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第七章 答え
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僕らは何とか集団を抜けた。
「はぁー、危なかった」
思わず安堵の溜息を漏らした。
「お前どうすんだよ! ヤバイぞ!」
深山が切羽詰まったように言う。
すると、瀬戸が言った。
「今日中に、答えを出せ!」
「えっ?」
「彼女はもうやるべきことをやったんだ。次はお前の番だろ?」
確かにそうだ。彼女はやるべきことをやった。
その結果、賞を貰った。
僕が出来ることは……
僕は決心した。
「……分かった。彼女に話をしてくる……」
朝はすっきり晴れていたのに、そのうち雨が降ってきた。激しい雷雨だった。
天気予報が外れたわけではなかった。朝の予報では、『夕立が来るかもしれないので、念のため傘を忘れないでください』と言っていた。だから僕はちゃんと傘を持ってきていた。
彼女に『話があるから会えないか』とチャットを送ると、『放課後、教室で待ってる』と返信が来た。
放課後まで、僕は特に緊張することもなかった。こういうときは、緊張するものなのだろうか?
今までこんな経験がなかったので、よく分からなかった。或いは、瀬戸と深山の後押しがあったからかもしれない。二人は、僕が放課後の閑散とした教室に入るとき、励ましてくれた。
「頑張ってこいよ!」
「しっかりと自分の気持ち、伝えてこい!」
二人はそのままこっそりと、廊下側の窓から教室を覗いていた。
あいつら、最初からそれが目当てなんじゃ……
放課後の教室は電気が消えていて、少し薄暗かった。外は雷雨で教室には独特の閉塞感が漂っている。
教室に入ったとき、彼女は反対側の窓から外を眺めていた。時々稲光がして、その度に彼女の顔がチカチカと青白く光っていた。
僕は、彼女の背中に声を掛けた。
「新聞、おめでとう!」
彼女は僕に気づくと、ゆっくりと振り返って僕の方を向いた。
「うん、ありがとう。驚いたでしょ?」
「そりゃあ、そうだよ。まさかコンクールに応募してたなんて」
「最初から決めてたんだ。出来上がったら応募するって。まぁ最初に水城くんに見せたかったんだけどね、応募の締切ギリギリになっちゃって……」
「そうだったんだ」
「ねぇ、水城くん、私がなんで稲葉くんのこと新聞にしようと思ったか、知ってる?」
「計画があったからじゃないの?」
「ふふふっ、私の新聞読んでないね?」
「えっ?」
「まぁ計画があったからっていうのもあるんだけどね、一番はやっぱり今の高校のみんなに稲葉くんのことを知って欲しかったの。こんなに友達想いの人が居たんだよって。本当ならこの高校に通ってたんだよって」
あぁ、最初に彼女から、彼のことを新聞にするという話を聞いたときに、そのアイデアがいいと思ったのは、僕もそう思ったからかもしれない。
みんなに彼のことを知って欲しいって。
「そんなことを編集後記に書いたら、なんかそれが審査員の琴線に触れたみたいでね」
編集後記に書いてあったのか……。そう言えば、あの騒動のせいで編集後記だけ読めなかった。僕は、一応彼女に弁明しておこうと思った。
「知ってる? 君の新聞の前、すごい人集り出来てるよ」
「えっ?」
「そのせいで新聞をゆっくり読めなかったよ」
「じゃあ私の新聞読もうとしてくれてたの?」
「当然でしょ? 途中まで読んだんだけど、編集後記のところは読めなかった」
「うふふっ、嬉しい」
彼女は本当に嬉しそうに笑った。
