10 / 25
二 血戦①
しおりを挟む
翌日の早朝。徹は佳撫と並んで家の庭にいた。
服装は昨日と変わらず、徹は高校の夏服スタイルで、佳撫は相変わらずの袴姿だ。
レオンは一度も里佳に顔を合わせることもないまま既に腕輪と化し、徹の右腕で日の光を反射してメタルブルーの輝きを放っている。
「学校には風邪だって連絡しておくから。きっちり鍛えて貰ってきなさい」
庭に面した部屋の窓を開けて、静かに里佳はそう言った。
完全に仮病を使ったサボりだが、看護師である里佳が風邪だと言うのなら誰も嘘とは考えないだろう。
そもそも親がサボりに加担するとは学校も考えないに違いない。
「では、行きましょう。兄様」
柔らかく手を握ってきた佳撫に顔を向けると、彼女の瞳が緑色に輝いていた。
もう世界を繋ぐ準備は整っているようだ。
「……行ってらっしゃい。約束、ちゃんと守りなさいよ?」
その真剣な、どこまでも真剣な里佳の口調に神妙な気持ちで深く頷いて、それから二人同時に言葉を返す。
「行ってきます、母さん」
「行ってきます、母様」
それに対して里佳は優しく、どこか儚く微笑んで頷き返した。
これが下手をすると母親と交わす最後の言葉になるかもしれない。
頭では理解しつつも未だ現実味は乏しかったが、それでもその可能性を思うと今更ながらに胸の奥に重い何かが沈み込んでくる気がする。
そんな徹の感情に気づいてか、佳撫が手を握る力を強めてきた。
それだけで、その重荷を半分肩代わりしてくれたような、不思議な安心感を抱く。
そして、それとほぼ同時に彼女の力が発動し、視界全てが光に包まれた。
場所は再び日本庭園風味満載の庭のど真ん中。
早朝の澄んだ空気によって厳かな雰囲気が増しているような気がする。
そこは昨日訪れた姫子の家の庭だった。
「随分早かったわね」
到着を予測するように、いや、実際予兆のようなものがあったのだろうが、姫子の姿が少し離れたところにあった。
服装はやはり佳撫と同じような袴姿。しかし、改めてよく見ると佳撫のものよりも微妙に高級感があるような気がする。
別段派手な刺繍があったりする訳ではないのだが、恐らく生地がいいのだろう。
「枝葉の世界はもういいの?」
「……枝葉の世界?」
「あちらの世界のことです。醒者の言葉で、この世界こそは数多ある並行世界の幹となる世界である、というものがあって、それで並行世界を枝葉の世界と呼んでいるんです」
「枝葉、ね」
醒者とはこの世界に符号呪法をもたらした者のことだったか。
明らかに強い影響力を持つ人物の言葉なら仕方がないのかもしれないが、どうにも下位の世界というニュアンスが含まれている気がして徹は好ましく思えなかった。
「あれ以上いても、仕方がない。逃げ出せない以上は」
そういった部分に対するものも含め、声色を不満で染めて素っ気なく姫子に言う。
あの世界に住まう何も知らない人々を人質に取られているのだから、逃げられる訳もない。それができる程の逆の意味での強さ、非情さは持ち合わせていない。
「そ。……まあ、とにかくついて来て」
案内するように歩き出す姫子に従って、玄関の方へと向かう。
しかし、彼女はその引き戸を躊躇いなく通り過ぎると、道場のような建物の脇にぽつんと建っていた離れ座敷の前で立ち止まった。
「貴方にはここで血戦の日まで過ごして貰うわ」
「ここで?」
「そう。彼を倒すための訓練を受けながら、ね。生活に必要なものは全てこっちで用意してあるから、その心配はしなくていいわよ」
姫子に促されるまま座敷に入ると、元の世界なら国の重要文化財にでも指定されるのではないか、という程の荘厳な空気に迎えられ、徹は気圧されてしまった。
畳やかけ軸、焼き物などは年代を感じさせるが適切な手入れをされているようで妙に格調高い雰囲気が保たれている。
そんな近年では中々触れられない高い濃度の和に、足を踏み入れることも躊躇してしまう。比較的普通のはずの徹の部屋が卑俗の極みに感じられる程だ。
