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捨てられた勇者と優しい魔王の物語
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『「すっ捨て勇者、だと!?」
薄暗い森の中で、魔王はおののいた。金髪の子供が籠に入れられて、捨てられている。
そのステータスには、『勇者』と、明記されていた。』
「ふぅーん、勇者ねぇ。このちっぽけな生き物が勇者だっていうの?」
金色の髪が陽光でキラキラと煌めく赤子を胡乱げに見つめるのは、風になびいた長い髪がまるで金糸のように艶やかな少女。
その瞳は黄金色に輝き、意志の強さが垣間見えるほどに苛烈な印象を人に与える。
しかし、表情はとても柔らかく、どこかアンバランスなのだ。
「この勇者とやらが私の天敵ですって? こんなちんまい生き物に私が倒されるなんて、未来永劫ありえないのだわ」
自信満々な魔王だが、その見た目はまだ、十歳そこそこしか見えない幼女である。
そんな幼女にしか見えない魔王であるゆえ、言葉遣いの割に威厳の欠片もあったものではない。
「アリステア姫。森は危険ですと申し上げたでしょう」
執事の服を着ているが服から、出ている肌は闇のように黒く、頭までも真っ黒で目に当たる部分は爛々と赤く、光っているだけで鼻も口もなかった。
「げっ、シャッテン!? 追っかけてくるのが早くなくて? 私は魔王なの。こんな森なんて、怖くもなんともな……ひっ」
魔王アリステアは強がって、腰に手をやり胸を反らしてみたものの得体の知れない鳥の鳴き声が聞こえてくると反射的に怯えてしまい、普通の少女のような反応を見せてしまう。
「姫様、さあ帰りましょう。何か、あってからでは遅いのですよ」
「わ、分かっているのだわ。帰れば、いいのでしょう。帰れば。仕方ないから、帰ってあげます。それでね、一つだけお願いがあるのだけど」
「おやつを増やすのは駄目です」
「むかっ。おやつを増やしたいなんて、言ってないのだわ。この赤ちゃんを連れて帰りたいの。いいでしょ?」
シャッテンの瞳が赤子を捉え、その何も存在しない顔に驚きの表情が浮かんだように見えた。
「勇者ではないですか、こやつ! 今、ここで亡き者にすれば、よろしいのでは?」
「おっーほほほ。だから、お前は駄目なのだわ。毒を以て毒を制すなのよ。分かる? この勇者を私が育てるの。愛情をかけて、大きく育てて、私の言うがままに動く、最強の兵士にしたてあげるの」
「さすがお嬢様! その深謀遠慮。このシャドー感服致しました」
影の魔物シャッテンは手慣れた手つきで籠を手に取ると余った手でアリステアの手を握り、転移の魔法を唱えるのだった。
かつてその圧倒的な力で世界を席巻した男がいた。
暴虐の魔王と呼ばれたヴリトラである。
しかし、世界の三分の二を手中に収め、恐怖に彩られた世界を構築する悪逆なる王は勇者と呼ばれる存在によって、倒された。
世界は救われたのである。
暴君ではあるが偉大な指導者を失った魔王軍は瓦解し、魔王の一人娘はどこへともなく、姿を消したと言う。
「お前の名前はアレックスよ。アレクでいいわね。さあ、アレク。私がママだからね」
「まあ……あ」
「ママよ、ママ」
籠の中でキャッキャッと笑い声をあげ、喜んでいるアレックスと名付けられた赤子の勇者をあやして、満足そうに微笑む少女。
彼女こそ、暴虐の魔王の娘と言われても気付く者はまず、いないだろう。
人目を引く印象的な黄金色の瞳以外、少女は特に人間と変わりがない存在のように見えた。
「かわいい……って、違ーう! 私はこいつを利用するんでしょ。心を鬼もとい悪魔にしなくちゃ」
アリステアがアレックスを拾ってから、既に五年の歳月が流れた。
小っちゃな赤ん坊だったアレックスも今は自由に歩いて、考えられる賢い男の子に育っていた。
「ホレス、だいじょうぶ?」
