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第六幕 再会まで
ウオ売り
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図書館を出た少女の目に入ってきたその景色はいつもの街、歩いても、見渡しても今まで見て来た物と何ひとつ変わりのないただの景色。しばらく幹人について行くものの、それと言って変わりのないそれを目にして歩く辞書はため息をついた。落胆の態度を隠す気持ちのひとつも持ち合わせていないようで、ため息や陰の走る瞳など負の感情が図書館の中で積もり溜まった埃のような有り様をしていた。
「来て損した。いつもと変わりない」
「そう言わないで。変わりなく見える景色はいつも変わり続けてる景色だよ」
幹人の言葉はしっかりと飛んでは行くものの、歩く辞書の中へと入るものの、それでも心に擦り込まれることはなく、表情に蔓延る薄暗さを取り払うことなど叶わなかった。
「そうなの。だったら変わる瞬間なんかいらない」
歩く辞書は幹人の真っ直ぐな瞳、希望を湛え輝く薄茶色を見つめて大きく息を吸う。
「もしかしたらって期待してた」
「期待?」
幹人の問いに対して素直に言葉を連ね差し出して。
「新しい価値観で見ればあの本たちを読めるかもって」
「あの本?」
なにか曰く付きの書物でもあるのだろうか、もしかすると誰かが書いただけの架空の文字かもしれない。幹人は過去にマンガの影響を受けて架空の文字を書く同級生を見たことがあった。幹人の表情などに目を向けることもなく、歩く辞書は説明を続けた。
「二冊、読めない本がある。どっちも文字は覚えたけどどう読むか分からなくて」
「文字の形は覚えたの?」
その探求心に幹人は感心を覚えつつも歩みを進めながら話を進める。歩く辞書のぽっちゃりとした身体や垂れた目は優しそうな雰囲気を、話しやすそうな気配を出してはいるものの、肝心の中身があれでは誰も協力などしてくれないだろう。
それだけで済むのならまだ幹人も感情を揺らすことなどなかった。しかし、歩く辞書の言葉を耳にして予想を立てるからに彼女は街の人々に良いように扱われている。道具にされて『生き字引』ではなく『歩く辞書』とまるで物のような扱いをされている様を、それを行なう人々の態度が許せなかった。
「気にしないことにしてたけどさ、やっぱり無理だったよ」
景色に溶け行ってしまいそうな希薄な女の子に、幹人は絶対に訊いておきたいことをようやく口にした。
「名前を教えて。俺の名前は幹人っていうんだ」
歩く辞書は目を見開き、しばらく立ち止まって固まって。
動かない
人と話すの、こんなに恐いことなんだ
むき出しの感情に触れたのはいつ以来だろう。それはあまりにも恐ろしく、女の口を見事に縫い付けて開くことさえ許してはくれない。
幹人の目にはどのように映っているのだろう。打ち震える様子を新年より少し手前の寒気に紛れ込ませて表情を固め続けていた。
「そっか、言いたくない、かな」
「ごめん……ごめん」
繰り返しこぼれた言葉に意味は込められていたのだろうか、寒気の中冷え込む感情を無理やり温めて幹人は再び足を踏み出す。
「幹人はいつも前見てるね」
「まあ、大切な人に希望をたくさんもらったから」
「横から来たものにぶつかればいい」
辛辣なひと言、毒を感じる言葉は彼女の癖なのだろうか。歩く辞書の表情を窺いながら、眩しすぎない言葉を選んで口にした。
「あのさ、さっき話してた読めない本のことだけど」
「何? 私が馬鹿だから読めない。そう言いたいの?」
鋭い目と言葉、そこに込められた感情はいつか埃被るであろう誇りに入る傷を防ぐためだろうか。歩く辞書の言葉に構わず聞かせた。
「もしかしたらその文字を知ってる人自体が少ないかもういないか、その可能性もあると思うんだ」
失われた言語、幹人は元の世界で解読不能な言語が存在することを知っていた。そう、時は当たり前をも過去へと流していとも容易く壊してしまう存在だと分かっていた。
