきて僕の頬に触れた。
「エドゥアール、エドゥアール、エドゥアール」
耳元でその名前を連呼され、強い眠気に襲われる。
「ん、うう……」
目を閉じると眠ってしまいそうで、僕は必死に瞬きして教皇様を見ていた。
「なるほど……あのあどけなかった魔導士も、いつのまにかこんな高等魔法が使えるようになっていたのね……」
「知り合いなのか? これはやっぱりエ……」
言いかけたレオの口に、教皇様の指先が触れる。
「その名前はもう口にしない方がいいでしょうね」
「あ、ああ、そうだな……。つまり婆さん、あいつをよく知っているんだな」
「知っています」
「あいつはどこにいる? なんでこんなことをしたんだ?」
教皇様のきれいな顔が、悲し気に陰る。
「それはすべてこの子のためでしょうね」
僕のため……?
ああ、だめだ、眠い。
眠くて考えがまとまらないよ。
「眠いなら、一回眠っても大丈夫だぞ」
レオが僕を見下ろして、優しく髪を撫でた。
眠いけど、気になる。
僕は首を振って、必死に目を開けていた。
教皇様は横にまわってレオの肩に手を乗せた。
「この子がすべて忘れてしまった方があなたにとっても都合がいいのじゃなくて? このまま放って置くだけで、この子は完全にあなたのものになるのですよ」
「婆さん。俺を試しているのか?」
教皇様が静かに首を振る。
「いいえ。本気で言っているのです。ヨースケにかけられている魔法は、心に作用するものですけど、隷属の術のように危険なものではありません。これは悪意のある魔法では無いのですから……」
「それは分かっている。あいつが陽介に悪影響が出るようなことをするはずがない」
「ええ……。この魔法はゆっくりと時間と共に心に馴染んでいくものなのです。いつか本当にあの魔導士のことを忘れ去るまで、ゆっくりゆっくり浸透していく……。いずれはおかしな眠気も無くなるし、心への負担も最小限で済みますから」
レオが首を振る。
「だからって、俺には受け入れられない。知ってるだろ、婆さん。俺は闇落ちしないんだ。勇者だから」
「これはけして裏切りや横取りなどではありません。あの魔導士自ら望んだ結末です。ヨースケにとっても、すべて忘れてしまう方がきっと幸せなのですから」
「はぁ、そういう御託はいいから、さっさとあいつに会わせろよ」
教皇様は困ったように口を閉じた。
「婆さんは俺の性格を知っているだろう? 好きな相手に一生嘘をつき続けることなんて、俺に出来ると思うのか?」
レオの言葉が物理的な力を持っているかのように、ぐさりと胸に刺さって来た。
―― 好きな人に、嘘を……?
あれ、何?
痛くて苦しい。
これは何?
なんだかすごく大事なことを忘れている。
もう、嘘は嫌だ。
ちゃんと向き合っていくって、僕は自分自身で決めたんだ。
ええと……いつ、何を、どこで、決めたんだっけ?