このような場所で生活をしたら、逆に精神が持たないのではないだろうか。
「とは言っても、ここでゆっくり過ごさせなんてしない、けどね」
そうした心の動きを見透かしたように薄く笑う姫子に軽く背筋が凍る。
そんな怖い笑顔のまま、彼女は部屋の隅に畳まれて置かれていた道着を指差す。
「とりあえず、あれに着替えて。着替え終わったら早速特訓を開始するから。厳しくいくから覚悟してよ? 貴方も、まだ死にたくはないでしょ?」
それだけ言って座敷から出ていく姫子を見送ってから、徹は深く溜息をつきつつ指示された道着を手に取った。
「兄様、どうかしましたか?」
「いや、あっちの雪村さんとのイメージの乖離が激しくて、ちょっと、な」
全く人のことを言えた義理ではないに違いないが、何となく、弱さ、のようなものが感じられる。精一杯取り繕って尚、見えてきてしまうような弱さが。
いつも余裕があるように見えるあちらの姫子とは、どうにもその点で違う気がするのだ。
彼女の言葉や態度の端々には冷たさが感じ取れるが、明らかにそれは天然の、生来の冷たさではなく、作為的なものだ。
目的のために手段を選べなくて、どこか追い詰められた者が無理矢理冷酷になろうとしているような、そんな感じがする。
「お気づきだと思いますが、姫子さんは死んだこの世界の兄様のことが好きだったんです。直接聞いたことはありませんが、雰囲気からありありと分かりました。兄様の死に一番ショックを受けていたのは、実は姫子さんだったのかもしれません」
「そう、か」
薄々感じてはいたが、やはりそうだったらしい。
何となく気恥ずかしいが、それはあくまでもこの世界の徹との話であり、自分とは関係ないので不相応な感情だろう。
状況が複雑なせいで変に意識してしまったようだ。
しかし、それはともかく――。
「佳撫。今から着替えるから、ちょっと外に出ていてくれないか?」
「え? あ、はは、はい! すみませんでした!」
佳撫は顔を激しく紅潮させて心底慌てたように、しかし、どこか残念そうに部屋から出ていった。何故残念なのかはよく分からなかったが。
彼女の姿が見えなくなるのをしっかり確認してから制服を脱ぎ、そこでまた徹は自分の体の状態に気づいた。
「痣が、消えてる……」
『当然だ。それが俺の特性だからな。些細な怪我ならば一瞬で治すことも可能だ』
レオンのどこか事務的な口調で発せられた言葉が座敷内に響く。
「と言うことは、あの筋断裂はかなりの重症だった、ってことか?」
『多少はな。だが、それだけではない。筋肉をより強く、同時にしなやかに鍛えながら治癒していたためでもある』
彼の言葉に、昨日見た限りでは一番酷かった足を観察する。
言われてみれば、何となく筋肉質になっているような気がする。
所詮は気がする程度だが。
「そう大きな変化は見られないんだけど……」
『いくら何でもたった一日で、しかもあの短い戦いだけで完成させるのは無理な話だ。しかし、そうでなくてもスピードを殺すだけの見せかけの無駄な筋肉は必要ない。特に重さと力ではなく、速さと鋭さで切る俺の扱いにおいてはな』
確かに剣士のイメージで筋骨隆々としたものは少ないように感じられる。
テレビでたまに見かける剣道の段位者同士の戦いでも、格闘技のチャンピオンのようながたいの大きさは感じられない。
単に道着で隠れているだけかもしれないが。
しかし、実際、己の体自体を武器にする訳ではないのだから、それを使用するスタイルに合わせた筋肉が必要なのだろう。
剣を振るに足る力、的確に相手を切り裂く精密さ、滑らかな足捌き。これらを可能にする筋肉が剣術にはまず必要に違いない。要はバランスだ。
『今日からの訓練では徹底的に筋肉を傷めつけ、同時に強制的に治癒しつつ、無理矢理にでも剣を振れる体にしてやる。覚悟しておけ』
淡々としたレオンの口調に寒気がする。
