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Chapter.9「あるまじき行為への罰を受けたのは私だけではなかった。"彼"もまた、私の知らないところで報いを受けていた…」
ー記録.純司視点。
僕らはどこで間違えたんだろう。
いや、出会った時点で間違いだったのかもしれないー。
『うわぁ…花火ってこんなに大きいものなんですね!今日はお祭りに連れて来てくれてありがとうございます!純司さん』
『こちらこそ。藍子さんが喜んでくれてよかったです』
今から20年前、僕は妻の藍子と出会った。
藍子は素直で謙虚、だけどどこか無邪気な人だった。
そんな彼女に、僕は惹かれた。
だから。
「この先も僕のそばにいてくれ、藍子」
七月七日の雲ひとつない夜、藍子にそう言った。
「…はい、喜んで!」
そうして、僕らは夫婦になった。
互いに楽しみを共有し、だけど時に喧嘩してその後仲直り、そして家事を分担して…
テンプレートのような日々だったけど、それが幸せだった。
そしてそれから一年後。
「あなた、聞いて!」
「どうしたんだい?そんなに嬉しそうにして」
「今日病院に行ったら赤ちゃんがいると言われたの!」
「本当かい?それじゃあ、新しい家族を迎える準備をしなくちゃね!」
「ええ。早くあなたに会いたいなぁ」
藍子が新たな命を身籠った。
その時はこれからも新たな家族と共に幸せな日々が続く、と思っていた。
ーだけど。
七ヶ月検診の日のこと。
「…お子様についてですが、大変申しにくいのですが…」
医師が顔を曇らせる。
まさか。
嫌な予感がしたと同時に、
「×××××××××××××××××」
思い出すのも嫌な、残酷な宣告を医師はした。
「そんなっ…嘘ですよねっ…!?」
「…いえ、残念ながら…」
「どうして、どうしてっ…ああっ、ああぁああぁあーーーっ!!」
その場で泣き喚く藍子。
僕も唇を噛み締め、涙を堪えていた。
どうしてなんだ。
何がいけなかったんだ?
わからない。
このことが僕らを悲しみのどん底に突き落とし、そして全てを狂わせることになった…。
それからしばらく藍子は出会った頃とは別人のように塞ぎ込んでいた。
「…ごめんね。産んであげられなくて…」
前よりも食事の量は減り、表情も見かける時はいつも生気が欠けていた。
誰も悪くない。だからあまり自分を責めないでほしい。
そう慰めたかったけれど、それが余計に傷つけてしまう気がして言えなかった。
当然、夫婦での口数などほとんどなかった。
そんな日々が続いた。
それから一ヶ月後。
「…これからある人に会いに行こうと思うんだ」
「…え?」
「君も一緒に来てほしいんだ」
「…どうして?」
「…その人、君にも会いたいと言ってたから」
「…わかった」
そのある人、とは病院の人だけど。
このままでは二人が本当に壊れる気がして、どうにかできないかと藁にもすがる思いでこの決断をした。
なんとか藍子を納得させた僕は、藍子を連れて病院に連れて行った。
仏教の本が置かれた診察室にて。
僕らはあの日のことを話した。
最初は藍子は全てへの気力を無くしていて、全然話さなかった。
でも、何度か通ううちに、
「…一つの命をなくしたことへの罪悪感がどうしても頭から離れなくて…」
藍子が少しずつだけど、心のうちを吐き出すようになった。
「…あの子もきっと私たちと一緒の時間を過ごしたかったと思ってるかもしれないのに…」
「確かにそう思うと、それは辛いですよね。
…でも、赤ちゃんはあなたのことを責めてはいませんよ」
「…え?」
先生が、予想もしなかったことを言う。
僕らは唖然とする。
「…だってあなたはその子がお腹にいる時に愛情を注いでいたでしょう?赤ちゃんはそれだけでも自分を愛してくれてたって喜んでるはずよ」
「そう、なのですか…?」
「ええ。赤ちゃんはそんなあなたの幸せを誰よりも望んでいるわ。だからそう自分を責めないで」
「…こんな私を、許してくれるの?」
藍子の目から大粒の、温かな涙が流れる。
先生のその言葉が、藍子を罪の意識の檻から解放させたと思った。
「今も赤ちゃんはお空からあなたを見守っているわ。だから、その子のためにも笑っていたほうがいいと思うの」
「…っひくっ…うっ…私、あなたの…分まで幸せに生きる、からねっ…」
藍子は涙ながらも、その表情にわずかな笑みを含めた。
そしてその後、先生の勧めで藍子はリハビリを兼ねてデイケアを通うことになった。
そしてデイケア初日。
「ただいま!」
「おかえり」
あの時のことが嘘かのように明るく笑顔な藍子。
「どうだった?デイケアは」
「ええ。今日はお香を作ったの」
「そうなんだ。どんな香りのものを作ったの?」
「…そうねぇ、ジャスミンに近い香りだった、かな?とても神聖な感じの香りでうっとりしちゃった♪」
「そっか。それはよかった」
ああ。僕の判断は良かったんだ。
これで、藍子も少しは前を向けるようになったのだから。
これからもあの子の分も胸に二人で生きていこう。
そう誓った。
ーなのに。
それから藍子がデイケアに通い初めてから数日後。
「ただいま」
「おかえり。今日はどうだった?」
「今日は瞑想をしたの。人生で一番最高の時間だったわ」
「そうなんだ」
「最初は静かな感じだったけれど、途中から遠い星の女神様、ラウラ様が話しかけて来たの!」
「…ラウラ、様?」
ラウラ、と聞いて僕は眉を顰める。
その言葉で最初に思いつくのが、最近勧誘で見かける「ラウラ交友会」だからだ。
「それでね、ラウラ様が会いたい人がいるでしょう、って聞いて来たから、すかさずはい、て返事したら、
お腹にいたあの子も目の前に来たのよ!ママ元気?とも挨拶もしてきてくれて…本当に幸せだったわ」
「…それは、よかったね…」
そうはいうものの、すごく嫌な予感がした。
あそこのデイケア、もしかして…?
