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おまけの章 はじめてのぼうけん
(9) たいせつなもの 後編
窓辺に椅子を引きずってきて、ドカリと腰を下ろす。
柔らかい光の中で頬杖をついて、ぼんやりと窓の下の桜を見下ろした。
校内をくまなく歩きまわったせいで、かなりぐったりと疲れている。
学校の敷地の外へは、どうやっても出られないようだった。校門の外にはちゃんと道路が続いているように見えたんだが、行こうとすると透明な壁でもあるかのように前へ進めなかったのだ。
仕方なく引き返して校内を歩き回ってみたが、ここは完全に無人で食料がまったく見当たらなかった。試しに水道の蛇口をひねってみたら水が出てきて安堵したけど、水だけでいったい何日もつだろうか。
マジックバッグの中にはたっぷりの食材が入っていたはずなのに、今の俺はなぜか日本の中学生の姿に戻ってしまっていて、マジックバッグはどこかへ消えてしまっている。
俺は悪あがきで、椅子やテーブル、本棚に並ぶ本までもじっと見てみたが、『食用不可』という文字がいくつも浮かぶだけだった。
俺の目は一種の鑑定能力を持つ。まず対象のものをじっと見る。すると、目に映ったものが食べられるか食べられないかが表示される。そしてさらに意識を集中すると、最適な調理方法、保存方法、植物なら栽培方法、動物なら飼育方法まで、食に関するあらゆる情報が読み取れるという特殊な鑑定眼だ。
この目があれば、どんな僻地へ行っても旨いものを作って食べられると思っていたが、この状況では俺の唯一の能力もまったくの役立たずだった。
人生の大半を食べ物を得るためだけに生きて来た俺にとって、餓死は一番つらい死に方だ。想像するだけでぞわりと震えがくる。俺は自分の腕を自分でこすり、ゆっくりと深呼吸した。
窓辺から振り返って、整然と並んでいる書架を見渡す。誰かが手入れをしているかのように、埃もたまっていないし乱雑さも無い。
ついさっきまで誰かが使っていたような、奥のカウンターから司書さんが出てきそうな、そんな暖かみのある図書室だった。
校内のほかの場所はあまりに静かすぎてひどく不自然だったが、図書室が静まり返っているのは当たり前のような気がしてそれほど違和感がない。図書室特有の薄暗くしっとりとした雰囲気が、ほんの少しだけ俺を落ち着かせてくれた。
そういえば中学生の頃に、図書室に通ってシェイクスピアをいくつか読んだな……。
まるで現実逃避するように、陽人だった頃の思い出を記憶の底から引っ張り出す。
『ロミオとジュリエット』とか、『ベニスの商人』とか、『マクベス』とか、有名なタイトルの戯曲をわざわざ図書室の中の閲覧スペースで読んだ。特にシェイクスピアが好きだったわけでもなく、読んでみて感銘を受けたわけでもなく、その頃の俺はただ単に少し背伸びしてみたかったんだと思う。口の中で難しいセリフを囁いてみるだけでも、ちょっぴり大人な気分を味わえたから。
もう一度、読んでみるかな。
現実逃避だと分かっていながら、俺は規則正しく並んでいる本棚へ足を向けた。外国文学の棚へ行く手前で、ふと、一冊の本の背表紙に目を引かれて手に取った。
――――『銀河鉄道の夜』。
「うわ、なつかし……」
角が擦り切れ、色あせた装丁を指でなぞると、それを読んだ時の情景や感情が思い出されてくる。食べ物の心配などする必要の無かった、平和な学校生活、ぬるま湯のような日常の幸せ。
本を手に窓辺に戻り、椅子に腰かけた。『銀河鉄道の夜』の最初の数ページをめくってみたが、俺は息を吐いてパタンと本を閉じた。結末を思い出したからだ。
あの頃の俺は素直に主人公ジョバンニに感情移入して読んだけれど、きっと今は違う。なんというか、今はカムパネルラがうらやましい気がするのだ。
彼の死には、きちんと意味があるから。自分の意思で行動して、その結果訪れた死なのだから。しかも死の世界への旅立ちは、美しくも幻想的な鉄道の旅だ。最後のぎりぎりのところまで、親友のジョバンニが一緒にいてくれた。
俺は違う。俺の死にはあまり意味が無い。
自分の行動の結果ではないし、誰もそばにいてくれないし、ひとりで飢えて死んでいく。
レオはあの時、落ちていく俺に気付きもしなかった。
レオは日野しか見ていなかった。
俺は実の親に捨てられた子だ。盗賊のカシラにも見捨てられた子だ。そしてレオにとっても、やっぱりいらない子だったのかな……。
冷たい石を飲み込んでしまって、お腹の中に溜まっていくような感覚がする。
どうせ転生するならば、レオ好みの華奢な少年になりたかった。
金髪で、ほっそりしていて、青い目の人形みたいな美少年。
俺は日野みたいになりたかった。
あんな風に、綺麗なだけで何の役にも立たないくせに、綺麗だというだけで誰からも好かれるような、ああいうずるい存在に……。
「あー、だめだだめだ!」
両手でパシパシと自分の頬を打つ。
こんな醜い感情に飲み込まれちゃダメだ。
レオが俺に与えてくれた優しさや愛情まで汚してしまうことになる。
俺は日野のことは何も知らない。愛玩奴隷だったこと、死にかけるほどつらい目に会ったこと、断片的に聞いた情報だけでも、苦労を知らないお坊ちゃんなどではないと分かるのに。本当のことを何も知らない俺が、表面だけ見てうらやましがるなんて失礼な話だ。