何と言うか、そこまで不自然な形で体を鍛えても、逆に体に悪そうな気がしてならない。彼らも本気だろうから、それで確かに形にはなるのだろうが……。
『ともかく、さっさと着替えろ。時間は限られているんだ』
徹は前途に不安を抱き、長く息を吐きながらも、今は言われた通りに道着を手早く着てしまうことにした。しかし――。
「……着方はこれでいいのか?」
何となく着てはみたのだが、どうにもしっくりと来ない。
特に下の紺色の袴がイメージとかけ離れていて、かなり不格好だ。
しかし、レオンは呆れたように嘆息するばかりで教えてはくれなかった。
時間がないとか言いながら、その説明をする気はなさそうだ。
別に見てくれはどうでもいいのだが、そのせいで変に転んで怪我をしてしまうのはさすがに避けたい。
ただでさえハードな訓練が待っていそうな雰囲気なのだから。
そう思って徹は少し悩んでから、最後の手段を取ることにした。
「佳撫、ちょっといいか?」
「兄様? 何ですか?」
「あ、いや、ちょっと、その、な。着方が分からないんだ。手伝ってくれるか?」
「え? あ、は、はい。分かりました。……では、入ります!」
何故か言葉に気合を入れて、しかし、どこか遠慮がちに部屋に入ってくる佳撫。
どうやら、下着姿のままで困っているとでも思ったらしい。
彼女は徹が適当ではあるが一応は道着を着ている姿を見て、決まりが悪そうにはにかみながら傍に寄ってきた。
「上は、まあ、何とかなったんだけど、下がどうも、な」
「分かりました。では、失礼します」
佳撫は徹の正面で膝をつくと、変な結び方になってしまっている紐を手に取った。
一旦それを全て解いてから、前と後ろにある二つの紐の内、まず前の方を徹の腰に抱き着くようにして後ろに回し、交差させて前に回し、また後ろに回して結ぶ。
次に後ろの紐を、袴を整えながら前側でしっかりと結んだ。
それでイメージ通りの綺麗な道着姿になり、徹はホッと一息ついた。
「苦しくはないですか?」
しゃがんだまま軽く首を傾げて見上げてくる佳撫。
「大丈夫だ。ありがとう、佳撫」
そんな彼女の丁度いい高さにある頭を撫でる。
「よかったです」
佳撫はくすぐったそうにしながら微笑んで、それから静かに立ち上がった。
「とっても似合っていますよ。兄様」
「そ、そうか?」
はい、と歯切れよく笑顔で答えてくれる佳撫に、実際のところは馬子にも衣装に過ぎないだろうが、それでも嬉しく思う。
全くもって気のせいだろうが、こうやって形を整えるだけで強くなったような気さえするから不思議だ。
精神的な面では、形から入る、という方法も間違いではないのかもしれない。
あくまでも、精神的な面だけの話だが。
「さて、行こうか」
「あ……はい」
佳撫は徹の言葉でこれからのことを思い出してしまったのか、折角見せてくれた愛らしい笑顔を微かに翳らせ、小さく頷いた。
二人並んで外に出ると、待ちくたびれたように姫子は腕を組み、日の光に背を向けて七月初めの空を見上げていた。
彼女に倣って空を見上げると、太陽はまだ東の空だが、高層建築が周りにないためか日差しが強く感じられる。
街の周囲が自然な状態を保っていたことも含めて考えると、アニマという外敵がいることによって人口がそう多くはないのだろう。
だからこそ、高層建築はまだ必要ないに違いない。勿論これから先はどうか分からないが、街で一番高い建物は街を囲う城壁という状態がしばらくは続きそうだ。
徹が着替えている間に彼女も道着に着替えていたようで、姫子は白色の袴で身を包んでいた。
それは几帳面に洗濯されているらしく輝くように美しい純白を保っている。
彼女が普段着としているらしいあの袴とは違う趣があった。
また、運動の邪魔にならないようにするためか、彼女の長い髪は一ヶ所で束ねられ、いわゆるポニーテールになっていた。
いかにも少女剣士という感じだ。
「遅かったわね」