日課となっている剣の師シャッテンから、与えられたトレーニングを終えて館に帰ろうとしたアレックスは畑のへりに蹲っている緑色の生き物に声を掛ける。
「おや、坊ちゃま。でえじょうぶですよ。あっしはなんせ、この身体でごぜえやすから」
ホレスと呼ばれた緑色の生き物――ゴブリンが伏せていた顔を上げるとその右目は抉られたのか、醜く潰れている。
右足も膝から下がなく、蹲っていた理由は疲労によるものは明らかだった。
「そのまま、休んでおいてよ。しゅぎょうになるから、畑はぼくがやるね」
そう言うとアレックスはホレスの鍬を手に取ろうとする。
「坊ちゃま、すまねえ。あっしがこんなだから」
「困ってる人は助けなさいって、かあさまがいつも言ってる。ぼくもそうしたいからなんだよ。だから、泣かないで」
鍬を担いで畑で農作業を始めたアレックスを見つめるホレスの目からは流れ落ちる滴は止まることがなかった。
その様子を館の二階にある執務室の窓から、眺めていたアリステアは傍らに控える忠実な執事に問い掛ける。
「ねえ、シャッテン。私は選択を誤ったのかしら? でも……私には出来なかった。勇者というだけでその命を奪うなんて」
「姫様の進まれている道は茨の道でございます。先帝陛下もそうでございました。我らが悔しく思うのは先帝陛下の悪名のみが残ってしまったことでございます」
「お父様と同じか。いつまで、こうしていられるのかな。アレクは私のことを嫌いになるのかな……そんなの耐えられない」
「姫様」
言葉遣いこそ、五年の間に成長していたものの容姿は未だ、十歳くらいの少女にしか見えないアリステアだったが、アレックスを見つめる瞳は切なげに揺れ、見た目以上に大人びて、見えていた。
「アレクは皆に好かれるようになったわ。魔物からも人からも。勇者だものね」
「しかし、それは姫様の教えがあったからでございます。この地に集う者達も姫様をお慕いする者達で」
「でも、私は魔王なのよ。世界から憎まれて、忌み嫌われて、いずれ消される存在だわ」
「やはり、彼を人の世界にお戻しになるおつもりですか?」
「彼は人だもの。勇者だもの。その方がアレクにとっても幸せなことなのよ?」
「それで姫様は幸せになれるのですか?」
「私はね。幸せになってはいけないのよ。覚えておいて」
アレックスから目を離し、空を見上げるアリステアの瞳を彩るのは哀しみの色だった。
さらに十年の年月が流れ、アレックスと名付けられた勇者は神に与えられた祝福されし、黄金色の髪にサファイアのような瞳を有し、擦れ違った女性が誰しも見惚れてしまうほどの容貌に優れた少年に成長していた。
その見た目なのに誰からも慕われる優しい性格に育ち、困っている人を見たら、自分の身も顧みずに助けに行くその姿は既に勇者そのものだ。
剣の腕も一流の使い手であるシャッテンに鍛えられたお陰もあって、その腕前はみるみる上達し、今ではシャッテンが手も足も出ない有様である。
魔法があまり、上達しなかったのは教えていたのが、母親代わりであるアリステアだったせいだろう。
魔王であり、世界屈指の魔術師でもあるアリステアだが、教える才能が欠如していた訳ではない。
感覚的な教え方をするアリステアのやり方がアレックスに合っていなかっただけなのだ。
アリステアは自分の背丈を追い越し、見上げなければならなくなったアレックスに向ける感情が自分でも分からなくなっていた。
母親として愛おしく思っている。
そう思っていたのに今では彼の顔を見ただけで胸の激しい鼓動に息まで苦しくなってくる。
自分がおかしくなったのかと勘違いしていたアリステアはそれが恋なのだと気付いてしまった。
そんな彼女は恋する男にまともに教えられるほど、恋愛適性が高くなかったのだ。
その結果が感覚的な教え方だったのは何とも皮肉なことである。
「別れる時が来てしまったのね」
そう決めたのは自分なのにどうして、こんなに胸が苦しいのか。
愛してしまったんだ彼を……。
魔王の私が勇者を……なんて愚かなのかしら?