僕はそろそろかなと思った。
「この間の返事、してもいいかな?」
彼女の顔が、一瞬強ばるのが分かった。
「……うん」
彼女の声から緊張が伝わってくる。
もう僕の答えは決まっていた。
僕は少し間を置いてから、しっかり彼女の目を見て答えた。
「僕なんかで良ければ、宜しくお願いします」
そう言って僕は、お辞儀をした。
顔を上げると、彼女はきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「えっ……いいの?」
彼女は、驚いた様子で訊いた。
僕は彼女の言葉に頷いた。彼女の、信じられないとでも言わんばかりの顔が、あまりに可笑しかったので、僕は思わず吹き出してしまった。
しばらくすると、彼女の呆けた顔がだんだん綻んで笑顔になっていった。
「嬉しい」
彼女は先ほどよりも、更に一層嬉しそうに笑った。
やっぱり彼女の笑った顔が好きだなと僕は思った。
「ねぇ、今から新聞持って稲葉くんの家に行って、お母さんに新聞を見せてあげようと思うんだけど、一緒に行ってくれる?」
「いいね。きっとお母さんも喜ぶよ! でも、新聞まだ掲示されてるんじゃ……」
「うふふっ、実はコピーとってあるの」
こうして僕らは、帰りがけに白兎の家に寄ることになった。
教室を出ると、瀬戸と深山はもう居なかった。
気を利かせて先に帰ってくれたのかもしれない。
僕は心の中で二人に感謝した。
下駄箱でローファーに履き替えていると、先に履き終えた彼女が昇降口で立ち尽くしていた。
僕はどうしたのだろうと思い、彼女の視線の先を見た。しかし、特に変わった様子はない。ただ雨が降っているだけだ。いつの間にか雷は止んでいたが、まだ雨は結構降っている。
雨……、そうか!
僕は気づいた。
僕はそのまま昇降口を出て、持ってきた傘を差した。
そして、振り返って言った。
「ほら、来なよ」
「えっ?」
彼女は僕の言葉の意味が分からないようだった。
「傘、持ってきてないんでしょ?」
僕がそう言うと、彼女はようやく理解した。
「……いいの?」
「うん」
彼女は僕の傘に入ってきた。
僕らは一緒に歩き出した。
彼女との距離が急に近くなり、僕は何だかドキドキした。
もう僕ら付き合ってるんだし、このくらいしてもいいよね……?
あっという間に白兎の家に着いた。
インターホンを鳴らすと、お母さんが出迎えてくれた。この間より、少しばかり顔色が良くなっているような気がした。
リビングへ通されると、僕らはまず、白兎の仏壇の前へ行って、紅茶の茶葉をお供えした。来る途中に思いついて、二人で買ってきたものだ。銘柄は、生前彼が愛飲していたものを選んだ。それから二人で線香をあげ、彼に僕らの関係を報告した。
……白兎、僕は自分で考えて彼女と付き合うことに決めたよ……。
彼への報告が終わり、リビングのテーブルへ向かうと、お母さんはこの間と同じようにミルクティーを淹れてくれていた。
席についてミルクティーをもらい、一息吐くと、彼女が話を切り出した。
「お母さん、ようやく白兎くんの新聞が出来ました」
「まぁ、本当?」
お母さんの様子からして、新聞が出来たこと、いわんや、彼女の新聞が賞を獲ったことも、まだ耳にしていないようだった。
「はい、今日はその新聞を見せに来ました」
そう言うと、彼女は鞄の中からクリアファイルを取り出し、その中に入っていた新聞のコピーをお母さんの前にそっと提示した。
お母さんはその新聞を手に取ると、じっくりと読み始めた。
僕らはその様子を固唾を飲んで見守っていた。