何か、違うことを考えよう。
元気が出るような楽しいことを。
でも、俺にとって楽しいことはすべてレオにつながっているので、どうしてもレオの横顔と、レオの視線の先にいる日野を思い出してしまう。
胸の中がグチャグチャで、目尻に涙が滲んできた時、ダダダダッと大きな足音が近づいて来た。
無人の学校の静寂を破る足音に、びくりと体が緊張する。
逃げるか隠れるか迷う間もなく、ガラリと入り口の引き戸が開け放たれた。
「ラウル! いるか!? ラウ、ル……」
野球のユニフォームを着た少年と、バチッと目が合った。
そのたった一瞬の視線と視線のつながりで、俺達は互いに相手に気が付き、そして互いに何も言えなくなってしまった。
日焼けしていて眉の太い少年の顔が、嬉しそうに笑顔になり、次につらそうに目を伏せ、そして困ったように切ない目を向けて来た。様々な感情が胸に溢れて、制御しきれていないのが手に取るように分かった。
俺も同じだった。
嬉しくて声を出したいのに、駆け寄って抱きつきたいのに、うまく体が動かせない。
ユニフォーム姿の彼は何かを言いかけたが、躊躇うように口を閉じてしまい、長い間沈黙した後、やっと小さな声で俺に聞いた。
「坂崎陽人……?」
その声は震えていた。
俺はうなずき、涙まじりに聞き返した。
「加藤、竜也?」
彼の目が見開かれ、みるみるうちに潤んでぽろりと滴が落ちた。
日に焼けた手が慌てたように目元を拭ったが、さらにぽろぽろと涙が零れていく。
「なんで、泣くんだよ……」
そう言う俺も涙が溢れて止まらなかった。
「だって、ラウル……ラウルにやっと会えて……」
「レオ……」
いい大人が見つめあったままボロボロと泣きじゃくるなんて、実はちょっとみっともないことかも知れない。でも、今の俺達は中学生だから、感情のままに涙を流してもいいやと思った。
レオは両手でぐいぐいと頬をこすりながら近づいて来る。
「なぁ、ハグしてもいいか」
同じくらいの目線でまっすぐ俺を見て、野球少年姿のレオが言った。
「う、うん」
俺がおずおずと両手を開くと、がばっと強く抱きしめられた。
一度泣き止んだようだったのに、レオがまた俺の耳元で嗚咽を漏らし始める。
「……らうる……らうるぅ……ううううぅ……」
抱きしめてくる腕も、耳元にかかる息も、すごく熱かった。
「レオ……そんなに泣くなよ……」
「だって……ううう」
レオの泣き声が、子供みたいにいっそう大きくなる。
「ごめん……! ごめんなラウル……ほんとにごめん……!」
レオの両腕がぎゅうっと力強く俺を抱きしめる。
でも、レオの背中に回した俺の手は、中途半端に浮いた状態だった。
レオの体にしがみつきたい。
でも、しがみついていいのかと迷ってしまう。
「レオ……」
「俺がバカだった。もう絶対にあんなバカな真似はしない。これからはめちゃくちゃ大事にするから。絶対の絶対に俺がラウルを守るから……だから、だから、俺のそばにいてくれ……一生、俺のそばにいて……」
切ない声が耳に沁み込んでくるようで、俺の体も熱くなってくる。
俺は、ずっと聞きたかったことを、ポソリと問いかけた。
「俺、いらない子じゃなかった……?」
「当たり前だろ! 要る子だよ! めちゃくちゃ要る子だよ!」
俺はレオの背中をぎゅーっとつかんだ。
体ごと全部密着して、レオの肩に頭をもたせ掛ける。
「そっか……。俺、レオの要る子かぁ……」
「大好きだよ、ラウル。何度も何度も愛しているって言ったろ」
「うん……うん、そうだった。『愛してる』の大安売りな」
「はは、ひどい言われようだ。でもまだまだ言ってやるぞ。ラウル、愛してる!」
その愛ってやつはきっと日野へ対するものとは違うだろう。
分かっていても嬉しかった。
「俺も愛しているよ、レオ」
「おお……」
「おおって何だよ」
「ラウルに初めて愛してるって言われた」
「俺の『愛してる』は重みが違うからな」
「何を言う。俺だって全部本気だぞ」
「へぇ、そりゃすごい」
「ほんとだって。俺はラウルをメチャクチャ愛してんの」
「はは、そっか。それは嬉しいかも」
「だろ?」
レオに抱きついたまま目を閉じると、またぽろりぽろりと涙が落ちた。
安心して、幸せすぎて、俺の中に芽生えかけた汚い感情が全部押し流されていくようだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
片足を引きずる足音がした。
エディだ。
僕はハッと顔を上げた。
目に映るのは薬品の入った棚、書類の並んだ棚、机と椅子、色々な器具の乗っているワゴンのようなもの、身長計と体重計、それからベッドが二つ。壁には『手洗いうがいをしよう』などと子供の描いたようなポスターが貼ってある。
ここは本当に、日本の学校の保健室そのものみたいな空間だった。
どうしてダンジョンの中にこんな場所があるんだろう。
どうして僕らはあちらの世界の姿に変わってしまったんだろう。
保健室には小さな洗面台もあって、そこに鏡が備え付けられていたけど、とても覗き込んでみる気にはなれなかった。
足音がゆっくりと近づいて来る。
フィルと一緒じゃないんだろうか?
