恋喰らい 序

葉月キツネ

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恋喰らいのサガ

恋喰らいの生き方5

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「さてこれでゆっくり話ができるか」
 戻ってくると大きく一息ついてから話を切り出した。
 それを皮切りにテンポよく会話が進みだすことはなかった。お互いが口を閉ざしたまま、時が流れる。
 口を開くべきは自分なのは分かっている。それを理解した上で今口を閉ざしている。
「日を改めて明日にしようか」
「父に襲われました。未遂ですけど」
 六田さんの言葉が言い終わる前に事実を伝えた。単純な出来事を単純な言葉で。
 対面の人物の顔が険しくなった。眉間にしわがより、目を細め、無言でこっちを観察するように視線を浴びせてくる。さっきまとは纏う空気が違う。
「襲われて抵抗した拍子に父を食べました。食べれたんです、恋喰らいとして。それでそのまま家から逃げてきました。」
 自分の中の疑問点と共にことの顛末を話す。そこには嘘はない。
 溜息ではない大きく息を吐く仕草をついたのは六田さんだった。息を飲んで今の話を聞いていたのかもしれない。その動作からは、安心したというようにも見える。
「最初はいつもの父でした。作ったご飯を褒めてくれて、笑い話をしてくれた。けど嘘のように、その後の言葉には下心が見えて、身体に手を這わされて、力で押さえてきました。必死に抵抗しました、勢い余って逆に押し倒す程に。でも、まさか、恋喰らいとして食べれるなんて想像しなかった」
 無言でずっと話を聞いている六田さんが口を開いた。まるでおかしなものを見るかのような目で、軽蔑するかのような口調で。
「なぜ、君はそんな悲惨な事を、にやけながら嬉しそうに話すんだい?」
 そんなことはないはずだ。自分が嫌な思いをしたのに、そんな顔をできるはずがない。そっと自分の顔の輪郭を手でなぞる、頬から顎にかけて手のひらを当てながら、自分の表情を確認するように。どことなく、口角が吊り上がっている。ポケットから携帯を取り出してカメラを起動、反転させる。そこに写っているのは紛れもなく自分自身だ。目は蕩けていて、口元も緩んでいる。確かに、私はにやけていた。
「嘘…」
「本当の事だよ。現実だ」
 顔は笑っていても、内心笑ってはいない。自分でも驚いている。うまく表情が作れない。悲しい時ってどんな顔をするんだっけ。嫌な時はどんな顔をするんだっけ。私は今悲しいはず。
「正直に答えてほしい」
 六田さんの眼光が鋭くなった。
「身体を触られて嫌だったかい?」
「嫌でした」
「それが父親でも?」
「父だからこそです」
「他の男でも?」
「男は皆一緒です」
「なぜお父さんと言わなくなった? 以前はお父さんと呼んでいたと思うが」
「お父さんと呼びたくないです。だけど父です」
「父親は美味しかったか?」
「美味しかった! 甘くて苦味のある味!」
 答えてから私は気づいた自分の変化に。それはお父さんから父と呼び名が変わっていたこと。最後の質問に答えた時には表情は崩れて、息を切らすくらいに勢いよく返答して、研究者が研究分野で新たな結果を見つけ出した時のような、嬉々とした声を出していた。
「君は父親をもう、父親と思っていないだろう。一介の男としか見ていない」
 こちらの口を挟む間もなく六田さんはしゃべり続ける。
「稀な事だとは思う。君は父親の心を今までに無意識にでも食べていなかった。君が前に言っていたように、幼少期はあまり父親と過ごさなかったからもしれない。そして今日初めて君は父親の恋心、もしくは父としての愛の心を食べた。そして、君はおかしくなった。さぞ父親の心は美味しかったろうに。なんせ18年分の感情だ。不味いわけがない」
 こちらを尻目に好き勝手に話す。
「君の自然と流れ出す誘惑にとうとう我慢できなくなったんだろう。君の父親は我慢強い男だ。今日まで持ちこたえたんだから。今日になって崩れた事に心あたりは?」
 父が今日まで我慢したこと。それはお母さんの存在だったのかもしれない。他人の目のあるところでは我慢できた。それか私が母に似てきたからなのか。それとも私自身が気が緩んで恋喰らいとしての香りを抑え込めてなかったのか。考え込むと無数の考えが出てきてまとまらない。何が悪かったのか分からない。けれど分かることは一つ。もうあんな蕩けるような、芳醇な甘さと程よい苦みが入り混じった心は食べられないということ。
 今になって後悔する。もっとしっかり味わって全て食べてしまえば良かったと。自分の痕跡と記憶も根こそぎ食べてしまえばもっと満たされていたに違いない。
「心あたりありそうだね」
「もう…食べられないんですよね」
 質問に質問で返す。
「もう無理だな、一人一回だけだからね」
 無情な答え。
「嫌! もう一回食べたい。誰でもいいからあの味をもう一回」
 私の中で何かが壊れた。こんなに何かを望んだことはなかった。自分の欲望を叫ぶように吐き出す。
「私ね、知ってるんです。恋心の味は作れる」
「ある程度はね。それは君が今まで食べた中で実践していたし、私も知ってるよ」
「大槻君は美味しかったんです。彼は私に長い間恋をしていたから」
「そうか。その大槻君は可哀想だね、報われなかった恋心は食べられてしまったんだから」
「可哀想?」
 その言葉は私の中で強く響いた。
「可哀想なのは私ですよ。好きでもない男に何回も告白されて、皆に噂されて。周りから見れば、大槻君が報われない恋を頑張って、私はそれをないがしろにした悪役だったでしょう」
 人がした自分の噂はこちらにも入ってくるものだ。表はにこやかでも裏では言いたい放題しているのが人間だと知っている。それを承知で私は今日まで生きてきた。自分も同じようにしていたから。自分で自分をだましながら、優等生のふりをしていた。
「男なんてみんな一緒、餌なんです」
 自分の倫理観を全て投げ捨てた。被っていた仮面を脱ぎ捨てて、今まで抑えていた感情を全てさらけ出した。これが今の恋喰らいとしての自分だ。
「だから。私自分好みの味に育てて食べます。父の味を超えるものを育てて食べたい」
 純粋な願い、そして食欲。それが今の私の行動原理になった記念すべき瞬間だ。
「今の君を見た人は驚くだろうね。まるで別人のようだ。いや、仮面を脱いだということはもはや別人なのか。悩ましいところだね」
 茶化すように言葉を投げてくる。
「別にこのまま過ごそうとは思ってません。今迄通り、表向きには優等生です。そうじゃないと純粋な恋心を抱いてくれる人なんていないでしょ」
「でも今の君がそれなりに育ったものを目の前に我慢できるとは思えないな」
「馬鹿にしてますか?」
 元々助けを求めたのはこちらだが、今の一言はとても不快だ。欲しいのは同意で挑発ではない。
「まぁ今日は疲れただろう。君にここの鍵を渡して置くから好きに使うといい明日には仕事があるからまた来るけどね」
 そう言い残すとポケットから鍵を取り出してテーブルに置いた。
「今後どうするかは一晩ゆっくり考えるといい」
 その言葉を告げると立ち上がり、扉へ向かいそのまま出て行った。
 残されたのは自分と飲みかけの珈琲の入ったカップと飲みかけのミネラルウォーター。外からは音もなく、ただクーラーの稼働音だけが響く。
「これ私が片づけたらいいのかしら」
 残されたカップを眺めながら返事のこない質問をつぶやいた。
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