お母さんは途中、クスッと笑ったり、うんうんと頷いたりしながら読んでいた。 その様子にどこか白兎の面影がある気がした。やっぱり親子だなと思った。
読み終えると、お母さんは彼女に言った。
「光莉さん、水城くん、ありがとうね。みんなに白兎のことを伝えようとしてくれて」
お母さんは、とても嬉しそうだった。
「お母さん、もう一つ、報告したいことがあります」
今度は僕から話し出した。
「僕たち、無事、付き合うことになりました」
お母さんは、それを聞くと更に嬉しそうに言った。
「あら、良かったわね~!」
「白兎くんの計画のお陰です」
彼女が答えた。
「大成功ね!」
お母さんは、まるで自分の立てた計画であるかのように成功を喜んでいた。
それからしばらく、白兎の思い出話に花が咲いた。お母さんは、彼の小さい頃のエピソードを話してくれたり、彼女は計画の立案中のエピソードを明かしたりした。僕も、彼との発表会の練習でのエピソードをいくつか喋ったりした。
そのうち僕は、あることを思いついた。僕はお母さんに頼んだ。
「すみません。ちょっと、彼の部屋に居ても良いですか?」
すると、お母さんは快く答えてくれた。
「ええ、もちろんよ」
彼の部屋に行くと、僕はレコードのある棚の横の棚を見た。
そこには彼のピアノの楽譜がたくさん置かれている。ショパン、リスト、ドビュッシー、ラフマニノフ……錚々たる作曲家たちのスペルが、背表紙に印刷されていた。
上から三段目の右の方に、目当ての楽譜はあった。一際背表紙が擦り減っていて、如何にも使い込まれているようだった。
その楽譜を取り出して、部屋の真ん中のグランドピアノの鍵盤蓋を開け、譜面台にあるページを広げて置いた。
そして、ゆっくりとその曲を弾き始めた。
その頃、リビングでの出来事を、僕は知る由もなかった――――
「あら、懐かしいわね~」
二階からピアノの音色が流れてくると、お母さんは呟いた。
「この曲、知ってるかしら?」
お母さんは、彼女に訊いた。
「何でしょう? なんか聴いたことはあります」
「ベートーヴェンの『悲愴』、第二楽章よ。あの子がよく弾いてたわ……」
お母さんは懐かしむように言った。
「彼――諏訪くん、ピアノも弾けるのね」
「私も初めて知りました」
「惚れ直しちゃったんじゃないの?(笑)」
「……少し」
彼女は恥ずかしそうに答えた。
「ねぇ、あなたはいつから諏訪くんのことを好きになったの?」
「……水城くんには内緒にしておいてもらえますか?」
「ええ、もちろんよ」
「実は私、10年前に一度、彼の演奏を聞いていたんです」
「えっ? 10年前ってもしかして……」
「ええ、そうです。稲葉くんもいた、あのヴァイオリンの発表会の時です。あの日、私も別の友達の演奏を聴きに来てて、彼の演奏を初めて聞きました」
「まぁ、そうだったの」
「私も同じでした。私は、稲葉くんほど音楽的なことは分かりませんでしたが、それでも水城くんの演奏はすごく印象に残りました。
それ以来、ずっとその時のことが忘れられませんでした。
中学生になって、稲葉くんと知り合い、あの時、同じ発表会に来ていたと知りました。私は思わず、あの名前も知らない誰かの演奏の話をすると、その人はうちの中学に通っていると聞いて、驚きました。こんな偶然があるんだって。
友達にその話をすると、『それって恋じゃないの?』って言われて、それから私は水城くんに恋してるんだって、気づいたんです」
「聞く人の心を動かせるような演奏が出来るって、素晴らしいことよね……」
「はい、本当に」