足音はひとり分しか聞こえてこない。
僕は息を殺してうずくまったけれど、足音は迷わず保健室のドアの前で止まった。引き戸を開けようとしたらしく、ガチッと鍵が音を立てる。
「ヨースケ」
ドアの外からエディの声が聞こえてくる。
「開けてください、ヨースケ」
見えていないのが分かっていながら僕は首を振った。
また、ガチッガチッと鍵が鳴り、ドンドンドンと戸を叩く音がした。
「そこにいるのでしょう? どうして私を拒むのですか」
エディの声は少し硬い響きで、怒っているのが伝わって来る。
「私が嫌いになったのですか? もう私を愛していないんですか?」
「そんなわけない……!」
僕は振り返ってドアに手を突いた。
「そんなわけありません。エディを嫌うなんて絶対にありえません……!」
扉越しに、小さく息を吐く音が聞こえてくる。
「それなら扉を開けてください。私にあなたを抱きしめてさせてください。キスをさせて……あなたに触れさせてください」
「む、むりです……」
「ヨースケ、どうして」
「きっと無理です! エディも僕の顔をちゃんと見たら、キスしようなんて思わなくなる」
息を呑む気配があった。
「……なんて馬鹿なことを……! 本気でそんなことを言っているのですか」
「そうです。毎日毎日エディが見つめていたリュカの美しい顔とは似ても似つかないんです。今の僕の顔は、ぜんぜん綺麗じゃない……」
自分の言葉に自分で傷付いて、じわりと涙が零れそうになる。
「ヨースケ、ここを開けなさい。あなたは何も分かっていない」
「分かっています。もう夢は終わったんです!」
「は、夢? 何を……?」
エディはよく分からないというように途惑った声を出した。
一緒に暮らすようになってから、あちらの世界のことについて、エディに聞かれるままに僕はたくさんお話をした。便利な家電のこととか、車や電車、飛行機のこととか、貴族がいないこととか、一般的な暮らしについてのこととか。でも、僕はいじめられていたことを話さなかった。口にするのもつらかったし、みじめなところを隠したかったからだ。
「僕……ずっと醜いって言われてきたんです。リュカと入れ替わるまでずっと、何年も、何年も……。小さい頃から容姿のことでからかわれていて、それに対しておどおどと反応するから余計にバカにされていじめられて……。だから、綺麗なリュカの体に入れた時、神様が僕の願いを叶えてくれたんだと思いました。みんなが優しくしてくれて、好きな人に好きと言ってもらえて、リュカのような美少年でいられた時間はまるで夢やおとぎ話みたいでした。でも……」
両手をドアにぴたりと付ける。
本当はドアの向こうのエディに触りたい。抱きついてキスをしたい。
でも、もしもほんの少しでもエディが嫌がる素振りを見せたら?
僕は耐えられなくてきっと死んでしまう。
「もう甘い夢は覚めてしまったんです。大好きな人に僕の正体を見られてしまいました。おとぎ話はもう終わりです。僕は冷たい現実に戻らなくちゃならない……」
ダン! と大きくドアが鳴った。
続けて、ダン! ダン! と激しく打ち鳴らされる。
「開けなさい! ここを開けてその醜い顔とやらを見せてみなさい! ヨースケは私をその程度の男だと思っていたのですか! 私の心がそれほど軽いものだとでも?! 随分ひどすぎやしませんか!」
エディの叫び声は怒りと悲しみと悔しさが入り混じっていた。
「ヨースケにとって……私はそんなにも信じられない男なのですか……」
震える声で言われて胸が苦しくなった。
エディを信じられない男だなんて思ったことはない。
エディは誰よりも僕を想ってくれて、どんな時でも守ってくれた。
僕がドアを開けられないのは、自分に自信が無いからだ。リュカからもらった美貌のほかに、自分に取り柄があると思えない。
「でも、でもエディ……エディはリュカを愛していたんでしょう?」
僕の問いかけに、すぐに答えは返ってこなかった。
長い沈黙があって、それからやっとエディは掠れた声を出した。
「確かに……ヨースケに出会う前、私はリュカを愛していました。それは認めます。私がリュカに最初に魅かれたのは、類まれなその美しさでした。リュカは儚げな美貌とは裏腹に強かさと冷たさを兼ね備えていて、その落差に強く心惹かれたのです。私は彼の内面を覗いてみたくて、その心の奥底を知りたくてたまらなかったのです……」
リュカは美しく、その内面も誇り高くて、強く優しい人だった。
エディが愛するのも当然だと思う。
僕はつらくて、ガリっとドアをひっかいた。
「でも、私はヨースケと出会いました。ヨースケを知りました。あなたはそれまで私が生きてきた貴族社会では、出会ったことのない不思議な魅力を持った子でした。駆け引きも計算も裏表も無く、ヨースケは私をすべて受け入れてくれたでしょう? あんなにも『妖精の羽』に好かれる人間を、私はほかに知りません。私は人間関係において駆け引きをしますし、損得を計算しますし、裏と表を使い分けるような人間です。自分と正反対のあなただから、強く魅かれたんです。ヨースケが私を見て笑うたびに、ヨースケに抱きつかれるたびに、ヨースケが愛していると言ってくれるたびに、私の心がどれほど満たされるか、本当に何も分かっていないのですか。……ヨースケ、愛しています。私はリュカではなくヨースケを愛しているんです。夢やおとぎ話などではありませんよ。私はあなたを愛している、それが現実なんですよ」
切々と語られるエディの声を聞いている内に、僕の両目からすーっと涙が流れていた。
それがどういう感情から来るのか、自分で自分がよく分からなかった。
「でも、僕は綺麗じゃないから……」
「まだそれを言うのですか。どうして綺麗とか綺麗じゃないとか、見た目のことばかり気にするのです? もういっそ、私の顔を火で焼いてしまいましょうか? 石で潰してきましょうか?」
「だ、だめです、そんなことしないで!」
「どうして? 私の顔が焼け爛れてしまったら、ヨースケはもう私を愛せないからですか?」
「ち、違います!」
「そうですか? では試してみましょうか。ちょっと今から顔を焼いてきますね。待っていてください」
ドアから離れた気配があって、足を引きずる足音が離れて行く。
「だ、だめ……!」
僕は血の気が引く思いで、ガチャリと鍵を回して引き戸を開けた。
「ダメです、エディ!」
いつもより少し背の低い背中に抱きついて必死に止める。
「お願いです、そんな怖いことをしないで!」
エディは振り返るなり、グイッと僕の腕をつかんだ。
「あっ」
「捕まえた」
両手の手首をつかまれ、そのまま壁に押し付けられる。
