短編集

小林 小鳩

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「ハイライト」

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「それと煙草、17番、ハイライト」
 彼から発せられるその台詞をいつも待っている。

 バイト先のコンビニに、平日は毎晩21時頃に来店するお客様。
 弁当、もしくはカップラーメンとおにぎり1個。紙パックの1リットルの緑茶。時にはコーラや新製品のペットボトル飲料。100円のドリップコーヒー。木曜日には雑誌。
 それから2、3日置きに買われる煙草。17番のハイライト。
 100種類以上ある煙草の番号と銘柄と配置を全ては覚えられないけれど、これだけは強く覚えている。だって彼が吸っているから。

 とりわけ美男子というわけでもなく、不快感を覚える顔でもないけど、さわやかさも別にない。でも何か気になる顔。あの顔だったら何時間でも眺めてられる。
 煙草の番号を言う声も、財布の小銭を探る仕草も、みんな好ましく思えるのは。
 俺が彼のことを好きになったからだ。

 ハイライトは彼の真似をして吸いはじめた。
 煙草を覚えたのは、20歳の誕生日。
 その頃付き合っていた2コ上の先輩が、大人になった記念にと自分の煙草を吸わせてくれた。その内自分も真似して先輩と同じセブンスターを吸いはじめた。
 先輩と別れた時がやめるきっかけだったのに、やめられないまま同じ煙草を吸い続けてしまっていた。忘れよう、と違う煙草を試したこともあったけれど。結局またセブンスターに戻ってしまう。未練なんかもうないはずなのに、悔しかった。
 就職活動で忙しくしていつも苛立っている先輩とは、喧嘩ばかりしてしまっていた。それでも先輩の就職が決まった時には、また元通りになると淡い期待があったのに。社会人になった先輩には俺のことがガキっぽくて煩わしく思えたようで、希望は煙のように消えてしまった。別れる時には、悲しいし悔しいけれど、少しほっとしてしまったんだった。喧嘩ばかりしてた最後の一年は、俺が好きだった先輩とは違う人間になってしまったように感じてたから。
 それからしばらくして、毎晩目の前に現れる彼のことを良いなと思いはじめて。煙草を変えた。
 セブンスターの味は、もう忘れてしまった。

 最も重要で、最も明るい。そんな瞬間がこの先の俺の人生にやってくるのだろうか。この箱の色みたくブルーなのに。
 そもそも、人生で最高の瞬間なんてものは、それが来た瞬間に今だってわかるようなものなのだろうか。
 俺はとっくにその瞬間を、気付かない内に通り過ぎてしまったような気がする。
 でもきっと、そんなものだろう。
 深く柔らかな青に包まれたハイライトを、また1本咥える。使い捨てのライターはガスが切れそうで上手く火が点かない。


 入店のチャイムが鳴ると同時に条件反射で「いらっしゃいませ」と声が出る。雑誌の棚を整理しながら横目で入り口の方を見ると、彼だった。
 今日は一日、宅配便を大量に持ち込まれたり、端末やコピー機のトラブルがあったりで、頭の中が沸き上がってすっかり疲れてしまっていたのに。思わずにやけてしまう。
 彼を見ると、ほっとする。
 アイドルの追っかけみたいだ。その人を見れば疲れが吹っ飛んでしまうような、そんな人。彼に会う為に働いてるってわけじゃないけど、バイトに行けば彼に会えるんだとは思う。
「年齢確認のタッチパネルを押していただけますか」
 こんな事務的な言葉じゃなくて、もっと近づく為の会話をしたいのに。そんな隙もないし、きっと彼を驚かせてしまうだろう。
 名前どころか話したこともないのに、お釣りを渡す瞬間にたまに指が触れ合うだけでいい気分になったりして。好きな相手のお気に入りと同じものを買ってみたりして。中学生だってもっとマシなレベルの恋愛をしている。
 変なこと言って気まずくなったら、向こうだって店に来にくくなるだろうし。一度口にしてしまった言葉は取り消せない。顔しか知らないのに好きだなんて言われても、彼を困らせるだけだ。ましてや男が男に、だ。
 ずっと距離を置いていた方がいいんだ。このままなら、傷つかずに済む。いくらでも彼を眺めていられる。それこそアイドルみたいに遠くから眺めて心の中では愛情や欲望を叫んでいる。
 どうせ俺みたいな男には、眺めてるだけの片想いが似合ってるんだ。