――『悲愴』という題は、ベートーヴェン本人が付けたか、少なくとも了承の元で付けられたものとされている。『悲愴』の言葉に秘められた真意は定かではないが、やはり当時悪化してきていた難聴が関わっているのではないかと、僕は思う。
そんな中で、この第二楽章は絶望の中に射し込む光のような、優しさや明るさを持っている。
まさに、嵐の後に現れる〝虹〟のようだ。
僕は最後の和音を弾き終え、余韻に浸っていた。
ふと気がつくと、お母さんがドアの所に立っていた。僕は我に返り、慌ててお母さんに謝った。
「ご、ごめんなさい! 勝手にお高いピアノを弾いてしまって」
「いえいえ、いいのよ。そのピアノ、もう誰も弾いてくれる人もいないし、久しぶりに弾いてもらって、きっとピアノも喜んでいるわ」
そう言うお母さんはとても笑顔で、僕は安心した。
一階に下りると、彼女は既に帰る準備をしていた。僕も急いで準備して玄関へ向かった。
外はもうすっかり雨が止んでいて、僕は傘立ての傘を手に取りながら、少し残念に思った。
玄関で、僕はお母さんに声を掛けられた。
「ねぇ、また弾きに来てくれるかしら?」
「えっ?」
僕は驚いた。と同時に嬉しくもあった。
「あのピアノ、また聴きたいわ」
「僕の演奏なんかで宜しければ、いつでも弾きますよ。でも今度は僕のヴァイオリンも聴いてくださいね?」
「ええ、そうね」
お母さんはとても嬉しそうだった。
こうして僕らは、お母さんに挨拶して白兎の家を後にした。
「もぉー、ビックリしたよ! 水城くん、ピアノも弾けるんだね!」
帰り道、彼女は感心したように言った。
「まぁ、ちょっとだけね」
僕はふと気になって、彼女に訊いた。
「そう言えばさ、僕がピアノ弾いてる間、何の話してたの?」
「えっ? それはね……」
彼女は僕の顔を一度見て、それから悪戯っぽい顔をした。
「やっばナイショ」
「えー、何それー、 教えてよー!」
「ヤダー」
僕が粘って彼女に訊いていると、彼女は突然、あっと言って僕の後ろを指差した。
「ねぇねぇ、見て見て、あれ」
そう言って僕の気を逸らそうとしているのが見え見えだ。
「そんな嘘には引っ掛からないよ」
僕はドヤ顔で言うと、彼女は
「違うよ。本当に、見て、あれ」
と真顔で言っている。
思わず振り返ると、そこにはくっきりと綺麗な虹が掛かっていた。
僕は思わず溜息を漏らした。
「……綺麗」
「うん」
彼女も見とれているようだった。
「何か、白兎くんが私たちを祝福してくれてるみたいだね」
彼女はそんなことを言った。
本当にそのようだと僕は思った。
虹に見守られる中、僕らは手を繋いで帰っていった。
「はぁー、危なかった」
思わず安堵の溜息を漏らした。
「お前どうすんだよ! ヤバイぞ!」
深山が切羽詰まったように言う。
すると、瀬戸が言った。
「今日中に、答えを出せ!」
「えっ?」
「彼女はもうやるべきことをやったんだ。次はお前の番だろ?」
確かにそうだ。彼女はやるべきことをやった。
その結果、賞を貰った。
僕が出来ることは……
僕は決心した。
「……分かった。彼女に話をしてくる……」
朝はすっきり晴れていたのに、そのうち雨が降ってきた。激しい雷雨だった。
天気予報が外れたわけではなかった。朝の予報では、『夕立が来るかもしれないので、念のため傘を忘れないでください』と言っていた。だから僕はちゃんと傘を持ってきていた。
彼女に『話があるから会えないか』とチャットを送ると、『放課後、教室で待ってる』と返信が来た。
放課後まで、僕は特に緊張することもなかった。こういうときは、緊張するものなのだろうか?