間近にある少年エディの顔がニッと笑った。
「もう逃がしませんよ」
「エディ」
「顔が変わったらキスできないなんて、おかしなことを言いましたね。本当にそうなのか、試してみましょうか」
両手首を固定されたまま、僕は少年エディを見た。エディはまつげを伏せて、躊躇いなく顔を寄せてくる。
「エディ、待って、ま……んんっ」
柔らかな唇が僕の口をふさいだ。舌が入って来て、僕の舌や歯を撫でるように中で動く。
「んっ」
エディの唾液と僕の唾液が混ざり合ってちゅくちゅくと音がする。
見た目は若返っていても、キスの仕方は大人のエディと同じだった。
日野陽介の姿をしている僕に、いつも通りの、いやいつもよりもっと情熱的なキスをしてくる。
「んん……ふぁ……んんっ」
僕の感じるところは全部エディに知られているから、キスだけでぼうっとのぼせてきてしまう。
エディはちゅっと音を立てて、いったん唇を離した。
「吸い返して、ヨースケ」
熱を孕んだ瞳で命じると、エディはまた唇を重ねてくる。
「ん……んん……」
熱っぽいキスに僕の体も熱くなってしまう。
頭の芯が痺れるようで、舌をからめて、吸い返して、僕は無意識にエディの唇に応えていた。
「ヨースケ……好きです……私のヨースケ……」
繰り返されるキスとキスの間に甘い囁きが挟まれる。
「……お願いですヨースケ……どうか私から逃げないで……」
強く求められて、気持ちが良くて、とろけてしまいそうになる。
体の力が抜けてしまって、かくんと落ちそうになるのをエディが抱きとめてくれた。
はぁはぁと息をしながら少年エディを見ると、その赤い舌がぺろりと自分の唇を舐めた。
「ふふ、かわいい……」
一瞬、何のことを言っているのか分からなかったが、その黒い瞳はじっと僕を見つめている。
「か、かわいくなんかないです」
慌てて否定すると、エディはまたちゅっとキスをしてから笑った。
「かわいいですよ。そうやってぽうっと潤んだ目で私を見るところも、少し開いたままになっている唇も、ヨースケの全部がかわいいんですから」
エディは片腕で僕を支えたまま、もう片方の手で僕の指先に触れて来た。
「見てください。こんなふうに力が入らなくて指が丸まっているところも、気持ち良くなるとまぶたが震えるところも、キスしただけでもっと触って欲しいというように熱くなっていく体も、もう全部がかわいいんですから」
「そ……んな……」
恥ずかしくなるようなことを言われ、僕の顔がすごく熱い。
「ねぇ、ヨースケ。私が毎日毎日どこにいても穴が開くほどヨースケを見つめているのを知っていますか。私はヨースケの歩き方も話し方も笑い方も、そのかわいいところを全部覚えてしまいました。そのすべてを心から愛おしく思っているんです。だから分かるでしょう? 顔なんて、ヨースケの一部でしかないんですよ」
間近から見つめてくるエディは、いつもと同じように優しく僕の髪を撫でた。
その指先から愛情が伝わってくるようで、僕の視界がゆらゆらと滲んで温かい涙が流れて来た。
「エディ……」
そうか。
エディのいうことが少し分かる。
僕だってエディの歩き方も話し方も笑い方も大好きだ。
僕の髪を撫でる手つきも、僕の腰を抱く力強さも、全部好きだ。
エディの顔は大好きだけど、確かに顔だけじゃないと思った。
万が一エディの顔に傷がついたとしても、それで僕の気持ちが消えることはない。
僕はエディの臙脂色のローブを両手でぎゅっと握った。
「エディ、ごめんなさい……」
こんなにも……。
僕自身も知らない僕の全部を丸ごと想ってくれているのに。
「ごめんなさい……」
涙が出て止まらなかった。
しゃくりあげながら、僕の恋人に抱きついた。
「大好きです。愛しています、エディ」
「ふふ、泣き方もいつもと同じです。本当にかわいくて仕方がない」
そう言って、エディは僕の頬に流れる涙をぺろりと舐め取った。
そしてまた、涙味のキスをする。
「ほら、何回だって当たり前にキス出来るでしょう? まだまだし足りないくらいです」
エディはぐいっと強く僕を抱き寄せて、耳元に低く囁く。
「このまま私の想いをヨースケの体に刻み込んでしまいたい……。ねぇ、ヨースケ。この建物にベッドはありませんか。ヨースケに完全に信じてもらえるまで、私の想いを伝えさせてください。隅から隅まで愛撫して、一晩中でもつながって、どれほど私に愛されているのかを思い知らせてあげますから……」
熱い言葉に、僕の心臓が飛び跳ねる。
ベッドならある。
すぐそこの保健室に。
鍵だってかかる。
まさにお誂え向き……。
だけど。
エディに愛されたくて欲望に頭がグラグラしたけれど、僕はなんとか理性で踏みとどまった。
たくさん触って欲しいし、僕もたくさん触りたい。けれど、ここはダンジョンの中で、ラウルはまだ見つかっていない。
「えっと、あの、帰ったら」
「帰ったら、なのですか?」
「はい、帰ったらいっぱい愛してください。いっぱいいっぱい愛しあいたいです」
僕は自分から少年エディの唇にキスをした。
日野陽介の、あまり綺麗ではない顔が近付いても、エディは嬉しそうに受け入れてくれた。
そして優しく微笑むと、また僕にキスをしてくれる。
ちゅ、ちゅ、と互いに何度もキスを交わして見つめ合う。
ああ、際限なくキスしてしまって、なかなか終われない。
「こんにちは」
いきなりすごく近くから声が聞こえて、僕とエディはビクリと振り返った。
エディが僕を後ろに庇って、声の主と対峙する。
「何者です!」
そこにいたのは学ランを着た中学生くらいの男の子だった。
男の子はニコニコした顔のまま、器用に首を傾げた。
「おや、まただ。こんにちはと言ったら、こんにちはと返すのではないですか」
「あ、そうですよね。すいません」
反射的に頭を下げると、エディが自分の背中に僕を隠そうとする。
「ヨースケ、いいから私の後ろに……」
「でも、挨拶はしないと。ええとこんにちは、僕は日野陽介です」
ぺこりと頭を下げると、男の子もぺこりと頭を下げた。
「私はハデスです」
「ハデス?」
僕はびっくりして声を上げた。
「はい、ハデスです」
「ハデスというと、このダンジョンと何か関りが?」
エディが眉をしかめてハデスを見る。
「はい、私はハデスガーデン、このダンジョンそのものです」
「そのもの?」
僕とエディが驚くと同時に、小さな光がふいに目の前に現れた。チカチカと点滅して、ハデスと僕のまわりを飛び回り始める。
「光の精霊様? どうしたんですか?」
「光の精霊? これが?」
ハデスが驚いたような声を上げた。
さっきまでのニコニコ顔が瞬時に消えていた。