生きている、今こうしている、その当たり前も時と共に壊れてしまう
その当然を心に塗り付けて、歩く辞書に対して言ってみせた。
「これから知らないことを知って行けば全くつながりのないところから文字の解読の道が開けるかも知れない」
言葉は言葉、どう言ってもそれ自体は変わらない変えられない。しかし言葉に滲む感情はどのようなものだろう。幹人の語りには想う気持ちが練り込まれていて、歩く辞書が効いた言葉には何が詰まっているのか。彼女は微笑んで幹人の手を握る。
「だったら、見せて」
幹人の表情は気が抜けていた。呆気に取られて引っ張る側が引っ張られてしまうという状況に自身の未熟を感じながらようやくウオ売りの元へとたどり着いた。
「すみません、色とりどりのアカモウオのことですけど」
「なんだ?」
どのような技術を使って色を変えているのか―― 単純な質問に返す言葉はどのようなものだろうか。内心楽しみで仕方がなかった。
「ああ、それは企業秘密だ、企業努力を簡単に真似されないようにな」
完全に予想通りの流れ、そう簡単に種を明かすはずもなかった。幹人は元の世界で推測しうる技術、この世界では未来的なのか現在的なのか、それすら想像も付かせないものを言葉にしていた。
「でしたらそのタネはおおよそ割れてます、芽も出ません。海藻でも仕入れてアカモウオ、いえ、ミゾメウオを好きな色に育てて売ってることでしょう」
男は幹人をただ蔑みの気持ちひとつで見つめていた。
「その目、違うのですか? 違うのですね。ならお話しください」
「誰が話すか、そんな馬鹿げた空想なんかで。仕入れ代とエサ代だけでどれだけかかると思ってる。しかもどんな色に育つかも分かんねえのにこいつらの気分に合わせてたらいくらあっても足りねえよ」
幹人の目は笑っていた。馬鹿げた空想、それは知識と努力の差だけでは埋まらないことだろう。恐らく他にも水温を均一に保つことや美しい色に染めるための海藻の量の安定した確保が必要。何より先ほど男が自ら無知を晒し上げ振るっていた。『どんな色に育つかも分かんねえ』といった言葉は男の知識がこの世界の今の言語や科学の水準にまで達していないことを示していた。
「どんな色に育つか分からない? しっかり調べたらそんな言」
「長い。あなたは知らないの? ……勉強不足。生物学的基準言語でのアカモウオの呼び方」
所謂学名というものだろう。言葉を止められた幹人は目にうっすらと陰をかけながらひとりで勝手に納得して聞き続けていた。
「食べた藻の色素を取り込んでその色に擬態する。海藻の色に身を染めるその習性からこう呼ばれてる。ミゾメウオ」
既に証明されている仕組みすら知らなかった男だったが引き下がるつもりはさらさらないようで未だに食らいついていた。
「うるせえ、お前らみたいな頭の育ってないガキに何が分かる」
「知らないの?」
歩く辞書が訊ねた。気まずい沈黙が流れ始めて時を支配しようかといったその時、再びその口が緩やかに動き始めた。
「私を知らないの。かわいそう。私は今まで図書館に引きこもってた女。図書館の本は、知識は全てここに書いてある」
自身の頭を小突いて示す仕草は慣れからは最も離れたあどけなさと恥ずかしさを含んだ雰囲気で、どこか可愛らしく思えた。
「みんな私のことをこう呼んで噂してる……歩く辞書」
名を耳にした途端のことだった。男は勢いよく地にひれ伏し降参の構えを取った。そこから話すことによれば海の向こうで様々な色をしたアカモウオを扱う商人がいたためそれを買って移動代と売れるまでの飼育代を足してその十五倍の価格で売っていたのだという。それでも金持ちは物珍しさから手を出してしまう、放っておいても勝手に売れて行くために味を占めた商人は秘密の技術を用いているため金がかかると主張して更に額を倍にしていたのだと言った。
――うわあ、それは酷い
価値を知らない人々によって価値を付けられて、真実を知る者がいないために調子に乗った人物が現れてしまった。
