君と旅をするために

ナナシマイ

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6章 欲張りな選択

北部領の洗礼

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「君達、歩きで行くのか?」
「ええ、そうですけど……」

 北部領へ繋がる道へ続く門で、わたし達はそう尋ねられました。見ての通りなので肯定すると、その衛兵さんは小さく息を吐きました。

「無謀だな。北部領の洗礼を知らないのか?」
「洗礼?」
「もしかして、狼のことでしょうか」

 フレッド君は首を傾げましたが、わたしには思い浮かぶことがありました。……洗礼、というのは聞いたことがありませんけれど。

「知ってるじゃないか」
「えっと確か、北部領の草原に生息する、普通の狼ですよね。魔物化でもしているのですか?」
「数がとんでもないんだよ! あんなの魔物化されてたまるかっての」

 彼はそう声を荒げますが、フレッド君は「はぁ」と曖昧に頷きます。同じように、わたしも首を傾げました。

 確かに狼は危険ですが、それは彼らを刺激してしまった時の話です。縄張りに入ったり、変にちょっかいをかけたりしなければ、人を襲うことは滅多にありません。
 けれども魔物は違います。魔物は、最初から人を――恐らく、魔力を――狙って襲い掛かってくるのです。魔法の耐性もそれなりにありますし、相手にした時の手強さは段違いです。

「とにかく、止めた方が良い。大人だって、この門から街を出る奴で、歩きなんてのは見たことがない。魔獣乗りか馬車だ」
「フレッド君」

 どうしますか、と問うと、フレッド君は本当に困ったように眉を下げました。それもそのはずです。馬車での旅も、魔獣での旅も、わたし達には向いていないのです。

 隊商や、のんびりと楽しみたい旅人は馬車を、身軽な旅人や騎士団、魔兵団は魔獣を使うのが普通です。というより、基本的に街を出て移動する時はそのどちらかを使います。わたし達がそうしていないのは、馬車はわたしが、魔獣はフレッド君が扱えないからです。どちらか一人しか扱えない移動手段など、それこそ危険過ぎます。

「馬車か……」

 フレッド君が悩んでいるのがわかります。彼が馬車を操縦して、わたしが周りを警戒して。そして戦闘になってしまった時のことを考えているはずです。その相手は狼だけではありません。

「引き返す、という手は――」

「ないな」
「ありません」

 それでも、衛兵さんの言葉に、二人の声が重なりました。



 結局わたし達は、いつも通り歩きで旅を続けることにしました。冬を目前にした北部領の風はとても冷たいですが、馬車を使うことにした場合のあれこれを考えた結果です。元よりそのつもりだったので、備えは万全ですし、そこまで辛い道程でもありません。

 空はぐんと高く、乾いた空気は露出した顔の肌をひりっとなぞります。虫や鳥の鳴き声は聞こえず、枯葉の擦れる音だけが絶え間なく響いていました。
 鐘の音は聞こえませんが、五の鐘と少し経った頃でしょうか。陽が傾き始めると、辺りは一層寒くなります。そして。

 ウォオーン……。

 ずっと先から、遠吠えが聞こえてきました。最初は特に反応もしていませんでしたが、それはあまりにも長く続き、更に数が増えてきたようです。思わず、フレッド君と顔を見合わせました。

「これが、洗礼ってやつか?」

 フレッド君は溜め息をついて、剣を抜きました。わたしは左手を胸に当てて深呼吸してから、杖を出し、いくつか魔法陣を描いていきます。

 やがて、遠くに大きな黒い塊が見えてきました。どんどん大きく見える様子から、かなりの速度で近づいて来ていることがわかります。その合間にも聞こえてくる吠え声から、狼の群れであると確信しました。予想を遥かに超えたその数に違和感と驚きを覚え、一瞬目を瞠ります。

「フレッド君」
「これはまた、豪勢な出迎えだな」

 頼もしいことに、フレッド君はふっと笑ってリュックを下に降ろしました。わたしもそれに倣い、降ろしたリュックの横に座ります。そしてその瞬間に、広めの物理結界を張りました。

 ドン、ドンッ、と音を立てながら、狼が突進してきます。その形相は凄まじく、安全な結界内にいても恐ろしく感じました。……いえ。この数だと、結界もいつまでもつかわかりませんし、どちらにしても、狼達を何とかしない限りは先へ進めません。

 そこで発動させたのは眠りを誘う魔法です。これはすぐに効果を発揮し、結界を中心にバタバタと狼が倒れていきます。
 それでも、魔法には限界がありました。範囲はできるだけ広げたのですけれど、意味を為さないほどの狼の群れ。眠る仲間の上を通って、どんどん押し寄せてきます。

「リル」

 短くわたしを呼ぶ声に、結界を解きます。途端、フレッド君が軽い足音だけを残して、飛び出しました。あっという間に正面の狼と対峙し、その身を切り裂いていきます。
 その隙間を縫ってこちらに向かってくる狼には、様々な魔法を浴びせます。彼らが対処方法を思いつかないように、慎重に、そして、速く……!