「ハデス、でしたね。あなたはこの光の精霊に関して、何か知っているのですか」
「はい、知っています。これは私と同じものです」
エディの問いかけにハデスは無表情でうなずいた。
柔らかい光の中で頬杖をついて、ぼんやりと窓の下の桜を見下ろした。
校内をくまなく歩きまわったせいで、かなりぐったりと疲れている。
学校の敷地の外へは、どうやっても出られないようだった。校門の外にはちゃんと道路が続いているように見えたんだが、行こうとすると透明な壁でもあるかのように前へ進めなかったのだ。
仕方なく引き返して校内を歩き回ってみたが、ここは完全に無人で食料がまったく見当たらなかった。試しに水道の蛇口をひねってみたら水が出てきて安堵したけど、水だけでいったい何日もつだろうか。
マジックバッグの中にはたっぷりの食材が入っていたはずなのに、今の俺はなぜか日本の中学生の姿に戻ってしまっていて、マジックバッグはどこかへ消えてしまっている。
俺は悪あがきで、椅子やテーブル、本棚に並ぶ本までもじっと見てみたが、『食用不可』という文字がいくつも浮かぶだけだった。
俺の目は一種の鑑定能力を持つ。まず対象のものをじっと見る。すると、目に映ったものが食べられるか食べられないかが表示される。そしてさらに意識を集中すると、最適な調理方法、保存方法、植物なら栽培方法、動物なら飼育方法まで、食に関するあらゆる情報が読み取れるという特殊な鑑定眼だ。
この目があれば、どんな僻地へ行っても旨いものを作って食べられると思っていたが、この状況では俺の唯一の能力もまったくの役立たずだった。
人生の大半を食べ物を得るためだけに生きて来た俺にとって、餓死は一番つらい死に方だ。想像するだけでぞわりと震えがくる。俺は自分の腕を自分でこすり、ゆっくりと深呼吸した。
窓辺から振り返って、整然と並んでいる書架を見渡す。誰かが手入れをしているかのように、埃もたまっていないし乱雑さも無い。
ついさっきまで誰かが使っていたような、奥のカウンターから司書さんが出てきそうな、そんな暖かみのある図書室だった。
校内のほかの場所はあまりに静かすぎてひどく不自然だったが、図書室が静まり返っているのは当たり前のような気がしてそれほど違和感がない。図書室特有の薄暗くしっとりとした雰囲気が、ほんの少しだけ俺を落ち着かせてくれた。
そういえば中学生の頃に、図書室に通ってシェイクスピアをいくつか読んだな……。
まるで現実逃避するように、陽人だった頃の思い出を記憶の底から引っ張り出す。
『ロミオとジュリエット』とか、『ベニスの商人』とか、『マクベス』とか、有名なタイトルの戯曲をわざわざ図書室の中の閲覧スペースで読んだ。特にシェイクスピアが好きだったわけでもなく、読んでみて感銘を受けたわけでもなく、その頃の俺はただ単に少し背伸びしてみたかったんだと思う。口の中で難しいセリフを囁いてみるだけでも、ちょっぴり大人な気分を味わえたから。
もう一度、読んでみるかな。
現実逃避だと分かっていながら、俺は規則正しく並んでいる本棚へ足を向けた。外国文学の棚へ行く手前で、ふと、一冊の本の背表紙に目を引かれて手に取った。
――――『銀河鉄道の夜』。
「うわ、なつかし……」
角が擦り切れ、色あせた装丁を指でなぞると、それを読んだ時の情景や感情が思い出されてくる。食べ物の心配などする必要の無かった、平和な学校生活、ぬるま湯のような日常の幸せ。
本を手に窓辺に戻り、椅子に腰かけた。『銀河鉄道の夜』の最初の数ページをめくってみたが、俺は息を吐いてパタンと本を閉じた。結末を思い出したからだ。
あの頃の俺は素直に主人公ジョバンニに感情移入して読んだけれど、きっと今は違う。なんというか、今はカムパネルラがうらやましい気がするのだ。
彼の死には、きちんと意味があるから。自分の意思で行動して、その結果訪れた死なのだから。しかも死の世界への旅立ちは、美しくも幻想的な鉄道の旅だ。最後のぎりぎりのところまで、親友のジョバンニが一緒にいてくれた。
俺は違う。俺の死にはあまり意味が無い。
自分の行動の結果ではないし、誰もそばにいてくれないし、ひとりで飢えて死んでいく。
レオはあの時、落ちていく俺に気付きもしなかった。
レオは日野しか見ていなかった。
俺は実の親に捨てられた子だ。盗賊のカシラにも見捨てられた子だ。そしてレオにとっても、やっぱりいらない子だったのかな……。
冷たい石を飲み込んでしまって、お腹の中に溜まっていくような感覚がする。
どうせ転生するならば、レオ好みの華奢な少年になりたかった。
金髪で、ほっそりしていて、青い目の人形みたいな美少年。
俺は日野みたいになりたかった。
あんな風に、綺麗なだけで何の役にも立たないくせに、綺麗だというだけで誰からも好かれるような、ああいうずるい存在に……。
「あー、だめだだめだ!」
両手でパシパシと自分の頬を打つ。
こんな醜い感情に飲み込まれちゃダメだ。
レオが俺に与えてくれた優しさや愛情まで汚してしまうことになる。
俺は日野のことは何も知らない。愛玩奴隷だったこと、死にかけるほどつらい目に会ったこと、断片的に聞いた情報だけでも、苦労を知らないお坊ちゃんなどではないと分かるのに。本当のことを何も知らない俺が、表面だけ見てうらやましがるなんて失礼な話だ。
何か、違うことを考えよう。
元気が出るような楽しいことを。
でも、俺にとって楽しいことはすべてレオにつながっているので、どうしてもレオの横顔と、レオの視線の先にいる日野を思い出してしまう。
胸の中がグチャグチャで、目尻に涙が滲んできた時、ダダダダッと大きな足音が近づいて来た。
無人の学校の静寂を破る足音に、びくりと体が緊張する。
逃げるか隠れるか迷う間もなく、ガラリと入り口の引き戸が開け放たれた。
「ラウル! いるか!? ラウ、ル……」
野球のユニフォームを着た少年と、バチッと目が合った。
そのたった一瞬の視線と視線のつながりで、俺達は互いに相手に気が付き、そして互いに何も言えなくなってしまった。
日焼けしていて眉の太い少年の顔が、嬉しそうに笑顔になり、次につらそうに目を伏せ、そして困ったように切ない目を向けて来た。様々な感情が胸に溢れて、制御しきれていないのが手に取るように分かった。
俺も同じだった。
嬉しくて声を出したいのに、駆け寄って抱きつきたいのに、うまく体が動かせない。
ユニフォーム姿の彼は何かを言いかけたが、躊躇うように口を閉じてしまい、長い間沈黙した後、やっと小さな声で俺に聞いた。
「坂崎陽人……?」
その声は震えていた。
俺はうなずき、涙まじりに聞き返した。
