異世界は図書館と共に

森のくまさん

文字の大きさ
1 / 1

異世界は図書館と共に

しおりを挟む
異世界は図書館とともに ― 戦国編 川中島

序章 図書館の静寂(連載版)

 その夜も、私はいつもの図書館にいた。
 電源のある席にノートパソコンを置き、左右に積んだ参考書と史料のコピーを一枚ずつめくっては、必要な箇所に付箋を貼る。カーソルは淡々と注を増やし、本文は相変わらず遅い。歴史というものは、調べれば調べるほど語りが増えて、肝心の現場は遠のいていく。けれど、その遠さが好きだった。手は届かない。だからこそ、想像ではなく痕跡で埋めていく作業に救われてきた。――そのはずだった。

 ふと、違和感に気づく。
 静かだ。静かすぎる。空調の風切り音こそあるが、さっきまで聞こえていたページを繰る気配、ペン先の擦過音、咳払い、靴音――すべてが、刃物で断たれたように消えていた。

 顔を上げる。
 閲覧席はどこも空いている。お向かいでレポートを書いていた若者の姿がない。通路をのしのし歩いていた大きなバッグの影も、貸出カウンターの中で端末を叩いていた職員も、きれいに消えていた。照明は白々と明るい。なのに、音がない。音という音が、まるで取り除かれている。

 背中に汗がすっと降りた。閉館放送を聞き逃したのか。耳からイヤホンを抜く。――やはり無音だ。
 席を立ち、ガラス張りの外を覗く。そこで、第二の違和感に突き当たった。

 暗い。
 街灯がない。マンションの窓の灯りもない。駐車場も見えない。そこには、黒々とした起伏――山の稜線が横たわり、谷の底に、小さな光が不規則に点々と並んで揺らめいていた。焚き火、としか言いようのない光。だが、音はしない。匂いもしない。窓をほんの少し押し開けても、入れ替わるのは空調の温い空気だけで、煙の刺す感じも、湿った風も、まるでない。

 世界が、ガラスのこちらと向こうに、はっきり分かれている。こちらは無音の水槽で、向こうは別の水だ。
 私は窓に近づき、目を凝らした。焚き火の周りには動く影が群れている。長い棒の先で布の束のようなものがはためいた。旗――らしい。だが夜目には、模様も色も知れない。

 机へ戻ろうとして、カバンに触れた指が硬いケースを見つけた。
 双眼鏡だ。普段は車に三つほど放り込んでいるうちの一つ。今日は資料漁りのついでに、なんとなく持ち出していた。
 ケースを開ける。ずしりと掌に乗る金属の感触。二〇倍ズーム、手ぶれ補正付き。趣味で山道や湖畔に持ち出しては鳥や稜線を眺める、私の贅沢だ。

 ためらいながらレンズを窓の外へ向ける。
 世界が、唐突に近づいた。
 焚き火の炎に顔を寄せる男の皺。干飯を指でほぐして水で流し込む仕草。塩の小袋をつまみ、舌にちょこんとのせて目を閉じる若者。火から一歩外れた場所にしゃがみ込み、互いの肩を押し合って寒さを紛らす小柄な二人。甲冑の継ぎ目で朝露のようなものが光り、濡れた草に跪く膝の泥が乾かずに黒く沈んでいる。

 双眼鏡を下ろし、窓ガラスに映る自分の顔を見た瞬間、息が詰まった。
 若い。
 白髪がない。深かった皺が薄い。目の際の皮膚が張り、頬は引き締まっている。四十でも三十でもない。二十代――あの頃の、体。
 背筋を伸ばせば、肩が軽い。拳を握れば、握力が指の根元にぎゅっと集まる。視界の端に映る前腕が、老いの痩せ方をしていない。なのに、頭の中は、いつもの私だ。七十余年分の記憶、癖、偏屈な歴史観、朝のストレッチの順序まで、手垢のついたまま残っている。器だけが若い。

 足元の床が、すこし遠くなった気がした。
 ふいに、視線の端で何かが引っかかる。自動ドア脇の壁。一見して何もない、はずの場所に、わずかな段差の影。近寄ると、それは“扉”だった。壁と同じ色、同じ質感の板が、線一本で切り離されたように周囲から独立している。取っ手はない。説明もない。だが、扉だ。
 なぜ私には見えるのか。説明はできない。ただ、見える。開けようと手を伸ばしかけて、引っ込めた。いまは触らない。ガラスの向こうが、先だ。

