九月はまだこない

小林 小鳩

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 早番で夕方に仕事を終えてから、岡井はそのまま荘野の家に向かう。団地の中からほとんど出ないで一日を過ごしている。会社から言われているやり方で、チャイムが鳴り終わってから十秒待ってもう一度鳴らす。なんとなくドアノブを握ると、予想通りの軽さで回った。
 ダイニングに姿はなく、撮影用の部屋へあがるとベランダに荘野の姿が見えた。いるじゃん、と岡井が声をかけても。荘野は手すりに半身を預けたまま、煙草を手にまだ青さの残る空をぼんやりと見ている。見ている、というよりも。
 おい、と肩を引っ張ると、目を見開いて驚いていた。
「ごめん、気付かなかった」
「下の階に灰を落とすなよ」
「空き家だよ。下も上も両脇ももう空き家だから、やりたい放題できるよ」
 荘野は床に置かれたツナの空き缶を拾い上げて、短くなった煙草を消す。
「吸ってたっけ?」
「しばらくやめてただけ。大体さ、煙草で出来た壁を背にして毎日働いてんだよ、俺は。禁煙出来てただけ偉いと思う」
 何事もなかったようにベランダの戸もカーテンも閉じられてしまった。
 映像制作を手伝わされるようになってから、色んなことを学んだ。ビデオカメラはリモコンで遠隔操作出来る。両サイドにちょうちょ結びの紐が付いている下着の紐はただの飾りだ。解けない。緊縛は既に型が出来ている縄が売られているし、一人で縛って解ける型もある。枷を繋ぐチェーンはスナップフックで片手で外せる。ローターは実際には挿入していないのはもちろん、電池すら入ってない。音だけ別のものを使って同録していた。「異物挿入とか、身体に悪そうじゃん」などと荘野はあっけらかんと言う。ありとあらゆる全てがフェイク。完全に騙されていた。自分の愚かさが恥ずかしい。
 そしてみなもちゃんには詳細な設定資料まであった。何もかもが演技で作り物で商売で。こういうのを偶像崇拝というのだと、思い知らされる。
「なんかネタないの。演出が単調のままだと飽きられるから色々試したいんだよね。岡井の性欲を見込んでブレーンとして雇ってんだから。俺はああいう動画が喜ばれるってのは頭でわかってても、それで抜けるセンスも性欲も一切ないからな。好きなやつが求めてるポイントがあるわけだろ? みなもちゃんにどういう辱めを与えたいのか、どんどんくれ」
 荘野はテーブルにグラスと缶ビールを並べる。
「えー……、そうすぐには思いつかない」
「ブルマとスクール水着、どっちが好き?」
「……スク水かなあ。そういえばみなもちゃんって、メイド服着ないの? 着たことないよね?」
「あー……。なんか、あんまり気が進まない」
「別に着ればいいじゃん。人気あるし、リクエストもあるでしょ」
 荘野は頬杖をついて、小さく唸りながら悩む。
「大体なんでそんなにみんな、メイド服を着せたがるの。これで抜けるっていうわかりやすい記号の一つだって知ってるけどさ」
「だから、そのお気に入りの記号をみなもちゃんが着てくれたら、もっと嬉しいわけでしょ」
「俺の中のみなもはそういう子じゃないんだよ。俺は着たいと思う服しか着たくない」
「女児服はいいんだ……?」
 ポテトチップスをつまみにビールをジンジャーエールで割ったシャンディガフを呑みながら、昨日アップした動画へのコメントを読む。
『みなもちゃん、怖い人から嫌な目に遭わされてない? 大丈夫?』
 オマエが怖い人だろ、と荘野は苦々しい顔で呟きながら返信する。
『だいじょうぶだよ! 調教たのしかった』
 文末にはハートマークをいくつも並べている。みなもの書き込みにひらがなが多いのは、幼児性を求められているから、だそうだ。
『個人撮影は不可なのに、男に撮らせるんだ』
 というコメントは無視するかどうか悩んで、
『信頼してるおともだちだよ』
 と一旦書いてから消して。結局もう一度書き直して投稿した。