「加藤、竜也?」
彼の目が見開かれ、みるみるうちに潤んでぽろりと滴が落ちた。
日に焼けた手が慌てたように目元を拭ったが、さらにぽろぽろと涙が零れていく。
「なんで、泣くんだよ……」
そう言う俺も涙が溢れて止まらなかった。
「だって、ラウル……ラウルにやっと会えて……」
「レオ……」
いい大人が見つめあったままボロボロと泣きじゃくるなんて、実はちょっとみっともないことかも知れない。でも、今の俺達は中学生だから、感情のままに涙を流してもいいやと思った。
レオは両手でぐいぐいと頬をこすりながら近づいて来る。
「なぁ、ハグしてもいいか」
同じくらいの目線でまっすぐ俺を見て、野球少年姿のレオが言った。
「う、うん」
俺がおずおずと両手を開くと、がばっと強く抱きしめられた。
一度泣き止んだようだったのに、レオがまた俺の耳元で嗚咽を漏らし始める。
「……らうる……らうるぅ……ううううぅ……」
抱きしめてくる腕も、耳元にかかる息も、すごく熱かった。
「レオ……そんなに泣くなよ……」
「だって……ううう」
レオの泣き声が、子供みたいにいっそう大きくなる。
「ごめん……! ごめんなラウル……ほんとにごめん……!」
レオの両腕がぎゅうっと力強く俺を抱きしめる。
でも、レオの背中に回した俺の手は、中途半端に浮いた状態だった。
レオの体にしがみつきたい。
でも、しがみついていいのかと迷ってしまう。
「レオ……」
「俺がバカだった。もう絶対にあんなバカな真似はしない。これからはめちゃくちゃ大事にするから。絶対の絶対に俺がラウルを守るから……だから、だから、俺のそばにいてくれ……一生、俺のそばにいて……」
切ない声が耳に沁み込んでくるようで、俺の体も熱くなってくる。
俺は、ずっと聞きたかったことを、ポソリと問いかけた。
「俺、いらない子じゃなかった……?」
「当たり前だろ! 要る子だよ! めちゃくちゃ要る子だよ!」
俺はレオの背中をぎゅーっとつかんだ。
体ごと全部密着して、レオの肩に頭をもたせ掛ける。
「そっか……。俺、レオの要る子かぁ……」
「大好きだよ、ラウル。何度も何度も愛しているって言ったろ」
「うん……うん、そうだった。『愛してる』の大安売りな」
「はは、ひどい言われようだ。でもまだまだ言ってやるぞ。ラウル、愛してる!」
その愛ってやつはきっと日野へ対するものとは違うだろう。
分かっていても嬉しかった。
「俺も愛しているよ、レオ」
「おお……」
「おおって何だよ」
「ラウルに初めて愛してるって言われた」
「俺の『愛してる』は重みが違うからな」
「何を言う。俺だって全部本気だぞ」
「へぇ、そりゃすごい」
「ほんとだって。俺はラウルをメチャクチャ愛してんの」
「はは、そっか。それは嬉しいかも」
「だろ?」
レオに抱きついたまま目を閉じると、またぽろりぽろりと涙が落ちた。
安心して、幸せすぎて、俺の中に芽生えかけた汚い感情が全部押し流されていくようだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
片足を引きずる足音がした。
エディだ。
僕はハッと顔を上げた。
目に映るのは薬品の入った棚、書類の並んだ棚、机と椅子、色々な器具の乗っているワゴンのようなもの、身長計と体重計、それからベッドが二つ。壁には『手洗いうがいをしよう』などと子供の描いたようなポスターが貼ってある。
ここは本当に、日本の学校の保健室そのものみたいな空間だった。
どうしてダンジョンの中にこんな場所があるんだろう。
どうして僕らはあちらの世界の姿に変わってしまったんだろう。
保健室には小さな洗面台もあって、そこに鏡が備え付けられていたけど、とても覗き込んでみる気にはなれなかった。
足音がゆっくりと近づいて来る。
フィルと一緒じゃないんだろうか?
足音はひとり分しか聞こえてこない。
僕は息を殺してうずくまったけれど、足音は迷わず保健室のドアの前で止まった。引き戸を開けようとしたらしく、ガチッと鍵が音を立てる。
「ヨースケ」
ドアの外からエディの声が聞こえてくる。
「開けてください、ヨースケ」
見えていないのが分かっていながら僕は首を振った。
また、ガチッガチッと鍵が鳴り、ドンドンドンと戸を叩く音がした。
「そこにいるのでしょう? どうして私を拒むのですか」
エディの声は少し硬い響きで、怒っているのが伝わって来る。
「私が嫌いになったのですか? もう私を愛していないんですか?」
「そんなわけない……!」
僕は振り返ってドアに手を突いた。
「そんなわけありません。エディを嫌うなんて絶対にありえません……!」
扉越しに、小さく息を吐く音が聞こえてくる。
「それなら扉を開けてください。私にあなたを抱きしめてさせてください。キスをさせて……あなたに触れさせてください」
「む、むりです……」
「ヨースケ、どうして」
「きっと無理です! エディも僕の顔をちゃんと見たら、キスしようなんて思わなくなる」
息を呑む気配があった。
「……なんて馬鹿なことを……! 本気でそんなことを言っているのですか」
「そうです。毎日毎日エディが見つめていたリュカの美しい顔とは似ても似つかないんです。今の僕の顔は、ぜんぜん綺麗じゃない……」
自分の言葉に自分で傷付いて、じわりと涙が零れそうになる。
「ヨースケ、ここを開けなさい。あなたは何も分かっていない」
「分かっています。もう夢は終わったんです!」
「は、夢? 何を……?」
エディはよく分からないというように途惑った声を出した。
一緒に暮らすようになってから、あちらの世界のことについて、エディに聞かれるままに僕はたくさんお話をした。便利な家電のこととか、車や電車、飛行機のこととか、貴族がいないこととか、一般的な暮らしについてのこととか。でも、僕はいじめられていたことを話さなかった。口にするのもつらかったし、みじめなところを隠したかったからだ。
「僕……ずっと醜いって言われてきたんです。リュカと入れ替わるまでずっと、何年も、何年も……。小さい頃から容姿のことでからかわれていて、それに対しておどおどと反応するから余計にバカにされていじめられて……。だから、綺麗なリュカの体に入れた時、神様が僕の願いを叶えてくれたんだと思いました。みんなが優しくしてくれて、好きな人に好きと言ってもらえて、リュカのような美少年でいられた時間はまるで夢やおとぎ話みたいでした。でも……」
両手をドアにぴたりと付ける。
本当はドアの向こうのエディに触りたい。抱きついてキスをしたい。
でも、もしもほんの少しでもエディが嫌がる素振りを見せたら?
