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野球部・爆ぜるガラス

7月27日(3)

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 先輩は、僕が手渡した経口補水液のペットボトルを両手でもてあそびながら、ボソボソと言葉を続ける。

「ボクはもともと、都内の女子高に通っていたんだ。君も恐らく名前ぐらいは聞いたこともあると思うが……」

 そう前置きして告げられた学校の名前に僕は納得の頷きを返す。女子高としては関東でも屈指の名門進学校だが、優里先輩の頭脳なら入学は難しくもなかっただろう。

「入学してすぐに生徒会の役員に誘われて、すぐに書記に任命された。いずれは生徒会長に……という声もあった。今から考えれば、当時のボクはずいぶん調子に乗っていたよ」

 そう言って先輩は自嘲するように小さく口角を上げ、またすぐにハアとため息をついた。

「まわりからおだてられて自分の立場を勘違いしたボクは、幼稚な正義感を振りかざし、よせばいいのに校内外のトラブルに次々に首を突っ込んだ。あの時の自分には、どんな問題も解決できるという根拠のない万能感があったんだ」
「遅れてきた中二病ですね」
「む!」

 深刻な表情を少しでもやわらげようと口を挟んでみるが、逆効果だったらしい。先輩は顔を少し赤くして口を尖らせる。

「ったく。まあ、否定はしないよ。で、調子に乗ったあげくの果て、ボクは本物の犯罪に巻き込まれてしまった」
「え?」

 話がだんたんと不穏な方向へ向かう。僕は膨れ上がる不安を押し殺しながら、先輩の顔から目を離せなかった。

「クラスメイトが学外の男に騙されて、薬物の売買に巻き込まれたんだ。それを解決しようとして相手の懐に飛び込んだあげく、うかつにもボク自身が拉致された。身代金目的で監禁され、捜査が身近に及んで逃亡する犯人達に引きずられて車で山に入り、運転を誤って崖から落ちたんだ。途中で車から投げ出されたボク一人を残して、実行犯は全員、谷底で車と共に燃えたと聞いたよ」
「……それは……」
「ボクが密室で他人と一緒にいるのが苦手なのは、恐らくその時のトラウマなんだろう。で、半年以上も入院して、ようやく現世に戻ってこられた時には、ボクは退学処分になっていた」
「え? どうしてですか?」

 僕は思わず声を上げた。確かに先輩の行動はおてんばと言えるレベルを大きく超えているけど、考えようによってはただ巻き込まれただけの被害者だ。

「ボクが助けようとしたクラスメイトが保身のためにボクを売ったんだよ」
「げ、酷い!」
「だよな。ずいぶん後になってある教師の取りなしで誤解は解けたが、いずれにせよ重大な校則違反を理由に退学は取り消されなかった。同時にボクは家庭内でも立場を失った。勘当されたんだ」
「どういうことですか? だって先輩は——」
「ボクはこれでもそこそこ良家の出身でね、親は有名なゼネコンの重役だ。幼い頃から許婚がいて……まあ、今時流行らない政略結婚的なものだけど、素行不良の、文字通り傷物に戦略的価値なんかないだろ?」
「いえ! 結婚にそもそも価値とかそういう――」

 むきになって反論する僕を、先輩はからかうように鼻で笑う。

「言いたいことはわかるが、君は結婚に夢を持ちすぎだ。そんなことだから彼女の一人もできないんだよ」
「お、大きなお世話です! それに何でそんなことまで知ってるんですか!?」

 顔を赤くする僕を見て、先輩はようやく笑い声をあげた。

「企業秘密だ……で、結局、妹が立場を引き継いで、ボクはめでたくお払い箱になったというわけだ」

 生活能力皆無の先輩が一人暮らしを強いられている訳はそれだったのか。僕はその理由を悟ってなんだか憂うつな気持ちになる。

「ちなみに、死んだ犯人グループの中にとある大企業経営者の子弟が紛れていたらしくてね、ボクは彼の素性をネットやマスコミにリークしないことを条件に、このマンションと一生遊んでいられるだけの慰謝料を得た……どうだい? 最低だろ?」
「最低って……先輩がですか?」
「ああ、正義の代行者を気取っていたはずなのに、金に目がくらんで口をつぐんだんだよ。これが最低でなくて何なんだ?」
「でも、仕方なくないですか? 家を追い出され、先輩自身も死ぬほどの怪我を負って……相手もとうに亡くなってますし、名目はどうであれ、むしろもらって当然の慰謝料じゃないかと思いますが?」

 僕は感じたままを素直に口にした。
 どう考えても一方的に損をしているのは先輩だ。誰からも責められるような立場じゃないと思う。

「フフッ、もしあの頃、君のような人間がそばにいてくれたら、ボクももう少し救われたのにな」

 先輩は自虐的なつぶやきと共に僕から目をそらし、どこか遠いところを見るような目つきで天井を見上げた。
 それはまるで、溢れようとする涙を無理やりこらえているようにも見えた。

「ちょっと疲れた。ボクはもう少し眠る。君ももう帰るといい」
「でも……」

 僕はためらった。先輩の顔色はずいぶん良くなっているが、果たして一人きりにしていいものだろうか。

「あの」
「何だ?」
「帰る前にお風呂、借りてもいいですか?」
「ああ、そうだったな。さっき抱き上げられた時も思ったが、今の君は少しばかり汗臭いよ。まぁ、不快な匂いではなかったけど」

 先輩はそう言ってようやく無邪気な笑顔を見せた。

◆◆

 風呂を借りる名目でリビングに戻った僕は、まず延田に連絡を取って野球部石渡のアドレスをゲットした。さらに石渡にメッセージを送り、彼ら一年生部員に職員室前での素振り練習を指示した三年生、栗山の名前を手に入れた。

『栗山先輩と仲のいい理系クラスの友達って誰かわかるかな?』

 ダメ元で送ったメッセージだったけど、石渡からはほとんど間を置かずに返信があった。

『物理化学部の柳原先輩かな? かなり変わった組み合わせだったから印象に残ってる』

 そう断って始まったメッセージで、柳原は最近になって、部活終わりの栗山を頻繁に訪ねて来ていたことを知る。
 
『あと、栗山先輩は三年に上がってからスポーツ推薦の話がうまく進まなくて焦ってたらしい』

 そんな雑談を最後にメッセージは途絶えた。僕は石渡にお礼のメッセージを返すと、そのままじっと考え込んだ。

 結局、日付が変わる頃まで僕は先輩の家に居座った。
 寝室のドアを細く開いて様子をうかがうと、規則的な寝息を立てる優里先輩の表情は穏やかで、体調はもう心配なさそうだった。

「おやすみなさい、先輩。せめて良い夢を」

 僕は眠り続ける先輩に向けて小さく呟くと、マンションを出て、蒸し暑い夜更けの街をゆっくりと駅へ歩いた。
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