断末魔の残り香

焼魚圭

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ダムのため池

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 冬の空は灰色で冷たい風が吹き付ける。心までもが凍り付きそうな寒さの中、ある私立大学の幾つもの建物がある中の友人がよく出入りする建物の前の広場のベンチにてある男が座っていた。
ー寒いんだけど? なんでここで待ってなきゃいけないんだー
 その男は短く黒い髪の生えた自身の頭を掻きながら友人を待っていた。
 そんな哀れな男の名は鳴見 春斗。大学1回生という始まりの学年をギリギリの成績でどうにか切り抜けた男。取り立てて顔が整っているわけでもなく、人目を引くような特技や趣味もない。大学生になったら彼女が出来るのだろう。などと勝手に期待を抱いていたようだがどうやら違うぞとようやく気が付いて友だちと楽しく生きて行こうと誓った男。
 そんな春斗の元にようやく明るい世界がやってきた。茶髪の男が殴りかかる姿勢と勢いで走って来たのだ。そして拳を振るい止まったその空間数ミリ。寸止めというものだ。
「悪い悪い、最低限のレポート出してたら遅れちった」
 そう語る男の名は小浜 秋男。彼もまた特に綺麗な顔立ちをしているわけではないが長めの茶髪と切れ長の目が良い雰囲気を出していた。そんな秋男が春斗を呼び出した理由。それは実に分かりやすいものであった。
「今日は夜にあそこ行くぜ。俺たちの地元のダムのため池」
 2人とも必要性は無いものの、ただ単に自由が欲しいからと家を出てひとり暮らしをしていたためもう1年以上見ていない山。そしてその中にはダムがあるのだが、そこには特に冬に幽霊が出るという噂があったのだ。
「行こうぜ? 大学生やってて何もなきゃつまらねぇんだしよ」
 春斗は首を横に振ろうとするも、秋男の放つ次の一言が実に刺さるものであった。
「同い歳の女が車出してくれるぜ? なあ、いいだろう。女込みのドライブ」
 春斗がそれを断るにはあまりにも理由が無く、下心を打ち破る術など持ち合わせてなどいなかった。



 月の浮かぶ夜、春斗は家の中で連絡を待っていた。その中で今から行こうとしているダムでの怪談を思い出していた。それは特に冬に赤い服を着た者の前に現れる女の霊。包丁を持ってダムまで訪れた者を刺す悪霊なのだという。山にあるためとても暗く、自殺者も多く出ているためか「車のスピードが突然落ちた」「誰かに見られている気配がする」などと言った証言も多数存在する地元ではとても恐ろしい場所だと言われている。
 そんな想像とこれから行くのだという事実に怯えながら待っていた春斗の手の先向こう側。そこにある携帯電話がメールの着信を告げた。
 開いてみると「着いたぜ」の一言。春斗はドアを開き、秋男の元へと向かう。
 そこに待っていたのは赤いコートを着た秋男ともう1人、背が低くて目付きが悪い女性の姿。目の下には濃く刻み付けられたようなクマがあり、可愛らしさの欠片も感じさせない女。
「ええと、この子が秋男の言ってた同い歳の女、なのかな」
 女は目を逸らして吐き捨てるようにいう。
「どうせ期待外れなんだろ、知ってる。秋男の事だから期待値高めて上げて落として貶めるつもりだったんだろ」
「まだ何も言ってないんだけど」
「言葉を聞くまでもない」
 なんとこの女性、態度まで可愛らしさがないのだという。秋男は春斗に女性の事を紹介し始めるのであった。
「コイツは波佐見 冬子。高校行ってた時のクラスメイトだ。因みに大学は俺たちより偏差値高いぞ、勉強もアレで運転も任せて俺らカッコいいとこなくね?」
「ええと、俺は鳴見 春斗。秋男の中学時代からの友だちで大学入ってからまた仲良くしてるんだ。よろしく」
 春斗が差し出した手を睨み付けていた冬子だったが、「……よろしく」とぶっきらぼうに言って手を握ったのであった。見た目も口調も可愛げの無いとはいえどもその手の柔らかさは間違いなく女の子そのものであった。



