マルヴィナ戦記2 氷雪の歌姫

黒龍院如水

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第30話 鍼師

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 土気色の超巨大な蟹。

アイヒホルン城の西に陣取る首都軍本陣へ向かうかに見えた、城壁よりも高さのある奇怪なモンスターは、そのままふらふらと北門へ進路を変えた。

「ごごごごご」

首都方面から何台もやってきた、ひとの背丈ほどの高さのある大きな亀のような攻城兵器。それでもまだその蟹のモンスターよりはるかに小さいのだが、それに巨大な鋏が伸びていく、

すると、それがバランスを崩してふらついた。

「逃げろー!」

城壁上の兵士が蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、巨大な足が北門近くの城壁に衝突して轟音とともに土煙があがった。城壁の一部が崩れ、中の街並みが外から見えた。

「ごごごごご」

それでもその巨大な蟹は近接攻城兵器をつまんでは口に運び、つまんでは口に運び、つまんでは口に運びながらそのまま西にある首都軍本陣へ体を向けた。

本陣では、

「て、てててて、撤退だ! 親衛隊、来い!」
アブラーモ・ボッコリーニ大将が、しばらく巨大な蟹の行動に目を奪われていたが、あらためて慌てだした。

「副官、貴重品を集めてもってこい!」
副官が不承々々その指示に従い、麻袋に雑貨を詰めていく。

八人の上半身裸の屈強な槍兵がボッコリーニを取り囲み、槍を使って即席の輿を作ると、

「せーの、いち、に、っさん!」
掛け声とともにボッコリーニの巨体を持ち上げ、えっほえっほと坂をくだっていく。

「よし、降ろせ!」
豪馬六頭立ての戦車によっこらせと乗って、御者が鞭をふるった。

本陣に迫りくる巨大な蟹を見て、もう一度全軍撤退と叫んだボッコリーニ。そのあとは、一度も振り返らずに首都ビヨルリンシティをめざして戦車を駆けさせた。

「ごごごごご」
巨大な蟹はひととおり攻城兵器らしきものを食べ終えると、そのまま出現した丘のあたりにずるずると戻っていく。体を揺すって轟音と地震のような揺れ、そして土煙とともに消えていった。

そのはるか北方、

凍り付くような北の海上では、濃い海の底から何か巨大なものが浮上していた。それは、徐々に海水の濁流を作りながら、小さな島ほどもある体をさらに浮上させていく。

「ざぱあ」
大量の海水を滴らせながら、海上十数メートルまで浮上したその平べったい超巨大な物体は、空中に浮いたままゆっくりと南下を始めた。

陸地近くで高度をさらにあげたそれは、しかし遠方ですでに状況が片付いたことを確認すると、ゆっくりゆっくりと海へ着水し、波音を立てながら無数の泡とともに元来た海中へと沈んでいった。


 アイヒホルン城内は、

住民と兵士の興奮で沸きかえりそうになっていた。

「崩れた北門付近の城壁を修復せよ!」

「ただちに騎兵隊を出せ! 追い打ちをかけろ!」

「歩兵部隊を編成して掃討作戦を行う!」
ユリアン・リーゼンフェルト将軍が矢継ぎ早に指示を出していく。

「騎兵の追い打ちと掃討作戦で勝利が確定次第、城内で勝どきを上げさせる。倉庫を開いて、住民や兵士に食料、水、そして酒を振る舞うことにしよう」
リーゼンフェルト将軍とトム・マーレイ少尉が話しているところへ、

「申し上げます!」
連絡兵がやってきた。

「なんだ?」

「教皇からの使者が到着しました!」

「教皇からの使者? ふっ」
まるで今までどこかで隠れて状況を見ていたかのようだ、とトム少尉に言い、少尉も釣られ笑いをした。

「大広間へ通せ!」
連絡兵に命じて、自分もすぐさま向かう。

五名ほどの従者を従えた、法衣を着た使者を大広間の上座に座らせ、その前に跪く将軍たち。

「教皇陛下より、和平の使者である」
懐から紙を取り出す使者。

「謹んで拝聴いたします」
下を向いたまま答える将軍。

「このたびは、アブラーモ・ボッコリーニ大将軍の多大なる正義感によりいたった内乱の儀。しかし、予は穏やかな風、平らな海をただ切望する、以上となる」

「はっ」
将軍がただそれだけを答えて黙ってしまったので、教皇の使者、

「つ、つまり、教皇陛下は平和を望んでおられる。ただちに兵を引かれよ……」

「お言葉ですがご使者、我らは一度も兵を出してはおりませぬ。ただし、巨大なモンスターの出現により、首都軍を含めたわが教国軍のけが人の救出は行っております」

「ぬ、けが人の救出とな……」
教国軍、そしてけが人救出という言い方をされ、返す言葉を探す使者、

「将軍」
大仰に言葉を切って間を置くと、

「教皇陛下は、ただちに首都に参られて、このたびの騒乱の疲れを癒されよ、とも申された」
使者が眉を寄せて強い視線を送る。

「それは光栄至極にございます……」
顔を上げて答えた将軍。

「ただ、アイヒホルン城は城壁を破壊され、修復が必要です。また、今後の巨大モンスターの襲来に備え、城壁の大幅な拡張も必要かと存じます。アイヒホルン城の守りが手薄になれば、首都の守りにも影響すると思われますが……」