その夜、居ても立っても居られず、通っている病院のことを検索した。
口コミのページに手を伸ばす。
すると。
『デイケアを勧められて通ってみたんだけど、やることはヨガか瞑想か、自称神聖な力を持つ小物作りが多い。しかもラウラってワードがよく出るから、怖くなって変えた』
『デイケア勧められたら病院変えるべき。アレはマジでやばい』
『待合室にたくさんのラウラの本が置かれてたのを見て、あ、ダメなやつかもと思ってあれ以来俺は行ってない。ここだけは絶対に行くな』
など、病院及びデイケアに対するネガティブな意見とラウラ交友会の話題が多く飛び交っていた。
嫌な予感が当たった。
あそこはラウラと繋がっている。
そんな気がした。
そして翌日。
「藍子、申し訳ないけれど、病院を変えよう」
「…え?」
そう伝えたけど。
「…君が通っているデイケア、実は悪い人が運営してるものなんだ。このまま通うと、君が危ない目に遭うかもしれない。だからっ…」
「そんなことはないわっ!」
否定する藍子。
「ラウラ様はあなたが思うような悪い人ではないわ。私も最初は怖かったけれど、何度かお会いするうちに、慈悲深い人だって理解したの!
…だから、そんなに怖がらないで?」
その言葉に、僕は深い絶望を知る。
すでにやられてしまっているか。
家から近いから通いやすいだけで選んだだけで、こんなことになるなんて。
僕はあの日の選択を心底後悔した。
こうして、藍子との生活が「幸せ」から「戦い」に変わっていったのだ…。
それからというものの、僕はラウラ交友会から抜け出させる方法を探すことに時間を費やした。
時には、
「なぁ、たまにはショッピング行かないかい?毎日デイケア通うのはとてもいいことだよ。でも息抜きすることも必要だと…」
藍子の気をラウラから逸らすために二人で出かけることを提案したりした。
だけど。
「ダメよ。デイケアの人たちが待ってるんだもの」
ラウラを理由に全て却下。
その頃の藍子は毎日デイケアに行くようになり、帰りも遅くなりつつあった。
だめもとで病院にセカンドオピニオンを掛け合ってみるも、
「藍子さんがとても満足してるのに、無理に変えるのはかわいそうよ」
案の定受け入れてもらえず。
他の方法も試したけれど、どれもうまくいかず。
そんな日々が、今に至るまで繰り返された。
そして四月の下旬。
「…なぁ、藍子」
僕はもどかしさに苛立った声で藍子に話しかける。
「何?」
「…デイケアって、毎日行かなきゃいけないのか?」
「ええ。毎日ラウラ様にお祈りすることで心が清められるの。おかげで私はとっても幸せ…」
「君は幸せになってなんかないっ!!」
藍子のラウラに盲信的な回答に対し、思わず声を荒げる。
「…っその幸せはラウラの工作によるものだ。ラウラは都合のいい人間しか求めていないっ、だからっ…」
「ラウラ様を悪く言わないでっ!!」
「…え…?」
「ラウラ様のおかげであの子との時間を過ごせているのにっ…どうしてあなたはいつもラウラ様を悪く言うの?」
「…そ、それはっ…!」
「…お会いしたこともないくせにっ…あ、そうだわ。実際に会ってないからラウラ様の善良さを理解できないのだわ。
ねぇ、あなた、今から一緒にデイケアに行かない?きっと、その考えも変わると思うの。本当に素敵な人だから!」
「…っ!!」
デイケアに誘われた瞬間、僕は理解した。
藍子は完全にラウラのものになりつつあると。
その姿に、言葉で言い表せない悍ましい感覚を覚えた。
僕はその場にいられず、自分の鞄を鷲掴みにして家を飛び出した。
藍子に見つからないよう、なるべく遠くへ。
そうして辿り着いた先は、小さなカフェ。
そこで時間をやり過ごすことにした。
藍子はもう戻らない。
そんな気がする。
もうここまで来たら離婚しかないのか。
そんなことを考えながら、時間を無駄に流していく。
藍子は来る気配がない。
今頃デイケアにいるんだろうな。
デイケアに行ったら、しばらくは出てこない。
そう思うと、気持ちがなぜか軽くなる。
そうだ。ここで一日をやり過ごそう。
こうして僕は、カフェに通い、少しでも藍子との時間を減らすことにした。
それを繰り返すうちに、5月の中旬。
その日は、床が見えないくらいに、店内が人で埋められていた。
なんとか探し、見つけた空席のテーブルには期間限定メニューのメニューボード。
なるほど、みんなこれが目当てだな。
そう認識してすぐに雑誌に視線を移した。
それから数分後。
まだメニューを頼んでないのに、店員がこちらにやってきた。
傍には、見知らぬ僕より少し下の、中年の一人の女性。
「お客様、申し訳ありません。お席の都合でこちらのお客様と相席になる形になりますが、よろしいでしょうか」
店員はやってくるなり、そう言った。
「…ええ、かまいませんよ」
カフェで相席することなんてあるのか。
心の中で驚きつつも、やむを得ない状況ななので、流れるように承諾した。
こんなことってあるんだな。
そう思い、対面している女性をちらり、と見た。
