君がため、滝を昇らん

娑婆聖堂

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第4話 館

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 イナバの村の長が住む館は、滝の大岩に向かって右の、家が固まった場所の真ん中辺りにある。木を乱雑に植えた、隙間から中が覗けるくらいの生垣が目印だ。
 他の村においてはほりや柵に囲まれていたりするが、滝から供給される豊富な水で周辺が元々平和な上、国自体小さなイナバでは、盗人も少なく外との区別が曖昧なままであった。

使者が来た次の日のことである。先日はスクナを先に帰したものの、朝廷に対して曲がりなりにもものを言えるのは村長だけ。一介の衛士たるヤヒロはもちろん、次期村長と目されてきたホオリとて何か出来るわけでもない。黙って使者が帰って行く様を見送る他なかった。

 堀っ立て小屋の柱に絡んでいた瓜の実をかじりつつ、ヤヒロは館へ向かっていた。
 青臭い果肉から酸味のある汁が溢れ喉へ流れる。あまいワタをタネごと噛み砕いて飲み込むと、あぜ道の横にヘタを放り投げた。口の周りを舐めとると川から風が吹いてくる。手を口に当てて、一つあくび。
しつこい蚊どももまだボウフラの状態で田んぼで浮き沈みしている、気持ちの良い日よりであった。

 館に足を運ぶのに特に理由があったわけではない。言うなれば暇だったからである。本来なら家の手伝いやら田の手入れで何かと手を動かす村人であるが、ヤヒロ天涯孤独の身であった。

 彼女の歳なら戸籍に従って土地を与えられ、その分の税を納める義務があるのだが、そもそも元となる家が無い。
農作業には何より人手が要る。自分一人食うだけならともかく、手のかかる田を個人で背負うのは無理があるのだ。
 そんなわけでヤヒロは村の警護の他に、繁忙期に手伝いをするくらいで、割とのんびり暮らしているのであった。 もっとも後ろに家が無いためにますます結婚相手としては敬遠されるのだが、今のところあまり気にしていない。

 国司や都の大邸宅ほどではないにせよ、なかなか立派な門構えを横切って、裏口から入る。井戸が真ん中にある空き地では、炊事洗濯、その他の雑事をこなす下人たちが歩き回り、それぞれがかしましく喋るものだから普段は戦場のようなやかましさである。
 しかし今日この時に限っては、館中の者たちがどこか遠慮するように黙りこくっている。歩いているときにも粛然とした気配を感じていたが、こうして直接に見ると、恐れていた事が現実になったと実感する。
ヤヒロが井戸の前まで進みでると、視線が集まるのを感じた。ヤヒロはかなり上背がある。女どころか男でも、ヤヒロより背が高いものは少ない。

洗濯物を桶に押し込んで洗っていた少女が、ヤヒロを見て近づく。歳は10代の半ばと言ったところか。亜麻色の髪に、青みがかった灰色の瞳。オオヤシマでは珍しい。大陸の北方の民族に見られる色合いであった。

「ヤヒロさん!」

「イヨか。元気だったか?」

「いえ、その、私は問題ないのですが、ホオリ様が」

「ああ、そうだろう、そうだろうな。ホオリ、様は今いるのか?」

「今はやしろ婆様ばばさまと話しているそうです」

ヤヒロは肩をすくめ、しばらく空を仰いだ。龍の滝には当然それを祭る社がある。そこの神人にして巫者である婆様は、龍に成らんとする者に心構えを教えたり、儀式を取り行って成功の確率を少しでも上げる、いわば助言者である。
そこで長く話し合うことなど知れている。
普段は冬ごもり前のリスのように働く下人たちも、ヤヒロたちの話に興味が傾くのか、どうにも動きが鈍い。

これでは仕事を邪魔しに来たようだ。衛士としてはバツが悪い。

「すまない。イヨを借りていってもいいかな?」

「ええ、いいですとも。その子今日は働き過ぎですよ。ほら、行っといで」

年長の下人の女に断りをいれると快諾される。ヤヒロはイヨを連れると生垣の向こうへ足を向けた。
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