僕は耐えられなくてきっと死んでしまう。
「もう甘い夢は覚めてしまったんです。大好きな人に僕の正体を見られてしまいました。おとぎ話はもう終わりです。僕は冷たい現実に戻らなくちゃならない……」
ダン! と大きくドアが鳴った。
続けて、ダン! ダン! と激しく打ち鳴らされる。
「開けなさい! ここを開けてその醜い顔とやらを見せてみなさい! ヨースケは私をその程度の男だと思っていたのですか! 私の心がそれほど軽いものだとでも?! 随分ひどすぎやしませんか!」
エディの叫び声は怒りと悲しみと悔しさが入り混じっていた。
「ヨースケにとって……私はそんなにも信じられない男なのですか……」
震える声で言われて胸が苦しくなった。
エディを信じられない男だなんて思ったことはない。
エディは誰よりも僕を想ってくれて、どんな時でも守ってくれた。
僕がドアを開けられないのは、自分に自信が無いからだ。リュカからもらった美貌のほかに、自分に取り柄があると思えない。
「でも、でもエディ……エディはリュカを愛していたんでしょう?」
僕の問いかけに、すぐに答えは返ってこなかった。
長い沈黙があって、それからやっとエディは掠れた声を出した。
「確かに……ヨースケに出会う前、私はリュカを愛していました。それは認めます。私がリュカに最初に魅かれたのは、類まれなその美しさでした。リュカは儚げな美貌とは裏腹に強かさと冷たさを兼ね備えていて、その落差に強く心惹かれたのです。私は彼の内面を覗いてみたくて、その心の奥底を知りたくてたまらなかったのです……」
リュカは美しく、その内面も誇り高くて、強く優しい人だった。
エディが愛するのも当然だと思う。
僕はつらくて、ガリっとドアをひっかいた。
「でも、私はヨースケと出会いました。ヨースケを知りました。あなたはそれまで私が生きてきた貴族社会では、出会ったことのない不思議な魅力を持った子でした。駆け引きも計算も裏表も無く、ヨースケは私をすべて受け入れてくれたでしょう? あんなにも『妖精の羽』に好かれる人間を、私はほかに知りません。私は人間関係において駆け引きをしますし、損得を計算しますし、裏と表を使い分けるような人間です。自分と正反対のあなただから、強く魅かれたんです。ヨースケが私を見て笑うたびに、ヨースケに抱きつかれるたびに、ヨースケが愛していると言ってくれるたびに、私の心がどれほど満たされるか、本当に何も分かっていないのですか。……ヨースケ、愛しています。私はリュカではなくヨースケを愛しているんです。夢やおとぎ話などではありませんよ。私はあなたを愛している、それが現実なんですよ」
切々と語られるエディの声を聞いている内に、僕の両目からすーっと涙が流れていた。
それがどういう感情から来るのか、自分で自分がよく分からなかった。
「でも、僕は綺麗じゃないから……」
「まだそれを言うのですか。どうして綺麗とか綺麗じゃないとか、見た目のことばかり気にするのです? もういっそ、私の顔を火で焼いてしまいましょうか? 石で潰してきましょうか?」
「だ、だめです、そんなことしないで!」
「どうして? 私の顔が焼け爛れてしまったら、ヨースケはもう私を愛せないからですか?」
「ち、違います!」
「そうですか? では試してみましょうか。ちょっと今から顔を焼いてきますね。待っていてください」
ドアから離れた気配があって、足を引きずる足音が離れて行く。
「だ、だめ……!」
僕は血の気が引く思いで、ガチャリと鍵を回して引き戸を開けた。
「ダメです、エディ!」
いつもより少し背の低い背中に抱きついて必死に止める。
「お願いです、そんな怖いことをしないで!」
エディは振り返るなり、グイッと僕の腕をつかんだ。
「あっ」
「捕まえた」
両手の手首をつかまれ、そのまま壁に押し付けられる。
間近にある少年エディの顔がニッと笑った。
「もう逃がしませんよ」
「エディ」
「顔が変わったらキスできないなんて、おかしなことを言いましたね。本当にそうなのか、試してみましょうか」
両手首を固定されたまま、僕は少年エディを見た。エディはまつげを伏せて、躊躇いなく顔を寄せてくる。
「エディ、待って、ま……んんっ」
柔らかな唇が僕の口をふさいだ。舌が入って来て、僕の舌や歯を撫でるように中で動く。
「んっ」
エディの唾液と僕の唾液が混ざり合ってちゅくちゅくと音がする。
見た目は若返っていても、キスの仕方は大人のエディと同じだった。
日野陽介の姿をしている僕に、いつも通りの、いやいつもよりもっと情熱的なキスをしてくる。
「んん……ふぁ……んんっ」
僕の感じるところは全部エディに知られているから、キスだけでぼうっとのぼせてきてしまう。
エディはちゅっと音を立てて、いったん唇を離した。
「吸い返して、ヨースケ」
熱を孕んだ瞳で命じると、エディはまた唇を重ねてくる。
「ん……んん……」
熱っぽいキスに僕の体も熱くなってしまう。
頭の芯が痺れるようで、舌をからめて、吸い返して、僕は無意識にエディの唇に応えていた。
「ヨースケ……好きです……私のヨースケ……」
繰り返されるキスとキスの間に甘い囁きが挟まれる。
「……お願いですヨースケ……どうか私から逃げないで……」
強く求められて、気持ちが良くて、とろけてしまいそうになる。
体の力が抜けてしまって、かくんと落ちそうになるのをエディが抱きとめてくれた。