ああ、やっぱりはっきりとは分からない。
分からないけど、僕はもう嘘やごまかしは嫌だ。
ちゃんと顔を上げて、僕は教皇様の目を見つめた。
「教皇様……。本当のことを教えてください。つらくても苦しくても、僕はもう逃げたくない。ちゃんと真実に向き合いたいです」
教皇様は悲しそうな顔で見つめ返してきた。
柔らかい手で、僕の髪を耳にかけてくれる。
「そう……ヨースケがそう言うのなら、仕方が無いのでしょうね」
自分を納得させるように何度かうなずくと、
「分かりました。覚悟があるなら、ついて来なさい」
と言って、教皇様は白い髪を揺らして静かに歩き始めた。
世界中央教会は海の中を四方八方に広がっている。まるでアリの巣だ。ううん、きっと、アリの巣よりずっと複雑だ。だって、壁も床も天井も透明で、よく見ないと海との境が分からなくなってしまうから。
一緒の空間にいると思っていた人が、実は透明な壁で隔てられた向こう側にいたりするし、教皇様とレオは歩くだけじゃなくて、吹き抜けを風魔法で飛んだりして立体的に動いていくものだから、僕はもうどこをどう移動したのかさっぱり分からなくなってしまった。
ひとつだけ分かったのは、転移陣のあった最初の部屋が海の底で、今歩いている通路はさっきよりだいぶ上にあるらしいということ。ここには日の光がちゃんと届いて、海の色が青く澄んでいて、時々カラフルな魚群が泳いでいるのが見えるから。
通路の先に扉があった。壁と同じ素材に見えるのに、なぜか光が反射して中が見通せない。
教皇様は扉にはめられた魔石に触れた。
「私です。同行者が二人います」
反射していた光が扉の部分だけふっと消えて、透明な扉がカチャリと開かれた。
教皇様に続いて中に入ると、すぐに扉は閉められて、また光で見通せなくなる。
広い部屋の壁も全面同じ魔法がかかっているみたいだった。透明なのになぜか光が反射して海が見えない。きっと、他の部屋や通路からこの中が見えないようになっているんだろう。
教皇様と似た服を着た若い男の人が近づいて来る。
耳が尖っているから、きっとエルフだ。
ということは、見た目通りに若いのかどうかはちょっと分からない。
「様子は」
「落ち着いています」
「あなたの準備は」
「私はいつでも大丈夫です」
短く言葉を交わしてから、教皇様は僕らを奥へ促した。
「こちらへ」
室内にはたくさんの本棚と、魔石や瓶が並んでいる棚があった。椅子やテーブルもいくつか置いてあって、本を読んでいたり、書き物をしたりしている人がいる。とても静かで落ち着いているし、図書館みたいな雰囲気だと思った。
本棚の間を通り抜けると、奥にはもう一つ扉がある。
やはり中は見通せなくなっている。
教皇様はその横に立って、手で扉を示す。
「どうぞ、魔導士はこの中にいます」
レオは僕を腕から降ろした。
「行こう」
僕にうなずいて見せてから、レオは緊張した顔でその扉を開けた。
少し眩しくて、目を細める。
床も壁も天井も、透明だけど反射する光で外から見えなくなっている。
部屋の真ん中に大きな石の台がひとつ、ぽつんと置かれていた。
その上に男の人が横たえられている。
長い黒髪で黒い服を着ている。
その男の人の姿が目に入ったとたんに、頭の奥がちりちりとし始める。
「僕……あの人を知っている……」
「ああ」
レオが僕の手を引いて石の台に近づいていく。
見えてきたのは、きれいな男の人だった。
白い顔は血の気が無くて、目も閉じていて、胸も上下していなくて、その人は、息をしていないように見えた。
かくりと体の力が抜けた。
「陽介!」
レオが慌てて支えてくれる。
息が苦しくなって、僕の口からひゅうひゅうと変な呼吸音が漏れ始める。
何が何だか分からないのに、両目からぽたぽたと涙が落ちてくる。
「陽介、やっぱり一度出よう」
引き返そうとするレオの手をパシッと払う。
目を見開くレオを置き去りに、僕は駆けだした。
台の上の男に人に手を伸ばす。