彼女は他人と同じ席に座ることに慣れてないのか、すごく緊張してるように見えた。
その姿に、はかとなく懐かしさを感じた。
「すみません、カフェモカ一つ、いいでしょうか?」
彼女は呼び鈴で浮ついた声で注文をする。
メニューは彼女の手元にあった。
自分もそろそろ注文をしようとしていたが、彼女が慌てて片付けようとしたので、
「…あの、私も頼みたいので、そのメニューをこちらに渡してもらえませんか?」
落ち着かせるように声をかけた。
「…あ、はいっ。どうぞ」
ぎこちない声と共にメニューを渡してくる。
ー最初にあった時の藍子も、常に緊張してたな。
赤の他人なのに、最初に愛した人の面影を感じる。
どうしてなんだ。
そんなことに思考を巡らすうちに、気がつけば、
「…今日は人の数がすごいですね。席がどこも埋まってて…」
目の前の彼女にそう話しかけてしまっていた。
「…そ、そうですね。今、期間限定メニューが出てるから、それが目当てなのかな、と」
彼女からしどろもどろな返答が来る。
そのぎこちなさが、とても懐かしく、愛おしく感じて、それに引き込まれて、
「期間限定メニューの力って、偉大なんですね。ところで、ここに来るのは初めてでしょうか?」
また話しかけてしまう。
「…い、いえ。以前にも一度来たことがあって…」
また返答が来る。
そしてまた話しかけて、返答を受けて。
それを繰り返すうちに、いつのまにか会話になってしまった。
それどころか、普通に彼女との会話を友達との会話のように楽しんでいた。
それから数分後。
店を出て、帰りのバスに揺られながらふと思う。
…今日は会話に夢中になってて藍子のことをあんまり考えてなかったな。
人との何気ない会話ってすごいんだな。
さっきまで考えていた辛いことを忘れてしまうのだから。
そういえば、あの人、前にも来てると言ってたな。
だとしたら、また会えるのかな。
そんな淡くて、だけど卑しい予想をしてしまう。
その数日後。
予想が当たったかのように、僕は彼女と何度か会った。
当たり前のように何気ない会話を楽しみ、彼女のことを知るようになる。
彼女の名前は美和さんで、中学生の息子と高校生の娘がいるけれど、
「中学生の方は絶賛反抗期真っ盛りで、対応するだけで精一杯なこともあって…
ここにはその息抜きに来てるんですよ」
息子さんのことで悩んでいた。
それを聞いて、僕は過去の経験から高校生になるまで成長した子供がいる美和さんを羨ましく思った。
だけど、家族のことで悩んでるのは僕も同じだった。
だから、その悩みに共感してしまった。
「…僕も似たような状況にあるので」
そして、思わず言葉を吐き出した。
それでも、美和さんはカフェに来て冷静な時間を作りながらも、手を煩わせる相手に向き合おうとしていた。
相手を身限り、逃げようとしている僕とは真逆だった。
だからこそ、そんな美和さんが輝いて見えた。
ーそれと引き換えに、僕の中で藍子への思いが薄れていた。
「ありがとうございましたー」
美和さんと別れ、店を出た後。
もう藍子とは終わりにしよう。
近いうちに離婚届を書いて、あの家を出るんだ。
どうせこの先も、ラウラを一番にするのだから。
そう誓った。
妻以外の女をきっかけに離婚など、下劣以外のなんでもない。
だけど、今の僕には都合が良かった。
不倫の汚点がつけば、藍子が僕を嫌悪してくれると思ったから。
そして7月の上旬。
その頃には、藍子はデイケアに夜遅くまでいるようになった。
だから、その間に荷物をまとめた。
そして荷物を車に詰め込んだ。
いつでも出ていけるように。
そしてカフェで美和さんに会った日のこと。
「七夕が近いから、星形のデコレーションをしたものが多いですよね」
「そうですね。可愛いですよね」
七夕、か。
その会話をするや否や、僕は最悪の発想を思いついてしまう。
ー七夕の日、美和さんと星を見に行こう。
「次の木曜日、七夕ですよね?」
「…そうですね」
「…その日、待ち合わせしませんか?」
美和さんにその話を持ちかける。
家族がいる女性にこんな話を持ち込むなどクズの所業なのは分かってる。
だけど、僕には手段を選ぶほどの余裕がなかった。
家庭のことがあるから断られると思ったけれど、
「とても素敵な提案ですね。そのお誘い、私でよければ…」
受け入れる姿勢を見せる美和さん。
心外だった。
けれど、すでに彼女に好意があったから、普通に嬉しかった。
「…僕のわがままに付き合ってくれてありがとうございます」
こうして七夕の夜は、美和さんと過ごすことになった。
そして七夕の夜。
僕らはカフェでディナーを楽しんだ後、ある場所に向けて歩き出した。
それは、藍子と出会ったばかりの頃に星を見るために訪れた公園だ。
僕は今から、その時と同じことをするつもりだ。
もちろん、恨まれる覚悟はしている。
藍子と離れられることに比べれば、生ぬるいものだから。
公園に着くと、僕らは近くのベンチに座り、空を見上げた。
空は雲ひとつなく、紺色の画用紙を白い粒で埋めたようになってるだけじゃなく、水彩絵の具で塗ったような水色もあった。
