習作

明(たちもり)

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空が肩を打つ

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 終わりを迎えようとしていると、わかった。
 その終わりは始まりだ、と直感が告げていた。無意識に語り掛けるようなボワボワとした耳鳴りが鼓膜を撫でて脳天を甲高く劈いてゆく。
 虹色の太陽が照らしあげた一帯は黒く染まっていた。煉瓦が積まれた建物の輪郭はあかあかと浮き上がらせ、凪いだ草原はしろく崩れた稲穂がざわめき、アスファルトの上を規則的に進む人々の歩調を留めて瞳を奪い、渦巻く砂漠でオアシスの底からこんこんと湧き出でる灰の雫が舞い上がり、ヒトデのくるくる泳ぐ空が瑞々しい翠へと色を変えるや、突如ひび割れて落ちて来た。
 ぽた、ぽたと肩を打ったのが墜落してきた空の欠片であることは明らかだ。何故なら、それを感じ取った肩から聞こえてきたからだ。

「    」と訴えかけて来る、声が。



 ああ、おまえはそこにいたのか。







 覚醒した私は一瞬、現実と夢の境界を見失っていた。
 見慣れた空色と雲のたなびきに焦点を定め、乱れた脈拍が整うにしたがって一時の混乱は落ち着いたが、さっきまでわが身が置き去りにされていた出鱈目な極色彩の世界が、じっとりと表皮にこびりつくような錯覚につきまとわれていた。
 在り得ない癖に変な実感を伴う夢を見ることは時々あるものだが、現実のそれに近い五感を伴ってあらわれると、現実と認識の境界とは脳の認知の差でしかないことを痛感させられる。
 まるで地面がないような感覚に見舞われて、私は必死に目の前の光景に意識を傾けはじめた。

 目の前にあるものが。これこそが今であり、現実だ。

 空は若葉のような翠色じゃないし、立ち並ぶ建物はレトロなレンガ造りではないし、大地はつややかな幾何学模様のタイルに敷き詰められている。
 上層部により安全が完備された居住区であるこの場所には、当然ながら流砂を生むような砂漠もなければ、獣や虫が潜んで声をあげるような草原もない。
 空気には仄かに金属質の酸化した匂いこそあれ、乾いた土もなければ手を加えられていない水源もなく、それゆえに時おり吹きすさぶ空調の風がいかに質の高い浄化を通したものか知らしめてきた。
 タイルを見れば、この先に何があるかを記す文字列と淡い光が、目的地へと長い線を描いている。それをなぞるように進み始めて、ようやく私は落ち着きを取り戻した――ああ、そうだ。これが私の日常の風景だ。



(ぽた、ぽた、と空が肩を打つ)



 瞳孔が狭まる。
 タイルに灯された記号だけが酷く鮮やかに写り込む。
 なめらかな曲線を描く建造物が、鋭い光を受けて稜線のように浮かびあげられる。
 背の高い建物に近づくほど私に色濃い影が落ちて、視界を蝕む彩度を和らげた。


(ぽた、ぽた、と空が肩を打つ)


 自動扉を潜ると歌が聞こえた。
 それは私のよく知る言葉で、私のよく知る音階で、私の良く知る波長の、とても懐かしい響きだ。ここに来ると、いつも違う声で歌が奏でられていた。
 自動扉が閉じると歌はより鮮明になる。
 異なる音階を重ねて繋ぐ、不規則な高低の繰り返し。軋むような雑音を混じらせながらも、大きすぎない音量が絶え間なく室内を満たす。室内の、否、建物の何処にいても届くそれは、私に安らぎを与えてくれた。
 この歌が終わる日は来ない。
 いやさ、終わっては困る。
 この歌が終わることがあれば、それは世界の終わりだ。
 私は最後のひとりなのに、そうなっては困るのだ。
 ついさっき忘れようとしていた夢をむやみに思い返して、また少し不安のよぎった私は、室内の床に腰を下ろし、壁に埋め込まれた歌の主を見る。
 とはいっても、この二足歩行の生き物はどの壁にも取り込まれているから、わざわざ眺めるまでもない。
 休むには少しうるさかったので一時的に屋外で寝ていたが、今は弱ってちょうどいい音量になっていた。
 しかし少し弱るのが早いかもしれないと感じた。また居住区の外へ出て、新たな個体を探さなくてはいけなくなるかもしれない――そこまで考えて、最近見つけた別棟の設備に充分な個体数が保管されていたことを思い出した。
 今度こそ安心して眠れそうだ。そう安堵して、窓の外を見ると、
 そこには、あの虹色が。
 夢に見た虹色の太陽が、私を視ていた。

(ぽた、ぽた、と空が肩を打つ。)



 まあるい虹色が瞳孔を絞る。
 輝く虹色が私を映す。
 何故だ、と頭をよぎる。
 いやだ、やめろ、私を見つけるな。まだそいつらを喰っている最中じゃなかったのか、私に目をつけないでくれ、やめろやめろやめろお前の目は眩しすぎて明るすぎて鮮やかすぎて観えすぎて世界をひしゃげて全てを見つめて全てを見させて映して焦がして行くじゃあないか。
 思考を何故で埋め尽くされても太陽から目を逸らす事は許されず、太陽は私から逸れてはくれずにちりちりと強く私を熱しながら近づいてくる。ぴりぴりと痺れる体表には警戒色が浮かんでいるだろう、今だけは目立ちたくなかったのに。あんなにおおきいものがどうやって小さな窓を通り抜けられようものかと気休めが頭をかすめたものの、こんな建物のひとつやふたつ焼き溶かしてしまえばあろうとなかろうと同じであることにも気が付いた。
 あれにとって、あの虹色の瞳にとっては、二足歩行が焼けるのも、私が焼けるのも同じなのだ。
 恐ろしくてたまらなかったが瞼のない私には顔を背けるしかできず、うんうんとなおも歌いつづける壁に張り付くようにして視界を遮るしかできない。
 でもわかる、肌でわかる。あれがすぐそこにいる。照らされている。焦げて溶けて黒く焼き付いて行っている。
 助けを求めたが誰もいない。いたところで助けられるわけもない。
 居住区を包んでいた硝子のドームが、みしみしと音を立ててひび割れて、ぽた、ぽた、と空が肩を打つ。



 虹色が弧を描く。
 滴る翠が語りかけてくる。

「おかえり」

 ああ、おまえはそこにいたのか、太陽。
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