でも、指がカツンと何かに当たって、弾かれてしまった。
「え……」
両手を伸ばす。
カツン、カツン、と弾かれる。
男の人の体は透明なドームのようなものに覆われていた。
「あ……」
呼びかけようとしたが、その人の名前が分からない。
「お、起きて」
男の人は、目を閉じて、動かない。
僕はそのドームをカリカリと爪でひっかいた。
ドームには傷ひとつ付かない。
「これ、開けて……」
手のひらを当てて、体重をかけて強く押す。
ドームはびくとも動かない。
「開けてよ」
両手でバンバンと何度も叩く。
「開けて! 触りたい! お願い開けて!」
ドームの中は、まるで時間が止まっているみたいだった。
僕がいくら騒いでも、けして中には届かない。
「お願い……お願いだから」
僕は知っている。
その滑らかな髪の感触も、きれいな指先の感触も、柔らかい唇の感触までも、すべてを知っている。
触りたい。
触らせて。
抱きしめさせて、キスをさせてよ。
だって、これは…………。
「このドームを……外してください……!」
げんこつで何度も何度も叩く。
「外して……」
「やめなさい、ヨースケ。これを開けるわけにはいかないのよ。これで覆うことで強い魔力を抑えているのです」
教皇様が近くに立っていた。
僕はその顔を見上げた。
震える声で、訴える。
「でも、この人は僕のです……」
教皇様はハッとしたように僕を見た。
「ヨースケ……?」
「だって、僕のなんです」
この人の閉じたまぶたの下に、どんな瞳があるのか僕は知っている。
その黒い瞳がどんな風に僕を見るのか、僕だけがちゃんと知っている。
「僕のです。僕のものなんです」
声が震える。
胸がわななく。
―― すべてあなたにあげます。私はヨースケのものですよ ――
「僕に全部くれるって、すべて陽介にあげますって、そう言って……」
僕は教皇様にしがみついた。
「返して。この人を僕に返してください!」
「陽介、だめだ」
レオが僕の体を引き離す。
「いやだ、返して……」
僕の胸のあたりで、何かが服の中で光っていた。
ぼんやりとしていたものがすべてはっきりとした輪郭を持ち始めて、覆い隠されていたものがクリアに見え始める。
この人の声がどんな風に僕を呼んだのか。
この人の指がどんな風に僕に触ったのか。
この人と僕が、どんな風に抱き合ったのか、全部。
―― 全部を。
「エディ」
血を吐くように名前が音となって口から出てきた。
「エディ……!」
痛いくらいに大切な名前。
苦しいくらいに大切な人。
ドームにすがりつくようにして、呼びかける。
「エディ、目を開けて……!」
閉じられた目は、まつげの先まで凍ったように動かない。
「お願い……お願いだから……! エディ……!」
ドームの上に僕の涙がぽたぽたと落ちて、下へ流れて石の台に染みを作っていく。
「死んでいるのか」
ぼそりとレオが聞いた。
「いえ、まだ」
教皇様は静かに答えた。
「まだって……」
「そうですね。おそらく、あと数日の内には」
「そんな、どうして」
教皇様はエディの体に視線を移した。
「エドゥアールの体の中に、かの国の『名前』が封じられているのです。名前にかけられた呪いごとすべて」
名前。
古代の双子の魔導士のお話。
双子の弟が呪いをかけて、兄が世界中から奪ったという国の名前。
「エドゥアールは『名前』を封じておくことが出来なくなりました……。数日中には次の者へ渡さなければなりません。『名前』はその心臓にからみついているので、引き継ぐには心臓ごと取り出す必要があるのです……」
「心臓……エディの……」
息がうまくできない。
心が絶叫しているのに、喉がひきつって声が出ない。
嫌だ、エディ。僕はこんなの嫌だよ。
教皇様がふわりと僕を抱きしめた。
「ヨースケ……エドゥアールがすべてをあなたにあげると言ったのは嘘ではありません。あなたの書類上の名前は「リュカ」ですね。ここへ来てすぐに手続きの書類を作りました。エドゥアールの持つ財産も、国から出る報奨金も、すべてあなたに遺産として贈ると……それから、教会の口添えで平民の身分も……」
