九月はまだこない

小林 小鳩

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 仕事中に岡井は重い荷物を積もうとして手を滑らせ、指を挟んでしまった。痛いけど大したことはないだろうと思っていたのに。軍手をはずしてみたら、皮がめくれて血が滲んでいた。傷口に触れないように指を撫でながら、荘野と過ごす時間の中でのあらゆることを思い返す。
 優しさで癒される傷もあるけれど。傷に触って痛みを感じることでしか癒されない傷もある。優しさや正しさばかりが人を救うわけではない。
 ふと腕の内側に目をやると、数日前にできた擦り傷が消えかかっている。あの時、荘野はこうやって。傷をゆっくりとなぞるように撫でた。

 寝るまでの数時間、岡井が軽くSNSを流し見していると、フォローしていないアカウントからDMが来ている。誰かと積極的にやり取りするわけではない岡井の裏アカウントには、アダルト系のスパムが忘れた頃に来るくらいだ。どうせまたその手のDMだろうと一応開いてみる。アイコンは、その手のスパムでよく見る海外の女性やネットから拾った女の子の画像ではない。
『みなもちゃんのこともっと知りたくないですか?』
 そんな書き出しのメッセージには、リンクと動画が添付されている。一瞬戸惑いながら再生してみると、そこに映っていたのは、今と少しだけ違うみなも。
 目隠しをされ手錠を嵌められ、男性に背後から抱きかかえられている。男性の両手は積極的にみなもの着ているセーラー服の下を弄り、それに反応するようにみなもも息混じりの声を漏らす。ああ、あああ、とAVで観たそれとそっくりに。気持ちいいんだ? こういうの好きなんでしょ? という男の声に頷く。みなもが自分で撮ってアップする動画での振る舞いとは、全く違う。
 映像はずっとバストアップの固定で背景がよく見えず、不自然に画面の縁が暗い。おそらく以前勤めていた店で撮られたもので、間違いなく盗撮だろう。
 続きが見たければ、と動画サイトのアドレスが書かれていた。コイツに金が入るのは許しがたい。
 スパムとして通報してやろうと思ったが、証拠は保存しておかなくては。岡井がDMのスクリーンショットをまだ出勤前の荘野に送ると、素早く電話がかかってきた。他のフォロワーからも既に報告があったらしい。
「南のおっさんだな、あれは。あの、膝の上でおもらししてくれの人」
「パンツ売ってくれの人じゃないんだ?」
「それもある。その何人かのうちの一人」
「盗撮で警察に通報とか……」
「うーん……。裁判もする時間も金も余裕もねえよ。一応、店長に相談しとく」
「あ、セクキャバの店長とまだ繋がってんだ……」
「今はコンセプトカフェやってて、またみなもちゃんに働いて欲しいって、ずーっと言われてるんだけど。なんで俺には男の娘の才能しかないんだろう。ていうかなんでこんなに男の娘の才能に溢れてるんだろう」
 もう仕事行かなきゃ、と通話は終了した。
 岡井の裏アカウントのタイムラインとSNS内を検索した限りでは、何人かDMに言及している。おそらく結構な人数のフォロワーに送っているのだろう。そんな動画に手を出さない誠実な人ばかりではないはずだ。
 みなもじゃなくても誰でもいいから抜ける動画が見たい。そんな人の方が多いのかもしれない。神様と崇めながら、信者たちは神自身に、供物のように肉体を差し出させ、貪る。神様という言葉は、驚くほど重くて軽い。

 その数日後の昼休み、とりあえず解決したと、かなりあっさりと荘野から電話がかかってきて。岡井は思わず、ハア? と声に出てしまった。
「店長に連絡したら、今はコンカフェの常連客らしくてさ。継続して勤めてる子もいるし。それで店に来る日がわかったから、店長に同席してもらって話し合いして、動画とアカウント全部目の前で削除させた。あの気持ち悪いDMをしつこく送ってくんのも南のおっさんだった……。実際会ったら縮こまりやがって。馬鹿が」
 呆れを滲ませながら、強く吐き捨てる。叩きつけるように。
「よかったー……。でも吉岡みたいにまだデータ持ってるかもよ」
「うーん。でも、免許証のコピーと会社の名刺は押さえて、一筆書かせたからね。次やったらどうなるかわかってるなって。盗撮の可能性があるから店も出禁」
「まあ、当然だね。制裁にしては軽すぎ」
「そうだよ、本来なら警察に突き出していい案件だからな。おかげで俺は週一でコンカフェで働くことになりそうなんだけど。せめて月二にならねえかな。店長がはりきって新しい源氏名と設定考えてて、死にたさがすごい」
 荘野の声は明るいけれど、安心はできない。岡井はコンビニの鮭おにぎりの包装を剥がそうとして失敗して、海苔がぼろぼろと膝や床にこぼれ落ちていく。自分に嫌気がさし、残り少ないカップラーメンの中におにぎりを入れ、ぐちゃぐちゃにかき混ぜながら、まだ解決していないことについて考えようとするけれど。頭が追いつかない。手の中のカップの中味のように複雑で、言葉にできないあれこれ。それでもわからないって簡単に放り出したくない。
 みなもの動画を見つけたあの瞬間のまぶしさ。一人で部屋にこもっていたあの頃はいつも、自分の身体と心がゆっくり離れて薄れていくような気分だった。みなものことを考えている間は、少なくとも孤独ではなく、生きていると思えた。渦に飲まれて粉々になってしまわないように、必死で掴んでいた。
 ああいうエロ動画が生きるよすがだったなんて、信じられないほどくだらなくて間違っているのかもしれないが。意味のないものとして片付けたくない。でも神として扱いたくない。荘野と一人の人間として向き合っていたい。
 岡井はひと口ずつ噛み締めながら、まだ答えのない感情について考え続けていた。