はぁはぁと息をしながら少年エディを見ると、その赤い舌がぺろりと自分の唇を舐めた。
「ふふ、かわいい……」
一瞬、何のことを言っているのか分からなかったが、その黒い瞳はじっと僕を見つめている。
「か、かわいくなんかないです」
慌てて否定すると、エディはまたちゅっとキスをしてから笑った。
「かわいいですよ。そうやってぽうっと潤んだ目で私を見るところも、少し開いたままになっている唇も、ヨースケの全部がかわいいんですから」
エディは片腕で僕を支えたまま、もう片方の手で僕の指先に触れて来た。
「見てください。こんなふうに力が入らなくて指が丸まっているところも、気持ち良くなるとまぶたが震えるところも、キスしただけでもっと触って欲しいというように熱くなっていく体も、もう全部がかわいいんですから」
「そ……んな……」
恥ずかしくなるようなことを言われ、僕の顔がすごく熱い。
「ねぇ、ヨースケ。私が毎日毎日どこにいても穴が開くほどヨースケを見つめているのを知っていますか。私はヨースケの歩き方も話し方も笑い方も、そのかわいいところを全部覚えてしまいました。そのすべてを心から愛おしく思っているんです。だから分かるでしょう? 顔なんて、ヨースケの一部でしかないんですよ」
間近から見つめてくるエディは、いつもと同じように優しく僕の髪を撫でた。
その指先から愛情が伝わってくるようで、僕の視界がゆらゆらと滲んで温かい涙が流れて来た。
「エディ……」
そうか。
エディのいうことが少し分かる。
僕だってエディの歩き方も話し方も笑い方も大好きだ。
僕の髪を撫でる手つきも、僕の腰を抱く力強さも、全部好きだ。
エディの顔は大好きだけど、確かに顔だけじゃないと思った。
万が一エディの顔に傷がついたとしても、それで僕の気持ちが消えることはない。
僕はエディの臙脂色のローブを両手でぎゅっと握った。
「エディ、ごめんなさい……」
こんなにも……。
僕自身も知らない僕の全部を丸ごと想ってくれているのに。
「ごめんなさい……」
涙が出て止まらなかった。
しゃくりあげながら、僕の恋人に抱きついた。
「大好きです。愛しています、エディ」
「ふふ、泣き方もいつもと同じです。本当にかわいくて仕方がない」
そう言って、エディは僕の頬に流れる涙をぺろりと舐め取った。
そしてまた、涙味のキスをする。
「ほら、何回だって当たり前にキス出来るでしょう? まだまだし足りないくらいです」
エディはぐいっと強く僕を抱き寄せて、耳元に低く囁く。
「このまま私の想いをヨースケの体に刻み込んでしまいたい……。ねぇ、ヨースケ。この建物にベッドはありませんか。ヨースケに完全に信じてもらえるまで、私の想いを伝えさせてください。隅から隅まで愛撫して、一晩中でもつながって、どれほど私に愛されているのかを思い知らせてあげますから……」
熱い言葉に、僕の心臓が飛び跳ねる。
ベッドならある。
すぐそこの保健室に。
鍵だってかかる。
まさにお誂え向き……。
だけど。
エディに愛されたくて欲望に頭がグラグラしたけれど、僕はなんとか理性で踏みとどまった。
たくさん触って欲しいし、僕もたくさん触りたい。けれど、ここはダンジョンの中で、ラウルはまだ見つかっていない。
「えっと、あの、帰ったら」
「帰ったら、なのですか?」
「はい、帰ったらいっぱい愛してください。いっぱいいっぱい愛しあいたいです」
僕は自分から少年エディの唇にキスをした。
日野陽介の、あまり綺麗ではない顔が近付いても、エディは嬉しそうに受け入れてくれた。
そして優しく微笑むと、また僕にキスをしてくれる。
ちゅ、ちゅ、と互いに何度もキスを交わして見つめ合う。
ああ、際限なくキスしてしまって、なかなか終われない。
「こんにちは」
いきなりすごく近くから声が聞こえて、僕とエディはビクリと振り返った。
エディが僕を後ろに庇って、声の主と対峙する。
「何者です!」
そこにいたのは学ランを着た中学生くらいの男の子だった。
男の子はニコニコした顔のまま、器用に首を傾げた。
「おや、まただ。こんにちはと言ったら、こんにちはと返すのではないですか」
「あ、そうですよね。すいません」
反射的に頭を下げると、エディが自分の背中に僕を隠そうとする。
「ヨースケ、いいから私の後ろに……」
「でも、挨拶はしないと。ええとこんにちは、僕は日野陽介です」
ぺこりと頭を下げると、男の子もぺこりと頭を下げた。
「私はハデスです」
「ハデス?」
僕はびっくりして声を上げた。
「はい、ハデスです」
「ハデスというと、このダンジョンと何か関りが?」
エディが眉をしかめてハデスを見る。
「はい、私はハデスガーデン、このダンジョンそのものです」
「そのもの?」
僕とエディが驚くと同時に、小さな光がふいに目の前に現れた。チカチカと点滅して、ハデスと僕のまわりを飛び回り始める。
「光の精霊様? どうしたんですか?」
「光の精霊? これが?」
ハデスが驚いたような声を上げた。
さっきまでのニコニコ顔が瞬時に消えていた。
「ハデス、でしたね。あなたはこの光の精霊に関して、何か知っているのですか」
「はい、知っています。これは私と同じものです」
エディの問いかけにハデスは無表情でうなずいた。
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