だから、決めた。
アレックスを人の世界に戻すと。
「何でですか? 僕はここにいてはいけないんですか? アリスは……僕のことを嫌いになった?」
彼が私のことを母上と呼ばなくなったのはいつからだった? とアリステアは考えてみた。
思春期を迎える前からではなかったかと思い出した。
その頃から、アレクはアリスと名前で私を呼んでくるようになり、最初は母親と思われなくなったことを悲しんでいたことも思い出した。
異性として好きになってくれたのだと気付いてしまったから。
「そういうことではないの。あなたは勇者だから。もう、ここにいてはいけないわ。自分が戻るべき場所に戻るのよ」
「そんな! 嫌だ、アリス!」
「さようなら、アレク……愛してる」
転移の魔法でアレックスを王城へと強制的に送還し終えたアリステアの頬を伝う涙が乾くことはなかった。
アレックスがいなくなった隠れ里はまるで光を失ったかのように静かだ。
アレックスやアリステアを囲んで賑やかだったかつての喧騒がまるで幻だったとでも言うように……。
「私があなたたちの下に行けば、ここには手を出さないと約束してくれますか?」
「ああ、もちろんだとも。このような場所に用がないからね」
豪奢な金糸の装飾が施された服を着込み、後ろに甲冑姿の騎士を幾人も従えた男は貴族なのだろうか。
固唾を飲んで見守る異形の者達にはまるでゴミでも見るような蔑んだ視線を送る一方、アリステアには慇懃無礼な態度で接し、上辺は敬っているような素振りを見せている。
「分かりました。シャッテン、後をお願い。あなたにしか、頼めないことだわ」
「姫様……このシャッテン、必ずや君命に報いましょう」
魔物、人と種族を問わず、打ち棄てられた者達が集い、いつしか形成されていた隠れ里。
助け合い、お互いに慈しみ合うことが当たり前になっているこの里は異端だった。
凶暴な魔物が闊歩する森に守られ、外界と遮断されていたからだ。
外界では助け合うことも慈しみ合うことも許されるのは、選ばれた者だけである。
弱い者は死んで当然とされる世界。
それに異を唱え、世界を変えようとした男がいた。
悪逆の魔王と呼ばれたヴリトラ。
アリステアの父である。
だが彼は失敗した。
人の心は善い物であると信じて疑わなかったからだ。
その結果、お飾りの魔王に担ぎ上げられ、気付いた時には既に遅かった。
世界はもっと酷い有様になっていた。
絶望したヴリトラは怒りと憎しみにその身を苛まれ、その姿を巨大な竜へと変え、自分を含めた魔王軍を滅ぼしたのだ。
なんのことはない。
最初から、勇者など存在していなかったのである。
全ての悪行を行ったのはヴリトラとされ、世界は何も変わらなかった。
しかし、歴史は繰り返す。
魔王ヴリトラが消え、彼が目指した世界は遠い幻となる一方、野望に取りつかれる邪な人間が消えることはない。
魔王の一人娘であるアリステアが父と同じ力と考えを持っていることに気付き、旗頭として担ぎ上げようと企んだのだ。
だが、父親と同じく力がありながらも愚かな理想主義者である娘が簡単に頷かないことが予想された。
森ごと里を焼き、民を虐殺すると脅すと驚くほど簡単に娘は従順になった。
かくして、新たな魔王により、世界は再び、紅蓮の炎に包まれることとなる。
それから、さらに三年の月日が流れた。
魔王軍が世界各地を蹂躙し、世界が暴力と悪意に満ち、誰しも絶望に打ちひしがれていた。
そんな時、弱き人々の希望となる存在・勇者が現れる。
勇者アレックスによって、解放された人々は希望を胸に自由な世界を求めて、戦い始めた。
「不思議なものね。私はここにいて、ここから出ることも出来ない。何もしていないのに世界中から、憎まれて、嫌われて……」
魔王アリステアが座す場所は玉座ではない。
王城にある高い尖塔の最上階にある閉ざされた一室が彼女に与えられた唯一のもの。
「こんな封印くらいで私の魔法が妨げると思っているのだから、人間は愚かだわ」
そう言いながらもアリステアは幽閉先から一歩も出ようとはしない。
自分が約束を違えれば、里に残った民に災禍が及ぶことを恐れているからだった。