今までこんな経験がなかったので、よく分からなかった。或いは、瀬戸と深山の後押しがあったからかもしれない。二人は、僕が放課後の閑散とした教室に入るとき、励ましてくれた。
「頑張ってこいよ!」
「しっかりと自分の気持ち、伝えてこい!」
二人はそのままこっそりと、廊下側の窓から教室を覗いていた。
あいつら、最初からそれが目当てなんじゃ……
放課後の教室は電気が消えていて、少し薄暗かった。外は雷雨で教室には独特の閉塞感が漂っている。
教室に入ったとき、彼女は反対側の窓から外を眺めていた。時々稲光がして、その度に彼女の顔がチカチカと青白く光っていた。
僕は、彼女の背中に声を掛けた。
「新聞、おめでとう!」
彼女は僕に気づくと、ゆっくりと振り返って僕の方を向いた。
「うん、ありがとう。驚いたでしょ?」
「そりゃあ、そうだよ。まさかコンクールに応募してたなんて」
「最初から決めてたんだ。出来上がったら応募するって。まぁ最初に水城くんに見せたかったんだけどね、応募の締切ギリギリになっちゃって……」
「そうだったんだ」
「ねぇ、水城くん、私がなんで稲葉くんのこと新聞にしようと思ったか、知ってる?」
「計画があったからじゃないの?」
「ふふふっ、私の新聞読んでないね?」
「えっ?」
「まぁ計画があったからっていうのもあるんだけどね、一番はやっぱり今の高校のみんなに稲葉くんのことを知って欲しかったの。こんなに友達想いの人が居たんだよって。本当ならこの高校に通ってたんだよって」
あぁ、最初に彼女から、彼のことを新聞にするという話を聞いたときに、そのアイデアがいいと思ったのは、僕もそう思ったからかもしれない。
みんなに彼のことを知って欲しいって。
「そんなことを編集後記に書いたら、なんかそれが審査員の琴線に触れたみたいでね」
編集後記に書いてあったのか……。そう言えば、あの騒動のせいで編集後記だけ読めなかった。僕は、一応彼女に弁明しておこうと思った。
「知ってる? 君の新聞の前、すごい人集り出来てるよ」
「えっ?」
「そのせいで新聞をゆっくり読めなかったよ」
「じゃあ私の新聞読もうとしてくれてたの?」
「当然でしょ? 途中まで読んだんだけど、編集後記のところは読めなかった」
「うふふっ、嬉しい」
彼女は本当に嬉しそうに笑った。
僕はそろそろかなと思った。
「この間の返事、してもいいかな?」
彼女の顔が、一瞬強ばるのが分かった。
「……うん」
彼女の声から緊張が伝わってくる。
もう僕の答えは決まっていた。
僕は少し間を置いてから、しっかり彼女の目を見て答えた。
「僕なんかで良ければ、宜しくお願いします」
そう言って僕は、お辞儀をした。
顔を上げると、彼女はきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「えっ……いいの?」
彼女は、驚いた様子で訊いた。
僕は彼女の言葉に頷いた。彼女の、信じられないとでも言わんばかりの顔が、あまりに可笑しかったので、僕は思わず吹き出してしまった。
しばらくすると、彼女の呆けた顔がだんだん綻んで笑顔になっていった。
「嬉しい」
彼女は先ほどよりも、更に一層嬉しそうに笑った。
やっぱり彼女の笑った顔が好きだなと僕は思った。
「ねぇ、今から新聞持って稲葉くんの家に行って、お母さんに新聞を見せてあげようと思うんだけど、一緒に行ってくれる?」
「いいね。きっとお母さんも喜ぶよ! でも、新聞まだ掲示されてるんじゃ……」
「うふふっ、実はコピーとってあるの」
こうして僕らは、帰りがけに白兎の家に寄ることになった。
教室を出ると、瀬戸と深山はもう居なかった。
気を利かせて先に帰ってくれたのかもしれない。
僕は心の中で二人に感謝した。
下駄箱でローファーに履き替えていると、先に履き終えた彼女が昇降口で立ち尽くしていた。
僕はどうしたのだろうと思い、彼女の視線の先を見た。しかし、特に変わった様子はない。ただ雨が降っているだけだ。いつの間にか雷は止んでいたが、まだ雨は結構降っている。
雨……、そうか!
僕は気づいた。
僕はそのまま昇降口を出て、持ってきた傘を差した。
そして、振り返って言った。
「ほら、来なよ」
「えっ?」
彼女は僕の言葉の意味が分からないようだった。
「傘、持ってきてないんでしょ?」
僕がそう言うと、彼女はようやく理解した。
「……いいの?」
「うん」
彼女は僕の傘に入ってきた。
僕らは一緒に歩き出した。
彼女との距離が急に近くなり、僕は何だかドキドキした。
もう僕ら付き合ってるんだし、このくらいしてもいいよね……?
