異世界風聞録

焼魚圭

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第八幕 日ノ出ズル東ノ国

銭湯

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 今日も一日元気な働きだったものの、男から評価されることなど一切なかった。

「今日までは許したが銭湯入って洗ってこい! どれだけ働いても穢れた手では成果のひとつにもならないのだぞ! この汚らわしき野蛮人どもめ!!」
「そこまでになさい、彼らはそもそも他の国から一文無しで入って来たのですから」
「言語道断! 身を清潔にしない時点で人に非ず。穢れに憑りつかれし物の怪の分際でこの敷見を跨ぐな」

 ここに来てたったひとつの理由で信頼関係を無へと帰す発言が飛んできて、締め出しの令が敷かれていた。どうやら常識から外れた人物に対しては如何なる罵倒も許されてしまう、それがあの男の頭脳に刷り込まれた思想だったようだ。
 ふたりして素早く歩き始めて、玄関にて一度振り返り大きなお辞儀をする。顔を上げた時リリは目にした。視線の先に立つ女が不自然な笑顔を浮かべて妙なハンドサインを送っていたことを。親指と人差し指と中指、三本だけを伸ばしたまま折り込んで、キツネを思わせる形を作っていた。
 建物を出て、歩きながら幹人は口をとがらせ心に貯め込んだ澱を詰まらせつつもゆっくりと吐きつける。

「あの男どう思う?」

 幹人の疑問に対してリリは大きく頷いてあの戸を、その向こうにいるはずの男を睨みつけていた。

「その程度のことしか考えられないあたり、余程教養がないのだろうね」

 きっと親譲りの古ぼけ埃被って一部分の欠けた思想をいつまでも引き繋いで更にボロボロにして、それをまた引き継いで。そうして本人にとって面倒なことを欠いて行くことで受け継がれたものの果てがあの男の考えなのだろう。先人の考えの欠落に塗れた穴あき思想を考えなしに受け入れる、そういった考え。
 リリは考えることをやめて大きな伸びをする。それからこぼした言葉を合図にして今日の幹人と歩む人生の続きを紡ぎ始めた。

「銭湯に行こう、あの人に従うしかないもの」

 そう、今は他に行き場もないのだ。幹人は歩き出そうとして、あることに気が付いてしまった。

「お金……もらってない」
「ええ、そうね」

 そう、昨日も今日も、このままでは明日までもが無一文。男から賃金を求める機会を掴むことが出来ないまま過ぎ去ったのだった。

「なんてことだ」

 真っ暗な天を仰ぐ幹人、打ちひしがれて悲しむその目。リリにはどのように映ったのか、リリはこれからどのように動けば幹人の倒れてしまいそうな心を支えてあげられるのだろうか。
 リリは、幹人の目をきれいな手で覆った。冷たいその手がこの季節の夜の厳しさに染め上げられていて、そこから幹人へと刺すように伝わり侵食し、この上なく心地が悪かった。

「大丈夫、味方はもうすぐそこまで来てるから」

 気休めだろうか、時としては必要なそれだったが、今はその時ではない。二日に渡る労働がボランティア活動にすり替えられようとしているのだ。生きるために働いたはずが体力を支払って賃金が支払われないという状況で、そのひと言は痛みを運び込むだけだった。
 リリは幹人を後ろから抱え込むように包み込み、味方の到着を待っていた。

「おまたせ、ごめんね、お金持ってなかったでしょう」

 視界がリリの冷たい手に、愛の温もりに覆われる中、第三者の声が飛び込んで来た。その声はこの国に来てから既に聞き馴染みのあるもので、見るまでもなく幹人に気付きを与えてくれた。

「洋子さん」

 目を覆っていた手が静かに退いて、幹人の身体に巻き付き始めた。余程寒いのだろうか。震えていて、力が入っていなかった。洋子はその様子を目にして微笑んだ。先ほどの笑顔とは違って心の底から明るく柔らかく微笑んだ。

「はい、洋子です」

 リリの上から覆い被さり三人揃いも揃ってバランスを崩して転倒して。
 幹人はリリを全身で受け止め愛情に包まれていた。

「あははは、洋子さん何やってるんですか、リリも言ってやってよ」
「なんでとは言わないし言えないけど楽しいかも」

 感覚のみに頼り切った心情は言葉にするにはあまりにも頼りなくて、しかし湧いて来る愛おしさをどうにか言葉にしたくて、リリはどうにも言い表すことの出来ない感情を詰まらせて心の底で回しかき乱し、身を震わせていた。

「寒いの?」

 洋子が微かに顔を傾けて口に出した疑問に対して、リリは幹人を抱き締めることでどうにか答えて見せた。

「洋子さんの言う通り寒いんだよ」

 生まれてしまった当然の誤解は解きほぐすこともなく流れて、洋子から次の言葉を引き出していた。

「速くお風呂行こっか」

 それからすぐに向かう。服屋を左目の端に流して右へと曲がり、進んで寿司屋を目の前にして右へ、葬儀屋を通って左、そこからすぐ見えて来た民家を右へと進んでたどり着いた。
 幹人はそこまでに通った道の中ですれ違った人の少なさに疑問を抱いていた。

「人、確かに少なかったね」
「葬儀屋、儲かってるのかしら」

 洋子の話によれば死人は出ても死体は出ない。行方不明という形で終わってしまうのだそうだ。
 銭湯へと入る。規模の割に人の少ないそこで女性ふたりはきっと余裕ありだろう。この世界では混浴などと言った甘い響きは許されないらしかった。神聖なる乙女の肌が、などと宣った変態の言葉を聞いて地位と共に態度だけが大きな者が「貴族だけが甘ければいい」と言って変えたのだとかなんだとか。
 幹人は見渡す限りこの施設に入る者が殆ど男なのだと知って肩を落とす。目に映されたそれが答えと見て間違いはなさそうだった。
――男湯結構混むだろうなあ
 進もうとすると共にリリに止められる。別の方を示す指、その向きに目を合わせるとそこに待つのは赤い暖簾だった。

「幹人はこっち」
「いや俺男だし」

 ふふっ、冗談。そう返されたものの、幹人としては微妙に不愉快だった。この気持ちを抱きつつも進み、男ひしめく野郎風呂へと身を放り込んだ。
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