天の川だ。
まさしく七夕の理想の夜空だった。
だけど、それだけじゃなかった。
それだけでも十分美しい空に一筋の白い線が引かれた。
流れ星だ。
「…七夕ですから、何かお願いしませんか?」
美和さんが提案で、お願い事をすることにした。
無事に藍子と決別できるように。
僕はそう願った。
勿体無いくらいの星空を、僕らは釘付けになり、夢中になった。
長年過ごした場所での最後で最高の思い出を、ありがとう。
そう心の中で呟きながら。
深夜21時半。
美和さんと別れ、僕は公園の方向に見えるホテルに向かって歩き出す。
僕は今、出張と嘘ついてホテルに逃げ込んでいた。
藍子は今やほぼ一日、デイケアで家にいないけれど、藍子と全く会わずに済むと思うと気が楽だった。
だけど、ここでの生活も、もう終わりにするんだ。
藍子にこれを渡せば、全てが終わる。
そしてここからうんと遠く離れた場所でやり直すんだ。
緑の紙を手に、強く決心する。
そのためには、美和さんに別れを告げなければならないけれど。
全ては、藍子に自分がしたことがどういうことか、わかってもらうためだ。
今までやってきたことを無駄にするわけにはいかない。
心を鬼にして、美和さん、いやこの街への訣別の準備をしていた。
後日。
その日は珍しく、工事の都合でデイケアが休みだった。
しかし、ここまできたらもうそんなの関係ない。
「…これ、書いたら市役所に出しておいて」
テーブルに離婚届を置く。
藍子は表情ひとつ変えず、
ぼんやりとそれを眺める。
ペンに手を伸ばさないが抵抗の意思を見せない。
受け入れたかはわからないけれど、今はどうでもいい。
もうここには帰らないのだから。
そしてそのまま家を出た。
これで、少しはラウラ以外のことに気を向けてくれればいいな。
それから数時間後。
美和さんをカフェに呼び出し、いつものように二人向かい合って座る。
そして意を決して声を絞り出す。
「…僕はあなたに会うのをこれで最後にしたいと思ってるんです」
これで終わりだと思うと、寂しさが胸の奥から湧き出る。
美和さんとの日々が記憶の底から溢れ出て、脳内を支配する。
とてもキラキラしてて、優しかった日々だった。
思い出せば思い出すほど、胸が締め付けられて、泣きたくなって。
「あなたとの時間は…とても楽しかったです。こうして何気ないおしゃべりして、僕のわがままにまで付き合ってくれて、一緒に心の底から楽しんでくれてっ…本当に、今まで生きてきた中で最高の時間でしたっ…
あなたのことは、一生忘れませんっ…どうかこの先もっ、僕がいなくても幸せでいてくださいっ…」
気がつけば、声を詰まらせていた。
一度親しくなった人との別れって、どんな理由でも寂しいもんだな。
図々しいけれど、普通にそう思ってしまった。
だけど。
美和さんはとても素敵な人だ。
そんな美和さんをこれ以上僕の個人の事情に巻き込むわけにいかない。
だから、これでいいんだ。
突然のことで美和さんは戸惑うかと思ってたけど、
「…っいえ…こちらこそ、素敵な時間を、ありがとうございますっ…」
すんなりと受け入れて、そう言った。
そういえば美和さんにも家族がいると言ってたっけ。
これ以上はいけないと思ってたのかな。
「…さよなら」
美和さんはそれだけ言って店を去っていった。
あぁ、よかった。
無事に終われてよかった。
そう思った。
こうして、美和さんとの時間が、完全に終わった。
一人になり、天井を見上げる。
あぁ、これで全てがもうすぐ終わりなんだな。
そう思うと、とても清々しい気持ちになる。
あとは、この店を出て遠くに行くだけだ。
ならば、のんびりとしてられないな。
さようなら、この街と、この街で出会った人たちよ。
僕は家族を身勝手な理由で裏切り、他人までも傷つけた最低な人間だ。
これからは、その罪滅ぼしをするつもりで一人で最後まで生きていくんだ。
そして藍子。こんなふざけた形で君との思い出を捨てる僕を、どうか許してくれ。
許されるとは、到底思ってないけれど。
そう心の中で手向けの言葉を呟いて。
注文したエスプレッソを飲み干し、会計に向かった。
…その時だった。
「…どこへ行くの?あなた」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえて、ゾワっと寒気がした。
この声は…
後ろを振り向くと、
「…藍子、どうしてここに…!?」
「今日はお休みだったから、あなたが前に勧めてくれたここでお茶をしにきたのよ?」
僕らはどこで間違えたんだろう。
いや、出会った時点で間違いだったのかもしれないー。
『うわぁ…花火ってこんなに大きいものなんですね!今日はお祭りに連れて来てくれてありがとうございます!純司さん』
『こちらこそ。藍子さんが喜んでくれてよかったです』
今から20年前、僕は妻の藍子と出会った。
藍子は素直で謙虚、だけどどこか無邪気な人だった。
そんな彼女に、僕は惹かれた。
だから。
「この先も僕のそばにいてくれ、藍子」
七月七日の雲ひとつない夜、藍子にそう言った。