あっという間に白兎の家に着いた。
インターホンを鳴らすと、お母さんが出迎えてくれた。この間より、少しばかり顔色が良くなっているような気がした。
リビングへ通されると、僕らはまず、白兎の仏壇の前へ行って、紅茶の茶葉をお供えした。来る途中に思いついて、二人で買ってきたものだ。銘柄は、生前彼が愛飲していたものを選んだ。それから二人で線香をあげ、彼に僕らの関係を報告した。
……白兎、僕は自分で考えて彼女と付き合うことに決めたよ……。
彼への報告が終わり、リビングのテーブルへ向かうと、お母さんはこの間と同じようにミルクティーを淹れてくれていた。
席についてミルクティーをもらい、一息吐くと、彼女が話を切り出した。
「お母さん、ようやく白兎くんの新聞が出来ました」
「まぁ、本当?」
お母さんの様子からして、新聞が出来たこと、いわんや、彼女の新聞が賞を獲ったことも、まだ耳にしていないようだった。
「はい、今日はその新聞を見せに来ました」
そう言うと、彼女は鞄の中からクリアファイルを取り出し、その中に入っていた新聞のコピーをお母さんの前にそっと提示した。
お母さんはその新聞を手に取ると、じっくりと読み始めた。
僕らはその様子を固唾を飲んで見守っていた。
お母さんは途中、クスッと笑ったり、うんうんと頷いたりしながら読んでいた。 その様子にどこか白兎の面影がある気がした。やっぱり親子だなと思った。
読み終えると、お母さんは彼女に言った。
「光莉さん、水城くん、ありがとうね。みんなに白兎のことを伝えようとしてくれて」
お母さんは、とても嬉しそうだった。
「お母さん、もう一つ、報告したいことがあります」
今度は僕から話し出した。
「僕たち、無事、付き合うことになりました」
お母さんは、それを聞くと更に嬉しそうに言った。
「あら、良かったわね~!」
「白兎くんの計画のお陰です」
彼女が答えた。
「大成功ね!」
お母さんは、まるで自分の立てた計画であるかのように成功を喜んでいた。
それからしばらく、白兎の思い出話に花が咲いた。お母さんは、彼の小さい頃のエピソードを話してくれたり、彼女は計画の立案中のエピソードを明かしたりした。僕も、彼との発表会の練習でのエピソードをいくつか喋ったりした。
そのうち僕は、あることを思いついた。僕はお母さんに頼んだ。
「すみません。ちょっと、彼の部屋に居ても良いですか?」
すると、お母さんは快く答えてくれた。
「ええ、もちろんよ」
彼の部屋に行くと、僕はレコードのある棚の横の棚を見た。
そこには彼のピアノの楽譜がたくさん置かれている。ショパン、リスト、ドビュッシー、ラフマニノフ……錚々たる作曲家たちのスペルが、背表紙に印刷されていた。
上から三段目の右の方に、目当ての楽譜はあった。一際背表紙が擦り減っていて、如何にも使い込まれているようだった。
その楽譜を取り出して、部屋の真ん中のグランドピアノの鍵盤蓋を開け、譜面台にあるページを広げて置いた。
そして、ゆっくりとその曲を弾き始めた。
その頃、リビングでの出来事を、僕は知る由もなかった――――
「あら、懐かしいわね~」
二階からピアノの音色が流れてくると、お母さんは呟いた。
「この曲、知ってるかしら?」
お母さんは、彼女に訊いた。
「何でしょう? なんか聴いたことはあります」
「ベートーヴェンの『悲愴』、第二楽章よ。あの子がよく弾いてたわ……」
お母さんは懐かしむように言った。
「彼――諏訪くん、ピアノも弾けるのね」
「私も初めて知りました」
「惚れ直しちゃったんじゃないの?(笑)」
「……少し」
彼女は恥ずかしそうに答えた。
「ねぇ、あなたはいつから諏訪くんのことを好きになったの?」
「……水城くんには内緒にしておいてもらえますか?」
「ええ、もちろんよ」
「実は私、10年前に一度、彼の演奏を聞いていたんです」