「でも、こんな茶番もようやく終わるのね」
鉄格子のはまった窓から、僅かに見える景色には煙が立ち上る王城が見えていた。
そんな状況にあって、アリステアはなぜか、微笑んでいた。
「アレクがやったのだわ。私が育てた勇者。勇者は世界を救うのでしょ? 早く、私を殺しにきて……」
アリステアは目から溢れ出て止まらない涙と嗚咽に最後まで言葉を言い終えることなく、枕に顔を埋めて、声を上げずに泣き続ける。
その時、固く閉ざされていた扉がガタンと騒々しい音ともに蹴破られ、驚いたアリステアの瞳と蹴破って入ってきた男の瞳が絡み合った。
「アレク……」
いつの間にか、好きになっていて、愛してしまった一番、会いたい人。
そこにいるのに私は心とは真逆のことを言わなくてはいけない。
そう決意したアリステアは眦を上げ、憎々しげに言った。
「よくぞ、ここまで来た勇者よ。さあ、見事、私を討ち果たして、世界を救うがいい」
自分でも馬鹿だと思う。涙の痕が残っていて、こんなみすぼらしい恰好をした私が何を言っているのだろう、と。
でも、アレクは勇者なのだ。
世界を救って、今度こそ、誰もが笑い合える世界を作らなくてはいけないのだ。
私がいたら、それは成し遂げられないだろう。
彼は優しい子だ。
無抵抗な者に剣を振るえないだろう。
ならば、私が魔法で彼に襲い掛かる振りをすれば、いいのだ。
彼は仕方なく、私を殺してくれるはずだ。
私を殺したという罪悪感が彼の心にいくらかは残ってしまうかもしれない。
そんな形でしか、彼に爪痕を残せないのは卑怯だけど許して欲しい……。
「死ぬがいい、勇者」
私は栄養が行き届いてないせいか、こんなにも自分の腕が細かったかなと思うくらい細くなってしまった手首に呆れつつも掌に極大の炎魔法を発動させようと魔力を集中させる。
「え……」
「アリス、遅くなって、ごめん。迎えに来たよ」
集中なんて、出来なかった。
私は彼の腕で強く、抱き締められていて、折れるくらい強くて、痛くて。
でも、その痛みのお陰でより彼の存在を感じられた。
「アレク、私……私ね」
「大丈夫だから、何も心配しないで。皆も無事だし、本当に大丈夫なんだ。だから、僕を信じて欲しい」
「アレク……信じていいの? 私はいてもいいの?」
「いいんだ。僕は君がいてくれないと幸せになれないんだよ。なのに僕を置いて行っちゃう気だったのかい?」
その日、私とアレクは初めて、口づけを交わした。
私はその日を生涯、忘れないだろう。
その日、世界は喜びに打ち震えた。
偉大な勇者が邪悪な魔王に勝利し、世界が救われたのである。
人々は勇者に王となって、世界を導いて欲しいと懇願したが彼は決して、頷かなかった。
彼は民衆によって、選ばれた代表が運営する合議制の議会により、世界が導かれるべきと主張し、実際にそうなったのである。
少しでも偏見や差別が減るようにと法律が制定されたが、世界は未だ混沌としており、根付いた慣習は簡単に消え去るものではない。
しかし、ゆっくりとだが世界は変わり始めていた。
それはかつて、魔王と呼ばれた男が目指していた世界。
その娘が目指そうとした世界。
だが、成し遂げたのは魔王の娘に育てられた勇者だった。
誰からも慕われ、愛された勇者アレックスは突然、この世を去ってしまう。
世界は悲しみに包まれ、若くして天に召された勇者の魂の平穏を祈るのだった。
金色の髪を靡かせ、駆けずり回る小さな男の子を同じような金色の髪が陽光に煌めく、小さなお姫様が追いかけている。
「まちなさーい、イーノック」
「やーだーよ、ここまでおーいでー」
「きぃぃぃ」
キャッキャッと庭を駆ける幼子を見つめる黄金色の瞳は慈愛に満ちていて、剣呑としていたかつての表情は鳴りを潜めている。
魔王と呼ばれていた少女は愛する人と結ばれ、女になって、母親になって、変わった。
「アリス、そろそろ冷えてくるから、中に入った方がいいよ」
「ごめんなさい、アレク。あの子達があまりに楽しそうだから、もうちょっとだけ、いいでしょ?」
