闇に飲まれた謎のメトロノーム

八戸三春

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第四章

危機的状況

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次の瞬間、まるで糸が切れた人形のようだったレオナが、突然信じられないほどの速度で地面を蹴った。その細い身体は、カクカクとした不自然な動きを残しながらも、一行のうち最も後ろにいた若い男性へと跳躍するように近づいた。

「来るなっ!」
男性は悲鳴じみた声を上げ、必死に身をかわそうとする。しかし、レオナの動きは常識では考えられないほど速く、その腕が彼の肩に食らいつくように掴んだ。乾いて割れた唇からは、生温い湿気が彼の頬をなぞり、不気味な咳のような音が響く。まるで喉の奥で錆びた釘を絡ませるような、その喘鳴が耳元で鳴るたびに、男性の神経が焼き切れそうだった。

「離せぇぇ!」
男性は恐怖と混乱でパニックになり、無我夢中でレオナの腕を振り解こうともがく。しかし、華奢に見えたその腕は驚くほどの力を秘めており、まるで鋼鉄の鉤爪が食い込むように肩を捉えて離さない。レオナは奇妙な呻き声を上げながら、少しずつ頭を男性の首筋に近づけていく。

リーダーは懐中電灯を乱暴に振り回し、光で何とか相手をひるませようと試みたが、レオナは全く意に介さない。むしろ光に反応するかのように、首を不自然な角度に曲げ、その黒々とした瞳孔の奥で、不気味な欲望のようなものが揺らめいているようにも見えた。

「くっ!」
リーダーは奥歯を噛みしめ、後ずさる。仲間たちも悲鳴をあげ、潰れたような瓦礫の音があちこちで響く。誰もがこの一瞬の混乱の中で自分を守ることで精一杯だった。

一方、大男は静かにその様子を見守っているかのようだった。彼は焦るでも怒るでもなく、まるで予定調和でも眺めるかのような冷やかな態度を保っている。その巨体が微動だにせず立ち尽くす姿は、観察者そのものだった。

「やめろ……やめてくれ……!」
男性が必死に叫んだその時、レオナはカクンと首を傾げ、微かな笑い声のような音を喉の奥で転がした。そして、まるで獲物を味わうかのように、彼の首筋へ顔を寄せる。

「いい加減にしろぉっ!」
不意に、後方で萎縮していた別の男が決死の覚悟で声を張り上げ、手近な金属片を拾ってレオナ目がけて投げつけた。その金属片は屋上の薄闇を切り裂き、レオナの肩付近に激突する。

カーン!
金属片が硬い音を立て、レオナの身体がわずかに揺らぐ。その一瞬を見逃さず、男性は必死の力で彼女の腕を振りほどいた。レオナはよろめき、カクカクとした動きで後退するが、その瞳に驚きや痛みは見えない。まるで痛覚など存在しないかのように、再びバランスを取り戻そうと不自然な動きを繰り返した。

「今だ! 逃げるんだ!」
リーダーが咄嗟に叫ぶ。絶好の機会だった。レオナが一瞬ひるみ、大男がまだ動いていない今、この廃病院の屋上から離れ、階下へと戻るしかなかった。もちろん階下にも何が潜んでいるか分からないが、ここに留まれば確実に死ぬ。

一行はリーダーの叫びに反応し、我先にと扉へと殺到した。廃墟となった扉は軋みを上げ、瓦礫が足元で散乱する中、必死で体勢を整えながら階段へと続く経路を探ろうとする。

「おい、止まれ!」
大男の低い怒号が背後で響く。その声は先ほどまでの静寂と嘲笑に満ちた態度とは異なり、明確な怒りが籠められていた。だが、一行にとってはその怒りこそが逃亡を急がせる合図のようなものだった。彼らは振り返ることなく階段へ突入する。

「来るな、来るなっ!」
後方を走る男性が恐怖に取り憑かれながら叫ぶ。瓦礫が転がり、手すりが錆びついた階段を、誰もが転がるように駆け下りた。暗く狭い通路、割れたガラスの破片、濡れた床――すべてが足場を奪おうとする罠のように思えたが、立ち止まる余裕はなかった。

背後から階段を駆け下りる振動が響く。あの大男が追ってきているのだろうか? それともレオナなのか? 確かめる勇気もないまま、全員が必死に走る。廃病院の内部は迷路のようで、来た道を正確に覚えている者はいない。だが、それでも外に出るしかない。一刻も早く、あの化け物たちの支配する領域から逃れなければならない。

「こっちだ!たしかここが通路だったはず!」
リーダーが叫び、暗闇の中を手探りで進む。懐中電灯の光は揺れに揺れ、次々に姿を変える廊下の影が、悪夢的な絵を描き出している。背後では金属が落ちる音や、重い足音、そして掠れた呻き声が混ざり合い、地獄絵図を奏でていた。