このやり取りを見ていた住民はこれからこの男をペテン師だとうわさ話の風に乗せて広めてしまうだろう。
知っている人が少ないから秘密に気が付かなかった。歩く辞書はその事実を噛み締めながら知への期待に目を輝かせていた。
「来て損した。いつもと変わりない」
「そう言わないで。変わりなく見える景色はいつも変わり続けてる景色だよ」
幹人の言葉はしっかりと飛んでは行くものの、歩く辞書の中へと入るものの、それでも心に擦り込まれることはなく、表情に蔓延る薄暗さを取り払うことなど叶わなかった。
「そうなの。だったら変わる瞬間なんかいらない」
歩く辞書は幹人の真っ直ぐな瞳、希望を湛え輝く薄茶色を見つめて大きく息を吸う。
「もしかしたらって期待してた」
「期待?」
幹人の問いに対して素直に言葉を連ね差し出して。
「新しい価値観で見ればあの本たちを読めるかもって」
「あの本?」
なにか曰く付きの書物でもあるのだろうか、もしかすると誰かが書いただけの架空の文字かもしれない。幹人は過去にマンガの影響を受けて架空の文字を書く同級生を見たことがあった。幹人の表情などに目を向けることもなく、歩く辞書は説明を続けた。
「二冊、読めない本がある。どっちも文字は覚えたけどどう読むか分からなくて」
「文字の形は覚えたの?」
その探求心に幹人は感心を覚えつつも歩みを進めながら話を進める。歩く辞書のぽっちゃりとした身体や垂れた目は優しそうな雰囲気を、話しやすそうな気配を出してはいるものの、肝心の中身があれでは誰も協力などしてくれないだろう。
それだけで済むのならまだ幹人も感情を揺らすことなどなかった。しかし、歩く辞書の言葉を耳にして予想を立てるからに彼女は街の人々に良いように扱われている。道具にされて『生き字引』ではなく『歩く辞書』とまるで物のような扱いをされている様を、それを行なう人々の態度が許せなかった。
「気にしないことにしてたけどさ、やっぱり無理だったよ」
景色に溶け行ってしまいそうな希薄な女の子に、幹人は絶対に訊いておきたいことをようやく口にした。
「名前を教えて。俺の名前は幹人っていうんだ」
歩く辞書は目を見開き、しばらく立ち止まって固まって。
動かない
人と話すの、こんなに恐いことなんだ
むき出しの感情に触れたのはいつ以来だろう。それはあまりにも恐ろしく、女の口を見事に縫い付けて開くことさえ許してはくれない。
幹人の目にはどのように映っているのだろう。打ち震える様子を新年より少し手前の寒気に紛れ込ませて表情を固め続けていた。
「そっか、言いたくない、かな」
「ごめん……ごめん」
繰り返しこぼれた言葉に意味は込められていたのだろうか、寒気の中冷え込む感情を無理やり温めて幹人は再び足を踏み出す。
「幹人はいつも前見てるね」
「まあ、大切な人に希望をたくさんもらったから」
「横から来たものにぶつかればいい」
辛辣なひと言、毒を感じる言葉は彼女の癖なのだろうか。歩く辞書の表情を窺いながら、眩しすぎない言葉を選んで口にした。
「あのさ、さっき話してた読めない本のことだけど」
「何? 私が馬鹿だから読めない。そう言いたいの?」
鋭い目と言葉、そこに込められた感情はいつか埃被るであろう誇りに入る傷を防ぐためだろうか。歩く辞書の言葉に構わず聞かせた。
「もしかしたらその文字を知ってる人自体が少ないかもういないか、その可能性もあると思うんだ」
失われた言語、幹人は元の世界で解読不能な言語が存在することを知っていた。そう、時は当たり前をも過去へと流していとも容易く壊してしまう存在だと分かっていた。
生きている、今こうしている、その当たり前も時と共に壊れてしまう
その当然を心に塗り付けて、歩く辞書に対して言ってみせた。
「これから知らないことを知って行けば全くつながりのないところから文字の解読の道が開けるかも知れない」