「…はい、喜んで!」
そうして、僕らは夫婦になった。
互いに楽しみを共有し、だけど時に喧嘩してその後仲直り、そして家事を分担して…
テンプレートのような日々だったけど、それが幸せだった。
そしてそれから一年後。
「あなた、聞いて!」
「どうしたんだい?そんなに嬉しそうにして」
「今日病院に行ったら赤ちゃんがいると言われたの!」
「本当かい?それじゃあ、新しい家族を迎える準備をしなくちゃね!」
「ええ。早くあなたに会いたいなぁ」
藍子が新たな命を身籠った。
その時はこれからも新たな家族と共に幸せな日々が続く、と思っていた。
ーだけど。
七ヶ月検診の日のこと。
「…お子様についてですが、大変申しにくいのですが…」
医師が顔を曇らせる。
まさか。
嫌な予感がしたと同時に、
「×××××××××××××××××」
思い出すのも嫌な、残酷な宣告を医師はした。
「そんなっ…嘘ですよねっ…!?」
「…いえ、残念ながら…」
「どうして、どうしてっ…ああっ、ああぁああぁあーーーっ!!」
その場で泣き喚く藍子。
僕も唇を噛み締め、涙を堪えていた。
どうしてなんだ。
何がいけなかったんだ?
わからない。
このことが僕らを悲しみのどん底に突き落とし、そして全てを狂わせることになった…。
それからしばらく藍子は出会った頃とは別人のように塞ぎ込んでいた。
「…ごめんね。産んであげられなくて…」
前よりも食事の量は減り、表情も見かける時はいつも生気が欠けていた。
誰も悪くない。だからあまり自分を責めないでほしい。
そう慰めたかったけれど、それが余計に傷つけてしまう気がして言えなかった。
当然、夫婦での口数などほとんどなかった。
そんな日々が続いた。
それから一ヶ月後。
「…これからある人に会いに行こうと思うんだ」
「…え?」
「君も一緒に来てほしいんだ」
「…どうして?」
「…その人、君にも会いたいと言ってたから」
「…わかった」
そのある人、とは病院の人だけど。
このままでは二人が本当に壊れる気がして、どうにかできないかと藁にもすがる思いでこの決断をした。
なんとか藍子を納得させた僕は、藍子を連れて病院に連れて行った。
仏教の本が置かれた診察室にて。
僕らはあの日のことを話した。
最初は藍子は全てへの気力を無くしていて、全然話さなかった。
でも、何度か通ううちに、
「…一つの命をなくしたことへの罪悪感がどうしても頭から離れなくて…」
藍子が少しずつだけど、心のうちを吐き出すようになった。
「…あの子もきっと私たちと一緒の時間を過ごしたかったと思ってるかもしれないのに…」
「確かにそう思うと、それは辛いですよね。
…でも、赤ちゃんはあなたのことを責めてはいませんよ」
「…え?」
先生が、予想もしなかったことを言う。
僕らは唖然とする。
「…だってあなたはその子がお腹にいる時に愛情を注いでいたでしょう?赤ちゃんはそれだけでも自分を愛してくれてたって喜んでるはずよ」
「そう、なのですか…?」
「ええ。赤ちゃんはそんなあなたの幸せを誰よりも望んでいるわ。だからそう自分を責めないで」
「…こんな私を、許してくれるの?」
藍子の目から大粒の、温かな涙が流れる。
先生のその言葉が、藍子を罪の意識の檻から解放させたと思った。
「今も赤ちゃんはお空からあなたを見守っているわ。だから、その子のためにも笑っていたほうがいいと思うの」
「…っひくっ…うっ…私、あなたの…分まで幸せに生きる、からねっ…」
藍子は涙ながらも、その表情にわずかな笑みを含めた。
そしてその後、先生の勧めで藍子はリハビリを兼ねてデイケアを通うことになった。
そしてデイケア初日。
「ただいま!」
「おかえり」
あの時のことが嘘かのように明るく笑顔な藍子。
「どうだった?デイケアは」
「ええ。今日はお香を作ったの」
「そうなんだ。どんな香りのものを作ったの?」
「…そうねぇ、ジャスミンに近い香りだった、かな?とても神聖な感じの香りでうっとりしちゃった♪」
「そっか。それはよかった」
ああ。僕の判断は良かったんだ。
これで、藍子も少しは前を向けるようになったのだから。
これからもあの子の分も胸に二人で生きていこう。
そう誓った。
ーなのに。
それから藍子がデイケアに通い初めてから数日後。
「ただいま」
「おかえり。今日はどうだった?」
「今日は瞑想をしたの。人生で一番最高の時間だったわ」
「そうなんだ」
「最初は静かな感じだったけれど、途中から遠い星の女神様、ラウラ様が話しかけて来たの!」
「…ラウラ、様?」
ラウラ、と聞いて僕は眉を顰める。
その言葉で最初に思いつくのが、最近勧誘で見かける「ラウラ交友会」だからだ。
「それでね、ラウラ様が会いたい人がいるでしょう、って聞いて来たから、すかさずはい、て返事したら、
お腹にいたあの子も目の前に来たのよ!ママ元気?とも挨拶もしてきてくれて…本当に幸せだったわ」
「…それは、よかったね…」
そうはいうものの、すごく嫌な予感がした。
あそこのデイケア、もしかして…?