やがて、彼らは下層階の廊下へと辿り着く。ここは少しだけ広く、窓ガラスが割れているため、外の微かな月光が差し込んでいる。淡い青白い光が、破壊されたベッドや倒れた機材を浮かび上がらせ、まるで沈んだ船の内部のような幻想的な雰囲気を醸し出していた。

「外へ出るには……正面玄関……だったか……」
若い女性がゼーゼーと息を切らしながら問う。しかし記憶は曖昧だ。そもそもこの病院に入った時、すでに混乱状態で、来た道すらよく思い出せない。

「とにかく出口を探すしかない!」
リーダーが鼓舞するように言う。しかし、背後で再びあの低い笑い声のような響きが届いた瞬間、全員が寒気を覚えた。追ってきている――あの大男とレオナが、確実に後を追ってくるのだ。

「ここだ! こっちに階段がある!」
別の男が叫ぶ。廊下の奥、少し倒れかけた案内板があり、そこに「出口→」と半ば剥がれた文字が読める。運良くそれは正しい情報を示しているかもしれないと、全員が一縷の望みに賭けて走り出す。

その時、不意に後ろからガラスの割れる音が響いた。振り返ると、廊下の闇の奥で、何かが高速で走り抜けるような影が見えた。あれは大男か、それともレオナか――確かめる暇はない。衝撃でガラスが飛び散り、その破片が月光を受けてきらめいている。

「急げ、急げぇ!」
パニックに陥りながらも必死で走る一行。汗が噴き出し、喉が渇き、呼吸が乱れる。しかし止まれない、後続がいる、絶対に捕まりたくない。その一念で体を動かし続ける。

階段を下り、廃墟と化した待合室らしきスペースへと出た。そこは荒れ果てたロビーで、椅子はひっくり返り、床にはタイルの破片が散乱していた。外からの光が幾分明るく差し込んでおり、窓ガラスが部分的に残っていることがわかる。ここが一階なのかもしれない。

「入口はどこだ?!」
一人が叫ぶ。だが、広いスペースに扉が見当たらない。暗闇が生んだ錯覚か、それとも既に扉が崩れ落ちているのか――焦燥が全員を追いつめる。

背後で、またあの不気味な足音が響く。硬く重い、獣じみたあの足音だ。大男が近づいていることは明らかだった。時間がない、今すぐ出口を見つけなければ!

「あそこだ、あの壁の奥に何かある!」
若い女性が指差した方向には、半ば塞がれた扉枠のようなものがあった。ドアそのものは外され、壁材や梁が崩れて半分を覆っているが、隙間がある。あの隙間から外へ出られるかもしれない!

全員がその方向へ殺到する。瓦礫を手で除け、懸命に割れた梁を動かそうとするが、手が滑って血が出たり、錆びた釘が指を掠めたりと、死に物狂いの攻防戦が続く。背後からは、大男の低い嘲笑を含んだ声が再び聞こえた。

「やめろ……くるな……来るなぁ!」
誰かが半狂乱で叫び、瓦礫を蹴り飛ばすと、わずかに隙間が広がった。その向こう側には、確かに外の景色がうっすら見える。夜露に濡れた草むらが月明かりに浮かび、風がそよいでいるのがわかる。助かるかもしれない――その一瞬の希望に全員が奮起し、さらに必死で瓦礫を動かした。

「よし、いける!外に出られるぞ!」
リーダーが大声で言い、次々に仲間たちがその隙間から這い出ていく。体を横にして辛うじて抜けられるほどの隙間だったが、恐怖の力が全員を痩せ細らせたかのように、次々と脱出を果たしていく。

最後にリーダーが隙間から外へ抜け出ようとするその刹那、背後で廃病院の闇が揺らめいた。大男が姿を現し、巨体を引きずるようにして近づいてきているのが見えた。一瞬、リーダーは目が合ったような錯覚を覚えた。大男の顔の凹凸、その真っ黒な眼孔、その底に沈む狂気。呼吸が止まりそうだった。

「くそっ、出やがれ!!」
リーダーは気合とともに体を隙間にねじ込み、瓦礫の縁で肩を擦りむきながら、外へと抜け出た。外気が肺に流れ込み、夜風が肌を掠める。一行は誰もが喘ぎながら、廃病院を背後にして森の方へと走り出す。

振り返る余裕はない。ただ逃げるのみだ。森は不気味だが、あの異形の生物たちが支配する廃病院よりはまだマシだろう。
全員が足音を揃えることなく、がむしゃらに駆け出し、草むらをかき分け、枝を折り、必死に遠ざかる。背後で廃病院の屋上付近からかすかな唸り声や金属的な響きが聞こえるが、徐々に距離が開くと共に、その音は闇に溶けていく。
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