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第2話 ヒルトラウト
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マルーシャはこの国の姫だ。
だから、朝起きて夜寝るまで、ほとんどのことはたくさん雇っている召使いが行う。
「なんてことはまったくないんだな……」
そうひとりごとを言いながら、平民の服に着替える。
階段を降りて勝手口から外に出た。黒い館は高くて頑丈な石壁に囲われていて、その敷地内の畑に歩いていく。天気は良く、少し肌寒いのがかえってとてもすがすがしい。
「どれにしようかな」
そこそこに育ったニンジンを一本抜いた。
たしかに、この国には姫や王子がたくさんいて、彼らはたくさん召使いを雇っているらしい。
しかし、マルーシャが住む館には、最低限の人数しかいない。自分でやれることは自分でやる、という方針なのだ。
「今日はいるかしら」
畑の近くにある館の裏門から出て歩いていく。
すると館の裏手はすぐに湖になっている。ヒルトラウト湖だ。
風がないので水面は微動だにせず、その向こうのコルドゥラ山脈を映し、手前の小さな桟橋には二人乗りのボートがもやってある。
湖の横に林があって、そこに速足で近づいていく。林の端の日なたに、いつも野ウサギがいるのだ。
「いたわ」
野ウサギはまだ完全にマルーシャになついたわけではないが、だいぶ近くまで寄れるようになった。ニンジンを地面に置いて離れる。以前なら、マルーシャがだいぶ離れないとニンジンに寄ってこなかったが、今なら少し離れただけでニンジンに近づいてくる。
今日は一匹だけだった。
土と同じような毛色の、少し痩せた貧相な姿。そして、近づいて顔を正面から見ると、あまり可愛くない。不細工なのだ。貴族たちが飼っているペットとは違う。
「でも」
この野ウサギと自分になにほどの差があるだろうか。
むしろ、彼らのほうが自由ではないのか。この国では、教皇が国のトップであり、そして男子しかなれない。かといって、この国の姫が何か他の職業を自由に選ぶことも、できない。
マルーシャは、まだ二十歳にも満たない年齢で、この地域の統治に関する公務を行っている。周囲からも、聡明だと言われている。しかし、自由だろうか?
「わたし、ウサギになりたいわ」
そう呟きながら、館へと戻っていった。
畑で今度は自分の朝食用の野菜をいくつか収穫したマルーシャは、そのまま館の一階にある厨房に入っていった。
「おはようマルーシャ」
「おはようマリー」
途中のダイニングですでに教育係のマリーが朝食を摂っていた。
「昨日の残りのスープを温めておいたわ」
「はーい、ありがとう」
包丁を取り出して、野菜を切って即席のサラダを作る。水につけてあった大豆のチーズをお皿に乗っけて、穀物を炊いたものをカップに盛って準備完了。
すべてトレイにのっけてダイニングテーブルに持ってきて、いただきますと手を合わせた。
「ギルバートは?」
「もうすぐ来るんじゃない?」
マリーとギルバートは夫婦でマルーシャの教育係をやっており、ギルバートは自宅から通っている。この大きな館にふだん寝泊まりするのはマリーとマルーシャだけだ。
見た目はごくふつうのおばさんのマリー。
「今日の予定は?」
「午前中はヒスイと歌の練習、午後からヨナタンとインゲ村に行ってくるよ」
「そうね、たまには大自然のなかで思いっきり遊んだほうがいい」
コルドゥラ山脈のふもとの村に、羊飼いの仕事を手伝いにいくのだ。
「レストランのホールの仕事よりは楽しいかも」
マルーシャは、社会勉強のために身分を偽って短期の仕事に就くことがある。つい最近、この近隣地域で最も大都市であるアイヒホルンの、あるレストランで働いていたのだ。
「あなたは教皇の本当の娘ではないわ」
そのマリーの言葉に、口に含んだスープをぶはーっと噴き出してしまった。ゴホゴホとせき込みながら、噴き出したものを布巾で拭いていくマルーシャ。
「すべての虚構をあばいて、真実をつかみとるのよ」
