闇に飲まれた謎のメトロノーム

八戸三春

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第三章

ムラトの説教

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空の言葉が痛みを刺激し、過去の苦しさが彼女の心を締め付けているのだろう。

「空、ここは日本だ。私はずっと、自分がここに馴染むのは無理だと思っていた。何かを失って、何かを得て、でも心のどこかで何かが欠けたままだった。それは誰のせいだと思う?」

空は少しの間、ムラトの言葉を受け止めて黙り込んだ。公園から離れる道すがら、無邪気な子供たちの笑い声はもはや聞こえない。静かな道を進みながら、彼はムラトの瞳の奥にある悲しみと怒りを感じ取ろうとしていた。

「ムラト……」

「何て? この国の住人じゃないか、空。私がさっきの人を助けなかった理由ならこの国のトップを呼べばいい。もし私が故郷に帰ったら死刑だ死刑。でも今したら皆が愚痴愚痴言うから出来ないんだ」

空はムラトの心に残る苦しみや、彼女が背負っている重荷の重さを受け止めようとしていた。しかし、どう声をかけていいか分からず、再び公園の出口を見つめる。そして少し間を置いた後、彼女は静かに言葉を紡ぎ出す。

「空、私は冷たい人でも悪い人でもない。ただ現実があまりに複雑で、どうにもならないことが多すぎるだけなんだよ。時に、何かを見て見ぬふりをするしかないんだ――私たち自身を守るためにもね」ムラトはそう言いながら、公園を出た先に伸びる道をじっと見つめていた。彼女の言葉には、どこか諦めと、それでも何かを信じたい気持ちが入り混じっていた。

空はムラトの横顔を見つめながら、言葉の意味をかみしめる。何かを守るために、何かを見過ごす――それが時には残酷な選択であっても、現実の中で生きていくためには仕方のないこともあるのかもしれない。

「分かってる。俺も同じように感じることがあるよ。目の前にある現実から目を逸らしたい時だって。けど、あの女の子の笑顔は……たとえ一瞬でも、誰かの記憶に残るかもしれないだろう。それが、ほんの少しでも何かの救いになることを願いたいんだ。」

空の言葉に、ムラトは少しだけうつむいた。彼の心の奥底にある優しさと理想、それを受け止めることができない自分の弱さに気づきながらも、彼女は自分の感情を隠すように笑みを浮かべた。「そういうところ君らしいよな。無駄な希望を抱いて、何もできなくなるのは」

ムラトの冷ややかな言葉には、どこか自己防衛的な響きがあった。しかし、空はその裏にある本当の気持ちを感じ取っていた。彼女もまた、何かを信じたいと願っているのだろう。その願いが無残に打ち砕かれた経験を積み重ねてきたからこそ、彼女は今の自分を作り上げたのだ。

「空、さっきのあれは君の危険が過去がよみがえるのが怖いだけ。だから、少し距離を取ってしまうんだ。もし救いたいのなら今のうちに呼んだら?」空はムラトの言葉に耳を傾け、彼女の胸の内にある葛藤を感じ取った。公園を出た道は、どこか無機質な静けさに包まれているように感じられるが、二人の間にはまだ多くの感情が渦巻いているようだった。彼は歩みを止め、ムラトに向き直った。

「わかった」

空は一度深く息を吸い込み、改めてもう一度ベンチの場所に戻って、空はベンチの方を見つめた。公園のベンチは先ほどと同じように、子供たちの笑い声が遠くからかすかに聞こえる中、空は一瞬立ち止まってベンチを見つめていた。彼の瞳はどこか寂しげで、同時に何かを決意するかのような強さも見えていた。

ムラトもまた、空の視線を追い、ベンチに座っていた時の静かな時間を思い返していたかのようだった。

「ムラト、もう余計なこと言うな」

空の言葉は、どこか説得に満ちていたが、同時に静かで重かった。その言葉を受けて、ムラトは何かを言いかけたが、結局口を閉ざした。彼女の瞳には、複雑な感情が浮かんでいる――痛み、悲しみ、そしてほんの少しの希望のようなもの。

空は再び、あのベンチの方へ歩き出した。その背中を見つめながら、ムラトは目を閉じて深く息を吸い込む。過去に囚われていた自分自身と、そこから抜け出したいと思う自分の葛藤が胸の中で渦巻いているのを感じていた。

