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1巻

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 プロローグ1 月夜


 それは月明かりのまぶしい晩のことだった。
 闇夜にまぎれながら駆けるのは、まだ物の道理もわからぬ幼子おさなごを抱きかかえた初老の男だ。彼は獣の皮で作った鎧を身に付けており、腰には二振りの剣をいている。
 男は腕の中に視線を落とした。その子はひどく幼かったが、少女らしい顔立ちは既に確立されていた。
 その中でもひと際目立つのは耳だった。それはきつねのものとよく似ており、ときおり風の音を嫌がるように伏せることから、作り物ではないことがうかがえる。
 少女は腕の中で身じろぎすると、世界から自分を覆い隠すように、全身に比すと大きな尻尾で体を包み込んだ。
 草木を掻き分けながら進んでいくと、大きな道に出た。月明かりに照らされて、男の姿が明らかになる。
 彼もまた、少女とよく似た姿をしていた。大きな狐の耳、そして腰から肩のあたりまで逆立つ尻尾。しかし顔かたちはほとんど似ていない。おそらく同族であり、もしかすると世話係なのかもしれない。
 と、そのとき近くで物音がした。
 男はそちらからのがれるように身をひるがえしたが、急に足を止めた。視線の先の木陰から、ぬうっと真っ白な塊が現れる。
 月明かりに照らされ、それが人の姿をしていることが分かる。外套がいとうで全身を覆っている男だ。
 彼はすらりと剣を抜いた。手慣れた動きだ。
 対して少女を抱えていた男は、彼女を腕の中から下ろすと、こちらも剣を抜いて、少女へと小さく告げる。

「ダグラスの地へ――」

 それ以上は言葉にならなかった。
 真っ白な男が切り掛かってきたのである。剣と剣がかちあって、夜の静寂を破った。
 少女は声にもならぬ叫びを上げて、後じさる。一歩、二歩……体がすっかり強張っており、上手く動けない。
 白い男が激しく振り回す剣の動きにつられ、獣の耳が生えた男は左右に揺さぶられる。
 決着はあまりにもあっけなくついた。襲撃者の放った剣は、逃亡者の胸を貫いていた。
 真っ赤な血が流れ出す。が、その男は胸を貫かれているにもかかわらず、苦悶くもんの表情は浮かべていない。
 剣を引き抜かんとした襲撃者を両の腕でしかと押さえ込むと、一度だけ背後を振り返った。先ほどの少女の姿はもはやそこにない。
 笑みと共に、男は赤に包まれた。炎だ。
 どこからともなく現れたそれは、二人の男を包み込んで、人ならざるものへと変質させていく。
 命のともしびというにはあまりにも激しく、夜には相応ふさわしくないほどの明かりが放たれる。
 逃げようと暴れる敵を押さえ込んだまま、男は空を見上げた。赤い視界の中に浮かぶ月は、あまりにもまばゆかった。



 プロローグ2 夢


 夢を見ていた。
 俯瞰ふかんで見下ろす光景の中、動いているのは青年ただ一人。彼の周りには機械類が雑に置かれていた。机の上にはコンピュータがどっしりと構えており、その隣に、参考書が山積みになっている。二つあるモニターのうち、片方には論文の概要が映し出され、もう一つにはコンピュータ・プログラムが動いている様子が表示されていた。
 おそらく、研究室なのだろう。確かめられないのはもどかしいが、夢なのだから仕方がない。どうせめてしまえば忘却の彼方かなたへと追いやられるようなものなのだ。知る必要もないだろう。
 青年がモニター上を走る文字列にざっと目を通していると、やがてプログラムの準備終了を告げる文字が現れる。彼は構築した理論に誤りがないことを確認すると、キーボードを叩いた。
 今度は近くにあったロボット群が動き始めた。二つの車輪がついており、タイルの上を自在に走り回る。青年がキーボードを叩くたびに、一列になったり扇形おうぎがたになったり、はたまたタワーのように積み重なったりとせわしない。
 制御――目的の状態にするための操作を加えること――が上手くいっていることを確認すると、彼は椅子に深く体を預けて考え込む。
 制御技術を用いて何ができるだろうか?
 むしろ、制御の概念を用いないものを見つける方が難しいかもしれない。朝起きて顔を洗うために蛇口をひねれば適切な量の水が出るし、ご飯は指定した時間に炊き上がる。外に出れば、車が走っているのが見える。その速度はもちろん、法定速度を下回るように制御されているはずだ。
 考えればきりがなかった。
 意気揚々と立ち上がると、彼はどこかへと歩き出す。それを追うことはできなかった。
 夢が終わろうとしているのだ。この曖昧あいまいな世界は忘れ去られ、確かな現実がやってくる。その世界は、こんな科学の発達した世界ではなく――