「分かったよ、僕が君に逆らえないって、知っていて言ってるね?」
「うふふ。また、そんな冗談言っちゃって。勇者様」
「魔王様が何、言ってるんだか」
「愛しているよ、アリス」
「な、何よ、急に……私も愛しているわ、アレク」
誰しも笑い合える世界は確かに実現されていた。
かつて、凶暴な魔物が徘徊し、入ってはいけないとされた森があった。
今でもそこは入ってはいけない聖なる地である。
ただし、その理由は変化していた。
世にもきれいな王子様とお姫様が愛し合う邪魔をしないように、と……。
Fin
薄暗い森の中で、魔王はおののいた。金髪の子供が籠に入れられて、捨てられている。
そのステータスには、『勇者』と、明記されていた。』
「ふぅーん、勇者ねぇ。このちっぽけな生き物が勇者だっていうの?」
金色の髪が陽光でキラキラと煌めく赤子を胡乱げに見つめるのは、風になびいた長い髪がまるで金糸のように艶やかな少女。
その瞳は黄金色に輝き、意志の強さが垣間見えるほどに苛烈な印象を人に与える。
しかし、表情はとても柔らかく、どこかアンバランスなのだ。
「この勇者とやらが私の天敵ですって? こんなちんまい生き物に私が倒されるなんて、未来永劫ありえないのだわ」
自信満々な魔王だが、その見た目はまだ、十歳そこそこしか見えない幼女である。
そんな幼女にしか見えない魔王であるゆえ、言葉遣いの割に威厳の欠片もあったものではない。
「アリステア姫。森は危険ですと申し上げたでしょう」
執事の服を着ているが服から、出ている肌は闇のように黒く、頭までも真っ黒で目に当たる部分は爛々と赤く、光っているだけで鼻も口もなかった。
「げっ、シャッテン!? 追っかけてくるのが早くなくて? 私は魔王なの。こんな森なんて、怖くもなんともな……ひっ」
魔王アリステアは強がって、腰に手をやり胸を反らしてみたものの得体の知れない鳥の鳴き声が聞こえてくると反射的に怯えてしまい、普通の少女のような反応を見せてしまう。
「姫様、さあ帰りましょう。何か、あってからでは遅いのですよ」
「わ、分かっているのだわ。帰れば、いいのでしょう。帰れば。仕方ないから、帰ってあげます。それでね、一つだけお願いがあるのだけど」
「おやつを増やすのは駄目です」
「むかっ。おやつを増やしたいなんて、言ってないのだわ。この赤ちゃんを連れて帰りたいの。いいでしょ?」
シャッテンの瞳が赤子を捉え、その何も存在しない顔に驚きの表情が浮かんだように見えた。
「勇者ではないですか、こやつ! 今、ここで亡き者にすれば、よろしいのでは?」
「おっーほほほ。だから、お前は駄目なのだわ。毒を以て毒を制すなのよ。分かる? この勇者を私が育てるの。愛情をかけて、大きく育てて、私の言うがままに動く、最強の兵士にしたてあげるの」
「さすがお嬢様! その深謀遠慮。このシャドー感服致しました」
影の魔物シャッテンは手慣れた手つきで籠を手に取ると余った手でアリステアの手を握り、転移の魔法を唱えるのだった。
かつてその圧倒的な力で世界を席巻した男がいた。
暴虐の魔王と呼ばれたヴリトラである。
しかし、世界の三分の二を手中に収め、恐怖に彩られた世界を構築する悪逆なる王は勇者と呼ばれる存在によって、倒された。
世界は救われたのである。
暴君ではあるが偉大な指導者を失った魔王軍は瓦解し、魔王の一人娘はどこへともなく、姿を消したと言う。
「お前の名前はアレックスよ。アレクでいいわね。さあ、アレク。私がママだからね」
「まあ……あ」
「ママよ、ママ」
籠の中でキャッキャッと笑い声をあげ、喜んでいるアレックスと名付けられた赤子の勇者をあやして、満足そうに微笑む少女。
彼女こそ、暴虐の魔王の娘と言われても気付く者はまず、いないだろう。
人目を引く印象的な黄金色の瞳以外、少女は特に人間と変わりがない存在のように見えた。
「かわいい……って、違ーう! 私はこいつを利用するんでしょ。心を鬼もとい悪魔にしなくちゃ」
アリステアがアレックスを拾ってから、既に五年の歳月が流れた。
小っちゃな赤ん坊だったアレックスも今は自由に歩いて、考えられる賢い男の子に育っていた。
