異世界風聞録

焼魚圭

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最終三連幕── 始まりの幕 リンゴ

視点

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 理想の世界へと足を進めるべく、幹人は過去を、自身が歩んだ人生の道のりを、隣やもっと遠いところで同じように歩んでいたらしい道のりを、想いながら全てを纏め上げ、大樹に触れた。
 セカイを、視ている世界線のピントをずらして、どの世界線にでも触れられるように、どの世界線にも居座らないように、全ての狭間に立つように。
 全ての世界の隙間、そこにいても未だに目の前には巨大なセイヨウトネリコが聳え立っていた。立派に立っているその姿をしっかりと見つめながら、大きく息を吸い、勢いよく吐いた。再び吸っては吐き、みたびの深呼吸、そこから続けて更に繰り返し数を重ねて。そうして心を落ち着かせ、半眼を用いて魔力の流れを見つめ始めた。その景色、見えるもの、それを構成する色、全て総て何もかもが魔力によって創り上げられていた。
 その景色の真実に触れて圧倒されて言葉も出せずに数分間を経る。例え何で出来ていようとも美しさは変わりない。その事実を認めることでようやく次の行動に移ることが出来た。
 右手に魔力を込め、全ての自身を想い、知っている全ての世界のそれぞれに住んで今も生きているリリのことを想いながら、魔力だけで編みこまれて姿を成している大樹に触れた。
 そこから流れ出る情報の嵐を読もうとした途端、地は揺れて、爆発のような音が耳にまで届いて、幹人の意識はそこにまで引き戻された。
 振り返ると共に目に入ったその姿は年季の入った鋭い目がよく目立つ女。固い印象を受けるものの、近寄りがたいという程でもない姿、歳を重ねても尚崩れないスタイルは美しさの塊だった。
 目の前の女、真昼は手帳を取り出して幹人へと向かって一歩、足を踏み出した。

「幹人、それはダメよ、離れて」

 更に一歩、幹人に近づいて言葉を続ける。

「このまま続けたら、世界線の全てが溶け合って崩れて行くわ」

 木の幹から手を離そうとしたその瞬間、空間をも引き裂く轟音と共にもうひとり、何者かが墜ちてきた。あの高みから足を着いても平気な人物。幹人のへと顔を向けて言葉をかけてここまで来たのだと知らせた。

「ちゃんと来た。ここまで来ても私はあなたの味方だから」
「先輩」

 ランスの登場、そして真昼との対面。
 真昼はランスの顔を確かめて彼女のことを幹人の知らぬ名で呼んだ。

「シス、この状況全部がアンタのせいだったのね」
「そうとも言えよう」

 会話に追いつくことも叶わず、幹人は目の前の味方だと称する人物に問いかけた。

「……シスって」

 目の前の女、複数の顔を、様々な名を持つ人物は一瞬だけ振り向いて精一杯の微笑みを浮かべて見せた。

「界隈によってはそう名乗ることもあるわけだ」

 途端、ランスの服は光に包まれ消失した。代わりにその身体を纏うものは幹人の目にもどこか見覚えのある服。ベージュ色のコートと下には自身の性別を隠すつもりを微塵も感じさせない程に張り付いたスカートは膝の少し上までを覆っていて、そこから更に下は黒くて分厚いタイツに包み込まれていた。

「私服に切り替えてと。さあ行け幹人、大丈夫、私はあなたの味方だ」
「黙れ天使シス! 世界諸共ヒトを沈めて何がしたいの! 何が気に食わないの! あなたたちだって元々は人だというのに」

 シスは左手を突き出した。共に手の甲から先が水色の光に覆われて、周囲には氷を思わせる水色の線の入った石が漂っていた。どことなく冷たい雰囲気は幹人にあの言葉が本音なのかと疑問を抱かせるものの、この道を振り返ることなく身体を振り向かせて大樹を前にして、魔力を最大限まで練り込んだ手を大樹の幹と意識をひとつに纏める。
 共に現れた反応、幹人の身体は樹に取り込まれ始めた。手が、手首が、腕が。次第に飲み込まれ、身体から顔、腰に足の順に中へと持って行かれて姿を消したのだった。

「やられた」
「これでいい、精々幹くんの無事でも祈るがいい」

 感情を排したような言葉、全て関係ないといった顔をして残したシスの言葉を噛み締めて真昼は立ち尽くすのみ、そこからすれ違いざまに天使の声が耳を通って頭にまで響いてきた。

「精々祈れ、セカイが折れないように」

 天使の目的は破壊に過ぎなかった。


 そうしたやり取りなど何ひとつ知らないまま幹人は大樹の幹とひとつになっていた。張り詰める魔力の糸は色とりどりの繭のようで、視ていて飽きなかった。
 そうした魔力の世界の中、それらを巻き付けられた少女の姿があった。幹人は魔力を巡らせて、半眼で視つめた。その姿は魔力の塊、実態など一切なかった。少女は幹人の心など全てお見通しと言った様子で眉をひそめて垂れた目を向けていた。

「人のエゴって悲しいよね、あなたたちの想いがこんなにも連なって可能性がとかそんな妄想ばかりして……私にこんなにも数多の世界線を巻きつけて」

 身体は魔力の糸、世界線によって巻き付けられたものだという。悲しみに充ちた貌をいかにも苦しそうな顔に混ぜてはいたものの、半眼で視ている幹人には既に分かっていた。その少女は飽くまでも世界の破壊を防ぐための防衛機能に過ぎないということを。幹人を止める最も有効な策として、情に訴えかけるという形でその姿を取っているのだということを。
 獣や勇ましい者に対してなら決して敵わないほどの大きな脅威として、恋人の全てを受け入れる人に対してなら、その姿で現れるのだろう。
 気が付けば目の前の存在は目と鼻の先に立っていた。息遣いは苦しそうで、その瞳の中で揺れる影は暗闇の中の海のよう。

「私をこれ以上傷つけようだなんて許されないよね」

 違う、それは人ではない。そう分かっていても言い聞かせて幾度となく決意を固めようにもそれはすぐにほどけて元通り。言葉が喉元でつかえて出てこない。声にならず息だけを吐いていた。

「ほら、帰ってよ、元の世界に、里利のいるセカイに」

――リリ……里利
 引き返しそうになりながらも、幹人は首を左右に振った。

「違う、俺は絶対に理想を掴むんだ、俺と、あの世界のあのリリと一緒に新しい世界で」

 そうして新たなる世界線を糸にして、少女に向けて伸ばし始めた。

「イヤだ、やめてよ、これ以上私を苦しめないで」

 涙を流しながら、少女は悲痛な声で、枯れかけの声で、訴え続けていた。

「こんなに巻き付けられてるのに、まだ私に糸を巻くの? やめていやだ、いやだ、いやだ」

 泣き崩れても糸に吊られて姿勢を崩すことの出来ない少女に対して、今にも折れてしまいそうな心を、見ていられない姿を見つめつつ、言葉を向ける。

「ごめんね、少しだけ、ホントに……少しだけ…………」

 少女の薬指へと伸ばし、結び付ける。新しく創られた世界線の根元の結び目、そこにはどこまでも優しい想いが、すぐにでもほどけてしまいそうなちょうちょが止まっていた。
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