というのはマリーの口癖だった。
「でも、真実とは恐ろしいものよ」
だから人々は簡単に真実には到達しないのよ、というのもマリーの口癖だった。
「本当かしら?」
布巾で拭い終わったあと、マリーに尋ねようとしたそのとき、ピロンピロンと何かが鳴る音。
「ギルバートが来たのかしら?」
この館の内部には、いたるところに侵入者を告げるマジックアーティファクトが置いてある。
しばらくして、
「やあおはよう君たち」
ギルバートがダイニングに入ってきた。彼はそのままキッチンへいって自分の朝食を手早く作り、それをテーブルへもってきた。
「どうかしたのかい?」
二人の様子がいつもと違うと思ったのか、ギルバートが尋ねた。
「マリーが、わたしは教皇の娘じゃないって言ったの」
そのマルーシャの言葉を聞いて、口に含んだスープをぶはーっと噴き出したギルバート。
「す、すまない、驚いたもんでね」
「ニンジャでも驚くの?」
「もちろん、今のは演技さ!」
そう、ギルバートはふだんからニンジャを自称している。そして、マリーのほうはクノイチだという。
「じゃあ今の話は本当なの?」
我々がある筋から得た情報ではね、と答えるギルバート。
二人とも背が低く、少し太っていて、見た目もふつうで、ギルバートは口ひげを生やしていて、しかもお腹まで出ている。つまり、マルーシャが一般に頭のなかで描いているニンジャのイメージとは異なるのだ。
「ニンジャとはそういうものだよ」
というのはギルバートの口癖で、ほとんどのニンジャは見た目にニンジャっぽくないらしい。確かに、見た目がいかにもニンジャっぽいと、ニンジャだとばれやすいかもしれない。
それに、マルーシャは一度だけ、ギルバートが館の高い石壁に走っていって駆け上がるのを見せてもらったことがある。そのときギルバートは壁から飛び降りてきて、真っ赤な顔をして汗をかきながら息を切らしていた。
「はが、本質はほこじゃない。ほの国を、ほうするのか? ほこが大事じゃないかな」
口にものを含みながら話すギルバート。この教国が徐々に腐敗して、悪くなってきている、というのも二人がよくマルーシャに教えていることだった。
それは、時々首都のビヨルリンシティへ公務で出かけていくマルーシャ本人も感じていることだった。
「ごちそうさま」
まだ話し足りない気分だったが、朝食をすぐに終えて、家庭教師のヒスイが来るまでにいろいろとこなさいといけない家事があった。
朝食後の食器洗い、井戸水を汲んできて洗濯、厩舎で馬の餌やり、自室の掃除、トイレ掃除、お風呂場の掃除、庭の掃除、などなど。
マリーとギルバートが代わりにやってくれることもあるが、彼らも何かと任務を抱えているようで、必要な時以外はよくいなくなる。
家事を終えて自室で休んでいると、部屋の隅に飾ってある人体模型がカタカタ鳴り出した。
「ヒスイかな?」
玄関ホールへ降りていくマルーシャ。ちょうどそこへ、とても背の高い人物が入ってきた。
「おはようございます、妃殿下」
「おはようヒスイ」
ヒスイはすぐ洗面所へ行って手を洗い、汗を拭きながら玄関ホールへ戻ってきた。
「今日も走ってきたの?」
「ええ」
そう言って大きな体で走るポーズをとってみせるヒスイ。彼女は、アイヒホルンからさらに向こうの町に住んでいて、ここまで十キロほどの距離を走ってやってくる。
背がとても高く、無駄な肉がついていないしっかりした骨格、同様にしっかりしたあご回り、きれいなブロンドの髪を後ろで束ねる女性だった。
ピアノという大きな楽器の前に置かれた椅子に腰掛けるヒスイ。そこに座ると、大きなピアノも小さく見えてしまう。
「さあ、はじめましょう!」
マルーシャがその横に立ち、音階の練習が始まった。
各音階ごとにマアと発声する。基礎練習を大事にする、マルーシャはこの国でも有名な歌姫なのだ。そして、ヒスイは大きな体をしているがとても優しく、マルーシャはこのヒスイと歌の練習をするのが好きだった。
「今日は何を歌いましょう」