その夜、居ても立っても居られず、通っている病院のことを検索した。
口コミのページに手を伸ばす。
すると。
『デイケアを勧められて通ってみたんだけど、やることはヨガか瞑想か、自称神聖な力を持つ小物作りが多い。しかもラウラってワードがよく出るから、怖くなって変えた』
『デイケア勧められたら病院変えるべき。アレはマジでやばい』
『待合室にたくさんのラウラの本が置かれてたのを見て、あ、ダメなやつかもと思ってあれ以来俺は行ってない。ここだけは絶対に行くな』
など、病院及びデイケアに対するネガティブな意見とラウラ交友会の話題が多く飛び交っていた。
嫌な予感が当たった。
あそこはラウラと繋がっている。
そんな気がした。
そして翌日。
「藍子、申し訳ないけれど、病院を変えよう」
「…え?」
そう伝えたけど。
「…君が通っているデイケア、実は悪い人が運営してるものなんだ。このまま通うと、君が危ない目に遭うかもしれない。だからっ…」
「そんなことはないわっ!」
否定する藍子。
「ラウラ様はあなたが思うような悪い人ではないわ。私も最初は怖かったけれど、何度かお会いするうちに、慈悲深い人だって理解したの!
…だから、そんなに怖がらないで?」
その言葉に、僕は深い絶望を知る。
すでにやられてしまっているか。
家から近いから通いやすいだけで選んだだけで、こんなことになるなんて。
僕はあの日の選択を心底後悔した。
こうして、藍子との生活が「幸せ」から「戦い」に変わっていったのだ…。
それからというものの、僕はラウラ交友会から抜け出させる方法を探すことに時間を費やした。
時には、
「なぁ、たまにはショッピング行かないかい?毎日デイケア通うのはとてもいいことだよ。でも息抜きすることも必要だと…」
藍子の気をラウラから逸らすために二人で出かけることを提案したりした。
だけど。
「ダメよ。デイケアの人たちが待ってるんだもの」
ラウラを理由に全て却下。
その頃の藍子は毎日デイケアに行くようになり、帰りも遅くなりつつあった。
だめもとで病院にセカンドオピニオンを掛け合ってみるも、
「藍子さんがとても満足してるのに、無理に変えるのはかわいそうよ」
案の定受け入れてもらえず。
他の方法も試したけれど、どれもうまくいかず。
そんな日々が、今に至るまで繰り返された。
そして四月の下旬。
「…なぁ、藍子」
僕はもどかしさに苛立った声で藍子に話しかける。
「何?」
「…デイケアって、毎日行かなきゃいけないのか?」
「ええ。毎日ラウラ様にお祈りすることで心が清められるの。おかげで私はとっても幸せ…」
「君は幸せになってなんかないっ!!」
藍子のラウラに盲信的な回答に対し、思わず声を荒げる。
「…っその幸せはラウラの工作によるものだ。ラウラは都合のいい人間しか求めていないっ、だからっ…」
「ラウラ様を悪く言わないでっ!!」
「…え…?」
「ラウラ様のおかげであの子との時間を過ごせているのにっ…どうしてあなたはいつもラウラ様を悪く言うの?」
「…そ、それはっ…!」
「…お会いしたこともないくせにっ…あ、そうだわ。実際に会ってないからラウラ様の善良さを理解できないのだわ。
ねぇ、あなた、今から一緒にデイケアに行かない?きっと、その考えも変わると思うの。本当に素敵な人だから!」
「…っ!!」
デイケアに誘われた瞬間、僕は理解した。
藍子は完全にラウラのものになりつつあると。
その姿に、言葉で言い表せない悍ましい感覚を覚えた。
僕はその場にいられず、自分の鞄を鷲掴みにして家を飛び出した。
藍子に見つからないよう、なるべく遠くへ。
そうして辿り着いた先は、小さなカフェ。
そこで時間をやり過ごすことにした。
藍子はもう戻らない。
そんな気がする。
もうここまで来たら離婚しかないのか。
そんなことを考えながら、時間を無駄に流していく。
藍子は来る気配がない。
今頃デイケアにいるんだろうな。
デイケアに行ったら、しばらくは出てこない。
そう思うと、気持ちがなぜか軽くなる。
そうだ。ここで一日をやり過ごそう。
こうして僕は、カフェに通い、少しでも藍子との時間を減らすことにした。
それを繰り返すうちに、5月の中旬。
その日は、床が見えないくらいに、店内が人で埋められていた。
なんとか探し、見つけた空席のテーブルには期間限定メニューのメニューボード。
なるほど、みんなこれが目当てだな。
そう認識してすぐに雑誌に視線を移した。
それから数分後。
まだメニューを頼んでないのに、店員がこちらにやってきた。
傍には、見知らぬ僕より少し下の、中年の一人の女性。
「お客様、申し訳ありません。お席の都合でこちらのお客様と相席になる形になりますが、よろしいでしょうか」
店員はやってくるなり、そう言った。
「…ええ、かまいませんよ」
カフェで相席することなんてあるのか。