光を反射して艶やかに煌めく黒髪を揺らしながら姫子が振り向く。
その途中で陽光が目に入ったのか、手でひさしを作りながら。
「さて、と。早速だけど、軽く運動しましょうか」
服装は昨日と変わらず、徹は高校の夏服スタイルで、佳撫は相変わらずの袴姿だ。
レオンは一度も里佳に顔を合わせることもないまま既に腕輪と化し、徹の右腕で日の光を反射してメタルブルーの輝きを放っている。
「学校には風邪だって連絡しておくから。きっちり鍛えて貰ってきなさい」
庭に面した部屋の窓を開けて、静かに里佳はそう言った。
完全に仮病を使ったサボりだが、看護師である里佳が風邪だと言うのなら誰も嘘とは考えないだろう。
そもそも親がサボりに加担するとは学校も考えないに違いない。
「では、行きましょう。兄様」
柔らかく手を握ってきた佳撫に顔を向けると、彼女の瞳が緑色に輝いていた。
もう世界を繋ぐ準備は整っているようだ。
「……行ってらっしゃい。約束、ちゃんと守りなさいよ?」
その真剣な、どこまでも真剣な里佳の口調に神妙な気持ちで深く頷いて、それから二人同時に言葉を返す。
「行ってきます、母さん」
「行ってきます、母様」
それに対して里佳は優しく、どこか儚く微笑んで頷き返した。
これが下手をすると母親と交わす最後の言葉になるかもしれない。
頭では理解しつつも未だ現実味は乏しかったが、それでもその可能性を思うと今更ながらに胸の奥に重い何かが沈み込んでくる気がする。
そんな徹の感情に気づいてか、佳撫が手を握る力を強めてきた。
それだけで、その重荷を半分肩代わりしてくれたような、不思議な安心感を抱く。
そして、それとほぼ同時に彼女の力が発動し、視界全てが光に包まれた。
場所は再び日本庭園風味満載の庭のど真ん中。
早朝の澄んだ空気によって厳かな雰囲気が増しているような気がする。
そこは昨日訪れた姫子の家の庭だった。
「随分早かったわね」
到着を予測するように、いや、実際予兆のようなものがあったのだろうが、姫子の姿が少し離れたところにあった。
服装はやはり佳撫と同じような袴姿。しかし、改めてよく見ると佳撫のものよりも微妙に高級感があるような気がする。
別段派手な刺繍があったりする訳ではないのだが、恐らく生地がいいのだろう。
「枝葉の世界はもういいの?」
「……枝葉の世界?」
「あちらの世界のことです。醒者の言葉で、この世界こそは数多ある並行世界の幹となる世界である、というものがあって、それで並行世界を枝葉の世界と呼んでいるんです」
「枝葉、ね」
醒者とはこの世界に符号呪法をもたらした者のことだったか。
明らかに強い影響力を持つ人物の言葉なら仕方がないのかもしれないが、どうにも下位の世界というニュアンスが含まれている気がして徹は好ましく思えなかった。
「あれ以上いても、仕方がない。逃げ出せない以上は」
そういった部分に対するものも含め、声色を不満で染めて素っ気なく姫子に言う。
あの世界に住まう何も知らない人々を人質に取られているのだから、逃げられる訳もない。それができる程の逆の意味での強さ、非情さは持ち合わせていない。
「そ。……まあ、とにかくついて来て」
案内するように歩き出す姫子に従って、玄関の方へと向かう。
しかし、彼女はその引き戸を躊躇いなく通り過ぎると、道場のような建物の脇にぽつんと建っていた離れ座敷の前で立ち止まった。
「貴方にはここで血戦の日まで過ごして貰うわ」
「ここで?」
「そう。彼を倒すための訓練を受けながら、ね。生活に必要なものは全てこっちで用意してあるから、その心配はしなくていいわよ」
姫子に促されるまま座敷に入ると、元の世界なら国の重要文化財にでも指定されるのではないか、という程の荘厳な空気に迎えられ、徹は気圧されてしまった。
畳やかけ軸、焼き物などは年代を感じさせるが適切な手入れをされているようで妙に格調高い雰囲気が保たれている。