「ホレス、だいじょうぶ?」
日課となっている剣の師シャッテンから、与えられたトレーニングを終えて館に帰ろうとしたアレックスは畑のへりに蹲っている緑色の生き物に声を掛ける。
「おや、坊ちゃま。でえじょうぶですよ。あっしはなんせ、この身体でごぜえやすから」
ホレスと呼ばれた緑色の生き物――ゴブリンが伏せていた顔を上げるとその右目は抉られたのか、醜く潰れている。
右足も膝から下がなく、蹲っていた理由は疲労によるものは明らかだった。
「そのまま、休んでおいてよ。しゅぎょうになるから、畑はぼくがやるね」
そう言うとアレックスはホレスの鍬を手に取ろうとする。
「坊ちゃま、すまねえ。あっしがこんなだから」
「困ってる人は助けなさいって、かあさまがいつも言ってる。ぼくもそうしたいからなんだよ。だから、泣かないで」
鍬を担いで畑で農作業を始めたアレックスを見つめるホレスの目からは流れ落ちる滴は止まることがなかった。
その様子を館の二階にある執務室の窓から、眺めていたアリステアは傍らに控える忠実な執事に問い掛ける。
「ねえ、シャッテン。私は選択を誤ったのかしら? でも……私には出来なかった。勇者というだけでその命を奪うなんて」
「姫様の進まれている道は茨の道でございます。先帝陛下もそうでございました。我らが悔しく思うのは先帝陛下の悪名のみが残ってしまったことでございます」
「お父様と同じか。いつまで、こうしていられるのかな。アレクは私のことを嫌いになるのかな……そんなの耐えられない」
「姫様」
言葉遣いこそ、五年の間に成長していたものの容姿は未だ、十歳くらいの少女にしか見えないアリステアだったが、アレックスを見つめる瞳は切なげに揺れ、見た目以上に大人びて、見えていた。
「アレクは皆に好かれるようになったわ。魔物からも人からも。勇者だものね」
「しかし、それは姫様の教えがあったからでございます。この地に集う者達も姫様をお慕いする者達で」
「でも、私は魔王なのよ。世界から憎まれて、忌み嫌われて、いずれ消される存在だわ」
「やはり、彼を人の世界にお戻しになるおつもりですか?」
「彼は人だもの。勇者だもの。その方がアレクにとっても幸せなことなのよ?」
「それで姫様は幸せになれるのですか?」
「私はね。幸せになってはいけないのよ。覚えておいて」
アレックスから目を離し、空を見上げるアリステアの瞳を彩るのは哀しみの色だった。
さらに十年の年月が流れ、アレックスと名付けられた勇者は神に与えられた祝福されし、黄金色の髪にサファイアのような瞳を有し、擦れ違った女性が誰しも見惚れてしまうほどの容貌に優れた少年に成長していた。
その見た目なのに誰からも慕われる優しい性格に育ち、困っている人を見たら、自分の身も顧みずに助けに行くその姿は既に勇者そのものだ。
剣の腕も一流の使い手であるシャッテンに鍛えられたお陰もあって、その腕前はみるみる上達し、今ではシャッテンが手も足も出ない有様である。
魔法があまり、上達しなかったのは教えていたのが、母親代わりであるアリステアだったせいだろう。
魔王であり、世界屈指の魔術師でもあるアリステアだが、教える才能が欠如していた訳ではない。
感覚的な教え方をするアリステアのやり方がアレックスに合っていなかっただけなのだ。
アリステアは自分の背丈を追い越し、見上げなければならなくなったアレックスに向ける感情が自分でも分からなくなっていた。
母親として愛おしく思っている。
そう思っていたのに今では彼の顔を見ただけで胸の激しい鼓動に息まで苦しくなってくる。
自分がおかしくなったのかと勘違いしていたアリステアはそれが恋なのだと気付いてしまった。
そんな彼女は恋する男にまともに教えられるほど、恋愛適性が高くなかったのだ。
その結果が感覚的な教え方だったのは何とも皮肉なことである。
「別れる時が来てしまったのね」
そう決めたのは自分なのにどうして、こんなに胸が苦しいのか。
愛してしまったんだ彼を……。
魔王の私が勇者を……なんて愚かなのかしら?
