断末魔の残り香

焼魚圭

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バイトの知り合い

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 それは引越しのトラックへの荷物運びのバイトでの事。秋男はひたすら重い荷物をトラックの中へと運び続けていた。肉体労働、それは頭を使う事が苦手な秋男にとっては気楽な業務、身体を動かす事が快感で、幸い隣りでノロノロと荷物を運ぶやせ細った30代の男のように怒られる事も殆どなく秋男にとっての良い職場。秋男は最早大学の勉強など馬鹿馬鹿しく思っていた。
 そして荷物を運び続けたその後の休憩時間、その時に飲む缶コーヒーこそが頑張った自身へのご褒美、充実感の始点であった。
「働いてからのこの一本が堪らねぇな」
 ひとりで椅子に座る休憩所、その向こう側、不透明な窓ガラスの向こう側に人影を見た。
「誰だ? 一緒に休もうぜ」
 上機嫌な秋男はドアを開いて確かめるもそこには誰もいなかった。
ーなんだ? もしや俺の大好物かー
 秋男の大好物、それは例のあれだった。
ー例の、いや、霊のだー
 そうして興奮している秋男の元にシワだらけの顔の男が近寄ってきた。それはこのバイトでのお偉い人物。その立場に固まって頭の固まった男。男は腕時計を眺めながら目を見開いて驚きを露わにして言った。
「秋男、休憩はまだだぞ」
 秋男はそれから1秒たりとも数える事を許さずに頭を下げる。
「すんません」
「たく、お前が休憩時間間違えるなんて珍しいじゃねえかもしや、そういう事か?」
 秋男はひとつ気になった事を訊ねた。
「そういえばさっきそこ誰か通ってませんしたか」
 男は頭を掻きながらため息をつく。
「やっぱりそれか、今日はお前はもう帰れ。休憩時間間違えて何かを見間違えるようなやつは怪我すんだ。いつもそうだ、寝不足じゃねえだろうな」
 思う事はあれどもこの人に逆らう事は出来ない。秋男はやむを得ず帰る支度を始める事にした。通り過ぎるその時、男は言った。
「次も見かけたって言うならもうここ辞めろ。気の抜けたやつは怪我するだけだ、なんで全員揃いも揃って同じ事をいうのだか」
 そして帰ってから3日後、再び職場を訪れて聞いた話によるとあの男は仕事の途中で怪我をして病院へと運ばれたのだという。
 秋男は思うのであった。
 あのお偉いさんも休憩時間を間違えて来ていたのだろう。そしてあの人影を見て怪我を負ったのだと。



 木目の壁、良い雰囲気が漂うカフェ、目の前には目の下にクマのある目つきの悪い女性、波佐見 冬子。春斗の視線は冬子に釘付けであった。慣れとは恐ろしいもので恐ろしい目付きはカッコ良さを感じさせる。
 冬子はコーヒーをひと口飲んで春斗に目を向ける。
「見てばかりじゃなくて何か喋ったらどうだ? 私も話題は特に持ってないがな」