そんな近年では中々触れられない高い濃度の和に、足を踏み入れることも躊躇してしまう。比較的普通のはずの徹の部屋が卑俗の極みに感じられる程だ。
このような場所で生活をしたら、逆に精神が持たないのではないだろうか。
「とは言っても、ここでゆっくり過ごさせなんてしない、けどね」
そうした心の動きを見透かしたように薄く笑う姫子に軽く背筋が凍る。
そんな怖い笑顔のまま、彼女は部屋の隅に畳まれて置かれていた道着を指差す。
「とりあえず、あれに着替えて。着替え終わったら早速特訓を開始するから。厳しくいくから覚悟してよ? 貴方も、まだ死にたくはないでしょ?」
それだけ言って座敷から出ていく姫子を見送ってから、徹は深く溜息をつきつつ指示された道着を手に取った。
「兄様、どうかしましたか?」
「いや、あっちの雪村さんとのイメージの乖離が激しくて、ちょっと、な」
全く人のことを言えた義理ではないに違いないが、何となく、弱さ、のようなものが感じられる。精一杯取り繕って尚、見えてきてしまうような弱さが。
いつも余裕があるように見えるあちらの姫子とは、どうにもその点で違う気がするのだ。
彼女の言葉や態度の端々には冷たさが感じ取れるが、明らかにそれは天然の、生来の冷たさではなく、作為的なものだ。
目的のために手段を選べなくて、どこか追い詰められた者が無理矢理冷酷になろうとしているような、そんな感じがする。
「お気づきだと思いますが、姫子さんは死んだこの世界の兄様のことが好きだったんです。直接聞いたことはありませんが、雰囲気からありありと分かりました。兄様の死に一番ショックを受けていたのは、実は姫子さんだったのかもしれません」
「そう、か」
薄々感じてはいたが、やはりそうだったらしい。
何となく気恥ずかしいが、それはあくまでもこの世界の徹との話であり、自分とは関係ないので不相応な感情だろう。
状況が複雑なせいで変に意識してしまったようだ。
しかし、それはともかく――。
「佳撫。今から着替えるから、ちょっと外に出ていてくれないか?」
「え? あ、はは、はい! すみませんでした!」
佳撫は顔を激しく紅潮させて心底慌てたように、しかし、どこか残念そうに部屋から出ていった。何故残念なのかはよく分からなかったが。
彼女の姿が見えなくなるのをしっかり確認してから制服を脱ぎ、そこでまた徹は自分の体の状態に気づいた。
「痣が、消えてる……」
『当然だ。それが俺の特性だからな。些細な怪我ならば一瞬で治すことも可能だ』
レオンのどこか事務的な口調で発せられた言葉が座敷内に響く。
「と言うことは、あの筋断裂はかなりの重症だった、ってことか?」
『多少はな。だが、それだけではない。筋肉をより強く、同時にしなやかに鍛えながら治癒していたためでもある』
彼の言葉に、昨日見た限りでは一番酷かった足を観察する。
言われてみれば、何となく筋肉質になっているような気がする。
所詮は気がする程度だが。
「そう大きな変化は見られないんだけど……」
『いくら何でもたった一日で、しかもあの短い戦いだけで完成させるのは無理な話だ。しかし、そうでなくてもスピードを殺すだけの見せかけの無駄な筋肉は必要ない。特に重さと力ではなく、速さと鋭さで切る俺の扱いにおいてはな』
確かに剣士のイメージで筋骨隆々としたものは少ないように感じられる。
テレビでたまに見かける剣道の段位者同士の戦いでも、格闘技のチャンピオンのようながたいの大きさは感じられない。
単に道着で隠れているだけかもしれないが。
しかし、実際、己の体自体を武器にする訳ではないのだから、それを使用するスタイルに合わせた筋肉が必要なのだろう。
剣を振るに足る力、的確に相手を切り裂く精密さ、滑らかな足捌き。これらを可能にする筋肉が剣術にはまず必要に違いない。要はバランスだ。
『今日からの訓練では徹底的に筋肉を傷めつけ、同時に強制的に治癒しつつ、無理矢理にでも剣を振れる体にしてやる。覚悟しておけ』