 返信とは別に、動画サイトのアドレスを添えて、撮りためてあった写真も投稿する。たくさんのハッシュタグが付けられた、宣伝用の投稿。首輪と太腿の拘束具がチェーンで繋げられ、強制的に脚を開かされて、小さなリボンとピコレースが付いたショーツが露わになっている。どれも岡井が配達した荷物だ。
「この拘束具、通販サイトでジョークグッズってカテゴリで売られてたんだけど。どういう種類のジョークなんだ」
 荘野は濃いめのシャンディガフをもう一口飲んだ後立ち上がって、冷蔵庫の中から職場のコンビニの廃棄品であろう、カット野菜や業務用サイズの冷凍餃子を取り出す。袋麺の塩ラーメンを作るのに、水の代わりにトマトジュースを加えている。
「なにそれ美味しいの?」
「美味しいよ」
 荘野が夕飯を作っている間、岡井は開きっぱなしのDM欄をスクロールする。みなもに届くのは、好意的な意見ばかりではない。性的な誘い、局部の写真、アドバイスに見せかけた罵倒。褒めているようで、見下している。アイコンをタップすると、みなものSNSによくコメントを送っているアカウントだ。あまりにキャラが違う。こいつ、陰でこんなことしてたのかと呆れる。
 人前に姿を晒すだけで、自ら傷つきにいっているようなものだ。それが性的なコンテンツなら尚更。顔やスタイル、言動、パフォーマンス。視聴者はそれが自身の気にいるものでなければ、死ねなどと軽々しく暴言を吐き、もう金を払わないと脅す。勿論同じコンテンツで絶賛する者もいるが、こんなもので喜んでるのかよとアンチからのレスが付く。気にしないでいいよ、という優しい言葉と交換に自分の思い通りにしようとしてくる。
 その凶器は自覚のないまま自分の手にも握られている。悪意のない悪意を誰かに向けたことはないか? 彼らに対する怒りと同時に、自分自身も責められているような気になる。
 出来上がったトマト味のラーメンは確かに美味しかったのだが。
「なんでラーメンの中に餃子が混ざってんの」
「面倒だから一緒に煮た」
「見た目が地獄だ……映像制作者としての美意識とかないの」
「ないよ。あるわけねえだろ。この世の全てが面倒い」
 荘野はそう言うものの。アート志向な部分はたまに感じられるのだ。本当にやりたかったことを捨てきれてないような。
 ずっとSNSのトップに固定されている写真。よく見ないと裸と見間違えるような、ベージュ色の下着を身に付けたみなもが、コンビニの弁当や惣菜の容器と一緒に透明のゴミ袋に押し込められ、ベランダの隅に放置されている。悪趣味だと思いながらも、岡井はこの写真がとても好きだ。かつての自分はいつもこういう気分でいたから。
 ノートパソコンの画面に飛んだラーメンの汁をティッシュで拭い、荘野はDMで送られてきた「いくらでやらしてくれる?」「もっと稼げる動画撮影に興味ありませんか」というコメントをスパムだと報告する。それからSNSのレスにハートマークの返信をつけていく。
「セクキャバでさ、オプションでアイマスク付けさせられるんだけど。顔見られてない安心感があるのか、慣れてる客でも普段より触り方が乱暴なんだよ。一応こっちも視界奪われて感度高まってるって設定だから、そういう反応するんで余計にね。正直相手の顔が見えてない状態で身体触られるのって、めちゃくちゃ怖いよ。結局こいつもお互い顔が、正体がわからないから調子乗ってんだろうな。馬鹿が」
 岡井も配達先で受けた理不尽のことをぼんやり思い出しながら、アルコールでそれを飲み下す。相手は岡井という個人ではなく、配達員という漠然とした存在として接しているのだから、と思いながらも。上手く割り切れない。僕も、となにかフランクに愚痴を漏らしても良いのだろうけど。荘野の身に起こる出来事たちと比べたら取るに足らない気がして、黙ってしまう。
「あ、おしゃぶり型の口枷見つけたんだけど、どう? あざと過ぎる?」
「いいんじゃない。みなもちゃんらしくて」
「大人用ロンパースも見つけたんだよね。凄いよこれ、サイズが一九〇まである」