言葉は言葉、どう言ってもそれ自体は変わらない変えられない。しかし言葉に滲む感情はどのようなものだろう。幹人の語りには想う気持ちが練り込まれていて、歩く辞書が効いた言葉には何が詰まっているのか。彼女は微笑んで幹人の手を握る。
「だったら、見せて」
幹人の表情は気が抜けていた。呆気に取られて引っ張る側が引っ張られてしまうという状況に自身の未熟を感じながらようやくウオ売りの元へとたどり着いた。
「すみません、色とりどりのアカモウオのことですけど」
「なんだ?」
どのような技術を使って色を変えているのか―― 単純な質問に返す言葉はどのようなものだろうか。内心楽しみで仕方がなかった。
「ああ、それは企業秘密だ、企業努力を簡単に真似されないようにな」
完全に予想通りの流れ、そう簡単に種を明かすはずもなかった。幹人は元の世界で推測しうる技術、この世界では未来的なのか現在的なのか、それすら想像も付かせないものを言葉にしていた。
「でしたらそのタネはおおよそ割れてます、芽も出ません。海藻でも仕入れてアカモウオ、いえ、ミゾメウオを好きな色に育てて売ってることでしょう」
男は幹人をただ蔑みの気持ちひとつで見つめていた。
「その目、違うのですか? 違うのですね。ならお話しください」
「誰が話すか、そんな馬鹿げた空想なんかで。仕入れ代とエサ代だけでどれだけかかると思ってる。しかもどんな色に育つかも分かんねえのにこいつらの気分に合わせてたらいくらあっても足りねえよ」
幹人の目は笑っていた。馬鹿げた空想、それは知識と努力の差だけでは埋まらないことだろう。恐らく他にも水温を均一に保つことや美しい色に染めるための海藻の量の安定した確保が必要。何より先ほど男が自ら無知を晒し上げ振るっていた。『どんな色に育つかも分かんねえ』といった言葉は男の知識がこの世界の今の言語や科学の水準にまで達していないことを示していた。
「どんな色に育つか分からない? しっかり調べたらそんな言」
「長い。あなたは知らないの? ……勉強不足。生物学的基準言語でのアカモウオの呼び方」
所謂学名というものだろう。言葉を止められた幹人は目にうっすらと陰をかけながらひとりで勝手に納得して聞き続けていた。
「食べた藻の色素を取り込んでその色に擬態する。海藻の色に身を染めるその習性からこう呼ばれてる。ミゾメウオ」
既に証明されている仕組みすら知らなかった男だったが引き下がるつもりはさらさらないようで未だに食らいついていた。
「うるせえ、お前らみたいな頭の育ってないガキに何が分かる」
「知らないの?」
歩く辞書が訊ねた。気まずい沈黙が流れ始めて時を支配しようかといったその時、再びその口が緩やかに動き始めた。
「私を知らないの。かわいそう。私は今まで図書館に引きこもってた女。図書館の本は、知識は全てここに書いてある」
自身の頭を小突いて示す仕草は慣れからは最も離れたあどけなさと恥ずかしさを含んだ雰囲気で、どこか可愛らしく思えた。
「みんな私のことをこう呼んで噂してる……歩く辞書」
名を耳にした途端のことだった。男は勢いよく地にひれ伏し降参の構えを取った。そこから話すことによれば海の向こうで様々な色をしたアカモウオを扱う商人がいたためそれを買って移動代と売れるまでの飼育代を足してその十五倍の価格で売っていたのだという。それでも金持ちは物珍しさから手を出してしまう、放っておいても勝手に売れて行くために味を占めた商人は秘密の技術を用いているため金がかかると主張して更に額を倍にしていたのだと言った。
――うわあ、それは酷い
価値を知らない人々によって価値を付けられて、真実を知る者がいないために調子に乗った人物が現れてしまった。
このやり取りを見ていた住民はこれからこの男をペテン師だとうわさ話の風に乗せて広めてしまうだろう。
知っている人が少ないから秘密に気が付かなかった。歩く辞書はその事実を噛み締めながら知への期待に目を輝かせていた。
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