「空、私は悪くないよ。動けないだけだから」

「あーそうか。いつでもお前を訴えてたっていいさムラト。動けるか動けないかなんて関係ない」

空は静かにムラトの方を振り返り、少し硬い表情を浮かべながら言った。彼の目には、何かを超えようとする意志が宿っていた。その言葉にムラトは、一瞬だけ驚いたような顔を見せたものの、すぐに視線を逸らした。
空は再びベンチの方へ向かい、あの物売りの女の子を探した。しかし、彼女の姿はもう見当たらなかった。辺りには風が吹き抜け、先ほどの子供たちの笑い声も、どこかかすかに聞こえるだけだった。まるであの出来事が一瞬の幻であったかのように、静寂が公園を包んでいた。

空は立ち止まり、しばらくその場に立ち尽くした。どこか物寂しい気持ちを胸に抱えながら、辺りを見渡す。彼はただの子供の遊びだったのか、それとも何か別の意味を持つ出来事だったのか、はっきりとした答えは得られなかった。しかし、自分の中で何かが変わろうとしているのは確かだった。

少し離れたところから、ムラトが歩み寄ってきた。その歩みはゆっくりで、どこか躊躇するようなものを感じさせる。彼女もまた、何かを考え込んでいたのだろう。彼女の表情は、普段の冷たさをまとったものではなく、どこか疲れたようで、そしてほんのわずかに優しさが漂っていた。

「居ないな空。あいつ、どこかに行ったんだろうな」

ムラトがそう言って、少しだけ微笑んだ。その笑みには人を嘲笑うような冷たさで全く穏やかなものが感じられなかった。

空はムラトの笑みに怒りを燃やし、砂を投げるとムラトは驚きながらも、素早く砂を避けた。彼女は一瞬、驚きに目を見開いたが、その後すぐに冷たい笑みを浮かべて空を見つめた。

「空、何の真似だ?」

「ムラト、いい加減にしろよ」空の声は、怒りを抑えつつもどこか切実な響きを帯びていた。彼は再び砂を握りしめながらムラトを見据えた。

「今まで我慢してたけど、もう我慢できない。お前がずっと自分を守るために壁を作って、誰も寄せ付けないのは見てきた。でもな、人を笑うのはおかしいだろ!!」

ムラトの表情が一瞬強張り、彼女はゆっくりと目を細めた。風が二人の間を通り過ぎると、その静寂は、次の言葉を引き出すためのわずかな間を生んだ。砂を握りしめた空の手は、少し震えているように見える。彼の言葉は深く刺さり、ムラトの心に残った壁を揺るがしていた。

「空、私が笑ったのは――自分自身のことだ。そして、あまり大声出すな」

「あ?いい加減にしろ。お前が摘発したんだろ」

空はムラトの言葉を飲み込むように沈黙したが、次第にその沈黙の重さが彼の胸にのしかかっていく。

彼は深く息を吸い込むと、少しずつ言葉を紡いでいく。

「ムラト……お前が自分を笑うのは、勝手だ。だけど、他の誰かの傷つく笑顔まで巻き込んでしまうのは違うだろう? 空気読めないのか?」

空の言葉にムラトは再び表情を曇らせた。彼女の中で何かが張り詰めていたようで、その緊張が彼の言葉によってほんの少し解けるように見えたが、すぐに冷たい目を取り戻して空を見つめた。

「環境かな」

「あ? 本当にいい加減にしろ」

ムラトは目を細め、冷静な声でそう言った。しかしその声の奥には、隠しきれない痛みと哀しみが感じられた。彼女が作り出す壁は、無意識のうちに自分自身を守るためだけではなく、過去の傷を外に見せないための防衛策でもあったのかもしれない。彼女は、自分の内側の傷ついた部分を誰にも触れさせたくない――そう強く思っているのだろう。

空はその言葉を聞きながら、再び怒りを抑え込んだように大きく息を吐いた。彼はムラトの言葉の裏にあるものを感じ取りつつも、簡単にそれを許すことはできなかった。彼女が抱える痛みと、それを他人に向けている無意識の行動が、彼自身をも苦しめていたのだから。
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