 いちご柄の大人用ロンパースと口枷をほしいものリストに加えた。公開のおねだりリストに衣装や小道具を入れて、ファンに買わせる。ファンは動画を見て自分が買ってあげたものを身に付けてくれてると喜ぶ、という仕組みだ。岡井も何度かギフトカードをDMで贈ったことがある。今となっては速やかに全額返金してもらいたいが。
 だらだらと区切りなく過ごしていると、荘野の電話が鳴る。バイト先からだ。「俺もう酒入っちゃってんですけど」などと少し話し込んだ後、「急に休みの人が出なきゃなんなくなった」と口を尖らせる。
 二時間寝るから起こして、と荘野は奥の四畳半の自室に引っ込み、岡井は夕食の後片付けをする。岡井の自宅にはないWi-FiでSNSを眺めるも、すぐに時間を持て余し、昨日アップされたばかりのみなも動画を再生する。
 ベランダの柵に四肢を縛り付けられているブルマ姿のみなも。咬まされた縄跳びで頭部を柵に固定され、全く身動きが取れない。なにかの罰を受けているようだ。一体何の罪を償っているのだろう。いつも通りの流れで惨めな姿をさらし、失禁してもなお放置されたまま、誰にも助けてもらえない。いつもそうやって終わる。
 画面の中のみなもは、ちゃんと「みなも」だ。撮影中は荘野の訳の分からない副業を手伝わされているという半ば諦めの入った感情が主だが。目の前にあのみなもがいる、と胸がぎゅうと締め付けられる。泥沼の底から岡井を救ってくれた神様の「みなも」。肉体的にも精神的にも苦痛であるはずなのに、どうしてこんなことを。
 時間になりアラームが鳴っても、荘野は起きる気配がない。細い手足を投げ出して眠る姿はあまりに無防備だ。みなもは荘野とイコールじゃない。あの子はあくまでも作られたもので、でも荘野の一部でもあって。今目の前にいるのは同じ団地で育った幼なじみで、口枷の隙間からよだれを垂らすあの子とは違う。わかってる。そんな風に見てはダメだ。みなもに投げる目線と同じように見てはいけない。みなもの身体に触るんじゃない。幼なじみを起こすだけ。岡井は自分に言い聞かせて深呼吸してから、荘野を揺さぶり起こす。
「おい、バイト行くんだろ」
 荘野は目を開けられない様子で、岡井の腕に掴まる。ほら起きろ、と引っ張り上半身を起こしてやる。
 外に出ると少しひんやりとしているが、夜風はなまぬるい。酔った頭に気持ち良い空気。蛍光灯の街灯は薄暗く、窓から漏れる明かりもまばらだ。
「なんかいいアイデア浮かんだ?」
「おねしょ、とか」
 荘野はうーん、と首をひねる
「拘束と失禁って要素はどの動画にも入れてるじゃん。そこの様式を守っていきたい気持ちはあるんだよね。あと起伏と刺激がないと飽きられる。そこそこ過激じゃないと有料会員を増やせない」
「癒し動画って位置づけじゃダメかな」
「うーん……前に生活を二十四時間生配信してる女の子の動画見たんだけど。寝てるだけの姿をワンカットで延々八時間見せられて、現代美術か? って思ったからさあ。そういう作品見たことあるよ。何時間も寝てる人を映してるだけの映画があるの」
 真顔で何を真剣に話し合ってるんだろうと時々思う。どうしようもなく下らないのに、胸の中が明るくなる。明日は何して遊ぶって約束して集まってた小学生の夏休みのようだ。この団地にいる間だけは、永遠に終わりが見えない夏休みの中にいる気分。二十四号棟の前で別れて、荘野はそのまま深夜帯のコンビニのバイトへ行った。


「あんた、団地の子とは遊ぶなってあれだけ言ったじゃない。程度が低い子たちと付き合うとあんたまで馬鹿になっちゃうって。言った通りになったじゃないの。お母さんの言う通りにしないから」
 もうとっくに成人して働いて自分名義の保険証も持っているのに、親にとってはいつまでも小さな子供のままだ。夕飯はいらないと言ったのに、岡井の母親は昨日の晩も用意をして帰りを待っていた。仕方なく次の朝食べることになる。それも母親は気に入らないらしい。岡井は食パンに鯖の塩焼きを挟んで食べながら、聞き飽きた小言に目を伏せる。物心ついた時からこんな調子だから、とっくに諦めているのだ。