心の中で驚きつつも、やむを得ない状況ななので、流れるように承諾した。
こんなことってあるんだな。
そう思い、対面している女性をちらり、と見た。
彼女は他人と同じ席に座ることに慣れてないのか、すごく緊張してるように見えた。
その姿に、はかとなく懐かしさを感じた。
「すみません、カフェモカ一つ、いいでしょうか?」
彼女は呼び鈴で浮ついた声で注文をする。
メニューは彼女の手元にあった。
自分もそろそろ注文をしようとしていたが、彼女が慌てて片付けようとしたので、
「…あの、私も頼みたいので、そのメニューをこちらに渡してもらえませんか?」
落ち着かせるように声をかけた。
「…あ、はいっ。どうぞ」
ぎこちない声と共にメニューを渡してくる。
ー最初にあった時の藍子も、常に緊張してたな。
赤の他人なのに、最初に愛した人の面影を感じる。
どうしてなんだ。
そんなことに思考を巡らすうちに、気がつけば、
「…今日は人の数がすごいですね。席がどこも埋まってて…」
目の前の彼女にそう話しかけてしまっていた。
「…そ、そうですね。今、期間限定メニューが出てるから、それが目当てなのかな、と」
彼女からしどろもどろな返答が来る。
そのぎこちなさが、とても懐かしく、愛おしく感じて、それに引き込まれて、
「期間限定メニューの力って、偉大なんですね。ところで、ここに来るのは初めてでしょうか?」
また話しかけてしまう。
「…い、いえ。以前にも一度来たことがあって…」
また返答が来る。
そしてまた話しかけて、返答を受けて。
それを繰り返すうちに、いつのまにか会話になってしまった。
それどころか、普通に彼女との会話を友達との会話のように楽しんでいた。
それから数分後。
店を出て、帰りのバスに揺られながらふと思う。
…今日は会話に夢中になってて藍子のことをあんまり考えてなかったな。
人との何気ない会話ってすごいんだな。
さっきまで考えていた辛いことを忘れてしまうのだから。
そういえば、あの人、前にも来てると言ってたな。
だとしたら、また会えるのかな。
そんな淡くて、だけど卑しい予想をしてしまう。
その数日後。
予想が当たったかのように、僕は彼女と何度か会った。
当たり前のように何気ない会話を楽しみ、彼女のことを知るようになる。
彼女の名前は美和さんで、中学生の息子と高校生の娘がいるけれど、
「中学生の方は絶賛反抗期真っ盛りで、対応するだけで精一杯なこともあって…
ここにはその息抜きに来てるんですよ」
息子さんのことで悩んでいた。
それを聞いて、僕は過去の経験から高校生になるまで成長した子供がいる美和さんを羨ましく思った。
だけど、家族のことで悩んでるのは僕も同じだった。
だから、その悩みに共感してしまった。
「…僕も似たような状況にあるので」
そして、思わず言葉を吐き出した。
それでも、美和さんはカフェに来て冷静な時間を作りながらも、手を煩わせる相手に向き合おうとしていた。
相手を身限り、逃げようとしている僕とは真逆だった。
だからこそ、そんな美和さんが輝いて見えた。
ーそれと引き換えに、僕の中で藍子への思いが薄れていた。
「ありがとうございましたー」
美和さんと別れ、店を出た後。
もう藍子とは終わりにしよう。
近いうちに離婚届を書いて、あの家を出るんだ。
どうせこの先も、ラウラを一番にするのだから。
そう誓った。
妻以外の女をきっかけに離婚など、下劣以外のなんでもない。
だけど、今の僕には都合が良かった。
不倫の汚点がつけば、藍子が僕を嫌悪してくれると思ったから。
そして7月の上旬。
その頃には、藍子はデイケアに夜遅くまでいるようになった。
だから、その間に荷物をまとめた。
そして荷物を車に詰め込んだ。
いつでも出ていけるように。
そしてカフェで美和さんに会った日のこと。
「七夕が近いから、星形のデコレーションをしたものが多いですよね」
「そうですね。可愛いですよね」
七夕、か。
その会話をするや否や、僕は最悪の発想を思いついてしまう。
ー七夕の日、美和さんと星を見に行こう。
「次の木曜日、七夕ですよね?」
「…そうですね」
「…その日、待ち合わせしませんか?」
美和さんにその話を持ちかける。
家族がいる女性にこんな話を持ち込むなどクズの所業なのは分かってる。
だけど、僕には手段を選ぶほどの余裕がなかった。
家庭のことがあるから断られると思ったけれど、
「とても素敵な提案ですね。そのお誘い、私でよければ…」
受け入れる姿勢を見せる美和さん。
心外だった。
けれど、すでに彼女に好意があったから、普通に嬉しかった。
「…僕のわがままに付き合ってくれてありがとうございます」
こうして七夕の夜は、美和さんと過ごすことになった。
そして七夕の夜。
僕らはカフェでディナーを楽しんだ後、ある場所に向けて歩き出した。
それは、藍子と出会ったばかりの頃に星を見るために訪れた公園だ。