 1 


 目が覚めると、エヴァン・ダグラスはいつものベッドの中にいた。体を起こそうとしたが、ずきり、と頭が痛んだので目だけを動かしてあたりを探ることにする。

「エヴァン様! お目覚めになられましたか!?」

 飛び込むようにして覗き込んでくる、幼くも可愛かわいらしい少女の顔。落ち着いただいだい色の瞳は喜悦きえつはらんで大きく見開かれているが、どこか不安そうにも見える。

「ああ、何でもない。ありがとうセラ」

 彼女セラフィナがこうして朝、起こしにきてくれるのはいつものことである。
 そう思い至ったところで、彼女の頭部に目が行く。さらさらと流れるようなみかん色の髪から、ふわふわの耳が覗いている。それはさながら狐の耳。
 見慣れたはずのその姿に、エヴァンは違和感を覚える。いつもと何ら変わったところは見られないというのにもかかわらず。
 理由を考えていると再び痛みを覚えて、エヴァンは頭を抱えた。

「エヴァン様!? 痛むのですか!?」

 何でもない、とセラフィナに手を振って、しばらくそのままの体勢で過ごす。
 やがて脳裏に、疑問の原因が思い浮かぶ。

(狐耳が人の頭から生えているわけないだろ?)

 考えてみれば当たり前のことだ。
 だが、これまで彼女と暮らしてきたのは間違いない事実で、確かにその記憶はある。隣国には獣人も住むと聞いている。この世界の常識と照らし合わせれば何もおかしいところはない。
 そうして記憶を辿たどって行くと、すぐさま直近のことに突き当たる。
 エヴァン・ダグラスは兄のレスター・ダグラスとウォーレン・ダグラスに階段から突き落とされ、昏倒こんとうしたのだった。
 それがまるで他人事のように感じられるのは、エヴァンの頭の中に彼のものではない、誰かの記憶が混じっているからだ。
 その人物は先ほどまで大学にいて、制御理論の研究をしていたはずだ。もうすぐ卒論の提出時期だったから忙しかったものの、順調に進捗しており、いずれ卒業して就職する予定だった。
 だというのに、彼はエヴァンでもある。幼少期からずっと過ごしてきたこの家の記憶も確かにある。

「どうなってんだ……」

 そうしていると、すっと水の入ったコップを手渡される。コップを受け取りながら、そちらを見ると、不安げなセラフィナの顔。
 幼いながらも整った容貌は、見慣れたはずなのにやけに新鮮に感じる。

(どこをどう見ても可愛いな……あれ、俺こんな風に思ったことあったかな?)

 水を口に含みながら、少し考えてみる。エヴァンは今年で十歳になり、セラフィナは一つ下だから九歳だ。それを考えれば、そういうことに興味がなくてもおかしくないのかもしれない。
 ならば、この感情の起因するところは、このもう一人の記憶の持ち主、ということになるだろう。エヴァンの記憶の大部分を否定する知識が、頭の中には多量に詰まっていた。
 この世界には獣人がいて、魔法があり、魔物がいる。貴族は教養として魔法を身に付け、兵は街を襲う魔物との戦いに明け暮れる。誰もこの生活を疑わない。
 しかし大学生であった彼は現代日本に住んでいて、日々大学で研鑽けんさんする普通の生活を送っていた。こんなファンタジーな世界などあり得ないと思っていたはずなのだが。

「うーん……」
「エヴァン様、もう少しお休みになられては?」
「ありがとう、そうするよ」
「はい。ではおそばに控えておりますので、何かありましたらお呼びください」