 いつもかっこいいね

 綺麗な髪だね

 口調はアレだけどいつも優しいね

 かけたい言葉の数々は心の中に閉じこもってしまって出て来る事もなく、ただ仕舞っておく事しか出来なかった。想いの数々はただただ春斗の中で叫び続けるのみ。
 そんな言葉のひとつでも出してしまえば全てが変わり果てて今の3人の関係は終わってしまう。そんな気がしていた。
 ドアの開く音と共に店に入るふたりの男。秋男はカプチーノを頼むと冬子と春斗の元へと座る。もう1人の男、恐らく30代ほどの人物。
「どうだ、今回は彼が困ってるから助けてやるんだぜ」
 ふたりの注目を受けながら男は自己紹介をする。
「お、俺は雲仙 夏彦。秋男とは、バイトでし知り合ったんだ、よ、よろしく」
 あまりにもたどたどしい口調、声、その調子は常人とは思えないものであった。
「そ、その、俺はよく霊を見かけるんだ、あ、見かけるじゃなくて聞こえる、かな」
 曰く、その霊たちは複数人いて夜に戸を叩いてくる、雨の日はよく騒ぐ、外を歩く夏彦が人とすれ違うとたまに「殺せ」と言うなど、音だけで迫ってくるのだという。
 冬子は目を閉じてその話を聞いていたが、やがて目を開くと訊ね始める。
「出る時の条件は? 例えば毎回ある音楽を聴いている時だとか」
 それはつまり、ある周波数の音を聴く事で発生する幻聴説。男はそんな事を言う冬子を睨み付けて答えた。
「し、知らない! 音楽なんてただの音だ」
 それから置いている物や建物の角度や方角など様々な要因を推察するも、夏彦は不自然な程にキッパリと否定した。
 そんな会話も途切れてみんな静かになったその時、夏彦はふと呟くのであった。
「なぜ俺を喰った」
 春斗は驚きのあまり目を見開いて夏彦の方を見ていた。
「殺してやる」
 冬子は夏彦の方を睨みつける。
「ああ、ようやく死ねる」
 秋男は口を横に広げてニヤける。
「愛してた」
 整合性すら取れていない理解不能な言葉。誰が食べたのか、そこにいるのに。殺してやる、実際食べられていないにも関わらず放たれた言葉。ああ、ようやく死ねる、どういう事であろうか。愛してた、突然出て来る意味が分からない。
 3人には全くもって理解出来ないものであった。夏彦は突然頭を横に振り、そして言った。
「ぼーっとする、みんなどうしたんだ」
 冬子は春斗に顔を近付けて地声混じりに囁く。
「それぞれ違った断末魔の残り香が見えた」
 春斗は首を傾げる事で分からなかった事を示す。
 そしてみんなで話し合った結果、夏彦の家に向かう事にしたのであった。



 殺風景な部屋、生活に必要なもの以外は何もなくまさに貧乏人の部屋であった。
 そこで過ごす事が経過観察と言ったところであるが2時間経っても未だに何も起こらなかった。
 やがて、しびれを切らした秋男が言う。
「実は何もなかった、気のせいってオチか?」
 そして夏彦を見た途端、秋男は夏彦の目の色が変わっている事に気が付いた。
「なんだよ睨み付けて、怖いな」
「殺すぞ!」
 夏彦は立ち上がって台所から包丁を取り出して暴れ始めた。
「断末魔の残り香、それも濃厚な。これは大変だ」
 冬子の話す事によれば夏彦そのものから感じたらしい。つまり取り憑かれているということであろうか。春斗はそう予想し、暴れ回る夏彦から距離を取る。
 やがて夏彦は包丁を手から滑らせて床に落とし、頭を抱え込み地にしゃがみ込む。
「やめて、助けて」
 明らかに普通ではないその状態、秋男は夏彦を背負って寺か神社へと向かうべく家を飛び出した。
 ドアを出た先では涼しい空が待ち構えていた。それから夜の道を歩いて寺であれ神社であれ、探し求めて歩いていく。冬子は走って車を停めているところへと向かっていた。春斗は冬子に着いて行って突然出て行った秋男にメールを送って今いる場所を訊ねる。
 そして秋男たちを車に乗せて夜遅くまで神主がいる神社か常に住職のいる寺を探して走らせる。
「すまん、冷静じゃなかった」
「気にするな」
 冬子のそのひと言に救われて落ち着いた秋男。やがて車は神社に停まった。
 そして社務所を探して歩いていく。そこですれ違った巫女が言う。
「それはとんでもない、何人に取り憑かれているのですか」
 そう言って流れるように社務所へと案内され、中へと入る。
 そこに待つ坊主のような頭をした神主が夏彦の方に目を向けて言った。
「これは危ないな、呪術を行使した者の末路か」
「呪術? どういう事です?」
 訊ねる冬子に対して夏彦を持って何処かへと向かった神主に代わって巫女が説明を始めた。
「気配で丸わかりです。あの方は呪術、それも蠱毒を行ったようです」
 それは人を閉じ込め、ずっと放置していたという。やがて人々は殺し合いを始めて、生きるために人の肉を、魂を食べていく。そうして最後まで生き残った人物、それが夏彦なのだと説明を受けた。



 それは多少霊が見える程度の一般人の手に負える代物ではなく、彼らの限界を知らされた話。
 普通とその先にある深く昏い闇。その境目にある崖の前、3人は手を繋ぎあったまま後ろを振り返り、立ち去る。
 まるでそう思えるように身を引いて、普通の人であり続けたのであった。
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