 一番欲しいものはきっと手に入らない。いつもそんな気がしてる。
 子供の頃からそうだ。やりたいと思った係や委員会は、じゃんけんで負けて出来なかった。犬が飼いたかったけど集合住宅だから、妥協して亀を買っていた。部活のレギュラーもなれなくて、最後の夏に半ば記念で試合に出させて貰ったけれど、何の結果も残せなかった。
 だからといって酷く絶望するほどでもない。だってほとんどの人間がそうやって生きているんだろう?
 それでも。一番大事なものや一番欲しいものに、一度でいいから選ばれたい。
 そう願いながらも、そんな最高の瞬間は永遠に来ないような気がしてる。


 雨降りのせいか客が全然来なくて、仕事をしようと探せば何かあるのだけど積極的に動く気にもなれなくて。レジカウンターで少し暇を持て余していた。こんな時、彼が来ればいいのに。それだけで幸せになれるくらい、俺は単純なのに。そんなことを考えてたら、彼が来た。
 日曜日の夜に来るのは珍しいな。
 首元が少しよれたTシャツにパーカー姿の彼。しかも黒縁の眼鏡をかけている。仕事帰りじゃない抜けた格好も、かわいいな。
 レジ台に置かれたのは、いつもの品々。弁当と紙パックの烏龍茶と、ハイライト。レジ横の豆大福も、追加でレジに置く。
 このところ毎日のように豚カルビ弁当だな。よっぽど気に入ったのかな。俺も買おう。
 豆大福に気をとられていたのか、ポイントカードを出し忘れて、俺に指摘されて慌てて財布の中を覗き込む。照れているのか彼の顔が少し緩んだ。そんなことも、見落とさない。
 彼を見送る、ありがとうございました、の声が少し高くなってしまう。
 だって、彼の後ろ髪が寝癖みたいに少しはねてた。
 いつもより無防備な姿に、思わずにやけてしまう。

 今日はいい物が見れた。その嬉しさを帰り道でも何度も反芻してた。
 家に帰って一息ついて、台所の換気扇の下でハイライトに火をつける。彼が纏っている匂いと、同じ匂いの煙草。
 煙の中でまた、彼のことを思い返す。こんな些細なことだって全部、今の俺にとっては大事なもの。もっとよく見えるように照らす光。興味深くて忘れられないような部分。俺にとって彼の存在は、この煙草の名前の通りだ。


 卒論の執筆が思うように進まなくて、テーブルの上のハイライトの箱に手を伸ばす。
 テーブルの上で煙草を立たせ、とんとんとフィルターを指で叩いて葉を先に詰める。こうやって吸うんだよ、と教えてくれたのは先輩だった。
 ゆっくりと弱く吸って吐き出した煙に、目を閉じる。自分の中にはまだ、先輩から与えられたものが残っていて、たぶんこのまま消えることはない。煙草だけじゃない、色んなことを教えてくれた。少し背伸びした、大人の愉しみも。
 セブンスターの味のキスと、肌の上をなぞるヤニで少し黄ばんだ指先。その指で、俺の身体をなぞるように撫でていく。
 それらの全てを早く追い出したくて、ハイライトの煙を肺いっぱいに含む。
 いらいらしてるのは、卒論のせいだけじゃないってわかってる。
 先輩からメールが届いた。「転勤で地方に行くから大学時代のみんなで集まりませんか」というお誘いのメール。
 それをとっくに別れているとはいえ、付き合っていた相手にC.C.メールで送るなよ。アドレス帳から消されていないことに驚きと喜びを一瞬感じてしまったけれど、特別な恋人から大学時代の友達っていうグループに移動されてるという事実が分かって、それはそれで腹が立つ。いっそのこと、アドレス帳から消されて誘われない方が良かった。
 付き合っていたことも別れたことも、他の誰にも秘密の関係だった。仲が良かったのに呼ばなければ、他の友人達の目から見たら、不自然に映るのだろう。よりを戻したいなんて未練はないけど、先輩に会うのは気まずい。でも友人達には会いたいし。
 たとえば先輩に「新しい恋人が出来たんだ」とか言えれば、もっと楽なんだけど。そういう嘘でも吐いてしまおうか。どんな人か訊かれたら、バイト先で出会ったとか言って、彼の容姿や仕草について答えてしまおうか。
 気付かない内に長く伸びた灰が落ちそうになっていて、慌てて灰皿に手を伸ばす。
 彼のこと、本当に恋人って呼べたらな。
 抱えた商品をカウンターに置く手や、お釣りを受け取る手。ぼんやり俯いて清算を待っている時の、ホットスナックを選んでいる時の顔。少し額は広くて眉は濃いめで鼻筋が通っていて、伏せた睫毛が長くて。ふにゃりと動く口。
 君はその手で、どんな風に恋人を抱くの。君はその口で、どんな風にキスをするの。
 頭の隅に掻き集められた彼の断片を一つ一つ拾い上げて丹念に眺めながら、俺の手は自身の下半身に伸びていく。


