追放された宮廷薬師、科学の力で不毛の地を救い、聡明な第二王子に溺愛される

希羽

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第九話:王国の訃報と、聖域の決意

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 谷の入り口で倒れていた男は、まだ若かった。年の頃は二十歳にも満たないだろう。しかし、その頬はこけ、肌は土気色で、まるで老人のように生気を失っていた。

 私たちは彼を慎重に集会所へと運び込んだ。そこは、今や村の臨時の診療所も兼ねている。

「ひどい栄養失調と脱水症状だ。おそらく、何日もまともな食事をしていない」

 私は冷静に診断を下しながら、ティリアに指示を飛ばした。

「ティリア、経口補水液と、消化の良い野菜スープを。火傷しないよう、人肌まで冷まして持ってきてくれ」
「はい、リン様!」

 ティリアは、もう私の助けを必要としない。的確な判断で、すぐさま調理に取り掛かってくれた。彼女の中で、私の知識は着実に育っている。

 私は、男の唇を湿らせ、少しずつ水分を与えた。ガレンが心配そうにその様子を見守っている。

「こいつ、助かるのか」
「ああ。幸い、まだ間に合う」

 その時、外から歓声が上がった。

 私とガレンが顔を見合わせると、フィンが興奮した様子で駆け込んできた。その手には、黒光りする、いびつだが頑丈そうな鉄の塊が握られていた。

「リン様! ガレンさん! できました……! 最初の、鉄の刃です!」

 フィンが掲げたのは、粗末な木の柄が取り付けられた、一振りの鉄のナイフだった。彼はそれを近くにあった薪に振り下ろす。石斧では何度も叩かねばならなかった薪が、サクリと、いとも簡単に両断された。

「おお……!」

 ガレンが、感嘆の声を漏らす。

 フィンは、まるで自分の子供のように誇らしげにそのナイフを見つめている。

「これがあれば……もっとマシな鍬が作れます。もっと頑丈な斧も。俺たちの仕事は、もっと速くなる……!」

 そうだ。これが、科学の力。一つの技術革新が、社会全体の生産性を飛躍的に向上させる。
 私は、眠る青年の傍らで静かに燃えるランプの炎と、フィンが手にした鉄の輝きを見つめた。

 片や消えかかった命の灯火。片や文明の新たな灯火。

 この谷で、今まさに絶望と希望が交差していた。

 ◇

 三日後。青年は意識を取り戻した。

 彼の名はレオ。王国南部の、小さな農村の出身だった。
 私とガレン、フィン、ティリアを前に、彼はポツリ、ポツリと、外の世界の惨状を語り始めた。

「マリウス様の『賢者の霊薬』は……まやかしでした」

 レオの瞳には、深い絶望が宿っていた。

「霊薬が撒かれた畑は、最初こそ少しだけ元気を取り戻したように見えた。でも、すぐに前よりひどい状態で枯れ始めたんです。まるで、塩でも撒かれたみたいに、土そのものが真っ白になって……」

 やはり、か。

 おそらく、霊薬に含まれていた何らかの化学物質が、土壌の塩類濃度を急激に上昇させたのだろう。無知な錬金術が、ただでさえ弱っていた土地に、とどめを刺したのだ。

「国王陛下は、それを天の試練だと仰せになり、さらに重い税を取り立て始めました。食料は兵士たちが全て奪っていき、逆らう者は反逆者として牢屋へ……。俺の村も、もう誰も残っていません……」

 ガレンが、怒りに拳を固く握りしめている。

 私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「……アルジェント第二王子は、どうしている」

 その名を聞いたレオの顔に、わずかに光が差した。

「アルジェント様は……! 王宮でただお一人、土を休ませるべきだと、リン様と同じことを主張されたそうです。ですが、それが国王陛下の怒りを買い、今ではご自分の宮殿に閉じ込められ、誰との面会も許されていないとか……。それでも、密かに食料を民に流しているという噂が……」

 そうか……。彼は、あの場所で、たった一人で戦っているのか。

 私の胸が、チクっと痛んだ。

 レオの話は、村全体にすぐに広まった。村人たちは、自分たちを追放した国が順当に滅びの道を歩んでいることに、複雑な表情を浮かべていた。

 追放されたことが、結果的に自分たちの命を救ったのだ。皮肉な話だった。

 ◇

 その夜、私は再び村の評議会を開いた。
 レオの出現は、私たちに重大な問いを突きつけている。

「レオ君は、最初の一人に過ぎないだろう」

 私は、三人の仲間たちに告げた。

「これから、飢えと圧政から逃れるため、この谷を目指してくる人々がさらに現れる可能性が高い。私たちは、その時どうすべきだ?」

 フィンが、静かに口を開いた。

「……見捨てるなんて、できません。彼らは、少し前の俺たちだ」

 「フィンさんの言う通りです!」ティリアも力強く頷く。「食べ物なら、私がもっと頑張って、たくさん作って、保存します!」

 最後に、ガレンが私の目を見て、言った。

「リン。あんたはどうしたい?」

 私は、村人たちの顔を思い浮かべた。絶望の淵から這い上がり、自分の手で未来を築く喜びを知った、二十五人の仲間たち。

 私たちの科学は、もはや私たちだけを生存させるための道具ではない。

 私は、決意を固めた。

「来た者は、全て受け入れよう」

 私の言葉に、三人が頷く。

「私たちは、もうただの追放者の集まりではない。この谷は、王国に見捨てられた人々の、最後の希望となる場所だ」

 私は立ち上がり、集会所の扉を開けた。外では、星々が静かに私たちを見守っている。

「今日から、私たちの村は『聖域サンクチュアリ』と名乗ろう。生きる意志を持つ者すべてにとっての、聖なる避難場所だ」

 それは、灰色の谷に生まれた小さな村が、世界に対してその存在理由を初めて宣言した、歴史的な瞬間だった。

 私たちの前には、これからさらに大きな困難が待ち受けているだろう。

 だが、もう恐れはなかった。私たちには、科学の知識と、鉄の意志、そして仲間がいるのだから。
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