異世界風聞録

焼魚圭

文字の大きさ
上 下
232 / 244
第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

霧の怪物

しおりを挟む
 ランスの目で見たわけでもないただのうわさ話、それが形の良い口から易々とこぼれて来るのをしっかりと聞いていた。

「いいか、この国には殺人鬼が潜んでいるのだ。霧に紛れて女、それも私たちとは無縁の紳士向けのある欲望の掃き棄て処とも呼べる店にて務める者の命を奪い、中の物を抜き取るのだというそうだ」

 リリはうつむき気味にゆっくりと首を横に振り、この世界に生きる資格を奪われた女たちを想いながら大人しく冷たい声を空気に滲ませた。

「それは許せないねえ、いくら人に誇れない仕事とは言えどもしっかりと働く人だろうに」

 そう、どこの世界にでも多種多様の職業があり、それぞれに想いや身体を振り絞って身を削る想いで生きている。少しばかり薄暗いセカイの中の職業であったとしても公が存在を認めていて最低限のマナーを守る行儀の良い企業であればそれを踏みつぶす権利など誰も有してなどいないだろう。
 ランスは声の調子で、言葉で、燃え盛る厳しい感情を周囲にまき散らしていた。不明瞭な暗がりに潜みし霧の怪物の蛮行など許してはならなかった。
 夜の警備に幹人を加えるという。魔女のチカラをすでに失って無力の最果ての更なる果て、苦しみの際に立たされたリリは大人しく城の客室にて寝泊りすることとした。幹人と出来るだけ長い時間を共にしたい、そんな想いも虚しさに飲み込まれて行く。魔法を失うということはこういうことなのだと強烈な苦しみの波がリリの頭を飲み込み沈めて行った。
 どうすることもできない。幹人が王に手を引かれて遠くへと行ってしまう。リリが手を伸ばしたところで届くはずもなくて、引き離されていつの日にか見えなくなってしまいそうで。
 ひとり残されたリリは静まり返った王室の中、誰にも聞かれることの無い言葉を、目を伝う熱い想いの水と共にこぼしていた。

「はあ、私は……幹人の傍にいることも出来ないのかい」

 私の役立たず、居なくなってしまえ、思い浮かんで来る言葉のどれもがリリの心を潰すように想いいっぱいに広がっていた。
 誰も来ない王室を後にしてリリが貸してもらった部屋のへと、足を踏み入れた。細くてきれいな脚だったが色気のなさはみすぼらしくも見える。リリは自分の足を、地面を、過去を、感情を見つめていた。
 きっと彼の冒険は時期を待てば終わるだろう。
 リリは連れていかれるだろうか、魔法すらないリリを幹人は受け入れてくれるだろうか。ただのやせ細ってしまった女になど用はないのではないだろうか。魔女でなくなってしまっても愛しているなら、どれほどいいことだろう。
 考えごとは、幹人の一瞬の振り向きと微笑みを目に止める余裕すら残すことなく、この上ない程厄介な感情となっていた。


   ☆


 夜という空間は、灯りに照らされる霧をより不気味に彩っていた。見えない景色に闇を重ね塗り、見えない、何も見えない。
 ふたり隣り合って歩くものの、夜闇と霧が存在まで切り離して隠してしまって隣にいる実感が湧かなかった。

「霧の中で幹くん襲っても誰も気づかないかもね」

 ランス王、否、学校の同じ部活オカルト研究部の先輩、彼女の口調はどことなく楽しそうで、言葉の中身は鳥肌が立つような恐怖を思わせるものだった。

「やめて下さいよ、先輩俺に恨みあるんですか」

 別にないよ、そう続けられて幹人は困惑を肩に担ぎ続けるばかりだった。肩の荷は降りない。冗談だと分かっていても、もしかするといやらしい意味では冗談ではないのかも知れない。幹人に対する行動や仕草は、性の遊び相手に対する態度だと思ってもおかしくはなかった。
――嬉しいけど……おかしい
 気持ちは苦しみ、悲しみ、とにかく薄暗いものが充たしていた。何とも言えない気持ちの混ぜ合わせ。
 考えごとをしながらでも辺りを見回す。朝から晩まで見通しの悪い景色の中で死体探しをするなど、薄気味悪い気持ちが帯を伸ばして心に巻き付いて来る行ない。王の頼みでやることとは思えないものだった。
 そんな気持ち悪い気持ちに囚われ続ける頭を、先輩の手が捕らえた。

「ようしようし、これで何か新しい考えが浮かべばいいね、どうせ切り裂きジャックみたいとか思っているのだ、年頃の男の子の頭なんてそう考えるって相場が決まっている」

 つまり、幹人は先輩からすれば相場の外側だった。幹人は、リリがとても恋しかった。彼女が泊まる部屋に一刻も早く戻って抱き締めたかった。どこまでも愛している、この想いが尽きる前に、枯れ果ててしまう前に、結ばれて離れられない状態に持ち込んで慣らして程よい距離で心地よくいられる関係を作りたかった。
 そんな想いも余計な考えも一瞬で吹き飛ぶような光景が突如目に入り込んでしまった。目を見開いて、地面に粘りついたように溜まる闇の黒の中の汚れを見つめた。そこから空気中へと放たれる生臭い鉄を思わせる匂いは濁った空気と混ざり合って最悪なメロディーを演出していた。

「これ、もしかして」

 先輩は一度大きく頷いて、笑ってみせた。

「そうだよ、血の色景色は絶景かな」

 あまりにも不快な冗談を霧になじませるランス先輩よりも速く、身体は動いていた。
 目の前に寝転がる人物は何者だろう。酔っ払いだと祈って、鼻を突くような鉄の匂いも口から出た未消化のものだと無理やり信じ込み、近づいて、灯りを当てる。その瞬間、そうした逃避は全て打ち砕かれた。
 酔いつぶれた人物ではなく、命潰れた塊だった。
しおりを挟む

処理中です...