教皇様の声は途中から聞こえなくなっていた。
お金や身分なんてどうでもいい。
エディのほかに何もいらない。
僕はどうなってもいい。
僕は何でもするから。
エディを、僕の愛する人をどうか助けて……。
・
「おい陽介、ちょっと来てみろよ」
癒しの魔法のお礼を言っている僕の手を、レオが突然強く引っ張った。
そのまま、ぐんぐんと部屋の黒っぽい壁に近づいていく。
ここは、魔法陣の彫られた石の床以外は壁も天井も黒っぽくて、全然飾り気のない部屋だ。
「壁がどうかしたんですか?」
「あれだよ、あれ」
レオが壁を指差すのでその方向をじっと見る。
黒い壁だと思っていたのは、実はただの壁ではなかった。
「あれ? お魚? なんか、白っぽいお魚がいる!」
それは透明な素材で出来ていて、その向こうに暗い海の底が広がっていたのだ。
僕はそのガラスみたいな壁に、両手でべたっとはりついた。
「わぁ、すごい! ここは全面ガラスで出来ているの? 水族館みたい」
「なー? めちゃくちゃ面白いだろ?」
レオがなぜかどや顔をする。
雪みたいにプランクトンが降る中を、半透明のエビみたいなものがのっそりと歩いている。
お魚もエビも僕が知っているものとはちょっと違っていて、かなり大きくてグロテスクな形なんだけれど、地球の深海もまだまだ未知の世界だから、同じ生き物がいるのかどうかはよく分からない。
「この教会の壁や天井は全部妖精の羽で出来ているんだ。妖精の羽は強い悪意を受けると破れてしまう。もしここで壁が破れたら大量の海の水が流れ込んでくるだろ。だから、教会内での争いごとは絶対禁止になっているんだ」
「よ、妖精の羽?」
僕は透明な壁からパッと手を離した。
面白いどころじゃなかった。
この教会を作るために何人の妖精から羽をむしったんだろうと思って、ぞっとしてしまったのだ。
「レアンドル、それでは説明が足りませんよ」
教皇様がくすっと笑う。
「『妖精の羽』と言うのは、そういう名前で呼ばれる植物のことです。本物の妖精にはめったに会うことはできませんし、その羽をむしり取るなんて、そんな恐ろしいことはしませんよ」
「あ、良かった。僕はてっきり……」
教皇様が爪の先で透明な壁を軽く叩くと、キンキンと澄んだ音が響いた。
「この植物はこのように透き通っていて、何もしなければ硬くて頑丈なのですが、悪意や殺意に敏感に反応する性質があるのです。ですから休戦協定のような重要な会議はこの中央教会でやることになっているのですよ」
「すごい……。冷静に話し合うのにはぴったりの場所なんですね」
「ええ」
美人な教皇様が優し気にうなずく。
「ヨースケ、もう一度妖精の羽を触ってみてくれるかしら?」
「え、は、はい」
僕は言われるままに透明な壁に手を当てた。
僕の乏しい知識では正確な数字は分からないけど、深海の水圧ってものすごいはずだ。何十トンとか何百トンもの重さがかかっているようなものじゃなかったかな?
でも、妖精の羽という植物で出来た壁はすごく薄かった。それに、この材質はガラスより透明度が高いのかもしれない。まるで遮るものがないかのように、向こう側がきれいに見通せて、エビもどきのヒゲの先までくっきりと見える。
教皇様がフッと息を吐いた。
「あなたは本当に素直で優しい子なのね。妖精の羽がまったく曇らない……」
「え……」
教皇様は微笑み、静かに僕の手を握ってきた。
女の人の柔らかい手の感触。
「ねえ、ヨースケ。それからレアンドルも。このまま何も聞かずにかの国へ引き返しなさい。生きていく上で、知らない方が良いこともあるのですよ」
レオが近付いてきて、教皇様から僕の手を引き剥がした。
「そういう回りくどい言い方は好きじゃねぇな」
「ヨースケを本当の意味で手に入れられるとしても?」
「なんだって……?」
レオが怖い顔をする。
それってどういう意味だろう?