 夜の道は特に混んでいるわけでもなく順調に進んで行く。見覚えのない景色たちはやがてどこかで見たような景色へと変わって行き、そしてかつてはいつも見ていたあの頃と変わらぬ懐かしき景色へと変貌を遂げる。
 冬子は近くのスーパーの駐車場に車を停めた。
「飲み物でも食べ物でも好きなもの買って。秋男がうるさいからな」
 そう、後部座席に座っていた秋男は車内で流れている流行りの男性アイドルグループの甘い歌声をかき消す程の奇声をずっと上げ続けていた。
「腹減った喉乾いた食い物よこせ飲み物よこせなんでもいいからよこせよこせよーこーせー」
 最早これがBGMなのだとしか言えなくて、しかし冬子は何度も舌打ちしてただでさえ悪い目付きをよりいっそう悪く鋭く歪めていた。
 そのような事もあり、車を停めたのであった。
「春斗ダッシュ。あっ、金は2人で割り勘な」
 そう言って店に入るや否や秋男が手に取ったのはメロンパンとコーラ。春斗は麦茶を、冬子はコーヒーを持っていた。
「後で眠れなくならない?」
「今眠って私たちが心霊になるよりマシだろ」
 そんな黒いユーモアに満ち溢れた言葉を受けて頷きながら春斗は冬子のコーヒーを取って秋男と割り勘で払う。
「いいのか? 春斗も貧乏なんだろ」
 春斗は微笑んでいう。
「いいんだよ、ガソリン代の代わり」
「全然足りない」
 そしてみんな乗り込み走り出す自動車。秋男は1人でメロンパンを食べ終えていた。
「春斗に分けてやらないのか」
「何で? 俺のだし」
ー俺と秋男で割り勘したよな確かー
 呆れのあまり黙る春斗と呆れ交じりにため息をつく冬子。そして満足気な秋男の3人を乗せた車は古びた家を抜け、やがて見えて来る田畑を通り過ぎ、夜の中学校は車の窓越しに後ろへと流れて行き、しばらく走ったそこは木々に挟まれたコンクリートの道路。山へは登らず駐車場に停める。
 車から降りた3人を待ち受けたのは夜の公園。誰もいないだけにそれだけでも不気味な広い公園だが、行く場所はそこではない。
 春斗は辺りを見渡す。何かしらの気配を感じるのだ。冬子も立ち止まっていた。秋男は冬子に問いかける。
「またあれか? 心霊スポットで自殺スポットだから出て当然だっての」
 冬子は身震いして春斗の側に寄って地声混じりに囁く。
「気を付けろ、断末魔の残り香が見える」
「断末魔の……残り香?」
 春斗は頭にはてなを浮かべていた。
「死に際の叫び、断末魔の叫びの残響の事。見えるように漂って香りのように入り込む第六感に訴えかける何とも言えない霊の存在」
 つまり春斗が感じている気配のことであろう。冬子は春斗に訊ねた。
「春斗はここにどんな霊が現れるのか分かってるのか」
 春斗は素直に答えた。
「赤い服を着てダムのため池まで行ったら包丁を持った赤い服の女に襲われるんだよね……あっ」
「あのバカ」
 冬子は秋男を追いかけるように駆け出した。悪意に満ち溢れた彼が着ていたコートの色、それはくすんだ赤。まさにあの条件と一致しているではないか。
 春斗もまた冬子を追いかけてダムの方へと向かって行く。遠目に見えたそれは尻もちをついて後退りをしている秋男と秋男のすぐ後ろにまで来ている冬子。そして秋男の目の前にいるのは赤い服を着た長い黒髪の女。生気のない白い肌と血走った瞳、そして手に持っていたのは血の滴る包丁。よく見るとその女が着ている服はただの赤ではなかった。腹部に入った切れ目から流れ出る血は血の気のない青白い脚を伝って滴り、また、赤い服だと思っていたそれは血の赤に染まった白い服。女は苦しそうな呻き声を口から洩らしながら一歩ずつ、ゆっくりと迫ってくる。
「こ、こここ、来ないでくれ」
 情けない声を上げながら後退りをする秋男。その肩を冬子がつかみ、「逃げるぞ」と声をかけていた。
 女はゆっくりと近付いていたが、秋男たちが走って逃げて行くのを目にすると動きを止める。ぶら下がる腕は振り子のように力なく揺れていた。
 そして包丁を持つ腕を上げて、奇声を上げながら走り出す。
「逃げろ!」
 冬子に言われるがままに春斗も後ろへと振り返り逃げ出す。
 生気は無いが怨みは篭もり切ったあの目を見て平常でいられるはずもなく、春斗もまた、焦って走っていた。心臓の鼓動は速くなり、頭の中は恐怖一色で満たされていく。
 走れども走れども見えて来ない出口。足を動かす速度すらも遅く思えて追い付かれないだろうか、そんな恐怖を感じていた。
 どれだけ走っただろう。ようやく見えて来た車。そこにたどり着いた春斗はドアノブを引く。何度でも引いて開こうとする。しかし、そのドアが開く事はなかった。
「くそっ」
「何してる!」
 冬子は秋男の手を引いて力の限り走っていた。息は切れ切れ、その表情は死の一歩手前。冬子は車の元へと駆けて鍵を差し込む。
 ようやく開かれたドアから3人は乗り込み車を走らせた。



 あるカフェにて、目にクマのある目付きの悪い女が新聞を広げて春斗に突き出した。
「昨日の件、多分割と最近の事件だ」
 そこには殺人事件の記事が載っていた。
 被害者は白いワンピースを着た女性で腹部を3回刺されて死亡したとの事。
 春斗は昨夜のあの女の事を思い出して全身に走る寒気に打ちひしがれていた。
「冬子、もしかして」
 ただ黙っていただけの秋男と理解の言葉を見せた春斗の顔を見て冬子はただ一度頷くだけであった。
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