僕は今から、その時と同じことをするつもりだ。
もちろん、恨まれる覚悟はしている。
藍子と離れられることに比べれば、生ぬるいものだから。
公園に着くと、僕らは近くのベンチに座り、空を見上げた。
空は雲ひとつなく、紺色の画用紙を白い粒で埋めたようになってるだけじゃなく、水彩絵の具で塗ったような水色もあった。
天の川だ。
まさしく七夕の理想の夜空だった。
だけど、それだけじゃなかった。
それだけでも十分美しい空に一筋の白い線が引かれた。
流れ星だ。
「…七夕ですから、何かお願いしませんか?」
美和さんが提案で、お願い事をすることにした。
無事に藍子と決別できるように。
僕はそう願った。
勿体無いくらいの星空を、僕らは釘付けになり、夢中になった。
長年過ごした場所での最後で最高の思い出を、ありがとう。
そう心の中で呟きながら。
深夜21時半。
美和さんと別れ、僕は公園の方向に見えるホテルに向かって歩き出す。
僕は今、出張と嘘ついてホテルに逃げ込んでいた。
藍子は今やほぼ一日、デイケアで家にいないけれど、藍子と全く会わずに済むと思うと気が楽だった。
だけど、ここでの生活も、もう終わりにするんだ。
藍子にこれを渡せば、全てが終わる。
そしてここからうんと遠く離れた場所でやり直すんだ。
緑の紙を手に、強く決心する。
そのためには、美和さんに別れを告げなければならないけれど。
全ては、藍子に自分がしたことがどういうことか、わかってもらうためだ。
今までやってきたことを無駄にするわけにはいかない。
心を鬼にして、美和さん、いやこの街への訣別の準備をしていた。
後日。
その日は珍しく、工事の都合でデイケアが休みだった。
しかし、ここまできたらもうそんなの関係ない。
「…これ、書いたら市役所に出しておいて」
テーブルに離婚届を置く。
藍子は表情ひとつ変えず、
ぼんやりとそれを眺める。
ペンに手を伸ばさないが抵抗の意思を見せない。
受け入れたかはわからないけれど、今はどうでもいい。
もうここには帰らないのだから。
そしてそのまま家を出た。
これで、少しはラウラ以外のことに気を向けてくれればいいな。
それから数時間後。
美和さんをカフェに呼び出し、いつものように二人向かい合って座る。
そして意を決して声を絞り出す。
「…僕はあなたに会うのをこれで最後にしたいと思ってるんです」
これで終わりだと思うと、寂しさが胸の奥から湧き出る。
美和さんとの日々が記憶の底から溢れ出て、脳内を支配する。
とてもキラキラしてて、優しかった日々だった。
思い出せば思い出すほど、胸が締め付けられて、泣きたくなって。
「あなたとの時間は…とても楽しかったです。こうして何気ないおしゃべりして、僕のわがままにまで付き合ってくれて、一緒に心の底から楽しんでくれてっ…本当に、今まで生きてきた中で最高の時間でしたっ…
あなたのことは、一生忘れませんっ…どうかこの先もっ、僕がいなくても幸せでいてくださいっ…」
気がつけば、声を詰まらせていた。
一度親しくなった人との別れって、どんな理由でも寂しいもんだな。
図々しいけれど、普通にそう思ってしまった。
だけど。
美和さんはとても素敵な人だ。
そんな美和さんをこれ以上僕の個人の事情に巻き込むわけにいかない。
だから、これでいいんだ。
突然のことで美和さんは戸惑うかと思ってたけど、
「…っいえ…こちらこそ、素敵な時間を、ありがとうございますっ…」
すんなりと受け入れて、そう言った。
そういえば美和さんにも家族がいると言ってたっけ。
これ以上はいけないと思ってたのかな。
「…さよなら」
美和さんはそれだけ言って店を去っていった。
あぁ、よかった。
無事に終われてよかった。
そう思った。
こうして、美和さんとの時間が、完全に終わった。
一人になり、天井を見上げる。
あぁ、これで全てがもうすぐ終わりなんだな。
そう思うと、とても清々しい気持ちになる。
あとは、この店を出て遠くに行くだけだ。
ならば、のんびりとしてられないな。
さようなら、この街と、この街で出会った人たちよ。
僕は家族を身勝手な理由で裏切り、他人までも傷つけた最低な人間だ。
これからは、その罪滅ぼしをするつもりで一人で最後まで生きていくんだ。
そして藍子。こんなふざけた形で君との思い出を捨てる僕を、どうか許してくれ。
許されるとは、到底思ってないけれど。
そう心の中で手向けの言葉を呟いて。
注文したエスプレッソを飲み干し、会計に向かった。
…その時だった。
「…どこへ行くの?あなた」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえて、ゾワっと寒気がした。
この声は…
後ろを振り向くと、
「…藍子、どうしてここに…!?」
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