僕はもうとっくにレオのものなのに。
きちんと契約してもらって、レオの専属奴隷になったのにな。
「わざわざそんなことを言うってことは、俺が何を聞きに来たか、婆さんは知っているんだな」
「ええ、大魔導士エドゥアール・シルヴェストルを捜しているのでしょう」
その名前を聞いたとたんに、体の力が抜けてきて僕はレオに寄り掛かった。
レオがひょいと僕を抱き上げる。
「あいつの名前を聞くとすぐ眠っちまうんだ。こんな様子の陽介を放ってはおけない。あいつの居所を知っているなら教えてくれ」
教皇様はすぐに答えず、そばに近づいてきて僕の頬に触れた。
「エドゥアール、エドゥアール、エドゥアール」
耳元でその名前を連呼され、強い眠気に襲われる。
「ん、うう……」
目を閉じると眠ってしまいそうで、僕は必死に瞬きして教皇様を見ていた。
「なるほど……あのあどけなかった魔導士も、いつのまにかこんな高等魔法が使えるようになっていたのね……」
「知り合いなのか? これはやっぱりエ……」
言いかけたレオの口に、教皇様の指先が触れる。
「その名前はもう口にしない方がいいでしょうね」
「あ、ああ、そうだな……。つまり婆さん、あいつをよく知っているんだな」
「知っています」
「あいつはどこにいる? なんでこんなことをしたんだ?」
教皇様のきれいな顔が、悲し気に陰る。
「それはすべてこの子のためでしょうね」
僕のため……?
ああ、だめだ、眠い。
眠くて考えがまとまらないよ。
「眠いなら、一回眠っても大丈夫だぞ」
レオが僕を見下ろして、優しく髪を撫でた。
眠いけど、気になる。
僕は首を振って、必死に目を開けていた。
教皇様は横にまわってレオの肩に手を乗せた。
「この子がすべて忘れてしまった方があなたにとっても都合がいいのじゃなくて? このまま放って置くだけで、この子は完全にあなたのものになるのですよ」
「婆さん。俺を試しているのか?」
教皇様が静かに首を振る。
「いいえ。本気で言っているのです。ヨースケにかけられている魔法は、心に作用するものですけど、隷属の術のように危険なものではありません。これは悪意のある魔法では無いのですから……」
「それは分かっている。あいつが陽介に悪影響が出るようなことをするはずがない」
「ええ……。この魔法はゆっくりと時間と共に心に馴染んでいくものなのです。いつか本当にあの魔導士のことを忘れ去るまで、ゆっくりゆっくり浸透していく……。いずれはおかしな眠気も無くなるし、心への負担も最小限で済みますから」
レオが首を振る。
「だからって、俺には受け入れられない。知ってるだろ、婆さん。俺は闇落ちしないんだ。勇者だから」
「これはけして裏切りや横取りなどではありません。あの魔導士自ら望んだ結末です。ヨースケにとっても、すべて忘れてしまう方がきっと幸せなのですから」
「はぁ、そういう御託はいいから、さっさとあいつに会わせろよ」
教皇様は困ったように口を閉じた。
「婆さんは俺の性格を知っているだろう? 好きな相手に一生嘘をつき続けることなんて、俺に出来ると思うのか?」
レオの言葉が物理的な力を持っているかのように、ぐさりと胸に刺さって来た。
―― 好きな人に、嘘を……?
あれ、何?
痛くて苦しい。
これは何?
なんだかすごく大事なことを忘れている。
もう、嘘は嫌だ。
ちゃんと向き合っていくって、僕は自分自身で決めたんだ。
ええと……いつ、何を、どこで、決めたんだっけ?