 ……それにしても、どうしてここまで狂暴化した狼がいるのでしょうか? わたし達が歩いていたのは、古く、大きな道です。自然の生き物と人間の棲み分けは、とうにできているはずなのです。

 魔物化していない生き物には、簡単に魔法が効きます。それでも止まることのない狼の突進を止めながら、思考を続けます。



 一体、どのくらいそうしていたでしょうか。わたし達の周りには、数百もの狼が倒れていました。フレッド君と対峙していた狼は喉元を切られ、息絶えています。仕方がないこととわかっていても、心が痛みました。できるだけ苦しまないように、一瞬で息の根を止めたであろうその傷跡だって、フレッド君の配慮だとわかっているのに……!

「リル、行くぞ」

 振り向くと、彼は肩でしている息を整えながら、気遣わしげにこちらを見ていました。それに微笑みを返し、持ち上げてくれたリュックを背負い直そうと、彼に近づきます。

「わたしの方は魔法で起きられないようにしているだけです。早くしなくてはいけませんね」

 しかし。

「嘘だろ……?」

 ウォオーン、オォーン。

 再び聞こえてきた遠吠えに、わたし達は固まりました。遠く、先程と同じように近づいてくる黒い塊に、そして先程は聞こえなかった地鳴りの様な音に、ぽかんと口を開けます。
 信じられないような規模の群れですが、これは現実です。さすがに、あの数で迫って来られたら、ひとたまりもありませんね……。

 小さく息を吐いて、覚悟を決めました。……わたし、もう少し生きても、良いですよね?

「仕方がありません。仕方がありませんから――」

 炎の魔法で一帯を焼きますか? すべて、水で流してしまいましょうか? それとも……。

 少しの逡巡の後、リュックの中から二本の小瓶を取り出しました。一本はいつも通りの回復薬で、くいっと飲み干して魔力を回復させます。
 そして首を傾げるフレッド君から離れ、彼の周りに結界を張りました。

「リル……?」
「一気に終わらせますから、フレッド君は動かずに、そこにいてくださいね」

 発動させた風の魔法に乗り、空へ飛び上がります。すぐにバランスを崩して横に倒れますが、何層にも重ねた風で自分の身体を支えました。

 手に持っていたもう一本の小瓶、その蓋を開けます。ふわっと香る甘い匂いは、ニースケルトを立つ日、ファルさんにこれを渡された時を思い出させました。

 ……ファルさん。あなたが何を考えてこれをくれたのかはわかりませんが、活用させて貰いますね。
 中身の液体に魔力を混ぜて、少しずつ取り出します。それを使って大きくて複雑な魔法陣を描くと、甘い香りが広がりました。

「……ごめんなさい」

 そう呟いて、魔法を発動させると、淡い光が草原中に広がり、そこでこちらに敵意を向けている生き物――すべての狼に、かかりました。

「あなた達は何も悪くないのです。ですが、わたしはまだ死にたくありませんし、フレッド君の命を奪われるわけにはいかないのです。……ですから、ですから……!」

 目を閉じたわたしには、先程まで向けられていた敵意が全く違う熱を帯びていることがよくわかりました。それが何となく苦しくて、左手で胸を押さえます。

「その魂を、命を、わたしに捧げてくださいますか?」

 瞬間、この場に溢れていた生き物の気配がふっと消え、続いてバタバタと狼の倒れる音が聞こえてきました。それを聞いて、喉の奥に詰まっていた息を、無理矢理に吐き出します。

 ――女王の口紅。
 そう呼ばれるこの薬は、飲んだ者が飲ませた者に忠誠を向けるようにするものです。所謂媚薬の一種で、実際の効果は「惚れ薬」より少し強いくらいのものですが、それを闇魔法と組み合わせることで増強させたのです。……わたしの言うことを、何でも聞くくらいに。

 魔法が成功したことに安堵し、ふっと力が抜けます。そのまま落下しそうになって慌てて風魔法を使いますが、あまり間に合わず、ドサっと地面に落ちました。

「リル!」
「だ、大丈夫です。……いったた」

 結界を解除すると、すぐにフレッド君が駆け寄って来て、身体を起こしてくれます。あざになっているだろう身体は、簡単に治癒魔法をかけておきました。

「無茶をするなと言いたいが、今回は助かったな」
「フレッド君も、わたしも、助かって良かったです」
「あぁ。……そういえば、何か薬を使ったのか? 甘い匂いがする」

 何気なく鼻をすんとさせたフレッド君から、わたしは慌てて距離を取ります。匂いを嗅がれるのも恥ずかしいですし、何より――

「な、何でもありません! 営業秘密です!」

 ファルさんに貰った媚薬のことなんて、言えるわけがないではありませんか……!
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