「なるほど、それは急務じゃな」
首都の守りを持ち出されて、納得せざるを得ない教皇の使者。

「城の守りについては専門家が少なく、弊将が立ち会わなければなかなか進みません。それらがいったん落ち着けば、ただちに首都へはせ参じさせていただきたく」

「わかった、陛下にはそのように伝えておく、以後、励むように……」

「ははあ!」
将軍以下、慇懃に礼をして、教皇の使者が退散の準備を始めた。


 その翌日の朝、

前日にアルティメットの詠唱を終えたマルーシャは、そのまま軍中央施設の最も安全そうな地下の居室にずっと引きこもっていた。

「どうやら敵は退散したようだけど……」
前日の深夜にマリーが部屋まで伝えに来てくれたが、まだ今になっても外に出たい気分にならなかった。

「アルティメットも最終的には効いたようだけど、ちゃんとみんなから評価されるのかしら。人の目が怖い……」
ふとんを被って縮こまっていると、

部屋の外から声がした。
「マルーシャ様、戦勝祝いの方が来られています」

「戦勝祝い?」

「応接室でお待ちです」
そう言われて、来客用の服装に着替えて向かう。

「こちらです」
と案内されて部屋に入ると、濃い茶色のローブを着てそのフードで顔がよく見えない人物。二人とも応接室のソファに腰掛けた。

「戦勝祝いの占い師の者です。ひっひっひ」
出来ればお人払いを、と言われ、護衛兵に外へ出てもらう。

「このたびは、マルーシャ妃殿下、あなたおひとりの力による勝利。わたしの占いでもそのような結果が出ておりました」
声からすると、男性のようだ。

「そんなことはないわ」
謙遜して答えるが、ちょうど自信を失くしていたこともあり、悪い気分ではない。

「戦勝祝いに、このビヨルリンシティの教国饅頭と」
占い師が紙袋を姫に渡し、

「そして無料で占いもして差し上げましょう」
カードデッキを取り出して、その一番上をめくった。

「おお、これは鍼師……」
占い師はフードの下の目を光らせた。

「姫、今回はお疲れでしょう、ぜひ鍼師などを呼んで、体を癒していただきたく……」

「無論、そうね」
たしかに、ここ数日の気疲れがひどい。肩こりっぽいのだ。

「もしよろしければわたくしめが……」
と言いながら、占い師がフードをあげた。その中から、太った中年の男性、目をぎらつかせる。

「お久しぶりです、姫……」

「え? 誰だっけ?」
好感度の高そうな張り付いた笑顔、脂ぎった顔。男は姫に忘れ去られていたことでやや怯みつつも、立ち上がって姫の斜め後ろに回った。

「わ、わたしはあの有名なコメディアンです。ここはもうわたしの部下に固められています。姫も、おとなしくしていただければ悪くはしません……」
そう言いつつ、そっと肩に手を乗せた。

「ぞぞっ」
姫の体中に鳥肌が立つ音がしたが、しかし近づいた男の体から漂ってくる変な香水の匂いがして、そしてなぜか体が硬直している。

そこに、

「何をしている!」
突然応接室の扉が開き、ひとりの人間が飛び込んできた。

「のわっ!」
とたんに自称有名コメディアンの占い師の男が床に引きずり倒され、腕を極められた。

「姫、ご無事で?」

「ええ……」
それは、マルーシャの養育係のマリーに少し似た雰囲気の、小太りで優しい顔立ちの中年女性だった。

女性はすぐに衛兵を呼んだ。

「すぐに首都に護送しましょう」
と言って手を差し出してくる。

「姫、わたしは戦勝祝いでやってきた、マッサージ師のダフネと申します。本当に、ちょうどよかった」
とにっこりと笑った。

「姫、もしよろしければ、わたしも戦勝祝いの極上のマッサージを姫に差し上げたいです。近くに高級宿の最上階の部屋をご用意しておりますので……」
最上階といわれて、戦勝祝いも悪くないなと思いつつ、向かうことにしたマルーシャ。

そのまま、手を引かれるようにダフネと一緒に軍施設を出た。

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