ああ、やっぱりはっきりとは分からない。
分からないけど、僕はもう嘘やごまかしは嫌だ。
ちゃんと顔を上げて、僕は教皇様の目を見つめた。
「教皇様……。本当のことを教えてください。つらくても苦しくても、僕はもう逃げたくない。ちゃんと真実に向き合いたいです」
教皇様は悲しそうな顔で見つめ返してきた。
柔らかい手で、僕の髪を耳にかけてくれる。
「そう……ヨースケがそう言うのなら、仕方が無いのでしょうね」
自分を納得させるように何度かうなずくと、
「分かりました。覚悟があるなら、ついて来なさい」
と言って、教皇様は白い髪を揺らして静かに歩き始めた。
世界中央教会は海の中を四方八方に広がっている。まるでアリの巣だ。ううん、きっと、アリの巣よりずっと複雑だ。だって、壁も床も天井も透明で、よく見ないと海との境が分からなくなってしまうから。
一緒の空間にいると思っていた人が、実は透明な壁で隔てられた向こう側にいたりするし、教皇様とレオは歩くだけじゃなくて、吹き抜けを風魔法で飛んだりして立体的に動いていくものだから、僕はもうどこをどう移動したのかさっぱり分からなくなってしまった。
ひとつだけ分かったのは、転移陣のあった最初の部屋が海の底で、今歩いている通路はさっきよりだいぶ上にあるらしいということ。ここには日の光がちゃんと届いて、海の色が青く澄んでいて、時々カラフルな魚群が泳いでいるのが見えるから。
通路の先に扉があった。壁と同じ素材に見えるのに、なぜか光が反射して中が見通せない。
教皇様は扉にはめられた魔石に触れた。
「私です。同行者が二人います」
反射していた光が扉の部分だけふっと消えて、透明な扉がカチャリと開かれた。
教皇様に続いて中に入ると、すぐに扉は閉められて、また光で見通せなくなる。
広い部屋の壁も全面同じ魔法がかかっているみたいだった。透明なのになぜか光が反射して海が見えない。きっと、他の部屋や通路からこの中が見えないようになっているんだろう。
教皇様と似た服を着た若い男の人が近づいて来る。
耳が尖っているから、きっとエルフだ。
ということは、見た目通りに若いのかどうかはちょっと分からない。
「様子は」
「落ち着いています」
「あなたの準備は」
「私はいつでも大丈夫です」
短く言葉を交わしてから、教皇様は僕らを奥へ促した。
「こちらへ」
室内にはたくさんの本棚と、魔石や瓶が並んでいる棚があった。椅子やテーブルもいくつか置いてあって、本を読んでいたり、書き物をしたりしている人がいる。とても静かで落ち着いているし、図書館みたいな雰囲気だと思った。
本棚の間を通り抜けると、奥にはもう一つ扉がある。
やはり中は見通せなくなっている。
教皇様はその横に立って、手で扉を示す。
「どうぞ、魔導士はこの中にいます」
レオは僕を腕から降ろした。
「行こう」
僕にうなずいて見せてから、レオは緊張した顔でその扉を開けた。
少し眩しくて、目を細める。
床も壁も天井も、透明だけど反射する光で外から見えなくなっている。
部屋の真ん中に大きな石の台がひとつ、ぽつんと置かれていた。
その上に男の人が横たえられている。
長い黒髪で黒い服を着ている。
その男の人の姿が目に入ったとたんに、頭の奥がちりちりとし始める。
「僕……あの人を知っている……」
「ああ」
レオが僕の手を引いて石の台に近づいていく。
見えてきたのは、きれいな男の人だった。
白い顔は血の気が無くて、目も閉じていて、胸も上下していなくて、その人は、息をしていないように見えた。
かくりと体の力が抜けた。
「陽介!」
レオが慌てて支えてくれる。
息が苦しくなって、僕の口からひゅうひゅうと変な呼吸音が漏れ始める。
何が何だか分からないのに、両目からぽたぽたと涙が落ちてくる。
「陽介、やっぱり一度出よう」
引き返そうとするレオの手をパシッと払う。
目を見開くレオを置き去りに、僕は駆けだした。
台の上の男に人に手を伸ばす。
でも、指がカツンと何かに当たって、弾かれてしまった。
「え……」
両手を伸ばす。
カツン、カツン、と弾かれる。
男の人の体は透明なドームのようなものに覆われていた。
「あ……」
呼びかけようとしたが、その人の名前が分からない。
「お、起きて」
男の人は、目を閉じて、動かない。
僕はそのドームをカリカリと爪でひっかいた。