「えっ? 10年前ってもしかして……」
「ええ、そうです。稲葉くんもいた、あのヴァイオリンの発表会の時です。あの日、私も別の友達の演奏を聴きに来てて、彼の演奏を初めて聞きました」
「まぁ、そうだったの」
「私も同じでした。私は、稲葉くんほど音楽的なことは分かりませんでしたが、それでも水城くんの演奏はすごく印象に残りました。
それ以来、ずっとその時のことが忘れられませんでした。
中学生になって、稲葉くんと知り合い、あの時、同じ発表会に来ていたと知りました。私は思わず、あの名前も知らない誰かの演奏の話をすると、その人はうちの中学に通っていると聞いて、驚きました。こんな偶然があるんだって。
友達にその話をすると、『それって恋じゃないの?』って言われて、それから私は水城くんに恋してるんだって、気づいたんです」
「聞く人の心を動かせるような演奏が出来るって、素晴らしいことよね……」
「はい、本当に」
――『悲愴』という題は、ベートーヴェン本人が付けたか、少なくとも了承の元で付けられたものとされている。『悲愴』の言葉に秘められた真意は定かではないが、やはり当時悪化してきていた難聴が関わっているのではないかと、僕は思う。
そんな中で、この第二楽章は絶望の中に射し込む光のような、優しさや明るさを持っている。
まさに、嵐の後に現れる〝虹〟のようだ。
僕は最後の和音を弾き終え、余韻に浸っていた。
ふと気がつくと、お母さんがドアの所に立っていた。僕は我に返り、慌ててお母さんに謝った。
「ご、ごめんなさい! 勝手にお高いピアノを弾いてしまって」
「いえいえ、いいのよ。そのピアノ、もう誰も弾いてくれる人もいないし、久しぶりに弾いてもらって、きっとピアノも喜んでいるわ」
そう言うお母さんはとても笑顔で、僕は安心した。
一階に下りると、彼女は既に帰る準備をしていた。僕も急いで準備して玄関へ向かった。
外はもうすっかり雨が止んでいて、僕は傘立ての傘を手に取りながら、少し残念に思った。
玄関で、僕はお母さんに声を掛けられた。
「ねぇ、また弾きに来てくれるかしら?」
「えっ?」
僕は驚いた。と同時に嬉しくもあった。
「あのピアノ、また聴きたいわ」
「僕の演奏なんかで宜しければ、いつでも弾きますよ。でも今度は僕のヴァイオリンも聴いてくださいね?」
「ええ、そうね」
お母さんはとても嬉しそうだった。
こうして僕らは、お母さんに挨拶して白兎の家を後にした。
「もぉー、ビックリしたよ! 水城くん、ピアノも弾けるんだね!」
帰り道、彼女は感心したように言った。
「まぁ、ちょっとだけね」
僕はふと気になって、彼女に訊いた。
「そう言えばさ、僕がピアノ弾いてる間、何の話してたの?」
「えっ? それはね……」
彼女は僕の顔を一度見て、それから悪戯っぽい顔をした。
「やっばナイショ」
「えー、何それー、 教えてよー!」
「ヤダー」
僕が粘って彼女に訊いていると、彼女は突然、あっと言って僕の後ろを指差した。
「ねぇねぇ、見て見て、あれ」
そう言って僕の気を逸らそうとしているのが見え見えだ。
「そんな嘘には引っ掛からないよ」
僕はドヤ顔で言うと、彼女は
「違うよ。本当に、見て、あれ」
と真顔で言っている。
思わず振り返ると、そこにはくっきりと綺麗な虹が掛かっていた。
僕は思わず溜息を漏らした。
「……綺麗」
「うん」
彼女も見とれているようだった。
「何か、白兎くんが私たちを祝福してくれてるみたいだね」
彼女はそんなことを言った。
本当にそのようだと僕は思った。
虹に見守られる中、僕らは手を繋いで帰っていった。
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復讐のための五つの方法
炭田おと
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