だから、決めた。
アレックスを人の世界に戻すと。
「何でですか? 僕はここにいてはいけないんですか? アリスは……僕のことを嫌いになった?」
彼が私のことを母上と呼ばなくなったのはいつからだった? とアリステアは考えてみた。
思春期を迎える前からではなかったかと思い出した。
その頃から、アレクはアリスと名前で私を呼んでくるようになり、最初は母親と思われなくなったことを悲しんでいたことも思い出した。
異性として好きになってくれたのだと気付いてしまったから。
「そういうことではないの。あなたは勇者だから。もう、ここにいてはいけないわ。自分が戻るべき場所に戻るのよ」
「そんな! 嫌だ、アリス!」
「さようなら、アレク……愛してる」
転移の魔法でアレックスを王城へと強制的に送還し終えたアリステアの頬を伝う涙が乾くことはなかった。
アレックスがいなくなった隠れ里はまるで光を失ったかのように静かだ。
アレックスやアリステアを囲んで賑やかだったかつての喧騒がまるで幻だったとでも言うように……。
「私があなたたちの下に行けば、ここには手を出さないと約束してくれますか?」
「ああ、もちろんだとも。このような場所に用がないからね」
豪奢な金糸の装飾が施された服を着込み、後ろに甲冑姿の騎士を幾人も従えた男は貴族なのだろうか。
固唾を飲んで見守る異形の者達にはまるでゴミでも見るような蔑んだ視線を送る一方、アリステアには慇懃無礼な態度で接し、上辺は敬っているような素振りを見せている。
「分かりました。シャッテン、後をお願い。あなたにしか、頼めないことだわ」
「姫様……このシャッテン、必ずや君命に報いましょう」
魔物、人と種族を問わず、打ち棄てられた者達が集い、いつしか形成されていた隠れ里。
助け合い、お互いに慈しみ合うことが当たり前になっているこの里は異端だった。
凶暴な魔物が闊歩する森に守られ、外界と遮断されていたからだ。
外界では助け合うことも慈しみ合うことも許されるのは、選ばれた者だけである。
弱い者は死んで当然とされる世界。
それに異を唱え、世界を変えようとした男がいた。
悪逆の魔王と呼ばれたヴリトラ。
アリステアの父である。
だが彼は失敗した。
人の心は善い物であると信じて疑わなかったからだ。
その結果、お飾りの魔王に担ぎ上げられ、気付いた時には既に遅かった。
世界はもっと酷い有様になっていた。
絶望したヴリトラは怒りと憎しみにその身を苛まれ、その姿を巨大な竜へと変え、自分を含めた魔王軍を滅ぼしたのだ。
なんのことはない。
最初から、勇者など存在していなかったのである。
全ての悪行を行ったのはヴリトラとされ、世界は何も変わらなかった。
しかし、歴史は繰り返す。
魔王ヴリトラが消え、彼が目指した世界は遠い幻となる一方、野望に取りつかれる邪な人間が消えることはない。
魔王の一人娘であるアリステアが父と同じ力と考えを持っていることに気付き、旗頭として担ぎ上げようと企んだのだ。
だが、父親と同じく力がありながらも愚かな理想主義者である娘が簡単に頷かないことが予想された。
森ごと里を焼き、民を虐殺すると脅すと驚くほど簡単に娘は従順になった。
かくして、新たな魔王により、世界は再び、紅蓮の炎に包まれることとなる。
それから、さらに三年の月日が流れた。
魔王軍が世界各地を蹂躙し、世界が暴力と悪意に満ち、誰しも絶望に打ちひしがれていた。
そんな時、弱き人々の希望となる存在・勇者が現れる。
勇者アレックスによって、解放された人々は希望を胸に自由な世界を求めて、戦い始めた。
「不思議なものね。私はここにいて、ここから出ることも出来ない。何もしていないのに世界中から、憎まれて、嫌われて……」
魔王アリステアが座す場所は玉座ではない。
王城にある高い尖塔の最上階にある閉ざされた一室が彼女に与えられた唯一のもの。
「こんな封印くらいで私の魔法が妨げると思っているのだから、人間は愚かだわ」
そう言いながらもアリステアは幽閉先から一歩も出ようとはしない。
自分が約束を違えれば、里に残った民に災禍が及ぶことを恐れているからだった。
「でも、こんな茶番もようやく終わるのね」
鉄格子のはまった窓から、僅かに見える景色には煙が立ち上る王城が見えていた。
そんな状況にあって、アリステアはなぜか、微笑んでいた。
「アレクがやったのだわ。私が育てた勇者。勇者は世界を救うのでしょ? 早く、私を殺しにきて……」
アリステアは目から溢れ出て止まらない涙と嗚咽に最後まで言葉を言い終えることなく、枕に顔を埋めて、声を上げずに泣き続ける。
その時、固く閉ざされていた扉がガタンと騒々しい音ともに蹴破られ、驚いたアリステアの瞳と蹴破って入ってきた男の瞳が絡み合った。
「アレク……」
いつの間にか、好きになっていて、愛してしまった一番、会いたい人。
そこにいるのに私は心とは真逆のことを言わなくてはいけない。