ドームには傷ひとつ付かない。
「これ、開けて……」
手のひらを当てて、体重をかけて強く押す。
ドームはびくとも動かない。
「開けてよ」
両手でバンバンと何度も叩く。
「開けて! 触りたい! お願い開けて!」
ドームの中は、まるで時間が止まっているみたいだった。
僕がいくら騒いでも、けして中には届かない。
「お願い……お願いだから」
僕は知っている。
その滑らかな髪の感触も、きれいな指先の感触も、柔らかい唇の感触までも、すべてを知っている。
触りたい。
触らせて。
抱きしめさせて、キスをさせてよ。
だって、これは…………。
「このドームを……外してください……!」
げんこつで何度も何度も叩く。
「外して……」
「やめなさい、ヨースケ。これを開けるわけにはいかないのよ。これで覆うことで強い魔力を抑えているのです」
教皇様が近くに立っていた。
僕はその顔を見上げた。
震える声で、訴える。
「でも、この人は僕のです……」
教皇様はハッとしたように僕を見た。
「ヨースケ……?」
「だって、僕のなんです」
この人の閉じたまぶたの下に、どんな瞳があるのか僕は知っている。
その黒い瞳がどんな風に僕を見るのか、僕だけがちゃんと知っている。
「僕のです。僕のものなんです」
声が震える。
胸がわななく。
―― すべてあなたにあげます。私はヨースケのものですよ ――
「僕に全部くれるって、すべて陽介にあげますって、そう言って……」
僕は教皇様にしがみついた。
「返して。この人を僕に返してください!」
「陽介、だめだ」
レオが僕の体を引き離す。
「いやだ、返して……」
僕の胸のあたりで、何かが服の中で光っていた。
ぼんやりとしていたものがすべてはっきりとした輪郭を持ち始めて、覆い隠されていたものがクリアに見え始める。
この人の声がどんな風に僕を呼んだのか。
この人の指がどんな風に僕に触ったのか。
この人と僕が、どんな風に抱き合ったのか、全部。
―― 全部を。
「エディ」
血を吐くように名前が音となって口から出てきた。
「エディ……!」
痛いくらいに大切な名前。
苦しいくらいに大切な人。
ドームにすがりつくようにして、呼びかける。
「エディ、目を開けて……!」
閉じられた目は、まつげの先まで凍ったように動かない。
「お願い……お願いだから……! エディ……!」
ドームの上に僕の涙がぽたぽたと落ちて、下へ流れて石の台に染みを作っていく。
「死んでいるのか」
ぼそりとレオが聞いた。
「いえ、まだ」
教皇様は静かに答えた。
「まだって……」
「そうですね。おそらく、あと数日の内には」
「そんな、どうして」
教皇様はエディの体に視線を移した。
「エドゥアールの体の中に、かの国の『名前』が封じられているのです。名前にかけられた呪いごとすべて」
名前。
古代の双子の魔導士のお話。
双子の弟が呪いをかけて、兄が世界中から奪ったという国の名前。
「エドゥアールは『名前』を封じておくことが出来なくなりました……。数日中には次の者へ渡さなければなりません。『名前』はその心臓にからみついているので、引き継ぐには心臓ごと取り出す必要があるのです……」
「心臓……エディの……」
息がうまくできない。
心が絶叫しているのに、喉がひきつって声が出ない。
嫌だ、エディ。僕はこんなの嫌だよ。
教皇様がふわりと僕を抱きしめた。
「ヨースケ……エドゥアールがすべてをあなたにあげると言ったのは嘘ではありません。あなたの書類上の名前は「リュカ」ですね。ここへ来てすぐに手続きの書類を作りました。エドゥアールの持つ財産も、国から出る報奨金も、すべてあなたに遺産として贈ると……それから、教会の口添えで平民の身分も……」
教皇様の声は途中から聞こえなくなっていた。
お金や身分なんてどうでもいい。
エディのほかに何もいらない。
僕はどうなってもいい。
僕は何でもするから。
エディを、僕の愛する人をどうか助けて……。
・
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閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
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