極意

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達人

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剣聖。

或る日、若き侍、近江国は彦根の城下より、都を指して道中せしに、乗合の舟にて、深き編笠をかぶり、風情尋常ならぬ老侍と相乗りせり。

若侍、これを見て心中思う。

「これは只者にあらず・・」
「拙者、諸国遍歴の修行者なれば、お手前が只者ならぬ手練れとお見受けつかまつり候、これは天の与えしご縁と心得候」

かく申して、若侍、深々と頭を下げたり。

「是が非にも、一手ご指南くだされませ」と、懇ろに願い入りたり。

老侍、静かに答えけるにて。

「いやいや、拙者ごとき、そのような御指南の器に非ず、こたびは、些か難儀なる由、ご容赦つかまつれ」と申した。

然れども若侍、なおも声高に食い下がりたる。

「そは拙者が未熟にて指南の価値なしとの意と心得候!」

さらには嘲るごとくに。

「察するに、老体ゆえに、拙者を恐れたか」と、言い募りける。

このとき、舟には六人乗り居り、たちまち緊張走りて皆、息を呑みて成り行きを見守る。

老侍、しずかに言ひたるは。

「確かに、拙者は老いさらばえたる身、しかれども、この狭き舟にて、無用の騒ぎは他の方々の迷惑千万成り、ここは一つ、其方にてお察し願いたきことに候」

然るに若侍、声を荒げて宣いたる。

「乗り合わせし者共、これ見よや・・この老いぼれ、拙者に恐れをなして逃げを打ちたり!」

あまりの狼藉に・・ついに舟頭、たまりかねて申す。

「お武家様方、ここは狭き舟ゆえ、何とぞお静まりくだされ」

これを聞きて若侍、逆上してさらに罵る。

「下郎の分際で口を挟むか、着き次第、しかるべく沙汰してくれるわ!」

と、立ち上がらんとするその時、老侍、手を差し出して静かに申す。

「ここには町人女人も乗り居り、穏やかに座りなされ」

「無礼な老体、儂に触れるでない!」

と・・若侍その手を払いたるが、老侍、ただ静かに手を膝に戻し、若侍の手は空を切りて何もなしたる。

これを見て若侍、さらに怒り高まりて叫ぶ。

「おのれ爺! 舟が着けば命はないものと思え!」

舟頭、難儀せしも急ぎ櫓を漕ぎ、京の舟着場へ向かいける。

舟頭は、着くや否や舟役人に訴え出で、かの若侍を取り成してもらわんと思いておりしが!

舟着場に着くと同時に、舟頭 ひょいと舟を飛び降り、役人の許へ走らんとするを、老侍、船頭の首根っこを押さえ、静かに首を振りて申したり。

「まぁまぁ、ここは儂に任せい・・舟頭殿には、なお少々の難儀を掛け申すが・・」

そこへ、かの若侍、怒りの形相にて老侍に迫り叫ぶたる。

「さあ、刀を抜かれよ、このままでは帰れぬぞ!」

老侍、冷然と応えて曰く。

「またらっしゃい、この場にて果し合うは、役人にとっても迷惑千万成、琵琶湖の中ほどに、小島ひとつあり・・そこならば誰の妨げもあらず、如何か?」

若侍、もはや血気にはやり、抜刀せんとしおる。

老侍、舟頭に向かひて曰く。

「舟を出せぇ」

舟頭、顔面蒼白にして漕ぎ出だす。

舟先に若侍、中央に老侍、後ろに舟頭。

やがて小島の手前に至りて・・舟頭が申す。

「これよりは浅瀬ゆえ、歩いてお進みくだされ。」

若侍、勢いよく飛び降り、膝までの湖水を掻き分けて小島に駆け登る。

されば舟、すぐさま櫓を回し、島を背にして引き返したり。

舟にては老侍、ただ静かに坐しおりぬ。

舟頭・・恐る恐る問う。

「お武家様・・・このようなことしては、いよいよ不味きにてござろう…?」

老侍、笑みをたたえて申す。

「なに、そちは何も咎めを受けまい、拙者より、しかと舟場役人に申しておく」

舟着に戻りて、老侍、役人の前に名乗り出でたる。

「某、塚原新右衛門と申す。琵琶湖の小島に、世間知らずの若輩者を置きてきたり。
明日には熱も冷め申さん、舟にて迎えにやってくだされ。」

若き役人、事の仔細を記録に書きつつも、同僚の年嵩なる役人、驚愕し震えながらその筆を止めて言う。

「これは剣聖・塚原卜伝殿にて候。
  何があったかは存ぜぬが、重々承知仕る!」

若き役人、首を傾げて問ふ。

「さればこそ、名乗るまでもなく、お教えなさればよろしきを・・」

役人の言に、老侍、笑いながら答ふ。

「その馬鹿者に拙者の名を明かせば、腰抜かすに決まっておるであろうて」

そしてこう結びたり。

「これぞ我が兵法、「無手勝流」・・戦わずして勝つ道なり」

役人ら、ひとしきり驚き、やがて苦笑を浮かべぬ。

・・・かくて、あまりに異なる力量を思い知りし若侍は、命拾いすると共に、世の広さを知ることとなりし。
まさしく井の中の蛙、されど良薬口に苦し、役人らもまた然と感ずる次第なりき。



剣聖・塚原卜伝

甲陽軍鑑により!




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