そう決意したアリステアは眦を上げ、憎々しげに言った。
「よくぞ、ここまで来た勇者よ。さあ、見事、私を討ち果たして、世界を救うがいい」
自分でも馬鹿だと思う。涙の痕が残っていて、こんなみすぼらしい恰好をした私が何を言っているのだろう、と。
でも、アレクは勇者なのだ。
世界を救って、今度こそ、誰もが笑い合える世界を作らなくてはいけないのだ。
私がいたら、それは成し遂げられないだろう。
彼は優しい子だ。
無抵抗な者に剣を振るえないだろう。
ならば、私が魔法で彼に襲い掛かる振りをすれば、いいのだ。
彼は仕方なく、私を殺してくれるはずだ。
私を殺したという罪悪感が彼の心にいくらかは残ってしまうかもしれない。
そんな形でしか、彼に爪痕を残せないのは卑怯だけど許して欲しい……。
「死ぬがいい、勇者」
私は栄養が行き届いてないせいか、こんなにも自分の腕が細かったかなと思うくらい細くなってしまった手首に呆れつつも掌に極大の炎魔法を発動させようと魔力を集中させる。
「え……」
「アリス、遅くなって、ごめん。迎えに来たよ」
集中なんて、出来なかった。
私は彼の腕で強く、抱き締められていて、折れるくらい強くて、痛くて。
でも、その痛みのお陰でより彼の存在を感じられた。
「アレク、私……私ね」
「大丈夫だから、何も心配しないで。皆も無事だし、本当に大丈夫なんだ。だから、僕を信じて欲しい」
「アレク……信じていいの? 私はいてもいいの?」
「いいんだ。僕は君がいてくれないと幸せになれないんだよ。なのに僕を置いて行っちゃう気だったのかい?」
その日、私とアレクは初めて、口づけを交わした。
私はその日を生涯、忘れないだろう。
その日、世界は喜びに打ち震えた。
偉大な勇者が邪悪な魔王に勝利し、世界が救われたのである。
人々は勇者に王となって、世界を導いて欲しいと懇願したが彼は決して、頷かなかった。
彼は民衆によって、選ばれた代表が運営する合議制の議会により、世界が導かれるべきと主張し、実際にそうなったのである。
少しでも偏見や差別が減るようにと法律が制定されたが、世界は未だ混沌としており、根付いた慣習は簡単に消え去るものではない。
しかし、ゆっくりとだが世界は変わり始めていた。
それはかつて、魔王と呼ばれた男が目指していた世界。
その娘が目指そうとした世界。
だが、成し遂げたのは魔王の娘に育てられた勇者だった。
誰からも慕われ、愛された勇者アレックスは突然、この世を去ってしまう。
世界は悲しみに包まれ、若くして天に召された勇者の魂の平穏を祈るのだった。
金色の髪を靡かせ、駆けずり回る小さな男の子を同じような金色の髪が陽光に煌めく、小さなお姫様が追いかけている。
「まちなさーい、イーノック」
「やーだーよ、ここまでおーいでー」
「きぃぃぃ」
キャッキャッと庭を駆ける幼子を見つめる黄金色の瞳は慈愛に満ちていて、剣呑としていたかつての表情は鳴りを潜めている。
魔王と呼ばれていた少女は愛する人と結ばれ、女になって、母親になって、変わった。
「アリス、そろそろ冷えてくるから、中に入った方がいいよ」
「ごめんなさい、アレク。あの子達があまりに楽しそうだから、もうちょっとだけ、いいでしょ?」
「分かったよ、僕が君に逆らえないって、知っていて言ってるね?」
「うふふ。また、そんな冗談言っちゃって。勇者様」
「魔王様が何、言ってるんだか」
「愛しているよ、アリス」
「な、何よ、急に……私も愛しているわ、アレク」
誰しも笑い合える世界は確かに実現されていた。
かつて、凶暴な魔物が徘徊し、入ってはいけないとされた森があった。
今でもそこは入ってはいけない聖なる地である。
ただし、その理由は変化していた。
世にもきれいな王子様とお姫様が愛し合う邪魔をしないように、と……。
Fin
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本日は本日投稿してくださったあちらのお話にお邪魔をした後、こちらを拝読しました。
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本当に。素敵な物語でした。
おいていただきまして、ありがとうございます/(=╹x╹=)\
魔王が悪の存在という訳ではなく、実は人の心にこそ、真の悪が潜んでいる。
などとやや哲学的な難しいことを考えていた振りをして、ゆっくりと育まれた勇者と魔王による純愛を描きたかっただけなのですが、短編読み切りで一話にまとめるのは難しいんですね。
励みになるお言葉、ありがとうございました!
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勇者 と 魔王のカップル 面白かったです
いつもありがとうございます/(=╹x╹=)\
面白かったと言っていただけて、励みになります。