異世界風聞録

焼魚圭

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第八幕 日ノ出ズル東ノ国

洋子の欲

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 洋子の手にかかればどのような魔法も力を失ってしまう。悠菜の目を通して戦局を見つめていた晴義は固唾を飲んで見守りつつ立ち上がった。
――アレが立ちはだかるのは嫌である
 畳の上に置いていた刀を手にして屋敷の戸をくぐり、走り始めた。あの調子であれば綾香の始末は容易であろうと容易く窺い知ることができた。どこにいるのか分からない、倒せるのか分からない。そういった問題を抱えていただけのこと。彼らに協力して洋子を倒した後で全員を彼岸の奥の奥の奥へと葬り去ることで全てを隠し通すことができる。そう確信を持って、星空の流れと希望に目を輝かせて突き進む。
 走り抜け、たどり着いた先に待ち受けるもの、それは予想通りの光景。しかしながら予想だにしなかった光景を見つめる目を装って晴義はその中へと加わった。
 幹人は儀式用の包丁を振り、羊子は袖で受け流し、繰り返し、何度も同じことが巡り続けて。暗闇の中での戦いは終わりの光を見せてはくれない。
 葉を踏む時や風を切る音と微かな輪郭と魔力の微妙な揺れ、張り詰めてどうにかつかみ取る不確かなものを手掛かりに相手の攻撃を防ぎつつ相手に攻撃を放り込んで行く。幹人の神経は刃と袖の撃ち合いの感触や、力を動く度に振り絞ると言った行動のひとつひとつを経て削られてもどかしさや焦りの想いに焦がされて、上手く立ち回ることが出来なくなり始めていた。

「どうして私の食事の邪魔をするの?」
「戦いながらだなんて行儀悪いね、美食の響きを身に着けて気取る資格もないな!」

 軽い口を叩く余裕はただ着飾っただけの偽りの物。包丁を袖に払われて、離すまいと力を込め、身を飛ばされて木に叩きつけられて。
 咳き込みながら羊子を睨みつける。その足はゆっくりと歩みを進めていた。
 綾香と鈴香、ふたりへと向かって、その味を口の中で転がすべく、葉を鳴らしながら近づいて行く。

「待て!」

 思いきり息を吸い込んで、大きく咳き込みながらも無理やり叫びをひねり出しながらよろめきながら、それでも幹人は立ち上がる。ふたりを喰らおうなどという羊子のことを許すことなど決して許されなかった。幹人の心の中に渦巻く想いを刻み込み、軸のぶれる足取りで、力を入れて誤魔化して、勢い任せに走り始めた。
 包丁を力任せに振るうことしか出来ない程に構えの雑なこと。羊子は口を張り裂けてしまいそうなほどに大きく横に広げて顔で笑いながら言葉では不満をこぼしていた。

「おやつの邪魔はやーよ」

 おやつ、目の前の少女たちを食べることをそう呼ぶ相手に対しての心持ちは更に雑なものになり、どう足掻いても態度に荒々しく出てしまう。心を隠しきれずに身体にまで伝わって露わとなってしまうのだ。

「やっぱり……許せねえ!!」

 鈴香の今の姿で何が出来るだろう、恐らく相手に攻撃と称したエネルギーを贈りつけて自ら苦行の陰の道へと進むことしか出来ないだろう。それほどまでに特殊な力の使い手だった。幹人は魔法に頼ることなく羊子に対して包丁を大きな構えで力任せに振り下ろす。それもまた、美しき袖の舞によって払われて、相手に届く気配すらみせない。
 魔法だけでなく、力でも負けていた。
 最早、小細工が通用する程度の実力差ではなかった。

「弱いね、可愛らしいから後で食べちゃおうかな。リリと一緒に頬張るの」

 リリと一緒に、羊子の言葉に目を見開いた。気になって仕方がなかった。それは抑えようとする姿勢すらなく自然と口から零れ落ちた。

「リリは……どうしてるんだ」

 幹人の表情の変化を目にして羊子は表情に愉快の感情を乗せて強めて噛み締めながら答えてみせた。

「リリの魔女の部分だけ食べた。蕩ける美味しさだったわ」

 つまり――

「生きてはいるんだな」
「ええ、取引持ちかけられたから。一回それを守った後で食べるの」

 声が言葉が、意思が、飛んできた。知った途端、拳は固く握りしめられて、強く強く力が込められて。
沸き立つ感情は、大切な人の大事な部分を奪ったことだけではなかった。羊子の態度、初めから取引を守り通すつもりがない人としての堕落に、怒りが溢れ出て止められない。

「人との約束すら守れないような奴に、おやつはあげられない!」
「よく言った」

 予想外の男の返事に幹人は驚き、ついつい隣を見てしまった。
 その隙を突いて羊子が腕を構えて走って来る。全力で走って、その魂を刈り取りに来たのだった。
 袖を思い切り振って。風にはためく広い布は波のような弧を描きながら幹人へと迫って来る。しかし、それは受け止められて動かない。先ほどの声の主が刀を抜いて受け止めていた。

「さあ、斬るのだ、幹人」

 その人物の正体、それは闇の中で目に映らなくともはっきりとその手につかむように理解できた。

「はい、分かりました。晴義さん」

 答えて、疲れ果てた身体に鞭を打って、疲れていても分かってしまうほどに雑な勢いで包丁を振り上げた。しかし、羊子にはまだ右手が残っている。その右手、大きな袖をはためかせて受け止めようとするものの、その腕は何かに引っ張られて動かすことが出来なかった、微かに動かすことすら許さない。
 その腕を掴む者は、小さな頼りない手で懸命に引っ張っていた。

「早く……おしまいに……して」
「ありがとう鈴香」

 儀式用の包丁、それを用いて執り行われるものは、悪しき魔女を狩るための特別な儀式。

〈十二天将 北ヲ玄武 北西ヲ天后 北東ヲ貴人 ト定メ方位ヲ認識スル 北東ニ青龍 東ニ六合 南東ニ勾陳 南東ニ騰蛇 南ニ朱雀 南西ニ太裳 南西ニ白虎 西ニ太陰 北西ニ天空 目前ニ佇ミ日ノ下デ闊歩セシ悪シキ者ニ天ノ制裁ヲ―― 邪気退散〉

 人を喰らう〈お菓子の魔女〉の悪行はどれほどの悪と呼べるだろうか。周囲の魔力、全方位に漂い蔓延る脈が全て羊子に集い、身に宿す魔力を全て世界の中へと撒き散らして行く。

「目の前に固まりし闇よ、世界に〈分散〉せよ」

 逆らうことも出来ないままに吸い取られ、魔力は次から次へと世界の中へと分散されて、やがて暗闇の中に残されたのはただのか弱いひとりの女性だった。
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