淡々としたレオンの口調に寒気がする。
何と言うか、そこまで不自然な形で体を鍛えても、逆に体に悪そうな気がしてならない。彼らも本気だろうから、それで確かに形にはなるのだろうが……。
『ともかく、さっさと着替えろ。時間は限られているんだ』
徹は前途に不安を抱き、長く息を吐きながらも、今は言われた通りに道着を手早く着てしまうことにした。しかし――。
「……着方はこれでいいのか?」
何となく着てはみたのだが、どうにもしっくりと来ない。
特に下の紺色の袴がイメージとかけ離れていて、かなり不格好だ。
しかし、レオンは呆れたように嘆息するばかりで教えてはくれなかった。
時間がないとか言いながら、その説明をする気はなさそうだ。
別に見てくれはどうでもいいのだが、そのせいで変に転んで怪我をしてしまうのはさすがに避けたい。
ただでさえハードな訓練が待っていそうな雰囲気なのだから。
そう思って徹は少し悩んでから、最後の手段を取ることにした。
「佳撫、ちょっといいか?」
「兄様? 何ですか?」
「あ、いや、ちょっと、その、な。着方が分からないんだ。手伝ってくれるか?」
「え? あ、は、はい。分かりました。……では、入ります!」
何故か言葉に気合を入れて、しかし、どこか遠慮がちに部屋に入ってくる佳撫。
どうやら、下着姿のままで困っているとでも思ったらしい。
彼女は徹が適当ではあるが一応は道着を着ている姿を見て、決まりが悪そうにはにかみながら傍に寄ってきた。
「上は、まあ、何とかなったんだけど、下がどうも、な」
「分かりました。では、失礼します」
佳撫は徹の正面で膝をつくと、変な結び方になってしまっている紐を手に取った。
一旦それを全て解いてから、前と後ろにある二つの紐の内、まず前の方を徹の腰に抱き着くようにして後ろに回し、交差させて前に回し、また後ろに回して結ぶ。
次に後ろの紐を、袴を整えながら前側でしっかりと結んだ。
それでイメージ通りの綺麗な道着姿になり、徹はホッと一息ついた。
「苦しくはないですか?」
しゃがんだまま軽く首を傾げて見上げてくる佳撫。
「大丈夫だ。ありがとう、佳撫」
そんな彼女の丁度いい高さにある頭を撫でる。
「よかったです」
佳撫はくすぐったそうにしながら微笑んで、それから静かに立ち上がった。
「とっても似合っていますよ。兄様」
「そ、そうか?」
はい、と歯切れよく笑顔で答えてくれる佳撫に、実際のところは馬子にも衣装に過ぎないだろうが、それでも嬉しく思う。
全くもって気のせいだろうが、こうやって形を整えるだけで強くなったような気さえするから不思議だ。
精神的な面では、形から入る、という方法も間違いではないのかもしれない。
あくまでも、精神的な面だけの話だが。
「さて、行こうか」
「あ……はい」
佳撫は徹の言葉でこれからのことを思い出してしまったのか、折角見せてくれた愛らしい笑顔を微かに翳らせ、小さく頷いた。
二人並んで外に出ると、待ちくたびれたように姫子は腕を組み、日の光に背を向けて七月初めの空を見上げていた。
彼女に倣って空を見上げると、太陽はまだ東の空だが、高層建築が周りにないためか日差しが強く感じられる。
街の周囲が自然な状態を保っていたことも含めて考えると、アニマという外敵がいることによって人口がそう多くはないのだろう。
だからこそ、高層建築はまだ必要ないに違いない。勿論これから先はどうか分からないが、街で一番高い建物は街を囲う城壁という状態がしばらくは続きそうだ。
徹が着替えている間に彼女も道着に着替えていたようで、姫子は白色の袴で身を包んでいた。
それは几帳面に洗濯されているらしく輝くように美しい純白を保っている。
彼女が普段着としているらしいあの袴とは違う趣があった。
また、運動の邪魔にならないようにするためか、彼女の長い髪は一ヶ所で束ねられ、いわゆるポニーテールになっていた。