基礎練習が終わるとその日歌いたい歌を何曲か歌うのだが、たいていマルーシャが最初に選ぶのは得意のローレシア鎮魂歌だった。
だから、朝起きて夜寝るまで、ほとんどのことはたくさん雇っている召使いが行う。
「なんてことはまったくないんだな……」
そうひとりごとを言いながら、平民の服に着替える。
階段を降りて勝手口から外に出た。黒い館は高くて頑丈な石壁に囲われていて、その敷地内の畑に歩いていく。天気は良く、少し肌寒いのがかえってとてもすがすがしい。
「どれにしようかな」
そこそこに育ったニンジンを一本抜いた。
たしかに、この国には姫や王子がたくさんいて、彼らはたくさん召使いを雇っているらしい。
しかし、マルーシャが住む館には、最低限の人数しかいない。自分でやれることは自分でやる、という方針なのだ。
「今日はいるかしら」
畑の近くにある館の裏門から出て歩いていく。
すると館の裏手はすぐに湖になっている。ヒルトラウト湖だ。
風がないので水面は微動だにせず、その向こうのコルドゥラ山脈を映し、手前の小さな桟橋には二人乗りのボートがもやってある。
湖の横に林があって、そこに速足で近づいていく。林の端の日なたに、いつも野ウサギがいるのだ。
「いたわ」
野ウサギはまだ完全にマルーシャになついたわけではないが、だいぶ近くまで寄れるようになった。ニンジンを地面に置いて離れる。以前なら、マルーシャがだいぶ離れないとニンジンに寄ってこなかったが、今なら少し離れただけでニンジンに近づいてくる。
今日は一匹だけだった。
土と同じような毛色の、少し痩せた貧相な姿。そして、近づいて顔を正面から見ると、あまり可愛くない。不細工なのだ。貴族たちが飼っているペットとは違う。
「でも」
この野ウサギと自分になにほどの差があるだろうか。
むしろ、彼らのほうが自由ではないのか。この国では、教皇が国のトップであり、そして男子しかなれない。かといって、この国の姫が何か他の職業を自由に選ぶことも、できない。
マルーシャは、まだ二十歳にも満たない年齢で、この地域の統治に関する公務を行っている。周囲からも、聡明だと言われている。しかし、自由だろうか?
「わたし、ウサギになりたいわ」
そう呟きながら、館へと戻っていった。
畑で今度は自分の朝食用の野菜をいくつか収穫したマルーシャは、そのまま館の一階にある厨房に入っていった。
「おはようマルーシャ」
「おはようマリー」
途中のダイニングですでに教育係のマリーが朝食を摂っていた。
「昨日の残りのスープを温めておいたわ」
「はーい、ありがとう」
包丁を取り出して、野菜を切って即席のサラダを作る。水につけてあった大豆のチーズをお皿に乗っけて、穀物を炊いたものをカップに盛って準備完了。
すべてトレイにのっけてダイニングテーブルに持ってきて、いただきますと手を合わせた。
「ギルバートは?」
「もうすぐ来るんじゃない?」
マリーとギルバートは夫婦でマルーシャの教育係をやっており、ギルバートは自宅から通っている。この大きな館にふだん寝泊まりするのはマリーとマルーシャだけだ。
見た目はごくふつうのおばさんのマリー。
「今日の予定は?」
「午前中はヒスイと歌の練習、午後からヨナタンとインゲ村に行ってくるよ」
「そうね、たまには大自然のなかで思いっきり遊んだほうがいい」
コルドゥラ山脈のふもとの村に、羊飼いの仕事を手伝いにいくのだ。
「レストランのホールの仕事よりは楽しいかも」
マルーシャは、社会勉強のために身分を偽って短期の仕事に就くことがある。つい最近、この近隣地域で最も大都市であるアイヒホルンの、あるレストランで働いていたのだ。
「あなたは教皇の本当の娘ではないわ」
そのマリーの言葉に、口に含んだスープをぶはーっと噴き出してしまった。ゴホゴホとせき込みながら、噴き出したものを布巾で拭いていくマルーシャ。
「すべての虚構をあばいて、真実をつかみとるのよ」
というのはマリーの口癖だった。
「でも、真実とは恐ろしいものよ」
だから人々は簡単に真実には到達しないのよ、というのもマリーの口癖だった。
「本当かしら?」