 一度だけ、彼がいつもと全く違うものを買ったことがあった。
 よく覚えてる。去年のクリスマス。今日みたいに無防備な格好で、ダウンジャケットのポケットに財布だけ入れて買い物に来た。
 ビール2缶と、小さなケーキと、コンドーム1箱。
 彼にだってコンドームを使う相手くらいいるんだろう。俺にだってそういう相手がいたんだから、なにもショックを受けるほどのことじゃない。俺が知ってる彼なんて、本当に何分の1っていう小さな部分だけで、ほとんど知らないのと同じだ。
 彼のこと、もっと知りたい気持ちと同じくらい、知りたくない気持ちがある。
 空想の中の彼のイメージが壊れてしまうのが怖いんだ。
 どうせいつか会えなくなるんだ。良い思い出のままとっておきたいと願うのは、間違ってないだろう。先輩みたいに、大好きだったのに変わってしまった姿を見るのは辛いから。わかり合ってるつもりだった相手だって俺だって、時が経つとともに変わっていってしまう。
 妄想の中の彼と現実の彼の違いは知らない方がいいのだろう。触れたら壊れてしまうから、ガラスケースの中に入れて眺めて楽しむ。
 それは罪なことじゃないはずだ。傷つかずに済む最善の方法なんだ。
 自分の思い描く君じゃない君を見てしまって、傷付きたくない。


 いつもの時間にいつも通りの彼がレジカウンターを挟んだ目の前にいる。なのに俺は彼の顔をよく見れない。
「ピザまんは只今準備中でして……他の商品ならご用意出来るんですけど」
「じゃあカレーまん1つ。あと17番、ハイライト」
「かしこまりました」
 いつものカップラーメンと紙パックの緑茶とハイライトが詰まった袋とは別に、カレーまん用の小さい袋を用意する。何でもない動作にやたら焦る。
 彼が来ることを今日ばかりは恐れていた。
 自分がしでかしたことを猛烈に反省しているし、誠実でない俺を見ないでくれと思う。
 キスマークが見えてないか急に不安になって、制服の襟を正した。

 昨日の夜は、例の集まりに結局行ってしまった。学生時代と同じように俺たちが隣同士に座ることをみんなが当たり前だと思っていて、2人の仲は変わっていないとみんなが信じて疑わなかった。
 酔った先輩を家まで送り届けろとみんな言われた時に、これからバイトのシフトが入ってるとか何とか言って断ることが出来た。
 駅に着いた時に、タクシーに乗せてしまっても良かった。途中で帰ってしまっても良かった。
 玄関に入って「ここまでついてきたってことは、おまえもそういうつもりなんだろ?」と言われて、ジーンズの中に手を入れられた時に、ベッドに押し倒されて服を脱がされた時に、それを拒否することが出来たのに。
 なんでその場の雰囲気に流されてしまったのだろう。俺は馬鹿だ。
 先輩の部屋で目が覚めて、今日はバイトが入ってると思い出して。彼に対して恥ずかしくなった。付き合ってもいない相手なのに。
 おまえも吸う? と差し出されたセブンスターを、断った。
「もう別の煙草吸ってるから。今付き合ってる人と同じのに変えたんだ」
 自分のバッグからハイライトを取り出し火を点けると「へえ、そうなんだ」と気のない返事をされた。
 俺に出来たのは、それで精一杯だった。
 でもこれで先輩に対する未練は完全に消えた。あわよくばやれると思われていたことにも腹が立つ。そうやって俺を軽んじる態度が許せなくて喧嘩になって別れたはずなのに。またみんなで集まろうなんて言われても、行くものか。次はない。
 先輩と別れて出来た空虚を埋めてくれたのは、紛れもなく彼だった。毎日コンビニに来る彼を観察していく内に、俺の中で彼が占めるスペースが増えていって、先輩の残したがらくたで山積みの部屋がすっかり片付いたような気分になった。だからこそ、彼の前では誠実な自分でいたかったのに。
 いつもより本数が増えてしまって空になったハイライトの箱を、その薄い群青色を捻り潰す。