 子供の頃から岡井はみんなと少しだけ歩幅が合わない。早歩きで何とか間に合うが、一息つくとまたすぐに遅れてしまう。しかし母親は、集団より少し先を行く子達と同じになれと。「他の子がみんな出来てるんだから、あんたにも出来ないわけないでしょう」と言うが、そんなのなんの励ましにもならない。むしろ余計な圧がかかる。
 自分も他の人間も同じという理論が通るのならば。どこの家庭の母親も、このように薄い紙で手を切るような傷を子供に与え続けるものなのなのだろうか。
「あんた、洗濯機とか冷蔵庫とかどうすんの。捨てるんでしょ」
「……待って、考えるから」
「またすぐ一人暮らしするからって持って帰ってきて、どうせ出来ないのに。あんたに一人暮らしなんて。引越しの邪魔になるんだから」
 岡井は実家に戻る時に、大学と会社の寮で使っていた家電を持ってきた。電器屋の新生活セットでまとめて購入した、洗濯機と冷蔵庫と電子レンジのセット。その時は本当にすぐ働いて実家を出るつもりだったのだが。今も岡井の自室を占拠したまま使われていない。
 どうせ出来ないのに。負けて怒られたくないが、戦って勝ち取るのも苦手だ。勝つというのは、結局は誰かを踏みつけているように思えるから。それは、自分が誰かに踏みつけられてると感じているのかもしれない。

 岡井が職場に向かっていると、道の向こうから自転車の人が軽く手を振ってくる。荘野だ。
「お疲れさま」
「今週早番? 勤労のご褒美にこれをやろう」
 そう言って荘野は自転車のカゴからアイスコーヒーのカップを差し出した。
「飲みかけじゃん」
「店行ったら夜番の学生バイトがさー、なんかはしゃいでカラーボール床にぶちまけて、そのくせもう時間なんでとか言ってあがりやがって。一時間くらいずっとそれ掃除してた」
「うっわ、むかつく」
 荘野は笑ってじゃあねと走り去った。岡井はカップの蓋を開け、半分しか入ってないアイスコーヒーを一気に飲み干し、さっきまでより気持ちが明るくなっていると気付く。こういうことをずっと積み重ねていけたらいいのに。
 営業は呼ばれていないところに行くが、配達は呼ばれたところに行く仕事だ。場違いじゃない安心感がある。午前の配達を終えて岡井が営業所に戻ると、休憩所は声の大きい人たちで占められている。なるべく視界に入らない場所で気配を消しながら昼食を取っていたのに。今日は運がなかった。
「今日上がったら、女いるとこ連れてってやるよ」
 とりわけ声のでかい先輩が肩を小突くように寄せてくる。
「若いんだし女くらいいなきゃな」
「あんま酒とか飲めないんで、そういうお店はちょっと……」
「何言ってんだよ。男だろ、おまえ」
「夜とか結構いつも友達と遊んでて、今日も約束してるので」
 友達ってのが彼女なんだろ、と横から助け舟が出るのだが。
「彼女がいてもキャバクラくらい良いだろうが」
 良くねえよ、と思うだけで声には出さない。それに「女のいるとこ」よりずっとヤバい、誰にも言えないようなことをしている。
 何もかもが面倒だが、かと言って辞めるほどでもない。辞めてどこに行くあてもないし。とりあえず貯金をして、本当に実家を出られればいいのだけれど。
 仕事が終わり、本当に荘野の家に行こうかと思い、岡井はメッセージアプリを立ち上げたけれど。急なバイトで疲れているだろうからやめた。
 みなものSNSのコメント欄を開くと、かわいい犯したいぶち込みたいしゃぶらせたいと、欲望を剥き出しにした言葉が並んでいる。それから罵詈雑言も。それら一つ一つを「侮辱をしています」「性的嫌がらせです」「暴力的な書き込みです」とSNSの運営に報告する。神様のためにしてやれることが少ない。
 褒め言葉のつもりで考えなしに投げかけていた言葉の数々が、岡井にはもう使えない。そういう設定のキャラを作ったのは荘野なのだけれど、荘野に読ませたくない。きっと友達だから客だからいろんなことを許されているだけで。
 荘野が誰も踏み入れさせないとてもやわらかな部分に、気付かずに足を置いてしまうかもしれない。誰かに嫌われたくないのとは違う優しさが必要なのかもしれない。
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