布巾で拭い終わったあと、マリーに尋ねようとしたそのとき、ピロンピロンと何かが鳴る音。
「ギルバートが来たのかしら?」
この館の内部には、いたるところに侵入者を告げるマジックアーティファクトが置いてある。
しばらくして、
「やあおはよう君たち」
ギルバートがダイニングに入ってきた。彼はそのままキッチンへいって自分の朝食を手早く作り、それをテーブルへもってきた。
「どうかしたのかい?」
二人の様子がいつもと違うと思ったのか、ギルバートが尋ねた。
「マリーが、わたしは教皇の娘じゃないって言ったの」
そのマルーシャの言葉を聞いて、口に含んだスープをぶはーっと噴き出したギルバート。
「す、すまない、驚いたもんでね」
「ニンジャでも驚くの?」
「もちろん、今のは演技さ!」
そう、ギルバートはふだんからニンジャを自称している。そして、マリーのほうはクノイチだという。
「じゃあ今の話は本当なの?」
我々がある筋から得た情報ではね、と答えるギルバート。
二人とも背が低く、少し太っていて、見た目もふつうで、ギルバートは口ひげを生やしていて、しかもお腹まで出ている。つまり、マルーシャが一般に頭のなかで描いているニンジャのイメージとは異なるのだ。
「ニンジャとはそういうものだよ」
というのはギルバートの口癖で、ほとんどのニンジャは見た目にニンジャっぽくないらしい。確かに、見た目がいかにもニンジャっぽいと、ニンジャだとばれやすいかもしれない。
それに、マルーシャは一度だけ、ギルバートが館の高い石壁に走っていって駆け上がるのを見せてもらったことがある。そのときギルバートは壁から飛び降りてきて、真っ赤な顔をして汗をかきながら息を切らしていた。
「はが、本質はほこじゃない。ほの国を、ほうするのか? ほこが大事じゃないかな」
口にものを含みながら話すギルバート。この教国が徐々に腐敗して、悪くなってきている、というのも二人がよくマルーシャに教えていることだった。
それは、時々首都のビヨルリンシティへ公務で出かけていくマルーシャ本人も感じていることだった。
「ごちそうさま」
まだ話し足りない気分だったが、朝食をすぐに終えて、家庭教師のヒスイが来るまでにいろいろとこなさいといけない家事があった。
朝食後の食器洗い、井戸水を汲んできて洗濯、厩舎で馬の餌やり、自室の掃除、トイレ掃除、お風呂場の掃除、庭の掃除、などなど。
マリーとギルバートが代わりにやってくれることもあるが、彼らも何かと任務を抱えているようで、必要な時以外はよくいなくなる。
家事を終えて自室で休んでいると、部屋の隅に飾ってある人体模型がカタカタ鳴り出した。
「ヒスイかな?」
玄関ホールへ降りていくマルーシャ。ちょうどそこへ、とても背の高い人物が入ってきた。
「おはようございます、妃殿下」
「おはようヒスイ」
ヒスイはすぐ洗面所へ行って手を洗い、汗を拭きながら玄関ホールへ戻ってきた。
「今日も走ってきたの?」
「ええ」
そう言って大きな体で走るポーズをとってみせるヒスイ。彼女は、アイヒホルンからさらに向こうの町に住んでいて、ここまで十キロほどの距離を走ってやってくる。
背がとても高く、無駄な肉がついていないしっかりした骨格、同様にしっかりしたあご回り、きれいなブロンドの髪を後ろで束ねる女性だった。
ピアノという大きな楽器の前に置かれた椅子に腰掛けるヒスイ。そこに座ると、大きなピアノも小さく見えてしまう。
「さあ、はじめましょう!」
マルーシャがその横に立ち、音階の練習が始まった。
各音階ごとにマアと発声する。基礎練習を大事にする、マルーシャはこの国でも有名な歌姫なのだ。そして、ヒスイは大きな体をしているがとても優しく、マルーシャはこのヒスイと歌の練習をするのが好きだった。
「今日は何を歌いましょう」
基礎練習が終わるとその日歌いたい歌を何曲か歌うのだが、たいていマルーシャが最初に選ぶのは得意のローレシア鎮魂歌だった。
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