 コンビニの店員と客じゃなくてさ。違う出会い方があったら、違う付き合い方があったんだろう。
 同級生とか同僚とか、友達の友達とか、通ってる店の常連同士とか。恋をするなら、そういうところから始めたかった。
 たとえ店員と客の関係だとしても、俺が女の子だったらさ。もうちょっと可愛げのある恋になったのに。いつも同じの買われますね、なんて笑いかけても、きっと不自然じゃなかったのに。
 恋人になれなくっても、こんなただ眺めてるだけで終わっていく恋じゃなかったはずなのに。


 大学がある駅の喫煙所で、ディバッグのポケットからハイライトの箱を取り出す。すっかり冷たくなった風に煙が溶け込んでいく。
 単位は取り終えてしまったから、もう大学に来るのは週に一度のゼミの日だけだし、卒論も提出して発表会を残すだけ。第二志望、しかも補欠で入った大学だけど、別に楽しくなかったわけじゃない。
 第一志望じゃないけど妥協出来るラインの会社から内定を貰った。内定者研修やなにやらで少しずつ忙しくなって、シフトを減らしている。春が来る前にはバイトを辞める。きっともうあのコンビニには行かない。彼にも会えない。
 どうせ会えなくなるのなら、最後に彼に声をかけるって手もある。告白する勇気なんてないし、男同士でさすがにそれはない。ただ、何か繋がりをもてるような関係に……。それで最悪の結果になったとしても、もう会わないのなら。
 だけどやっぱりこの気持ちを尊い憧れのまま残しておきたい気持ちが勝ってしまう。君の中で少しでも良い人間でいたいと願う。
 これ吸い終わったら帰ろうかなって思ったけど。今日はバイトもないし、なんとなく手持ち無沙汰で帰りたくなくて。2本目を咥える。
「ライター貸してくれませんか? 忘れちゃって」
 声をかけられて、顔を上げると。そこに立っていたのは彼だった。
 ケースの中に突っ込んだライターを取り出すだけなのに、スムーズにいかない。
 どうぞ、と渡す指が震えないよう、必死で力を込める。お釣りや商品を渡す時には絶対にこんなことはないのに。
「……あっ」
 彼は俺の顔をじっと見て、少し考えてから、
「コンビニの人だよね? どっかで見たことある顔だなって思ってて」
「そうです」
「やっぱりそうだった。人違いじゃなくてよかったー。いつもレジ打って貰ってるから、なんか知り合いみたいに顔と名前覚えてた」
 彼はニッと口を歪めて笑った。こんな表情、初めて見た。ただ買い物してるだけのやり取りじゃ見れなかった。
 ガスが切れそうなライターの弱い火は、風に吹かれて上手く点かなくて、風よけになるふりをして、そっと距離を近づけた。何度かの挑戦の末にようやく点いて、お互い顔をほころばせる。
 ゆっくりと優しく吸い込んで、ため息をつくように薄い煙を吐いていく。その一連の仕草が妙に艶かしくて。鼓動が早まる。
「君もハイライト吸ってるんだね」
 そうだよ、君に影響されたんだよ。
 言いたい言葉はたぶん言ってはいけない言葉で、言葉の代わりに煙を吐く。勢いに任せて強く吸って、顔だけがやたら熱くなっていく。
 喫煙所には他にも人がいるのに、その中で俺を選んでくれた。同じ煙草を吸っているって知ってくれた。少しだけでも近づきたくてしたことが、今、自分の人生を変えてるって、わかる。
「飯まだだったらさ、これ吸ったら一緒に食べ行かない?」
 青で充たされた胸の中に、スポットライトみたいに陽の光が強く当たったような。
 今だ。今この瞬間がまさに、人生最高の。
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