いかにも少女剣士という感じだ。
「遅かったわね」
光を反射して艶やかに煌めく黒髪を揺らしながら姫子が振り向く。
その途中で陽光が目に入ったのか、手でひさしを作りながら。
「さて、と。早速だけど、軽く運動しましょうか」
0
あなたにおすすめの小説
異世界召喚されたけどスキルが地味だったので、現代知識とアイテムボックスで絶品料理を作ったら大商会になっちゃいました
黒崎隼人
ファンタジー
手違いで剣も魔法もない異世界に召喚された、しがない日本のサラリーマン、湊カイリ。
彼に与えられたのは、無限に物が入る【アイテムボックス】と、物の名前が分かる【鑑定】という、あまりにも地味な二つのスキルだけだった。
戦闘能力は皆無。途方に暮れるカイリだったが、異世界の食事が絶望的に不味いことを知り、大きなチャンスに気づく。
現代日本の「当たり前」の知識は、この世界ではとんでもない「宝」なのだと!
「醤油?味噌?そんなものがあれば、この世界の食文化はひっくり返るぞ!」
ひょんなことから出会った没落貴族の美少女・リリアナと共に、カイリは現代知識と地味スキルを駆使して屋台から商売をスタート。
絶品料理で人々の胃袋を掴み、さらには便利な生活用品を次々と発明していく。
伝説の神獣の幼体「フェン」やドワーフの鍛冶師など、頼れる仲間たちも加わり、彼らが立ち上げた「サンライズ商会」は瞬く間に大躍進!
迫り来る悪徳商会や腐敗した貴族の妨害も、現代のマーケティング術と知恵で痛快に打ち破る!
これは、平凡なサラリーマンが異世界の常識を覆し、食と生活に革命を起こして一代で大商会を築き上げる、痛快成り上がりファンタジー!
美味しい料理と、もふもふな相棒、そして仲間との絆。
人生、逆転できないことなんて何もない!
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
氷華の吸血鬼ー銀氷の貴方と誓う永血の恋ー
四片霞彩
恋愛
霧の街で目覚めた私は契約を結ぶ――氷鏡の彼の人は孤独なヴァンパイアだった。
海外に暮らす祖母の元に向かっていたエレナは古びた鍵を拾ったことでヴァンパイアの国・ワムビュルス王国に転移してしまう。
辿り着いた街で人間を「餌」として捕えるヴァンパイアたちから逃げている最中、鍵に導かれるままにとある古書店の扉を開けてしまうのだった。
そこで出会った白銀のヴァンパイアの青年――ロシィから「説明は後だ」と告げられて、主従の契約を強引に結ばれたエレナ。
契約によってロシィの従者となったエレナの姿は子供へと変化して、やがて元の姿からかけ離れた愛くるしいヴァンパイアの少女に変わってしまう。
そして主人となったロシィから「ノエリス」と名付けられたエレナは、ヴァンパイアたちから保護してもらう代わりにロシィに仕えることになるのだった。
渋々ロシィが営む古書店で働き始めたエレナだったが、素っ気ない態度ながらも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるロシィに次第に心を許し始める。
しかし砂時計の砂が全て落ちた時に2人の立場は逆転してしまう。
エレナは「ヴァンパイアの麗しき女主人・ノエリス」、ロシィは「女主人に仕える少年従者・ロシィ」へと姿まで変わってしまうのだった。
主人と従者を行き来する2人は種族や生まれの違いから何度もすれ違って衝突するが、やがてお互いの心を深く知ることになる。
氷鏡のような白銀のヴァンパイアが異なる世界から現れた人間に心を溶かされ、やがて“等しく”交わった時、主従の信愛は番の最愛へと変わる。
ダークファンタジー×溺愛×主従の恋物語。
凍りついた主従の鎖は甘く蕩けるような番の結びとなる。
※他サイトでも公開予定
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる