サウナ徒然草

手拭い太郎

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第七話 群青の空と錆びついた心 天神の湯でととのう

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 畑山は、群馬のからっ風が吹き荒れる街で、まるで呼吸を忘れたかのように日々を過ごしていた。

 数ヶ月前まで、都内大手企業の子会社であるBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)の会社で、彼は日々膨大な業務に追われていた。

 顧客からのクレーム処理、非効率なシステムの改修、そして常に上司のプレッシャー。朝から晩まで、ディスプレイの光を浴び続け、数字と文字の羅列に溺れていた。

 気がつけば、心は鉛のように重く、体は金縛りにあったように動かなくなった。ある日の朝、ベッドから起き上がろうとしても、体が自分の意思を無視して動かない。なんとか立ち上がっても、足元がぐらつき、吐き気を催す。それはまるで、心の中の何かがプツンと切れてしまったかのようだった。病院で下された診断は「適応障害」。診断書を手に、畑山は無期限の休職を言い渡された。

 当初は、これで少しは楽になれるだろうと安堵した。しかし、休職生活は想像とはかけ離れていた。部屋にこもり、カーテンを閉め切ったまま、ただただ天井を見つめる日々。眠ることも、食事をとることも、ままならない。心は常に張りつめ、わずかな物音にもビクッとする。まるで、自分という存在が、透明なガラスの檻に閉じ込められてしまったかのようだった。

 ある日、ようやく重い腰を上げ、近くのコンビニまで歩いてみることにした。歩き慣れた道のはずなのに、街の喧騒や車の音が、やけに遠くに聞こえる。自分だけが、別の世界に取り残されてしまったような感覚。ふと、見慣れない看板が目に留まった。

『高崎中尾温泉 天神の湯』

「温泉…」

 その文字が、錆びついた彼の心に、わずかな光を灯した。ただ、家に帰って寝て、また同じ一日を繰り返すだけの生活に、もううんざりしていた。畑山は吸い寄せられるように、その温泉施設の入り口をくぐった。

 館内は、木材の温かさと、ほのかに硫黄の香りが漂い、心地よい静けさに包まれていた。券売機でチケットを買い、浴場へ向かう。脱衣所で服を脱ぎながら、鏡に映る自分の姿にギョッとした。顔色は悪く、目は窪み、以前の活気に満ちた面影はどこにもない。まるで、別人だ。

 温泉で体を洗い、湯船に浸かる。じんわりと熱い湯が、冷え切った体を解きほぐしていく。熱い湯に身を委ね、目を閉じると、心なしか肩の力が抜けていくのを感じた。

 湯船から上がり、サウナへと向かう。露天スペースにあるサウナは、少し広めで、室内にはほのかな木の香りが漂っていた。ストーブから放たれる熱気が、じわりじわりと肌を焼く。最初は暑さに耐えられないかと思ったが、次第に体が熱を受け入れ始めた。汗が噴き出し、毛穴の一つ一つが開いていくのを感じる。

 畑山は黙って、サウナ室の奥のベンチに座り、ただ汗をかいた。自分の内側から、余分なものがすべて流れ出ていくような感覚。仕事のプレッシャー、上司からの小言、同僚との軋轢。そういった、心にこびりついていた黒いシミが、汗と一緒に流れ落ちていくようだった。

 10分ほど汗を流した後、サウナ室を出た。外の空気は、からっ風が心地よく、火照った体にひんやりと染み渡る。

 そして、次に向かったのは、水風呂。

 湯船の横に、深々とたたえられた地下水のかけ流し水風呂があった。近くの張り紙には、「地下水かけ流し」と書かれている。

 水風呂に入る前にかけ湯をした。冷たさに怯む心を抑え、ゆっくりと水風呂に足を入れた。最初は冷たさが突き刺すようで、思わず声を上げそうになった。しかし、足から徐々に体を沈めていくと、次第に冷たさが心地よさに変わっていく。地下水は、まろやかで、肌に吸い付くような感覚。都会の塩素臭い水風呂とは全く違う、清らかさがあった。

 水風呂から上がり、露天スペースのベンチに身を任せる。冷たいからっ風が火照った体に吹きつけ、体の芯から冷えていく。だが、決して不快ではない。むしろ、温かさと冷たさが交互に襲ってくるこの感覚が、ひどく心地よい。

 目を開けると、群青色の空が広がっていた。雲一つない、ただただ広い空。遠くの山々が、くっきりとその姿を現している。

「ととのう…」

 頭の中で、誰かの声が聞こえた。思考がクリアになり、五感が研ぎ澄まされる。風の音、遠くで聞こえる鳥の声、そして、自分の心臓の鼓動。すべてが、鮮明に聞こえてくる。それは、まるで、この数ヶ月間、ずっと曇っていた心のレンズが、ピカピカに磨かれたかのようだった。

 心身ともにリラックスした状態で、畑山は目を閉じた。すると、頭の中に、これまでの仕事の光景が次々と浮かんできた。徹夜で作り上げた企画書、理不尽なクレームの電話、そして、一人で抱え込み、誰にも助けを求められなかった日々。

 あの時、誰かに助けを求めていれば、もっと早くに休む決断をしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。そんな後悔の念が、ふと頭をよぎった。しかし、すぐにその考えを振り払った。過去は変えられない。だけど、未来は変えられる。
 そう思うと、不思議と心が軽くなった。会社を辞めても、もう一度やり直せる。畑山は、そう強く感じた。

「俺は、俺で大丈夫だ」

 根拠のない自信が、胸の奥から湧き上がってきた。サウナで汗を流し、水風呂で体を冷やし、そして、群馬の広い空の下で「ととのう」ことを体験した畑山は、過去の自分を許し、未来の自分を受け入れることができた。

 サウナを出た畑山は、まるで生まれ変わったかのように、足取りも軽く家路についた。夜空には、満月が煌々と輝き、彼を優しく照らしている。
 明日から、何から始めようか。とりあえず、もう一度、ハローワークに行ってみようか。それとも、興味のあったプログラミングの勉強でも始めてみるか。

 心の中は、希望と期待で満ち溢れていた。
彼の心は、まだ完全には修復されていない。それでも、あの錆びついていた心は、たしかに磨かれ、再び輝きを取り戻し始めていた。
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