 その日の帰り、岡井が荘野の家に行くと。荘野もとい、みなもがメイド服姿で出迎えてくれて、くるりと回ってみせた。
「かわいい?」
「ああ、うん、かわいいかわいい」
 岡井が呆気にとられていると、みなももとい荘野は不満そうに口を尖らせる。
「なんだその手抜きの褒め方は。成人男性の中ではかなり上位でメイド服が似合ってると思うんだけど」
「……みなもちゃんは成人男性の自覚があるんだ?」
「あるよ。ついてるだろ。納税もしてるし」
「ビジネスって言ってるけど、結構男の娘を楽しんでるよね?」
「俺はかわいいし、自分がかわいいのは楽しいだろ」
「え? そういうものなの?」
 荘野はもう一度くるりと回ってスカートを翻す。そうして笑顔で、はいどうぞ、と裁ちばさみを岡井に差し出してくる。わけがわからず、岡井が躊躇して受け取らずにいると。
「これで切って。撮るから」
「待って待って、さすがに刃物を人に向けるのは怖すぎる」
「えー、わざわざ裁ちばさみ買って、ハンズフリーで撮れるようにチェストマウントまで用意したのに」
 まだ岡井がやるとは言っていないのに、荘野はカメラを身体に固定するチェストベルトを岡井につけようとする。
「刃物だよ?」
「そうだよ、わかってるよ。でもこの服は、普通に売ったり捨てるんじゃなくて、岡井に切り刻んでほしい」
 荘野はまっすぐに岡井に向き合う。もう一度差し出された裁ちばさみを、岡井は受け取った。
 裾のレースに鋏を入れると、鋭い音がした。そのままウエストまで真っ直ぐに鋏を進めると、白タイツに覆われた太腿と臀部が露わになる。足枷を嵌められ逃げられないみなもは、床の上で身体を捻り嫌がるそぶりを見せる。両腕は頭の上に回され、首の後側で手枷と首輪が繋がっており、大きくもがけば自分の首を締めてしまう。間違っても、身体を傷つけてしまわないように。エプロン、ワンピースと、岡井は慎重に鋏を入れる。切り裂かれるたびに、隠されていた肉体が現れる。獣の皮を剥いでいるような緊張感。これは玩具ではない。この肉体は、傷付けば血を流す。痛覚と感情を持った人間だ。
 メイド服はずたずたに切り裂かれ、欠片が一枚、また一枚と身体から剥がれ落ちる。こんな服は、早くこの世から消えてしまえばいい。出来るだけ残酷に服を切り刻んでいるつもりなのに。モニタに映るそれは、残酷な仕打ちを受けているのは服ではなく、みなもの方だ。
 襟まで鋏を進めると、咽喉元に刃先が向かう。みなもはシリコン製の口枷を噛まされていて、声も上げられない。慎重に、丁寧に。岡井なら大丈夫と信頼されて、この鋏を握っている。枷のせいで可動域が制限され、鋏を入れる場所によっては、みなもは屈辱的なポーズをとらざるを得ない。わざとそうしている。許しを乞うように床に這いつくばっている。カメラに向かって突き出された臀部から太腿にかけてを、鋏の背でゆっくりと撫でてやる。
 とうとうみなもは下着とタイツだけの姿にされてしまった。恥辱と恐怖に震える脚が押さえつけられ、タイツにも鋏が入れられる。傷つけてしまわないように、慎重に膝の裏からタイツを引っ張り上げ、切り裂いていく。白い皮膜のようなタイツが剥ぎ取られ、肌が露わになると。みなもはもうすっかりと服従している。
 打ち合わせ通りにやっていることだけれど。だんだんと現実と妄想が滲んで溶けていく。どこまでが打ち合わせで、どこまでが岡井の性欲と願望なのか。わからなくなりそうになる。でもこれは現実で、これはささやかな復讐だ。もう取り戻せない時間に対する復讐。もうこれ以上君が傷つかないようにという祈り。
 床には切り刻まれたメイド服の残骸と、みなもの肉体が転がっている。罠から逃げ出すことを諦め、仕留められるのを待つだけの獣。まずは頬、それから腹からたどって太腿を、鋏の背でそっと撫でてやる。手で触れるよりも優しく。
 緊張から解放されたのか、強張っていたみなもの肉体は次第に弛緩していく。首輪と手枷の接続部を外し、手枷を後ろ手に嵌め直す。すっかりと力が失われて伸びきった下肢。みなもはぐったりと重く頭部を床に転がし、深い息と共に涎を垂れ流す。その束の間の弛緩を壊すように、足枷を引っ張り上げ、首輪の後ろの金具と細いチェーンで繋いだ。
 みなもは大きく首を反らし、うぐっと小さく悲鳴を漏らす。逆エビに拘束され、下手に動けば自分の首を締め上げてしまう。剥き出しにされた全身に、再び恐怖と緊張を纏わされる。臀部を上下に震わせ、時折チェーンが真っ直ぐに張り詰める。尊厳も抵抗の手段も奪われ、放置されるみなもを、固定カメラが映し続ける。正面と背面、そしてサイドからのロングショット。
 誰にも助けを求められず、泣き叫ぶことも出来ないまま。みなもは失禁した。
 玩具のように弄ばれ甚ぶられ、打ち遣られる。あの子の苦しみは今も続いているのに、誰もかえりみない。拘束され放置されたまま。
 この動画をアップすれば、きっとまたみなもは、神だと称えられるだろう。荘野がどんな気持ちでこの服を切らせたか、岡井がどんな気持ちで鋏を入れたか、知らない人たちに。
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