 セラフィナはぺこり、と頭を下げた。およそ子供には似つかわしくない丁寧な仕草。彼女はここで働くメイドであり、四年ほど前にやってきた。
 メイド。それは前世では全く無縁の存在だったが、ここでは違う。
 黒のロングスカートに白のエプロンといったシンプルな格好は、彼女によく似合っている。着なれている、と言い換えてもいいかもしれない。
 そんな彼女の姿を見ながら、もう一度目をつむった。


 後になって目覚めたとき、頭はやけに鮮明であった。記憶が定着した、ということなのかもしれない。記憶の中にある技術は鮮明に思い出すことができる。しかし、ある時点から先は何一つ思い出すことができなかった。理由など考えても仕方ないのだろうが、そのとき何らかの事故で死んだのかもしれない。憶測にすぎないが、前世の記憶というのが一番しっくりきた。
 エヴァンが体を起こすなり、近くに控えていたセラフィナが駆け寄ってくる。

「心配しなくていいよ。もうだいぶすっきりした」
「そうですか。ご無事で何よりです」
「ありがとう、セラ」

 破顔する彼女は、心から喜んでくれている。
 エヴァンはしばらく、エヴァン・ダグラスとして十年しか過ごしていない人生についてを思い出す。
 彼は貴族であるダグラス家の四男で、生まれつき黒い髪、茶の瞳だった。両親とはまったく違う色であるものの、「大学生の頃」の記憶のことを考えれば、そうなったのもすんなりとに落ちる。
 だがそれによって、両親は相当揉めたようだ。さもありなん、父は母の浮気を疑い、母は言われのないそしりを受けて、エヴァンを憎むようになった。誰が悪い、ということはないだろう。
 もっとも、生んでくれたことにこそ感謝はすれど、兄たちによる迫害を見て見ぬ振りされたこともあって、両親には愛情なんて何一つ感じてはいないのだけれど。
 だが、それも悪いことばかりではなかった。父はあてつけのように、この国ではまだあまり受け入れられていない獣人であるセラフィナを、エヴァンのメイドとして買ってきた。
 買ってきたというのは文字通り、敗戦国の住民であるセラフィナを奴隷市場から手に入れてきたのだ。読み書きや計算ができ、その上安いということもあって、まさに打ってつけだったらしい。
 彼女にとっていいことだったかどうかはわからないが、それでもエヴァンはこの少女と心から打ち解けていると言えるほどに信頼しており、彼女もそれにこたえてくれる関係だと思っている。

「エヴァン様、何か心配事でも……?」
「いや、そうじゃないんだが」

 エヴァンは暫く悩んだが、ある程度ぼかしながら、話をすることにした。彼にとって唯一といってもいい、親密な関係の彼女との間には、血や立場を超えた何かがあると思えたのだ。

「実はさ、長い夢を見ていたんだ」
「夢、ですか?」
「ああ。そこは文明がさかえていて、俺は研究ばかりしていた」
「それは素敵ですね。エヴァン様ならさぞご活躍なされたことでしょう」
「はは、そうだといいな」

 セラフィナは疑問を抱くことも無く、ただあるがままの事実として、話を受け入れていく。エヴァンに全幅の信頼を寄せているのだろう。

「……だからさ、俺が何か変になったときは、言ってくれると助かる」
「わかりました……ですが、エヴァン様はいつもとお変わりなく、立派な方です」

 にこにこと話す彼女は、不安になるほどの笑顔だった。盲信にも近いと言えるが、ある意味で彼女の美点なのかもしれない。
 それからセラフィナは失礼します、とエヴァンの前髪を掻き上げ、額を出す。すると悲しげな表情を浮かべた。
 そんな表情をされては、エヴァンも心配になってくる。

「何かあったのか?」
「いえ、たいしたことではないのですが……鏡を持ってきますね」

 そう言って、セラフィナはお辞儀を一つ。部屋を退室する。彼女の黄金色の尻尾がふりふりと動いているのが見えたが、それもいつものことだ。
 エヴァンはその後ろ姿を見送ってから、ベッドにもう一度横になった。そして暫し考えを巡らせる。
 これはもしかすると、前世で学んだ知識を何かに生かせるかもしれない、と。たとえば機械の製作や教育水準の向上、更には記憶には存在していなかった魔法という技術への適用だ。
 彼は貴族であったが、魔法の才能がほとんどないと見なされており、それによって兄たちの迫害が加速することになった。だがしかし、彼らのおかげでこうして前世の記憶がよみがえってきたとも言える。