 私は席に戻り、ノートを開く。
 「図書館:外から視認不可(推定)。音・匂い遮断。私のみ扉視認可。若返り(体)確認、知覚は維持。双眼鏡有効。」
 箇条書きの下に線を引き、もう一行を足す。
 「外の焚火:点在。人影多数。旗らしきものあり(夜間識別不可)。」

 時間が、紙を一枚ずつめくるように過ぎた。
 ガラスは冷たく、館内の空気は乾いている。私は窓辺のベンチに腰を下ろし、双眼鏡を膝に置いた。外の炎は、やがて色を失い、影は黒さを増した。眠気がまぶたを重くする。だが、私は目を閉じなかった。閉じている間に、決定的なものが過ぎ去ってしまう気がしたからだ。

 やがて、東の端が、ごくわずかに白んだ。
 黒い稜線が鉛筆の線のようにくっきりし、谷の底に敷かれた人の面が、点から線へ、線から面へ、ゆっくりと立ち上がる。息を飲む。双眼鏡を目に当てる。
 先ほどは黒い束にしか見えなかった布の面に、光が乗る。墨色の地に、白い四文字が浮かび上がった。
 ――風林火山。
 川向こうには、白地にただ一字。
 ――毘。

 紙で見慣れた記号が、朝の光に濡れた布へ戻っていく。柱は木で、握る手は肉で、掲げる腕は震え、布の端のほつれ糸が風に踊る。
 私は、そこでようやく理解した。ここは川中島だ。史書が「死闘」と記した、まさにその場。図書館の窓は、別の“外”へ開いている。

 怖くないといえば嘘になる。いや、怖い。
 けれど、ここは安全だ。音は届かず、匂いも来ない。窓のこちらは、密閉された観察室だ。鏡に映る器は若く、座れば疲れがほどけていく。
 私は深く息を吐き、ペンを握り直した。

 双眼鏡の視界を動かす。
 焚き火の周りで、兵が干飯を水で押し流し、塩を舐め、布を肩に掛けて震えている。槍の石突で地をトントンと突き、痺れた脚に血を戻す仕草。粗末な草鞋の鼻緒が切れ、紐をくわえて歯で引き締め直す若者。
 遠くの旗の下で、腕が二度、ゆっくりと左右に振られる。合図。音はないのに、動きは雄弁だ。列のいくつかが、重い泥を押すように少しだけ形を変える。

 私はノートの新しい頁に、見えた順に書き留めていく。
 「焚火小、熱届かず。干飯→水、噛まず。塩舐め。雑穀粥? 鍋の縁黒ずみ。草鞋補修。槍の石突で脚刺激。」
 活字の史料では拾えない、しかし確かにそこにある断片が、紙の上で黒い点になって増えていく。

 ガラスに額を寄せる。館内の温さと、向こうの冷たさが、一枚の薄い透明な境界でぴったり貼り合わさっている。私の呼気がガラスに薄く曇り、その向こうで旗の布の端が朝日にきらりと光った。
 私は、ここに居る。見ている。書き留める。
 現場を、ようやく、現場として。

 ページの余白に、もうひとつだけ線を引いた。
 「高みの見物に徹すること。扉には触れないこと。」
 若い体は無謀を欲しがる。老人の頭で、手綱を締めておく必要があった。

 東の白みは、しだいに金に変わり、谷の面的な影が立体へと起き上がっていく。列の端が動き、槍の穂先が同じ方角へ揃えられ、旗の面が一斉に風を掴む。
 私は双眼鏡のストラップを手首に巻き、落とさないように締めた。
 音も匂いも届かないこの水槽から、私は“はじまり”を見届ける。

 ノートの見出しに、太い字で記した。
 「川中島――観察記録」
 ゆっくりと線を引き、ペン先を止める。呼吸をひとつ整える。
 そして、ページをめくった。

 ――次章へ。

次回予告

窓の向こうにいるのは、絵巻物の軍神ではない。
干飯を水で押し流し、塩で空腹を誤魔化し、火の縁で肩を寄せる無数の人間だった。
旗が揺れ、列がうねる。音のない戦場で、私は“腹ペコの朝”を見届ける。
→ 第一章 高みの見物

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)

MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。 かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。 44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。 小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。 一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。 ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件

こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

処理中です...