(まあ、許してやらんでも――)

 こんこん、とドアがノックされて、セラフィナが入ってくる。その手には、どこから持ってきたんだ、と思わずにはいられないほどのサイズの全身用鏡。
 ともかく、エヴァンは鏡で自らの額を確認する。そこには、縦一文字の傷跡。髪の生え際にかけてそり込みのようになり、毛が生えなくなっているようだった。

(前言撤回だ。あいつら絶対許さん!)

 エヴァンは復讐を決意した。



 2 


 エヴァンは起きるなり、部屋の外に向かって歩き出す。

「エヴァン様! まだ横になられていた方が――」
「いいかセラ。男にとって、髪というのは大事なものなんだ。そう、はかなく限りある存在であり、威厳そのものでもある。それが邪知暴虐じゃちぼうぎゃくの奴らに奪われたとあっては、男としての名折れだ。必ずや復讐を遂げねばならん!」
「そ、そうなのですか」
「そうなのだ」
「わかりました! エヴァン様の髪のとむらい合戦、私も参加させていただきます!」

 意気揚々と宣言するセラフィナ。彼女の考えは少しずれているようだ。
 それから彼女はおずおずと、申し出る。

「あの……私は傷跡のあるエヴァン様もかっこいいと思いますよ?」
めているのかけなしているのかわからないぞ。このことは威厳に関わるから、他言無用で頼む」
「わかりました! エヴァン様の髪がなくなったことは、誰にも言いません!」
「まだなくなってねえよ!」

 何だか話しているうちに馬鹿馬鹿しくなり、いつしか先ほどまで悩んでいたのが嘘のように、エヴァンは記憶の混乱を気にしなくなっていた。
 その代わり、心は少し傷ついたけれど。
 部屋を出ると、無駄に長い廊下を行く。ダグラス家は昔、そこそこ収入があったそうだが、今はすっかり落ちぶれて、財産を売りながらしのいでいるらしい。
 もっとも、そういった実績はエヴァンにとって大して関係ないことである。両親と顔を合わせることがないよう離れに住まわされていたし、いずれはこの家を出ていくことになるだろう。それは何も彼に限ったことではない。
 基本的には長子相続であるため、貴族として生まれても相続権があるのは長男だけ。次男はスペアとしてほそぼそと生活していくことはできるものの、生活水準は一気に落ちる。長男に子が生まれればなおのこと立場は弱くなる。
 そうなるのが嫌ならば、家を出ていくしかない。そして三男、四男となるにつれて、その傾向はますます強くなる。
 もちろん、親もただで家から出すわけではなく、騎士や魔法使いといった専門職につけるだけの教養を身に付けさせることに力を注ぐ。
 とはいえ、エヴァンはそれには当てはまらない。両親は彼をうとんじているのだから。
 またこの世界は前の世界よりも危険が多い。平穏に暮らそうとしても、魔物に襲われればひとたまりもなく、強盗が入っての一家惨殺も日常的に起こる。
 それらを逃れるには、力を付けるしかないのだ。
 エヴァンは早速、どの知識を魔法に応用させていくか考える。しかしそもそも、彼は魔法の才能が無いと判断されてから訓練はあまりしておらず、むしろ剣技ばかりを磨いてきたため、魔法については基礎的な知識しかない。
 成人と見なされるのは十五歳。それまでに何とかすればいい。何とかしなければならない。
 そうしたことを考えながら、離れを出る。すぐそこに母屋おもやが見えるが、いつもと変わらない様子だった。メイドたちは花に水をやっており、馬の手入れをしている者もいる。そこにエヴァンを見る者などいない。
 従者たちにまで馬鹿にされるのは気に食わなかったが、もはや今となっては接点もないのだからどうでもいいことだ。それにセラフィナだけはこれからも隣で微笑んでくれるだろう。

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